0000年0月0日
江戸時代中期の盗賊。別名は大松五郎。徳川家の家紋である葵の御紋をつけた提灯を掲げて押込強盗を行ったことから「葵小僧」と呼ばれた。押込先で必ず女性を強姦するという凶悪な手口で江戸中を荒らしまわった...(続きをみる)
いわゆる「玉川兄弟」の弟にあたる。 江戸時代前期の人物で、玉川上水の開削工事を指揮したことで知られる。急成長する江戸の町に住む市民の飲料水確保のため、神田上水に次いで開削されたのが玉川上水で、...(続きをみる)
江戸時代前期の京の遊女。高尾太夫、吉野太夫とともに「寛永の三名伎」といわれる。本名は照。一説によると現在の京都市左京区嵯峨の近くで生まれたという。最初、京の島原にある「扇屋」の太夫となり、のち「...(続きをみる)
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江戸時代初期の剣豪、2代将軍・徳川秀忠の剣術指南役。前名は神子上典膳(みこがみてんぜん)、通称は次郎右衛門。安房国の里見家に仕える郷士の子として生まれ、はじめ里見家に仕えた。その後、「一刀流」の...(続きをみる)
江戸時代中期の関東郡代。通称は半左衛門。父は関東郡代の伊奈忠常。はじめ旗本・稲葉正篤の養子となったが、兄・忠篤の急死を受け伊奈家を継いだ。伊奈家代々が務める幕府代官として、深川永代橋の架橋工事や...(続きをみる)
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戦国時代から江戸時代前期の武士、治水家。「藤五郎」は通称で、名は忠行(ただゆき)。通称はほかに主水(もんと)。三河国に生まれ、幼い頃から徳川家康に仕えたが、1563年(永禄6)に起きた三河一向一...(続きをみる)
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江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家老。又左衛門は通称で、名は宗茂(むねしげ)。赤穂藩内では筆頭家老・大石内蔵助に次ぐ重臣だったが、討ち入りに参加せず、不忠臣とそしりを受けた。主君・浅野内...(続きをみる)
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江戸時代前期の武士、「赤穂事件」で知られる高家・吉良上野介義央の家臣で吉良家の家老。平八郎は通称で、名は央通(ひさみち)。赤穂浪士四十七士による吉良邸討ち入りの際に討ち死にした。講談や歌舞伎、ド...(続きをみる)
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江戸時代前期の盗賊、忍者。苗字は向坂、勾坂、向崎とも。江戸吉原遊郭の創始者・庄司甚内、古着市をしきった鳶沢甚内とともに「三甚内」と呼ばれる。もとは甲斐武田家に仕えた甲州流忍者の頭領。武田家滅亡後...(続きをみる)
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江戸時代前期の女性、3代将軍・徳川家光の側室。御三家のひとつ尾張藩主・徳川光友の正室・千代姫の生母。父は蒲生秀行の家臣・岡重政で、曽祖父は石田三成といわれる。母方の祖母・祖心尼(そしんに)の親類...(続きをみる)
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徳川幕府6代将軍・徳川家宣の側室。別称に二之御部屋様、新典侍局。公家出身の近衛熙子(ひろこ)が家宣の正室としてに輿入れした際に熙子に仕え、のち家宣に見初められ側室となった。やがて家宣の子である男...(続きをみる)
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1540年0月0日
江戸時代初期の兵法家、「タイ捨流兵法」の創始者として知られる。本姓は藤原、通称は蔵人佐(くらんどのすけ)または石見守、号は徹斎、晩年は剃髪し石見入道徹斎を名乗った。講談などでは「丸目蔵人」の名で...(続きをみる)
1545年0月0日
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての旗本、大名。江戸町奉行、初代京都所司代を務めたことで有名。通称は四郎右衛門。官位を冠した「板倉伊賀守」の名でも知られる。三河国額田郡(現・愛知県岡崎市)に生...(続きをみる)
1550年0月0日
江戸時代初期の武士、大名、武蔵国小室藩初代藩主。民政家としても名高い。幼名は熊蔵、通称は半左衛門。三河国幡豆郡小島城(現・愛知県西尾市小島町)の城主・伊奈忠家の子として生まれ、家康の嫡男・信康に...(続きをみる)
1554年0月0日
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戦国時代から江戸時代にかけての浄土宗西山深草派の僧で、「落語の祖」ともいわれる。俗名は平林平太夫、諱は日快、号は醒翁、「策伝」は道号。美濃の戦国武将・金森定近を父に、飛騨高山城主・金森長近を兄に...(続きをみる)
1561年0月0日
江戸時代初期の剣豪、薩摩藩・島津家の家臣。薩摩藩の“御留流”「示現流剣術」の開祖として知られる。幼名は弥十郎、通称は藤兵衛のち長門守、和泉守、越前守、肥前守。島津家の家臣・瀬戸口重為の子として生...(続きをみる)
1569年0月0日
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安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。字は以心、崇伝は法名。俗姓は一色。一般に知られる「金地院」は居住していた南禅寺金地院に由来する。初代将軍・徳川家康の右腕として外交や寺社統制に辣...(続きをみる)
1571年0月0日
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江戸時代初期の剣術家、大名。大和柳生藩の初代藩主で、徳川将軍家の兵法指南役を務めた。初名は新左衛門、通称は又右衛門のち但馬守。新陰流の剣士・柳生宗厳(石舟斎)の子として大和国柳生庄(現・奈良県柳...(続きをみる)
1575年0月0日
江戸時代前期の華道家、池坊32世。「立花(りっか)」の大成者として知られる。初名は専朝。当時の宮廷文化の中心的存在だった後水尾天皇(院)の寵愛を受け、宮中立花の指導者として「紫宸殿御立華会」など...(続きをみる)
江戸時代前期の町人。江戸の吉原遊郭を創設した人物として知られる。江戸時代前期の盗賊・高坂甚内、古着市を仕切った鳶沢甚内とともに「三甚内」と呼ばれる。小田原北条氏の浪人とも、東海道吉原宿の出身とも...(続きをみる)
1578年0月0日
江戸時代初期の絵師。「浮世絵の元祖」ともいわれる。一般に知られる「又兵衛」は通称で、諱は勝以(かつもち)。摂津国河辺郡伊丹(現・兵庫県伊丹市)の有岡城主・荒木村重の子として生まれたが、村重が主君...(続きをみる)
1579年0月0日
江戸時代前期の女性で、3代将軍・家光の乳母。本名は斎藤福。よく知られる「春日局」とは朝廷から賜った称号。父は明智光秀の重臣・斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘。山崎の戦いのあと父・利三が処刑され...(続きをみる)
- 春日局の名言
- 『西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を 逃れけるかな』
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江戸時代初期の剣術家、尾張藩の武士で尾張柳生家の祖。通称は兵助、兵庫助、茂佐衛門、初名は長厳、号は如雲斎、四友居士など。また、伊予守を自称した。祖父は新陰流継承者・柳生宗厳(石舟斎)、父は宗厳の...(続きをみる)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した大名。作庭家、茶人としても名高い。備中松山藩2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。一般に知られる「遠州」の名は官位の遠江守に由来する通称で、後年は「遠州」...(続きをみる)
1582年0月0日
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江戸時代前期の真言宗の僧、文化人。俗名は中沼式部。10代で京の石清水八幡宮にて出家し、真言密教の修行に励みこれを極め、阿闍梨法印の位につき、のち滝本坊の住職となった。能書家として名高く、近衛信尹...(続きをみる)
1584年0月0日
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江戸時代前期の武士、陸奥国会津藩加藤家の筆頭家老。長じて「賤ヶ岳の七本槍」のひとりとして名高い戦国大名・加藤嘉明(よしあきら)に仕え、大坂の陣で武功をあげ、嘉明から信任の証しである金の采配(軍事...(続きをみる)
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江戸時代前期の茶人、武士。今日まで続く茶道「宗和流」の祖。名は重近(しげちか)。戦国武将でのちの飛騨高山藩主・金森可重の長男として生まれた。「大坂の陣」に際して徳川方に味方する父を批判したことか...(続きをみる)
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徳川幕府2代将軍・徳川秀忠の愛人。名は静。3代将軍・家光の弟で名君の誉れ高い会津藩祖・保科正之の生母。父は後北条氏のもと家臣とも、武蔵板橋の大工とも。秀忠の乳母・大姥局(おおうばのつぼね)に仕え...(続きをみる)
1586年0月0日
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江戸時代初期の大名、肥前国佐賀藩主。幼名は長法師丸、通称は藤八郎。官位は従五位下駿河守。肥前の戦国大名・龍造寺政家の子として生まれる。父・政家が生来病弱だったことから豊臣秀吉の命でまだ5歳の高房...(続きをみる)
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江戸時代前期の大名、下総国関宿藩の初代藩主。父・板倉勝重とともに名京都所司代として知られる。初名は重統、通称は十三郎。官位は従五位下周防守、従四位下、侍従、右少将。初代京都所司代を務めた板倉勝重...(続きをみる)
1588年0月0日
安土桃山時代から江戸時代初期の武士、大名、三河国深溝(ふこうず)藩主。徳川氏の重臣で初代京都所司代として名高い板倉勝重の子として駿河国駿府(現・静岡県静岡市)にて生まれ、16歳の時から徳川家康に...(続きをみる)
- 板倉重昌の名言
- 『あら玉の としの始に 散花の 名のみ残らば 先がけとしれ』
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江戸時代前期の臨済宗の尼僧。義理の叔母で3代将軍・徳川家光の乳母・春日局の補佐役として大奥で絶大な権力を振るった。名はおなあ(おのう、とも)。伊勢国岩手城主・牧村利貞の娘として生まれたが、父・利...(続きをみる)
1592年0月0日
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江戸時代前期の大名、陸奥国会津藩の2代藩主。幼名は孫次郎、号は休意。官位は従五位下、従四位下、式部少輔、侍従。父は「賤ヶ岳の七本槍」のひとりとして名高い戦国大名・加藤嘉明(よしあきら)。父の死後...(続きをみる)
1594年0月0日
江戸時代初期に活躍したといわれる伝説的な彫刻家。姓は伊丹、名は利勝。日光東照宮の「眠り猫」や上野東照宮の「昇り竜」など甚五郎の作品といわれる彫刻は全国各地にあるが製作年代の幅が広く、作風もばらつ...(続きをみる)
1597年0月0日
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江戸時代初期の大名、老中。常陸国柿岡藩の藩主、下野国真岡藩の2代藩主、相模国小田原藩の初代藩主を務めた。幼名は千熊、通称は宇右衛門、官位は従五位下丹後守。母は3代将軍・徳川家光の乳母として知られ...(続きをみる)
1598年0月0日
江戸時代前期の和算家。幼名は与七(よしち)、通称は七兵衛、号は久庵。京を代表する豪商・角倉(すみのくら)の一族として京の嵯峨に生まれる。朱印船貿易や土木事業で知られる角倉了以は外祖父にあたる。初...(続きをみる)
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1600年0月0日
江戸時代前期の陶工。通称は清右衛門。丹波国桑田郡野々村(現・京都府南丹市美山町大野)にて生まれ、若い頃から瀬戸などで陶芸の修行に励んだといい、正保年間(1644~48)頃に仁和寺門前に「御室窯(...(続きをみる)
1602年0月0日
江戸時代前期の女性、3代将軍・徳川家光の正室。院号は本理院。父は鷹司信房、母は佐々成政の娘。家光の四男でのちの5代将軍・徳川綱吉の正室・鷹司信子は、孝子の姪孫にあたる。2代将軍・秀忠の正室で家光...(続きをみる)
1605年0月0日
江戸時代前期の軍学者で、幕府転覆を図った「慶安の変」いわゆる「由井正雪の乱」の首謀者。出自については諸説あるが、駿河国由比の紺屋の子として生まれたとも、駿府宮ケ崎の岡村弥右衛門の子ともいわれる。...(続きをみる)
江戸時代前期の下総国印旛郡公津村(現・千葉県成田市台方)の名主。本名は木内惣五郎、俗称は宗吾。近世における「義民」の代表とされる人物として有名。佐倉藩主・堀田正信の苛烈な年貢取立てに耐えかね、佐...(続きをみる)
1606年0月0日
江戸時代前期の大名で、3代将軍・徳川家光の実弟。駿河国駿府藩主。父は2代将軍・秀忠で徳川家康は祖父にあたる。会津藩主・保科正之は異母兄弟。幼名は国松(国千代とも)、通称は駿河大納言。父・秀忠と母...(続きをみる)
1607年0月0日
江戸時代前期の剣豪、旗本。名は三厳(みつよし)だが一般に通称の「十兵衛」で知られる。幼名は七郎。2代将軍・徳川秀忠と3代将軍・家光の兵法指南役を務め幕閣としても活躍した柳生宗矩を父に、大和国柳生...(続きをみる)
1608年0月0日
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江戸時代初期の剣術家、徳川将軍家剣術指南役。「小野派一刀流」の開祖として知られる。通称は助九郎、次郎右衛門。一刀流を継いだ小野忠明の子として生まれ、父・忠明から小野家当主の座を引き継ぐと、一刀流...(続きをみる)
1609年0月0日
江戸時代前期の女性で、東慶寺20世住持。父は豊臣秀頼、家康の孫で秀頼の正室である千姫は養母。俗名は不明。生母も不明。大坂城落城以前の天秀尼については記録がない。1615年(慶長20)に大坂城が落...(続きをみる)
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江戸時代前期の武士、仙台藩の家老。江戸時代における「三大御家騒動」のひとつ「伊達騒動」の主要人物のひとり。「外記」は通称で、名は朝意(とももと)。旧姓は佐竹、幼名は輪丸、のち賀江忠次郎、柴田朝親...(続きをみる)
1610年0月0日
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江戸時代前期の大名、三河国刈谷藩主。初代将軍・徳川家康の母である於大の方は祖母にあたり、家康は伯父にあたる。家康の異父弟・松平定勝の六男として生まれ、24歳の時、小姓として3代将軍・家光に仕える...(続きをみる)
1613年0月0日
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江戸代前期の武士、剣豪。大和国柳生藩の3代藩主で、4代将軍・家綱の剣術指南役。名は俊矩(としのり)、幼名は又十郎、通称は主膳、飛騨守、号は心計(しんけい)。父は3代将軍・家光に寵愛された柳生新陰...(続きをみる)
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江戸時代前期の旗本。通称は左門、刑部、法名は宗田。父は2代将軍・秀忠、3代将軍・家光の兵法指南役を務めた柳生宗矩(むねのり)、兄に剣豪として名高い柳生十兵衛三厳(みつよし)がいる。大和国柳生庄(...(続きをみる)
1619年0月0日
江戸時代前期の武士、仙台藩の家老。江戸時代における「三大御家騒動」のひとつ「伊達騒動」の中心人物のひとりとして知られる。「甲斐」は通称で、名は宗輔(むねすけ)、幼名は弁之輔、初名は雅楽。父は仙台...(続きをみる)
1621年0月0日
生年は1623年とする説もある。江戸時代初期のキリシタンで、日本史上最大の一揆「島原の乱」の一揆軍における最高指導者。本名は益田四郎、一般に「天草四郎時貞」の名で知られる。洗礼名はジェロニモのち...(続きをみる)
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江戸時代前期の大名、仙台藩の支藩・一関藩の藩主。父は戦国大名の伊達政宗。「兵部」は通称で名は宗勝、幼名は千勝丸。官位は従四位下、兵部大輔。江戸時代の「三大御家騒動」のひとつ「伊達騒動」の中心人物...(続きをみる)
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江戸時代前期の女性、3代将軍・徳川家光の側室で4代将軍・家綱の生母。別名は高島御前、法名は宝樹院。下野国都賀郡高島村(現・栃木県栃木市大平)にて農民の娘として生まれる。父の死後、母と江戸へ出て1...(続きをみる)
1622年0月0日
いわゆる「玉川兄弟」の兄にあたる。 江戸時代前期の人物で、玉川上水の開削工事を指揮したことで知られる。急成長する江戸の町に住む市民の飲料水確保のため、神田上水に次いで開削されたのが玉川上水で、...(続きをみる)
江戸時代前期に活躍した商人。通称は八郎兵衛。三井家(のちの三井財閥)の基礎を築き、「三井中興の祖」といわれる。高利は伊勢国松坂にて高俊の四男として生まれ、江戸で開業していた長兄の店で丁稚奉公をし...(続きをみる)
江戸時代前期の町奴の頭領、「侠客の元祖」ともいわれる。本名は塚本伊太郎。唐津藩の浪人・塚本伊織の子とされるが諸説ある。江戸の花川戸に住み、大名や旗本への奉公を斡旋する口入屋を家業とするが、腕っぷ...(続きをみる)
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江戸時代前期の医師。号は桐庵。もともと播磨国明石藩の本多家に仕えていたという。その後、京で医者をし、のち縁あって播磨国赤穂藩の藩医となった。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は江戸藩邸に...(続きをみる)
1623年0月0日
江戸時代前期の農学者。通称は文大夫。広島藩士・宮崎儀右衛門の子として安芸国(現・広島県)にて生まれ、長じて家を出ると筑前国福岡藩黒田氏に仕えた。その後、若くして職を辞し、筑前国女原村(現・福岡市...(続きをみる)
1624年0月0日
江戸時代前期の女性、3代将軍・徳川家光の側室。本名は源満子、法名は永光院。参議・六条有純の娘として生まれ、伊勢の尼寺・慶光院の住持となった。1639年(寛永16)に家光に謁見した時に見初められ、...(続きをみる)
1626年0月0日
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江戸時代前期の俳人、古筆鑑定家。本名は藤本常次。字は盛庸、通称は七郎左衛門、別号に哲斎、呑船軒など、法号は素仙。京の裕福な紅屋に生まれ、俳諧を俳人・松永貞徳に、古筆の鑑定を了佐に学んだ。20歳の...(続きをみる)
1627年0月0日
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとりで最高齢となる77歳の義士。弥兵衛は通称で、名は金丸(かなまる)。本姓は近江源氏。家紋は四ツ目結二ツ。同じく赤穂浪士のひとりで「高田の馬場の決闘」で名...(続きをみる)
- 堀部弥兵衛の名言
- 『雪はれて 思ひを遂ぐる あした朝かな』
1632年0月0日
江戸時代前期の僧、仏師、歌人。「円空仏」と呼ばれる独特の木彫りの仏像の作者として名高い。円空は生涯に12万体ともいわれる仏像を彫ったといわれ、現在、北は北海道から南は奈良県まで全国各地に5300...(続きをみる)
1635年0月0日
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江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。喜兵衛は通称で、名は光延(みつのぶ)。大石内蔵助とは遠縁の間柄で、長男・十次郎、次男・新六郎とともに親子3人で討ち入りに参加した。山鹿流兵学を学び、...(続きをみる)
- 間喜兵衛の名言
- 『草枕 むすぶ仮ねの 夢さめて 常夜にかえる 春のあけぼの』
1638年0月0日
江戸時代前期の武士、米沢藩上杉家の江戸家老。兵部は通称で、名は高房(たかふさ)。「赤穂事件」を題材にした講談や歌舞伎など『忠臣蔵』の創作物では、赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ちいる際に、実父・吉良...(続きをみる)
1640年0月0日
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江戸時代前期の旗本、大名。美濃国青野藩の藩主。春日局の子・稲葉正勝の甥にあたる。父・稲葉正吉の死後、その遺領である美濃国青野5000石を継いだ。小姓組番頭、書院番頭、近習を経て若年寄に出世、加増...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとりで副将的存在。忠左衛門は通称で、名は兼亮(かねすけ)、本姓は藤原氏。家紋は丸の内花菱。同じく赤穂浪士のひとりである貝賀友信は実弟、さらに三男の吉田沢右...(続きをみる)
- 吉田忠左衛門の名言
- 『君がため 思いぞ積もる 白雪を ちらすは今朝の みねの松風』
1641年0月0日
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江戸時代前期の武士、陸奥国会津藩加藤家の筆頭家老。長じて「賤ヶ岳の七本槍」のひとりとして名高い戦国大名・加藤嘉明(よしあきら)に仕え、大坂の陣で武功をあげ、嘉明から信任の証しである金の采配(軍事...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。久大夫は通称で、名は正明(まさあき)。家紋は右三つ巴(巴とも)。姓名の読みは「まなせきゅうだゆう」であるという説もある。子の間瀬孫九郎、従兄の小野寺...(続きをみる)
- 間瀬久大夫の名言
- 『雪とけて 心にかなう あした哉』
1642年0月0日
江戸時代前期の天才数学者(和算家)。生年、出身国は諸説ある。日本独自の数学「和算」を確立させ、後世、「算聖」と称された和算の大家。本名は藤原氏、通称は新助、号は自由亭。生年や出身地については諸説...(続きをみる)
江戸時代前期の作家、俳諧師。本名は平山藤五(諸説あり)、別号に鶴永、二万翁など。大坂の難波に生まれ、若くして俳諧を志し談林派を代表する俳諧師として名を知られるように。一昼夜の間につくる発句数を競...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。喜兵衛は通称で、名は秀直(ひでなお)。もと浪人の町人の子として江戸で生まれ、のち赤穂藩士の和算学者・村松茂清の婿養子となった。赤穂藩では江戸詰めの藩...(続きをみる)
1643年0月0日
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。十内は通称で、名は秀和(ひでかず)。家紋は木瓜。養子の小野寺幸右衛門(秀富)や甥の岡野金右衛門(包秀)も義士として討ち入りに参加している。妻の丹とは...(続きをみる)
- 小野寺十内の名言
- 『忘れめや 百に余れる 年を経て ことへし代々の 君がなさけを』
1644年0月0日
「俳聖」として世界的にその名を知られる江戸時代前期の俳諧師。民衆文芸だった俳諧を形式・内容ともに芸術として完成させ「蕉風」と呼ばれる句風を確立した。幼名は金作、通称は甚七郎、甚四郎、名は忠右衛門...(続きをみる)
- 松尾芭蕉の名言
- 『不易を知らざれば基立ち難く、流行を知らざれば風新たに成らず(不易流行)』
江戸時代前期の町人。江戸の吉原遊郭を創設した人物として知られる。江戸時代前期の盗賊・高坂甚内、古着市を仕切った鳶沢甚内とともに「三甚内」と呼ばれる。小田原北条氏の浪人とも、東海道吉原宿の出身とも...(続きをみる)
1645年0月0日
江戸時代前期に活躍した天才囲碁棋士。幼名は三次郎、本姓は山崎、法名は日忠。合理的かつ革新的手法を用いた近代的囲碁で圧倒的強さを誇り「棋聖」と称され、“史上最強の棋士”ともいわれる。幼い頃に囲碁を...(続きをみる)
1647年0月0日
江戸時代前期の歌舞伎役者。「稀代の名人」などと呼ばれた元禄(1688~1704)を代表する名優で、上方歌舞伎の始祖のひとり。俳号は冬貞、車漣。定紋は丸に外丸。父は京の座元だった坂田市左衛門。16...(続きをみる)
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江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。孫太夫は通称で、名は重盛(しげもり)。同じく義士の奥田貞右衛門は娘婿。孫太夫は真心影流の剣客としてしられ大太刀を得意とし、同じく義士の堀部安兵衛とは...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の重臣。将監は通称で、名は定良(さだよし)。赤穂浪士四十七士のひとり大石瀬左衛門とは従兄弟の間柄。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こし切腹、お家断絶となる...(続きをみる)
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江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家臣。源四郎は通称で、名は俊式(としもと)。赤穂浪士四十七士のリーダー大石内蔵助の母方の大叔父にあたる。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こしたあとは筆頭...(続きをみる)
江戸時代前期の旗本。「赤穂事件」で知られる赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に江戸城大廊下において刃傷に及んだ際、偶然その場に居合わせ、浅野内匠頭を取り押さえたことで知られる。ドラマなど『...(続きをみる)
1648年0月0日
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江戸時代前期の茶人、美食家。諱は政従(まさより)、通称は佐太夫、別号に「祐庵」「道遂」。近江国滋賀郡本堅田村(現・滋賀県大津市)の豪農・北村家にて生まれる。茶道を千利休直系の弟子・藤村庸軒に習っ...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。惣右衛門は通称で、名は元辰(もととき)。弟の岡島八十右衛門も四十七士のひとり。米沢藩上杉家の浪人・原定辰の子として生まれ、赤穂藩に仕官した。1701...(続きをみる)
- 原惣右衛門の名言
- 『かねてより 君と母とに 知らせんと 人より急ぐ 死出の山路』
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江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家臣。赤穂浪士四十七士のリーダー大石内蔵助の叔父にあたる。浅野長直、内匠頭長矩と2代に仕え、長矩が刃傷事件を起こしてからは大石内蔵助派として行動し、早くか...(続きをみる)
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1650年0月0日
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江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。弥左衛門は通称で、名は友信(とものぶ)。実兄の吉田忠左衛門、甥の吉田沢右衛門、岡島八十右衛門も同じく義士として討ち入りに参加した。赤穂藩浅野家家臣の...(続きをみる)
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徳川幕府5代将軍・徳川綱吉時代の大奥女中。右衛門佐局(えもんのすけのつぼね)とも。もともと霊元天皇の後宮に仕えていたが、下級武士の娘ながら綱吉の子を生んだことで大奥で絶大な権力をふるう綱吉の側室...(続きをみる)
1651年0月0日
江戸時代初期に活躍したといわれる伝説的な彫刻家。姓は伊丹、名は利勝。日光東照宮の「眠り猫」や上野東照宮の「昇り竜」など甚五郎の作品といわれる彫刻は全国各地にあるが製作年代の幅が広く、作風もばらつ...(続きをみる)
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徳川幕府5代将軍・徳川綱吉の御台所(正室)。院号は浄光院。父は左大臣の鷹司教平。3代将軍・家光の正室である鷹司孝子は大叔母、6代将軍・家宣の正室である近衛熙子はまたいとこにあたる。上野国館林藩主...(続きをみる)
1652年0月0日
江戸時代前期から中期の画家、俳人。本姓は藤原、多賀。幼名は猪三郎、次右衛門、助之進。諱は安雄のち信香。字は君受。俳号は暁雲(ぎょううん)、狂雲堂、夕寥(せきりょう)。画号はほかに北窓翁(ほくそう...(続きをみる)
1653年0月0日
江戸時代前期から元禄にかけ活躍した人形浄瑠璃・歌舞伎の作者。代表作に『曽根崎心中』『国性爺合戦』『心中天網島』『冥土の飛脚』など。本名は杉森信盛、幼名は次郎吉。家紋は「丸に一文字」。父は越前国福...(続きをみる)
- 近松門左衛門の名言
- 『残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間徒なる 朽木書きして』
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。三郎兵衛は通称で、名は光忠(みつただ)。摂津国高槻藩永井家の家臣の子として生まれたが、同族の千馬家の養子となり家督を継いだ。赤穂藩では馬廻り役などを...(続きをみる)
1658年0月0日
江戸時代前期から中期に活躍した画家、工芸家。「琳派」の大成者として知られる。初名は惟富、通称は市之丞。京の呉服商「雁金屋」の次男として生まれる。弟に同時代に活躍した陶芸家・尾形乾山がいる。幼い頃...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。岡右衛門は通称で、名は貞行(さだゆき)。家紋は丸に違い丁字。赤穂藩浅野家の譜代家臣の子として生まれ、馬廻り役と絵図奉行を兼任した。学問好きの人物で早...(続きをみる)
- 木村岡右衛門の名言
- 『思ひきや わが武士の道ならで かかる御法(みのり)の 縁にあうとは』
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江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。新六郎は通称で、名は光風(みつかぜ)。父・間喜兵衛、兄・十次郎とともに家族3人で討ち入りに参加した。間喜兵衛の次男として生まれ、赤穂藩の舟奉行・里村...(続きをみる)
- 間新六郎の名言
- 『思草 茂れる野辺の 旅枕 仮寝の夢は 結ばざりしを』
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。源五は通称で、名は忠雄(ただお)。家紋は丸に三盛亀甲花菱。実弟・小野寺幸右衛門、伯父・小野寺十内も義士として討ち入りに参加している。首は太くて短く、...(続きをみる)
- 大高源五の名言
- 『梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の山』
江戸時代中期の旗本。通称は彦次郎、五左衛門。官位は従五位下、近江守。幕府旗本・荻原種重の子として江戸に生まれ、17歳の時に勘定所の一員となった。五畿内検地で功をあげ頭角を現すと、26歳の若さで勘...(続きをみる)
1659年0月0日
江戸時代前半の武士、播磨国赤穂藩の筆頭家老。『忠臣蔵』こと『仮名手本忠臣蔵』で知られる「元禄赤穂事件」で赤穂浪士たちを率い宿願を果たした。本姓は藤原、「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一...(続きをみる)
- 大石内蔵助の名言
- 『極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそえて 四十八人』
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。勘助は通称で、名は正辰(まさとき)。伯父・間瀬久太夫と従弟・間瀬孫九郎も義士として討ち入りに参加している。越後国村上藩の松平家家臣の子として奥州は陸...(続きをみる)
- 中村勘助の名言
- 『梅が香や 日足を伝ふ 大書院』
1660年0月0日
元禄期(1688~1704)に江戸で活躍した歌舞伎役者。超人的な力を持つ正義のヒーローが活躍する豪快で力強い演技が特徴の「荒事」を創始し、江戸歌舞伎を代表する役者として絶大な人気を集め、現在で1...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。半之丞は通称で、名は政利(まさとし)。子どもの頃、赤穂に配流中だった兵学者・山鹿素行に直接教えを受け、のち赤穂藩家老の大石頼母助良重につき山鹿流兵学...(続きをみる)
1662年0月0日
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江戸時代中期に江戸で活躍した豪商。通称は「奈良茂(ならも)」。本名は神田勝豊。幼名は茂松、号は安休。生年は諸説ある。「紀文」こと紀伊國屋文左衛門のライバルとして知られ、吉原などで紀文に対抗するよ...(続きをみる)
1663年0月0日
江戸時代前期に活躍した陶工、絵師。名は惟充。通称は権平、新三郎。号は深省、乾山、霊海、扶陸・逃禅、紫翠、尚古斎、陶隠、京兆逸民、華洛散人、習静堂など。一般に窯名として用いた「乾山」の名で知られる...(続きをみる)
- 尾形乾山の名言
- 『うきことも うれしき折も 過ぎぬれば ただあけくれの 夢ばかりなる』
1664年0月0日
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。藤左衛門は通称で、名は満尭(みつたか)。備前国岡山藩の池田家家臣の子として生まれたが、家督を兄が継いだため、播磨国赤穂藩の浅野家家臣・早水家の婿養子...(続きをみる)
- 早水藤左衛門の名言
- 『地水火風 空のうちより いでし身の たどりて帰る もとのすみかに』
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。伊助は通称で、名は宗房(むねふさ)。赤穂藩浅野家家臣の子として生まれ、家督を継ぐと浅野家の江戸詰め家臣として仕えた。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を...(続きをみる)
- 前原伊助の名言
- 『春来ぬと さしもしらじな 年月の ふりゆくものは 人の白髪』
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江戸時代前期から中期の武士、米沢藩上杉家の江戸家老。又四郎は通称で、名は安長(やすなが)。『忠臣蔵』などの創作物では、父・吉良上野介を助けるため出兵しようとする主君・上杉綱憲を色部が制止するとい...(続きをみる)
1665年0月0日
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとりで、300人ほどいた浅野家足軽のなか唯一討ち入りに参加し、その後生き残ったことで知られる。吉右衛門は通称で、名は信行(のぶゆき)。赤穂藩浅野家家臣の子...(続きをみる)
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5代将軍・徳川綱吉が寵愛した側用人として知られる甲斐国甲府藩主・柳沢吉保の側室。出自については諸説あり、柳沢家家臣の娘とも公家の娘とも。もとは吉保の生母の侍女で、吉保から寵愛され側室となり、吉里...(続きをみる)
1666年0月0日
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。八十右衛門は通称で、名は常樹(つねしげ)。米沢藩上杉家の浪人・原七郎の子として生まれた。20歳近く歳の離れた兄・原惣右衛門(元辰)も赤穂浪士四十七士...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。与五郎は通称で、名は則休(のりやす)。家紋は蛇の目。大高源五と並び浅野家家中きっての俳人として知られ、「竹平」の俳号を持つ。また、浪士随一の酒豪とい...(続きをみる)
- 神崎与五郎の名言
- 『梓弓 春近ければ 小手の上の 雪をも花の ふぶきとや見ん』
1667年0月0日
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。源五右衛門は通称で、名は高房。本姓は近江源氏。家紋は瓜の内釘貫。御三家のひとつ尾張徳川家の家臣の子として名古屋に生まれる。幼い頃に親戚にあたる赤穂藩...(続きをみる)
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江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。和助は通称で、名は常成(つねなり)。美作国津山藩(岡山県津山市)の森家家臣の子として津山に生まれ、森家に仕えたあと、赤穂藩浅野家に再仕官した。なお、...(続きをみる)
- 茅野和助の名言
- 『天地の 外にあらじな 千種だに 本さく野べに かるると思へば』
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江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。次郎左衛門は通称で、名は包常(かねつね)。赤穂藩浅野家に仕えるが役職は台所役という非常に低い身分だった。そのため、主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起...(続きをみる)
- 三村次郎左衛門の名言
- 『雪霜の 数に入りけり 君がため』
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。勘平は通称で、名は宗利(むねとし)。いつ頃かは不明だが赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に仕え、長矩が刃傷事件を起こした時は江戸にいたがすぐに赤穂へ戻った。は...(続きをみる)
- 横川勘平の名言
- 『きがかりも なくて今年の 霞かな』
1668年0月0日
江戸時代前期の少女で、江戸本郷の八百屋の娘。生没年には諸説あり。恋人に会いたい想いから放火をし、その罪により火あぶりの刑に処せられた。井原西鶴の『好色五人女』で取り上げられたことから広くその名が...(続きをみる)
1669年0月0日
江戸時代前期から中期の豪商。元禄期を代表する商人のひとりで、「紀文」の通称で知られる。若い頃に暴風雨のなか紀州から船を出し江戸へ紀州みかんを運び巨利を得た、いわゆる「みかん船伝説」は紀文の出世エ...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。源蔵は通称で、名は重賢(しげかた)。姓名の読みは「あかはにげんぞう」とう説もある。「赤穂事件」を題材にした物語『仮名手本忠臣蔵』のなかでは「赤垣源蔵...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。又之丞は通称で、名は高教(たかのり)。妻のゆうは、大石内蔵助のいとこにあたる。家紋は細輪に三引。赤穂藩浅野家の家臣の子として生まれ、赤穂藩士となると...(続きをみる)
- 潮田又之丞の名言
- 『もののふの 道とはかりを 一すしに 思ひ立ぬる 死出の旅路に』
江戸時代前期の女性。「赤穂事件」における赤穂浪士四十七士のリーダー大石内蔵助の妻として知られる。非常に大柄だったといわれ身長は6尺(約180cm)あったとも。但馬国豊岡藩京極家の家老・石束毎公の...(続きをみる)
1670年0月0日
江戸時代前期の武士。「堀部武庸(ほりべたけつね)」と読む。通称は堀部安兵衛。『忠臣蔵』で知られる「元禄赤穂事件」で吉良上野介義央の邸に討ち入りした赤穂浪士四十七士のひとり。浪士随一の剣客で、「高...(続きをみる)
- 堀部安兵衛の名言
- 『梓弓(あずさゆみ) ためしにも引け 武士(もののふ)の 道は迷わぬ 跡と思はば』
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。勘六は通称で、名は行重(ゆきしげ)。家紋は六ツ星。同じく赤穂浪士のひとり奥田貞右衛門(行高)は異父弟。祖父が赤穂藩の典医として仕えた縁から勘六も赤穂...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。助右衛門は通称で、名は正因(まさより)。俳諧をたしなむ文化人で、松尾芭蕉の高弟・宝井其角(きかく)に師事し、自身も「春帆」の号を持つ。赤穂藩御留守居...(続きをみる)
- 富森助右衛門の名言
- 『先立ちし 人もありけり 今日の日を ついの旅路の 思ひ出にして』
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。数右衛門は通称で、名は正種(まさたね)。家紋は隅角切に横一。赤穂藩譜代・不破家の養子となり家督を継ぐが、粗野な性格で同僚トラブルを起こしたり、刀の切...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。伝助は通称で、名は武幸(たけゆき)。7歳(6歳とも)の時に父を亡くし幼くして家督を継ぐと、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に中小姓として仕えた。主君・長矩が...(続きをみる)
1671年0月0日
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江戸時代前期の武士。「赤穂事件」で知られる吉良上野介義央の家臣で、赤穂浪士四十七士による吉良邸討ち入りの際、もっとも活躍した剣客といわれる。父は米沢藩上杉家の家臣。新八は吉良上野介の孫ながら養子...(続きをみる)
1672年0月0日
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。唯七は通称で、名は隆重(たかしげ)。祖父は帰化中国人の孟二寛で、祖をたどれば孟子にいきつく。赤穂藩士・渡辺式重の次男として生まれ、兄が渡辺家を継ぎ、...(続きをみる)
江戸時代中期の町医者、漢方医。山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』の主人公「赤ひげ先生」のモデルとしても知られる。8代将軍・徳川吉宗の治世、設置された目安箱に貧困者や身寄りのない弱者のための施薬院を...(続きをみる)
1674年0月0日
江戸時代前期から中期の女性。「赤穂事件」で知られる播磨国赤穂藩主・浅野内匠頭長矩の妻として名高い。浅野内匠頭の死後、落飾して瑤泉院と称する(「ようぜいいん」と読まれることが多いが、正しい読みは「...(続きをみる)
1675年0月0日
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。沢右衛門は通称で、名は兼貞(かねさだ)。父・吉田忠左衛門(兼亮)も赤穂義士のひとりで副将的役割を果たした人物。沢右衛門は忠左衛門の三男だが兄が2人と...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。五郎右衛門は通称で、名は助武(すけたけ)。赤穂藩浅野家家臣の子として生まれ、父の死後、家督を相続すると江戸詰めの藩士となり、主君・浅野内匠頭長矩が刃...(続きをみる)
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江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家臣。三平は通称で、名は重実(しげざね)。討ち入り前に主君への忠と父への孝の板ばさみとなり切腹した赤穂藩士として有名で、「48番目の義士」ともいわれる。ま...(続きをみる)
1676年0月0日
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江戸時代中期の文人画家、儒学者、漢詩人。桑山玉洲、野呂介石とともに「紀州三大南画家」といわれる。また、服部南郭、柳沢淇園、彭城百川とともに「日本文人画の祖」とされる。本姓は源、名は与一郎、正卿、...(続きをみる)
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江戸時代中期の園芸家。名は政武(まさたけ)。伊藤家は伊勢国津藩の藤堂家出入りの農民で代々植木の世話をし、「伊藤伊兵衛」を名乗った。政武の父・三之丞が染井(現・東京都豊島区)で植木屋を営むようにな...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。幸右衛門は通称で、名は秀富(ひでとみ)。養父の小野寺十内、実兄の大高源五も義士として討ち入りに参加している。赤穂藩浅野家の家臣・大高兵左衛門の子とし...(続きをみる)
- 小野寺幸右衛門の名言
- 『今ははや 言の葉草も なかりけり なにのためとて 露むすぶらん』
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。十平次は通称で、名は次房(つぎふさ)。十平次自身は微禄ながら、母方の実家・荻原家は藩内でも知られる裕福な家だった。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起...(続きをみる)
1677年0月0日
大岡忠相(おおおかただすけ)。江戸時代中期の幕臣、大名。時代劇などフィクションにおいて名奉行「大岡越前」として知られる。通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。官位は越前守。西大平藩の初代藩主でもある...(続きをみる)
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江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。瀬左衛門は通称で、名は信清(のぶきよ)。大石内蔵助の嫡男・主税を除いて、大石家から唯一義盟に加わった若者。大石内蔵助と同じく東軍流剣術を学んでいた。...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。三太夫は通称で、名は高直(たかなお)。父は同じく義士の村松喜兵衛。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は、江戸詰め藩士だった父とともに江戸にい...(続きをみる)
- 村松三太夫の名言
- 『極楽を ことわりなしに 通らばや 弥陀もろともに 四十八人』
江戸時代前期の武士。「赤穂事件」で赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入りした際に討ち死にした。フィクションにおける『忠臣蔵』では吉良家随一の剣豪として描かれ、同門の友で義士の堀部安兵衛とも一騎打ちな...(続きをみる)
1678年0月0日
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。貞右衛門は通称で、名は行高(ゆきたか)。同じく義士の奥田孫太夫は義父で、これまた同じく義士の近松勘六は異父兄。赤穂藩浅野家家臣の子として生まれ、のち...(続きをみる)
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。十次郎は通称で、名は光興(みつおき)。父・間喜兵衛、弟・新六郎とともに家族3人で討ち入りに参加した。江戸一番の剣客として知られた堀内源左衛門の道場で...(続きをみる)
1679年0月0日
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。十郎左衛門は通称で、名は正久。幕臣に仕える武士の子として生まれたが、主家の断絶により父が浪人となると、美少年だった十郎左衛門は京の愛宕山教学院の稚児...(続きをみる)
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江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の重臣。杢之助は通称で、名は直之(なおゆき)。浅野家家臣団のなかで大石家に次ぐ名家の出身でありながら討ち入りに参加せず、不忠臣のそしりを受けた。主君・浅野内...(続きをみる)
1680年0月0日
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。金右衛門は通称で、名は包秀(かねひで)、幼名は九十郎。伯父・小野寺十内、従弟・大高源五も赤穂浪士として討ち入りに参加している。家紋は釘貫。『忠臣蔵』...(続きをみる)
- 岡野金右衛門の名言
- 『その匂い 雪のあさぢの 野梅かな』
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。新左衛門は通称で、名は武尭(たけたか)。若いながらも剣術の達人。幼くして父と母を亡くし家督を継ぐと、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に中小姓として仕えた。主...(続きをみる)
1681年0月0日
江戸時代中期の江戸城大奥御年寄。本名はみよ。「江島」の表記が正しいとも。歌舞伎役者と大奥女中ら多数が処罰された風紀粛清事件「絵島生島事件」の中心人物として知られる。甲府藩士・疋田彦四郎の娘として...(続きをみる)
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江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。父・間瀬久大夫とともに親子で義挙に参加した。孫九郎は通称で、名は正辰(まさとき)。姓名の読みは「まなせまごくろう」という説もある。家督は継いでおらず...(続きをみる)
1682年0月0日
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徳川幕府6代将軍・家宣の側室。別称に一之御部屋様、右近局。医師(もしくは僧侶)の娘として生まれた。家宣に見初められ側室となり、男児・家千代を生んだが生後まもなく死去。家宣没後は落飾し「法心院」と...(続きをみる)
1684年0月0日
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江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家臣。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こし切腹したあと、当初から大石内蔵助に従い義盟に加わっていたが、赤穂城開城後に京で暮らしていた時に大坂曽根崎新地で...(続きをみる)
1685年0月0日
徳川幕府6代将軍・徳川家宣の側室、7代将軍・家継の生母。本名は勝田輝子、側室としての名はお喜世(きよ)の方、左京の局。もと加賀藩士で浅草の住職の娘として生まれた。甲斐国甲府藩主時代の徳川綱豊(の...(続きをみる)
1686年0月0日
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。右衛門七(えもしち)は通称で、名は教兼(のりかね)。義士のなかでは大石主税に次いで若かった。女性に間違えられるほどの美青年だったという。赤穂藩主・浅...(続きをみる)
- 矢頭右衛門七の名言
- 『出る日の ひかりも消て 夕ぐれに いはなんことは かなしかりける』
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江戸時代前期から中期の女性。「赤穂事件」から30年以上もたった頃、赤穂浪士四十七士のひとりとして名高い「堀部安兵衛の妻」を自称し、赤穂浪士たちの眠る高輪の泉岳寺近くに庵を結び、安兵衛の墓を参拝し...(続きをみる)
1688年0月0日
江戸時代前期の武士。赤穂浪士のリーダー大石内蔵助良雄の子で、赤穂浪士四十七士のひとり。通称の主税で知られるが、名は良金(よしかね)、幼名は松之丞。播磨国赤穂藩の筆頭家老・大石良雄の嫡男として赤穂...(続きをみる)
徳川幕府8代将軍・徳川吉宗の側室で、9代将軍・家重の生母。父は紀州藩家臣、母も紀州藩家臣の娘。紀州藩主時代の吉宗の側室となり、のち9代将軍となる家重を生んだ。吉宗からの寵愛深く、再び懐妊したが難...(続きをみる)
1692年0月0日
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徳川幕府6代将軍・徳川家宣の甲府藩主時代の側室。武士の娘で、甲府藩主時代の家宣(当時は綱豊)の江戸桜田邸に奉公し、見初められて寵愛を受けるように。家宣の子を懐妊したが、難産のため母子ともに他界し...(続きをみる)
1696年0月0日
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江戸時代中期の儒学者。陸奥国東磐井郡(現・岩手県一関市大東町渋民)の農家に生まれ、幼い頃から秀才ぶりを知られ、15歳で農民の出ながら仙台藩の儒学者となると、19歳の時には藩主に御前講義を行った。...(続きをみる)
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徳川幕府8代将軍・徳川吉宗の側室。御三卿のひとつ田安徳川家初代当主・徳川宗武(むねたけ)の生母。9代将軍・家重の生母である側室のお須磨の方が死去してのち側室となり、男児を生んだ(のちの徳川宗武)...(続きをみる)
1697年0月0日
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徳川幕府8代将軍・徳川吉宗の側室。紀州藩士の娘として生まれ、和歌山城にて吉宗の生母のお世話係をしていた。吉宗に見初められ側室となり、女児を出産したがその子は夭折してしまった。吉宗没後は出家し、覚...(続きをみる)
1700年0月0日
江戸時代前期の陶工。通称は清右衛門。丹波国桑田郡野々村(現・京都府南丹市美山町大野)にて生まれ、若い頃から瀬戸などで陶芸の修行に励んだといい、正保年間(1644~48)頃に仁和寺門前に「御室窯(...(続きをみる)
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徳川幕府8代将軍・徳川吉宗の側室。一橋徳川家初代当主・徳川宗尹(むねただ)の生母。なお、宗尹の孫は11代将軍・家斉、曾孫は12代将軍・家慶、玄孫は13代将軍・家定と14代将軍・家茂。お梅は幼くし...(続きをみる)
1701年0月0日
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1703年0月0日
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江戸時代中期の俳人。号は草風、法名は素園。「千代」「千代尼」とも呼ばれる。加賀国松任(現・石川県白山市)の表具師・福増屋六兵衛の娘として生まれた。幼い頃から俳諧に親しみ、12歳の頃、俳人・岸弥左...(続きをみる)
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江戸時代中期の武士、加賀藩士。江戸時代における“三大御家騒動”のひとつ「加賀騒動」の中心人物(ほかは「伊達騒動」「黒田騒動」)。伝蔵は初名、諱は朝元(ちょうげん)。伝蔵は足軽の家に生まれるが寺小...(続きをみる)
1704年0月0日
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江戸時代前期の俳人、古筆鑑定家。本名は藤本常次。字は盛庸、通称は七郎左衛門、別号に哲斎、呑船軒など、法号は素仙。京の裕福な紅屋に生まれ、俳諧を俳人・松永貞徳に、古筆の鑑定を了佐に学んだ。20歳の...(続きをみる)
1705年0月0日
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江戸時代中期の武士、出雲国松江藩の家老。名は茂保(しげやす)。6代藩主・松平宗衍(むねのぶ)と7代藩主・松平不昧(治郷)の2代に仕え、不昧の代の時には藩政改革の中心人物として改革に尽力、破綻して...(続きをみる)
1709年0月0日
江戸時代中期の大名、9代将軍・徳川家重の側近として知られる。上総国勝浦藩主、武蔵国岩槻藩初代藩主。通称は兵庫、主膳。官位は従五位下、従四位下出雲守。同時代に活躍した同姓の江戸南町奉行・大岡忠相(...(続きをみる)
1716年0月0日
江戸時代中期の俳人、画家。松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨人で「江戸俳諧中興の祖」といわれる。また「俳画」と呼ばれる新ジャンルを開拓したことでも知られる。本姓は谷口(谷とも)、名は信...(続きをみる)
1717年0月0日
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江戸時代中期の武士、信濃国松代藩家老。百官名にちなんだ「恩田木工(もく)」として知られる(杢とも表記)。幼名は佐吉。松代藩家老の恩田民清の子として松代(現・長野市松代町)にて生まれ、29歳で家老...(続きをみる)
1718年0月0日
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江戸時代後期の仏師、歌人。日本全国を遍歴し、「微笑仏(みしょうぶつ)」の名で親しまれる丸みを帯びた身体と大きな笑みを浮かべた仏像を1000体以上製作した。木喰と同じように全国を遍歴し多数の仏像を...(続きをみる)
1719年0月0日
江戸時代中期の大盗賊。本名は浜島庄兵衛。遠江国を本拠地に200人ほどの盗賊団の頭目として東海道沿いの諸国を荒らしまわった。その凶状に時の老中も動き幕府から火付盗賊改方頭が派遣され、盗賊団幹部数名...(続きをみる)
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江戸時代前期の茶人、美食家。諱は政従(まさより)、通称は佐太夫、別号に「祐庵」「道遂」。近江国滋賀郡本堅田村(現・滋賀県大津市)の豪農・北村家にて生まれる。茶道を千利休直系の弟子・藤村庸軒に習っ...(続きをみる)
1721年0月0日
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江戸時代中期の農民。百姓一揆「伝馬騒動」のリーダーで後世“義民”とされた。通称は関村兵内。武蔵国児玉郡関村(現・埼玉県児玉郡美里町)の農民の子として生まれ、学問を地元の住職に学び、村のリーダー的...(続きをみる)
1723年0月0日
江戸時代中期から後期の蘭学者、豊前国中津藩(現・大分県中津市)の藩医。杉田玄白とともに『解体新書』を翻訳したことで知られる。「良沢」は通称で、名は熹(よみす)、字は子悦、号は楽山のち蘭化。号の「...(続きをみる)
1725年0月0日
江戸時代の浮世絵師。代表作は笠森お仙を題材にした美人画や、錦絵『夕立』『座敷八景』など。(続きをみる)
1726年0月0日
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江戸時代中期から後期の地理学者、紀行家。本姓は橘、名は正辰、字は子曜、通称は平治兵衛、別号に竹亭、黄薇主人。備中国下道郡新本村(現・岡山県総社市新本)にて生まれ、幼くして母と死別した。若い頃につ...(続きをみる)
1728年0月0日
江戸時代中期に活躍した本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。よく知られる「源内」は通称で、「元内」とも書いた。戯作者としての筆名は「風来山人(ふ...(続きをみる)
1729年0月0日
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江戸時代中期の関東郡代。通称は半蔵、半左衛門。官位は従五位下備前守。代々関東郡代として関東の天領を支配する名門・伊奈家に生まれ、忠宥も11代目関東郡代となった。1764年(明和元年)に農民20万...(続きをみる)
1730年0月0日
江戸時代中期に活躍した異端の絵師。姓は三浦、名は暉雄、暉一・暉鷹とも称する。字は師龍、通称を左近二郎。自ら「蛇足軒」と号した。蕭白の生涯については資料が乏しく不明な点が多い。その作風は非常に独特...(続きをみる)
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江戸時代中期の文人画家。名は元素、字は太初、通称は大助、号はほかに玉峰、楽聖堂など。備後国尾道(現・広島県尾道市)にて生まれ、京に上ると画家・池大雅に入門した。五岳は人物画や山水画を得意とし大雅...(続きをみる)
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江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家臣。源四郎は通称で、名は俊式(としもと)。赤穂浪士四十七士のリーダー大石内蔵助の母方の大叔父にあたる。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こしたあとは筆頭...(続きをみる)
1731年0月0日
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江戸時代中期から後期の音楽家。「平曲(へいきょく)」という語りもの音楽のジャンルにおいて平曲譜本の決定版ともいえる『平家正節(へいけまぶし)』を編纂し、「平曲中興の祖」と称えられる。名は知一。安...(続きをみる)
1732年0月0日
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江戸時代中期の和算家、財政家、出羽国新庄藩の藩士。本姓は藤原、仮名は万蔵、字は伯規、号は南山。「直円」という名は父が数学者として大成することを願って命名したもの。江戸時代の日本における数学の発展...(続きをみる)
1734年0月0日
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1735年0月0日
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江戸時代中期から後期の武士。米沢藩上杉家の家臣で藩主・上杉鷹山に抜擢され、竹俣当綱(たけのまたまさつな)とともに藩政改革を主導したことで知られる。通称は九郎兵衛、号は太華、好古堂。幼い頃に父を亡...(続きをみる)
1737年0月0日
江戸時代中期から後期の旗本、勘定奉行、南町奉行を歴任。江戸の珍談・奇談1000話を集めた『耳嚢(みみぶくろ)』の著者として名高い。下級旗本の子として生まれ、根岸家の養子となったといわれる。努力し...(続きをみる)
1738年0月0日
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江戸時代中期の篆刻家。戯号の「醒狂道人 何必醇(すいきょうどうじんかひつじゅん)」で著した大ベストセラー料理本『豆腐百珍』の著者とされる。字は応聖、号はほかに仏斎居士、曼荼羅居、読騒菴、通称は忠...(続きをみる)
1744年0月0日
江戸時代中期の戯作者、浮世絵師。本名は倉橋格(いたる)。幼名は亀之助、通称は隼人のち寿平、号はほかに寿山人、寿亭、春町坊。狂歌での名は「酒上不埒(さけのうえのふらち)」。「春町」のペンネームは藩...(続きをみる)
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江戸時代後期の漂流者。嵐に遭遇し、結果的に日本人として初めて世界一周を果たした。陸奥国仙台藩の浦戸諸島寒風沢島(現・宮城県塩釜市)に生まれた。1793年(寛政5)、若宮丸の水主(かこ)として石巻...(続きをみる)
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江戸時代後期の大坂を代表する文人画家。子の岡田半江も文人画家として名を知られる(養子説あり)。名は国、字は士彦(しげん)、通称は岡田彦兵衛あるいは米屋彦兵衛。画号は米山人、米翁。前半生については...(続きをみる)
1745年0月0日
長谷川宣以(はせがわのぶため)。江戸時代中期の旗本で、火付盗賊改方の長官を務めた。通称の「平蔵」で知られ、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として有名。幼名は銕三郎(てつさぶろう)、...(続きをみる)
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江戸時代中期から後期の文人画家。名は孝弼(たかすけ)、字は君輔(きんすけ)、通称は兵右衛門。播磨・備前の戦国大名だった浦上氏の末裔で、鴨方藩の藩邸で生まれた。若い頃から学問や詩、琴に親しみ、50...(続きをみる)
1746年0月0日
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江戸時代中期から後期にかけての国学者、歌人。本姓は平氏、通称は平四郎、字は士観(さちまろ)、号は織錦斎(にしごりのや)、琴後翁(ことじりのおきな)。江戸日本橋の裕福な干鰯問屋・村田屋の子として生...(続きをみる)
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江戸時代中期の文人画家、美術評論家。祇園南海、野呂介石とともに「紀州三大南画家」といわれる。名は政近、嗣幹、嗣粲、嗣燦と改め、字を白瑞、子戔、明夫、通称は茂兵次。号はほかに明光居士、珂雪漁人、玉...(続きをみる)
1747年0月0日
江戸時代後期の絵師、蘭学者。本名は安藤峻、俗称は勝三郎のち孫太夫、字は君嶽、君岡、号は春波楼、桃言、無言道人、西洋道人など多数。「鈴木春重」の名で浮世絵師としても活躍した。日本最初の銅版画(エッ...(続きをみる)
1748年0月0日
江戸時代中期の商人、学者。本名は長谷川芳秀(よしひで)、通称は升屋小右衛門。播磨国印南郡神爪村(現・兵庫県高砂市)の農家に生まれ、13歳の時に大坂の伯父の養子となり両替商へ丁稚奉公へ出た。しかし...(続きをみる)
- 山片蟠桃の名言
- 『地獄なし 極楽なし 我もなし ただあるものは 人と万物』
1749年0月0日
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江戸時代中期の南画家、儒学者。姓は十時、名は業のち賜(しゃく)、字は季長のち子羽、通称は半蔵。号はほかに顧亭、清夢軒、天臨閣。儒学を伊藤東所、書を趙陶斎、絵を皆川淇園や池大雅に学んだ。また和歌を...(続きをみる)
1750年0月0日
1751年0月0日
江戸時代中期の女性。江戸は谷中にある笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」の看板娘として有名。浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の柳屋お藤、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の蔦屋およしとともに「明和三美人」のひとりとし...(続きをみる)
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江戸時代後期の浄土真宗本願寺派の僧。号は法界坊(ほうかいぼう)。近江国鳥居本村(現・滋賀県彦根市)の上品寺の住職の子として生まれ、同寺で修行し父の没後、江戸で暮らしたのち諸国を遍歴し故郷の上品寺...(続きをみる)
江戸時代後期の船頭。ロシアに漂着し帰国した最初の日本人として知られ、その数奇な運命は小説や映画など多くの作品に取り上げられている。幼名は兵蔵。伊勢国南若松村(現・三重県鈴鹿市)にて代々船にかかわ...(続きをみる)
江戸時代中期から後期の医師、蘭学者。代々将軍家に仕えた奥医師・桂川家の4代目。「甫周」は通称で名は国瑞(くにあきら)、号は月池、公鑑、無碍庵など。父・桂川甫三は『解体新書』の翻訳で知られる杉田玄...(続きをみる)
1752年0月0日
江戸時代の六大浮世絵師のひとり。「江戸のヴィーナス」と評される八頭身の美人画が代表作として有名。(続きをみる)
1753年0月0日
江戸時代の中期に活躍した浮世絵師。美人画の名手として世界的に名高い。姓は北川、後に喜多川。幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)と改める。名は信美。初めの号は豊章といい、歌麻呂、哥麿とも号す。歌...(続きをみる)
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江戸時代前期の武士。「赤穂事件」で知られる吉良上野介義央の家臣で、赤穂浪士四十七士による吉良邸討ち入りの際、もっとも活躍した剣客といわれる。父は米沢藩上杉家の家臣。新八は吉良上野介の孫ながら養子...(続きをみる)
1754年0月0日
江戸時代中期に活躍した絵師。円山応挙の高弟。姓は長沢もしくは長澤、名は政勝、通称は主計、号はほかに「千絹」「千洲漁者」など。その生涯については資料が少なく、応挙の弟子になった時期についても諸説あ...(続きをみる)
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江戸時代後期の旅行者、博物学者、随筆家。本名は白井秀雄、幼名は英二、知之。白超とも。三河国渥美郡牟呂村(現・愛知県豊橋市牟呂公文町)にて生まれたといわれる。若い頃の真澄については資料に乏しく詳細...(続きをみる)
1755年0月0日
江戸時代後期に活躍した歌舞伎狂言の作者。代表作に『東海道四谷怪談』『天竺徳兵衛韓噺』など。なお、「鶴屋南北」は歌舞伎役者および作者の名跡で、その名を襲名した人物は5人いるが、4代目の業績が特に優...(続きをみる)
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江戸時代後期の経世家、儒学者、思想家。通称は儀平または弘助、字は萬和、号はほかに皐鶴(こうかく)。丹後国宮津藩青山家の家老・角田市左衛門の子として江戸で生まれた。父親も「青渓」の号を持つ経世家・...(続きをみる)
1757年0月0日
江戸時代中期から後期の人物で、日本で初めて空を飛んだとされる。鳥人幸吉、表具師幸吉、表具屋幸吉、備考斎などとも呼ばれる。備前国児島郡八浜(現・岡山県玉野市八浜)で生まれ、幼い時に父を亡くし岡山の...(続きをみる)
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江戸時代中期の園芸家。名は政武(まさたけ)。伊藤家は伊勢国津藩の藤堂家出入りの農民で代々植木の世話をし、「伊藤伊兵衛」を名乗った。政武の父・三之丞が染井(現・東京都豊島区)で植木屋を営むようにな...(続きをみる)
1758年0月0日
江戸時代中期から後期に活躍した大相撲力士で第5代横綱。本名は川村喜三郎。身長176cm、体重135kg。幕内通算成績は144勝13敗4分10預3無40休で勝率9割1分7厘を誇る。近江国京町(現・...(続きをみる)
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江戸時代後期の蘭学者、蘭方医。幼名は龍介、名は箭、字は白羽、号は原昆堂、白髪書生。江戸時代を代表する蘭学者・大槻玄沢の弟子で、橋本宗吉、宇田川玄真、山村才助とともに「芝蘭堂の四天王」と呼ばれた。...(続きをみる)
1759年0月0日
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江戸時代後期の南画家。名は就(じゅ)、字は仲孚(ちゅうふ)、通称は文平、号はほかに魯堂、六石(りくせき)、磊落居士など。一般に知られる号の「雲泉」は雲仙岳にちなんだもの。肥前国島原野田名(現・長...(続きをみる)
1760年0月0日
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江戸時代中期から後期の蘭学者。本姓は中野氏、通称は忠次郎、名ははじめ盈長のち忠雄、字は季飛、号は柳圃。長崎にて生まれ、オランダ通詞・志筑家の養子となり稽古通詞(通訳見習い)となったがのちに病気を...(続きをみる)
1763年0月0日
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江戸時代後期の蘭方医、蘭学者。初名は直政のち鄭、字は伯敏、号は曇斎。出身は摂津国という説もある。江戸時代を代表する蘭学者・大槻玄沢の弟子で、稲村三伯、宇田川玄真、山村才助とともに「芝蘭堂の四天王...(続きをみる)
1764年0月0日
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江戸時代中期の伊奈家最後の関東郡代。通称は半十郎、半左衛門。官位は摂津守、右近将監。父は備中国松山藩主・板倉勝澄だが、跡継ぎのいなかった伊奈忠敬の婿養子となり関東郡代の職も継いだ。代々関東の天領...(続きをみる)
1765年0月0日
江戸時代後期に活躍した戯作者、浮世絵師。弥次さん喜多さんコンビでおなじみの滑稽本『東海道中膝栗毛』の作者として広く知られる。本名は重田貞一、通称は与七、別号に十偏斎や酔斎など。武士の子といわれる...(続きをみる)
- 十返舎一九の名言
- 『此世をば どりやおいとまに せん香と ともにつひには 灰左様なら』
1766年0月0日
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江戸時代後期の旗本、本草学者。幼名は釜次郎のち孫左衛門、名は吉恵(よしとき)、号はほかに翫珂亭(がんがてい)。現在の東京都新宿区砂土原町で旗本・武蔵十郎右衛門義陳(よしのぶ)の子として生まれた。...(続きをみる)
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江戸時代中期の農民。百姓一揆「伝馬騒動」のリーダーで後世“義民”とされた。通称は関村兵内。武蔵国児玉郡関村(現・埼玉県児玉郡美里町)の農民の子として生まれ、学問を地元の住職に学び、村のリーダー的...(続きをみる)
1767年0月0日
江戸時代後期に活躍した超人的大相撲力士。現役生活21年のなかで黒星はわずか10、勝率9割6分2厘という驚異的な記録を残し、「大相撲史上最強の力士」と称される。身長は197cm、体重172kgと破...(続きをみる)
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江戸時代後期の絵師、京焼の陶工。永楽保全、仁阿弥道八(にんなみどうはち)とともに「京焼の幕末三名人」といわれる。幼名は八十八(やそはち)、字は佐平、通称は木屋佐兵衛。号はほかに青来、百六散人、古...(続きをみる)
1770年0月0日
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江戸時代後期の蘭学者、地理学者。名は昌永、字は子明、号は夢遊道人。江戸時代を代表する蘭学者・大槻玄沢の弟子で、宇田川玄真、稲村三伯、橋本宗吉とともに「芝蘭堂の四天王」と呼ばれた。幼い頃から地理に...(続きをみる)
1772年0月0日
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江戸時代後期の僧、妙楽寺13代住持。尾張国犬山藩の藩士・石田徳右衛門の子として尾張国丹羽郡(現・愛知県犬山市)にて生まれる。幼くして出家し、35歳で知多の妙楽寺の住職となった。1809年5月1日...(続きをみる)
1775年0月0日
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江戸時代後期の国学者、会津藩士。名は成祐、通称は新右衛門、号は五架(家)園、木隠翁など。会津藩士の家に生まれ、安部井武に師事し国学を学んだ。和漢の学に精通し、藩校「日新館」の和学師範となり藩士の...(続きをみる)
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江戸時代後期の剣客。「野太刀自顕流(薬丸自顕流)」の創始者として知られる。通称ははじめ七郎兵衛ついで新蔵、長左衛門。諱は兼尭、兼武。薩摩藩士・久保之英の子として生まれるが、剣術家・薬丸兼富の養子...(続きをみる)
1776年0月0日
江戸時代後期の作家、浮世絵師。古本屋や薬屋も営んだ。代表作である滑稽本『浮世風呂』『浮世床』などで知られる。本名は菊池泰輔、通称は西宮太助、戯号は四季山人、本町庵、遊戯堂、洒落斎など多数。父は江...(続きをみる)
1777年0月0日
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江戸時代後期の狂歌師、浮世絵師。姓は村田、名は市兵衛、号はほかに宗園、夕顔亭など。新吉原の伎楼「大文字屋」の養子となり、楼主となった。多芸多才の人物で、天明期(1781~89)に流行していた狂歌...(続きをみる)
1779年0月0日
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江戸時代後期の蘭学者、蘭方医。名は成徳、字は直心、号はほかに齣谷、蘭馨。「長淑」の読みは「ちょうしゅく」のほかに「ちょうけい」「ながよし」とも。幕臣・馬場兵右衛門の子として江戸に生まれ、のち母方...(続きをみる)
1780年0月0日
江戸時代後期に活躍した探険家、幕府の隠密。蝦夷地方を探検し、樺太(サハリン)が島であることを確認した。名は倫宗(ともむね)。常陸国筑波郡上平柳村の農家の子として生まれる。幕府による利根川東遷事業...(続きをみる)
1783年0月0日
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江戸時代中期の武士、出雲国松江藩の家老。名は茂保(しげやす)。6代藩主・松平宗衍(むねのぶ)と7代藩主・松平不昧(治郷)の2代に仕え、不昧の代の時には藩政改革の中心人物として改革に尽力、破綻して...(続きをみる)
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江戸時代後期の蘭方医、蘭学者。名は環(たまき)、耕助、融(とおる)、字は環中、号はほかに思々斎(ししさい)。儒医・上田河陽の子として生まれ、中家の養子となった。22歳の時に江戸に出ると大槻玄沢の...(続きをみる)
1787年0月0日
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江戸時代後期の天才棋士。“強力無双”と呼ばれる激しい力碁をし、本因坊道策の「前聖」に対し「後聖」と呼ばれた。もとの姓は戸谷のち葛野(かどの)、幼名は松之助。生地については伊豆説のほか信濃、江戸な...(続きをみる)
1789年0月0日
江戸時代後期の武士。本名は下斗米将真(しもとまいまさざね)、通称は秀之進。弘前藩主暗殺未遂事件「檜山騒動」の首謀者として知られる。一般に知られる「相馬大作」は変名である。盛岡藩領の福岡(現・岩手...(続きをみる)
1790年0月0日
1793年0月0日
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江戸時代後期の石工。種山石工(熊本藩八代郡に居住する石工の技術集団)の中心的存在として、肥後と薩摩に50を超える石橋を架けた。もと熊本藩士で石工の宇七を父に持ち、三五郎も自然と石橋をつくる技術を...(続きをみる)
1796年0月0日
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江戸時代後期の絵師、「江戸琳派」の創始者・酒井抱一の高弟で、事実上の後継者。本姓は山本、通称は為三郎、字は子淵、諱は元長、号はほかに薈々、菁々、必庵、錫雲、祝琳、為三堂、鶯巣、元阿など。江戸は中...(続きをみる)
1797年0月0日
江戸時代末期に活躍した浮世絵師。本姓は安藤、幼名は徳太郎。江戸の八代州河岸の定火消・安藤家に生まれ、父の隠居を受け13歳の時に家督を継いだ。しかし、15歳の時、浮世絵師の歌川豊広に入門、27歳の...(続きをみる)
- 歌川広重の名言
- 『東路(あづまぢ)に 筆をのこして 旅の空 西のみくにの 名所を見む』
江戸時代後期の大盗賊。本名は次郎吉。一般に「鼠小僧次郎吉」として知られる。歌舞伎小屋の中村座の便利屋を営む貞次郎の息子として元吉原にて生まれる。長じて鳶人足となったが、やがて賭博の金欲しさに盗人...(続きをみる)
1798年0月0日
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江戸時代末期の船大工。蝦夷地・松前城下の福山(現・北海道松前郡)に生まれ、2歳の時に船大工・続五郎治の養子となり、その後、箱館に移住した。造船技術を船大工・藤山勘八に学び、18歳で高田屋造船場で...(続きをみる)
1801年0月0日
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江戸時代後期の発明家。「中村屋弁吉」とも。号はほかに「一東」「鶴寿軒」など。京にて羽細工師の子として生まれ、20歳の頃に長崎へ行き、オランダ人から医学、天文学、航海術、西洋科学、絵画、彫刻などを...(続きをみる)
1807年0月0日
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江戸時代中期から後期の地理学者、紀行家。本姓は橘、名は正辰、字は子曜、通称は平治兵衛、別号に竹亭、黄薇主人。備中国下道郡新本村(現・岡山県総社市新本)にて生まれ、幼くして母と死別した。若い頃につ...(続きをみる)
1810年0月0日
江戸時代後期の侠客。本名は長岡忠次郎。「国定」は生まれ故郷の上野国佐位郡国定村(現・群馬県伊勢崎市国定町)に由来する。天保の大飢饉(1833~)の際、困窮する農民を救済した侠客として、のち講談や...(続きをみる)
1816年0月0日
江戸時代末期の天才棋士。「棋聖」「実力十三段」といわれ、“史上最強の棋士”に宗歩をあげる人も多く、羽生義治も最強の棋士として宗歩の名をあげた。幼名は留次郎。江戸の本郷菊坂(現・東京都文京区)にて...(続きをみる)
1817年0月0日
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1822年0月0日
江戸時代後期の武士。本名は下斗米将真(しもとまいまさざね)、通称は秀之進。弘前藩主暗殺未遂事件「檜山騒動」の首謀者として知られる。一般に知られる「相馬大作」は変名である。盛岡藩領の福岡(現・岩手...(続きをみる)
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江戸時代末期から明治にかけての漂泊の俳人。本名は一説に井上克三(かつぞう)、通称は勝之進、別号に柳の家井月。越後国長岡(現・新潟県長岡市)で生まれたとされるが出自については不明点が多い。18歳頃...(続きをみる)
- 井上井月の名言
- 『目出度さも 人任せなり 旅の春』
1847年0月0日
江戸時代中期から後期の人物で、日本で初めて空を飛んだとされる。鳥人幸吉、表具師幸吉、表具屋幸吉、備考斎などとも呼ばれる。備前国児島郡八浜(現・岡山県玉野市八浜)で生まれ、幼い時に父を亡くし岡山の...(続きをみる)
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江戸時代後期の天才棋士。“強力無双”と呼ばれる激しい力碁をし、本因坊道策の「前聖」に対し「後聖」と呼ばれた。もとの姓は戸谷のち葛野(かどの)、幼名は松之助。生地については伊豆説のほか信濃、江戸な...(続きをみる)
1851年0月0日
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江戸時代後期の石工。種山石工(熊本藩八代郡に居住する石工の技術集団)の中心的存在として、肥後と薩摩に50を超える石橋を架けた。もと熊本藩士で石工の宇七を父に持ち、三五郎も自然と石橋をつくる技術を...(続きをみる)
1870年0月0日
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江戸時代後期の発明家。「中村屋弁吉」とも。号はほかに「一東」「鶴寿軒」など。京にて羽細工師の子として生まれ、20歳の頃に長崎へ行き、オランダ人から医学、天文学、航海術、西洋科学、絵画、彫刻などを...(続きをみる)
1880年0月0日
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江戸時代末期の船大工。蝦夷地・松前城下の福山(現・北海道松前郡)に生まれ、2歳の時に船大工・続五郎治の養子となり、その後、箱館に移住した。造船技術を船大工・藤山勘八に学び、18歳で高田屋造船場で...(続きをみる)
1884年0月0日
江戸時代末期の将軍侍講、奥儒者、文学者、ジャーナリスト。幼名は甲子麿(こしまろ)。武蔵国浅草御厩河岸(現・東京都台東区蔵前)の松本家に生まれ、のち、代々奥儒者を務める成島家の養子となり、養父の跡...(続きをみる)
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