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「台風」という呼び方は昭和から
わたしたちが何気なく使っている「台風」という呼び方。じつは「台風」という名称や表記が定まったのは、昭和も31年(1956年)のこと。意外と新しい呼び方です。
では、それ以前はどのように呼んでいたかというと、古くは「野分(のわけ・のわき)」といい、平安時代の名作エッセイ『枕草子』にもその名が登場します。ただし、「野分」は暴風のことで厳密には台風ではないそう。幕末・明治になると「大風(おおかぜ)」などと呼ばれたようです。
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「元寇の神風」も台風
日本の歴史における有名な台風といえば、まず挙げられるのが「元寇の神風」。鎌倉時代に日本に襲来した元の大船団を吹き飛ばしたあの「神風」のことです。
ちなみに、元の大船団はたまたま台風に襲われたわけではなく、戦いが長期化したため2カ月以上も海上に留まっていたため台風に遭ったそう。まぁそれでも当時は台風予想なんてないわけですから、幕府軍からすればやはり「神風」だったのでしょう。
九州に甚大な被害をもたらした「シーボルト台風」
江戸時代、日本に大きな被害をもたらした2つの台風がありました。
そのひとつが文政11年8月9日(1828年9月17日)に九州・中国地方を襲ったいわゆる「シーボルト台風」です(「子年の大風」とも)。
シーボルトといえば教科書でもおなじみのドイツ人学者。
シーボルトは台風が襲来した時ちょうど長崎の出島におり、952hPaの最低気圧を観測したんだとか。しかもその直後にシーボルトがいたオランダ屋敷が倒壊したらしい。シーボルト、危機一髪だったんですね。
最大風速50〜55m/sとも推定されるシーボルト台風は、長崎に上陸したあと佐賀など九州北部を縦断し、山口に再上陸したという。特に佐賀藩の被害は深刻で、1万人を超える死者、4万軒近くもの家屋が全倒壊したというからすさまじい。また、有明海では4mもの高潮が発生し、広範囲にわたる水没被害をもたらしたんだとか。
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幕末の江戸を襲った巨大台風
安政3年8月25日(1856年9月23日)から翌26日(24日)にかけ、シーボルト台風を上回る巨大台風が幕末の江戸を襲いました。
いわゆる「安政の台風」です。
じつはこの前年、江戸の町は巨大地震に見舞われていました。
「安政江戸地震」と呼ばれるこの地震はM7クラスの直下型地震で、多くの家屋が倒壊、炎上し、4000人以上もの死者を出しました。江戸城にも被害が及び、当時の将軍・家定も一時避難したといいます。また、水戸藩の学者で徳川斉昭の腹心でもあった藤田東湖(とうこ)がこの地震で落命しています。
余談ですが、この巨大地震後に「鯰絵(なまずえ)」と呼ばれるユニークな風刺画が流行りました。地震を起こした大鯰を神さまがやっつけたり、鯰が反省したり、復興でもうかる大工たちを揶揄したりそのバリエーションはさまざま。地震で不安になる人々のうさばらしでもあったのかもしれません。
巨大地震が残した爪痕が消え切らないままに、今度は巨大台風に江戸の街が襲われたわけです。
安政3年8月25日(1856年9月23日)。
夕方頃から降り始めた雨はしだいに勢いを増し、夜になると猛烈な雨と風になったそう。江戸湾では高潮が発生し、深川や本所は水に浸かり海のような景色に……。高潮で多くの人や家屋が流される一方、倒壊した家屋から出火した火災により命を落とす人も多かったとか。とにかく地獄絵図です。
普段は多くの人々が行き交う永代橋や新大橋なども崩壊したというから異常な台風だったことが想像されます。
その被害については死者1,000人とも10万人ともいわれ定かではありませんが、『安政風聞集』の記録によると前年の大地震の10倍もの被害があったのだとか。
木造建築が密集した江戸の街ではなかなか台風対策も難しく巨大台風に弱かったであろうことは想像に難くありません。しかも、市中に多くの水路が行き交い、埋め立て地でもある江戸。氾濫した水路と高潮で街は水没してしまったわけです。
現代では台風がやってくる前にテレビなどで再三注意喚起がされますが、台風予想(予報)もなかった江戸時代、被害は現代の比ではなかったと思います。
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