江戸時代の火消しは破壊が仕事!? 現代の消防士と違いすぎるその実態とは?

  • 更新日:2019年10月12日
  • 公開日:2016年2月24日

「め組」で有名な江戸時代の火消し。その火消し方法や使った道具、衣装などはどれも興味ぶかいものばかり。火事が多かった江戸時代における消化の歴史を振り返ります。

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3年に1度は大火災!?火事が多かった江戸の町


俗に「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるように、江戸の町はしょっちゅう火事が起きていました。

『安愚楽鍋(あぐらなべ)』(仮名垣魯文 著)
(『目黒行人阪火事絵巻』部分)
江戸三大大火事」のひとつ、1772年(明和9)に発生した「明和の大火(目黒行人坂大火とも)」のようす。死亡者数は1万4000人を超えたといわれます。

18世紀初頭には人口が100万人を超えた大都市・江戸。木造家屋がぎゅうぎゅうにひしめきあう江戸にあって、火事は頻繁に起こっていました。

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江戸を火事から守れ!徐々に強化される消防組織


江戸を火事から守れ!

この難題に立ち向かう消防組織の第一号は1629年(寛永6)に誕生します。名を「奉書火消(ほうしょひけし)」。

幕府が大名十数家に火の番を命じたものなのですが、火災の時に臨時召集されるだけ、日頃から消防訓練をしていたわけではない、役割分担も不明確でした。第一号組織はうまく機能しなかったそうです…。

組織化でまごついている間に、1641年(寛永18)、「桶町火事」と呼ばれる大火が発生。当時の将軍みずからが陣頭に立って消防活動の指揮をとったといわれています。

将軍の名は、

徳川家光の肖像画

徳川家光。第3代将軍です。

家光の奮闘むなしく、桶町火事では大きな被害が出てしまいました。消防組織改革の必要性を痛感した家光は新たな組織を作ります。名を「大名火消」。

家光が大名16家を指名し、4組に編成を整え消防隊としました。消防活動の対象は主に江戸城や武家地で、火事が起きると火元に近い大名が自ら火消したちを率いて出動する、というようにルールも明確化。


しかし、これでもうまくいかない。


大名とは権威と名声をなにより重んじるので、火事の現場に向かうのに華美な装束で行進したり、偉い幕府の役人がくると火事そっちのけで挨拶に行ったりなどしてしまいます。

なかには、一体なにと張り合っているのか、火消しの最中にもかかわらず装束の着替えを行う大名が現れたりして、「大名火消」も消防組織としてはうまく機能しませんでした。

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ちなみに、大名の火消しとして有名なものに加賀藩前田家お抱えの火消し部隊、通称「加賀鳶(とび)」がいますが、こちらは前述の「大名火消」とはまた別で、あくまで加賀藩の自衛のための私設消防団。

『盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめかがとび)』「鳶ノ己之助 坂東家橘 鳶ノ石松 中村伝五郎」(三代歌川国貞)
(『盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめかがとび)』「鳶ノ己之助 坂東家橘 鳶ノ石松 中村伝五郎」三代歌川国貞)
“加賀百万石”のプライドにかけ、加賀鳶に選ばれたのはイケメンばかり。しかも、彼らは「雲にカミナリ」というかっこいいロゴ入り装束で目立ちまくっていたので、浮世絵などにもよく描かれ人気者になりました。

消防組織としてパッとしなかった大名火消と異なり、加賀鳶は見た目の華やかさに加え、働きぶりをすばらしかったそう。ただ、威勢がよすぎるあまりしょっちゅう喧嘩騒ぎを起こしていました。

話を江戸の火事にもどします。

またもや大規模な火災が江戸を襲います。“日本史上最悪の大火”といわれた1657年(明暦3)の「明暦の大火」です。この火事での死者は推定6万人、江戸の町も焼け野原と化しました。

『江戸火事図巻』部分
(『江戸火事図巻』部分)
じつは明暦の大火の7年前、幕府は新たな消化組織「定火消(じょうびけし)」をつくって、いつか来る大火事に備えていました。定火消は旗本2家を選抜、江戸城周辺の消防活動を専門とします。

大火後、幕府はさらに2家を増やし、旗本4家による強化版「定火消」を組織しました。その後、さらに強化して旗本10家からなる超強化版「定火消」(十人火消とも)を編成するなど、どんどんパワーアップしていきます。

また、これまでの反省から、「定火消」にはいくつかの改善がなされています。

たとえば、任命された旗本は江戸城周辺に家族とともに住める火消屋敷を与えられます。屋敷には火事を監視するための火の見櫓(ひのみやぐら)が設置され、火災を知らせる半鐘(はんしょう)や太鼓も備えられていました。そのため、火消屋敷は現在の消防署の原型といわれています。

『江戸火事図巻』部分
(『江戸乃華』部分 歌川広重 画)
右奥に描かれているのが火消屋敷。塔のような火の見櫓も見えます。火事が起きたのでしょう。定火消がまさに出動するところです。

また、火消屋敷には消火のプロも同居しており、いざ火事となればすぐさま出動しました。

消火のプロの名は「臥煙(がえん)」。100人からなる火消人足です。

『江戸火消絵巻』部分
(『江戸火消絵巻』部分)
これは臥煙の日常を描いたもの。

右上に寝ている臥煙たちがいます。枕にしているのはなんと1本の丸太。いざ火事となると、寝ずの当番が丸太を思いっきり叩き、文字通り臥煙たちを叩き起こしました

また、臥煙の基本衣装は年がら年中、法被(はっぴ)1枚に褌(ふんどし)一丁。これで燃え盛る炎に立ち向かうんですから、なんとも勇ましい。

当然といいますか、臥煙には荒くれ者が多く、火事の時には頼りになるが、平時には悪さをするヤツも結構いて人々に迷惑がられることも少なくなかったとか。


庶民を守るヒーロー、町火消の登場



時代とともに徐々に強化されていった消防組織ですが、100万都市・江戸を守るにはまだまだ不十分でした。

大名火消も定火消も武家主導の消防組織。表向きは町人地の消防も担当することになっていましたが、実際には江戸城周辺の武家地の消防活動には熱心で、町人地はおざなり

そこに大きくメスをいれ大改革をしたのがこの人。

徳川吉宗の肖像画

暴れん坊将軍・徳川吉宗です。

大改革の方針は、「町人による町人のための消防組織を設置せよ!」

この難題を受け、新たな消防組織づくりを実行したのは――

大岡越前の肖像画

“大岡越前”で知られる名奉行・大岡忠相(ただすけ)です。

ヒゲ抜いてる。

大岡忠相吉宗の命を受け、1720年(享保5)、町人地を火災から守る町人による民間消防組織「町火消」を組織しました。

時代劇でおなじみ「いろは48組」誕生です。

いろは48組(落合芳幾 画)
(落合芳幾 画)
こちらは、「いろは48組」を描いたもの。ちなみに、「いろは文字」のなかで「この文字は嫌だ」ということで「百」「千」「万」「本」にチェンジされた文字が4つあります。それはこれ。



  • へ=屁(力が抜けちゃうから?)

  • ら=摩羅(まら)(つまり男性器のこと)

  • ひ=火(火事に火は良くない)

  • ん=終わり(一巻の終わりでは困る)




江戸っ子はなにごとにも縁起を担いだんですね。

その後、本所・深川16組も加わり、総勢およそ1万人の火消人足が消防活動の主役として江戸の火事と戦います

江戸時代中期以降の江戸の町人人口が50~56万人くらいだったと推定されているので、5人に1人は消防団員、ということになります。

めちゃくちゃ多い!でも、それくらいの人数がいないと江戸の火災に対応できなかったということなのでしょう。

ちなみに、町火消は町奉行の指揮下にあり、その構成は、町火消全体を統率する「頭取(とうどり)」を頂点に、いろは各組のリーダーである「組頭(頭)」、町火消のシンボルである纏(まとい)を持つ「纏」、梯子(はしご)を持つ「梯子」、そして平の火消である「平人(ひらびと)」となっていました。

町火消は民間の消防組織のため、活動費用は町内で負担しました。さらに、町火消の火消人足はほとんどが鳶職を本業とし、火事の時のみ出動する兼業消防団員。なので、町火消は現在の消防団の前身ともいわれています。

『大工上棟之図』部分(三代歌川国貞 画)
(『大工上棟之図』部分 三代歌川国貞 画)
足場にいるのが、町火消の主力となった建築や土木の職人である鳶たち

町火消のお給料について。現在の消防団員は地域によって異なりますが、数万円程度の年額報酬+出動手当て(数千円程度)が支給されるそうです。江戸時代の町火消たちは、平の火消(平人)で月給450~800文、現代の金額で9,000~16,000円。お金だけみれば割に合わない…。

『鎮火安心図巻』部分
(『鎮火安心図巻』部分)
しかし、江戸の町を守る町火消は人々から尊敬を集める存在で、特に各組のリーダーである「組頭(頭)」は、与力、力士とともに「江戸の三男(さんおとこ)」ともいわれ庶民のヒーローとして大人気、女性にモテモテだったとか。

上の絵の、画面中央あたりにいる茶色い半纏を着たちょっと大きな男性が組頭です。平時における組頭は、町のもめごとの仲裁なども行う“顔役”であり、湯屋(銭湯)や芝居小屋にはタダで入れるなど余禄もいろいろあったそう。

実用重視の町火消の衣装、組のシンボル「纏(まとい)」



活動費用を町が負担していた町火消。火消人足が着る装束も町から支給され、3年に1度新調されるのが慣習でしたが、その費用もまた町が負担しました。では、どんな衣装だったのか見てみましょう。

町火消の服装(正面)
画像引用元:風俗博物館
渋くてカッコイイ。

頭にかぶっているのは「刺子頭巾(さしこずきん)」という分厚い頭巾。別名「猫頭巾」とも呼ばれています。煙を吸わないようガード機能付き。

着ているのは「刺子半纏(さしこばんてん)」。普通の半纏に比べると分厚くて丈も長め。手には手袋をしています。燃え盛る炎の中に飛び込むわけですから、火消たちの服にはたっぷり水を含ませ消防活動に臨みました

町火消の服装(背面)
画像引用元:風俗博物館
これは後姿。遠目にもはっきりわかるように大きく組のロゴが入っています。半纏の柄も組どとに異なり、半纏を見ればどこの組の所属かわかるようになっていました。

前述したように大名火消などは華美でゴージャスな火事装束を身にまとっていましたが、それに比べると町火消はよりシンプルで実用的な服装になりました。まあ、町が費用を負担するのにそんなぜいたくはできませんしね。

明治時代に撮影された町火消たち

これは明治時代に撮影された町火消たちです。左から3番目の人は頭巾をかぶっています。みんな粋な刺子半纏を着ていますな。服装は江戸時代からほとんど変わっていないようですね。

さてさて、町火消といえば欠かせないアイテムがこれ。

『東京一二伊達競』「市川左団治」(豊原国周 画)
(『東京一二伊達競』「市川左団治」豊原国周 画)
(まとい)。

纏は消火自体にはまったく関係ないのです。しかし、纏は組のシンボルであり、自分の組の持ち場を示す目印であり、組の仲間たちの団結の象徴でもあったので、重要なアイテムでした。

ちなみに、纏のルーツはこれ。

『関ヶ原合戦図屏風』部分
(『関ヶ原合戦図屏風』部分)
戦国時代において敵味方を区別する目印として武士が掲げていた、旗印や馬印(うまじるし)です。これが江戸時代になると火事現場で使う目印へ変化したのです。

町火消の生みの親ともいえる名奉行・大岡忠相が火消たちに纏を持たせたのは、士気高揚が目的だったとか。

当初は「纏幟(まといのぼり)」と呼ばれた幟(旗のようなもの)スタイルでしたが、時代とともに造詣は豪華になり、各組ごとに凝ったデザインのものが登場しました。

たとえばこちら。

一番組い組(『江戸の花子供遊び』「一番組い組」歌川芳虎 画)
(『江戸の花子供遊び』「一番組い組」歌川芳虎 画)
一番組い組

丸いのが「芥子(けし)」で四角いのは「枡」。「芥子」と「枡」……「けし」と「ます」……けします。

そう、「消します」。

なんとダジャレになっているんです。一説にこれを考えたのは大岡忠相とも。いつものようにヒゲを抜きながら考えたんでしょうか。

ほかには

二番組せ組(『江戸の花子供遊び』「二番組せ組」歌川芳虎 画)
(『江戸の花子供遊び』「二番組せ組」歌川芳虎 画)
二番組せ組

なんか、イカみたい。

ちなみに、纏は組のシンボルなので遠目にもどの組かわかるように組名、この絵なら「せ組」なので「せ」と大きく書かれていました。また、下のヒラヒラしたものは「馬簾(ばれん)」と呼ばれるもので、纏を振り回すと威勢よく踊るようになっていました。

そして、こちらの絵で目を引くのが見事な刺青(いれずみ)。町火消には刺青を入れている人が多かったそうです。なぜかというと、江戸っ子が大事にした「粋」という美学を見せるため、傷みに耐えたという勇気を誇るため、やる気をアップさせるため、などといわれています。肌の露出も多いので、見せ甲斐もあったのでしょう。

ユニークな纏をもう一丁。

二番組め組(『江戸の花子供遊び』「二番組せ組」歌川芳虎 画)
(『江戸の花子供遊び』「二番組め組」歌川芳虎 画)
二番組め組

なんとカゴになってます。まるで運動会の玉入れのアレみたいです。

最後にもうひとつ。

五番組ゑ組(『江戸の花子供遊び』「五番組ゑ組」歌川芳虎 画)
(『江戸の花子供遊び』「五番組ゑ組」歌川芳虎 画)
五番組ゑ組

すごく重たそう。木槌みたいなのがたくさんついてます。

組のシンボルである纏を持つ「纏持」は、“町火消の花形”ともいえるポジションで、誰でもなれるものではなく、選ばれし者だけができました。

なにせ、かなりの重量のある纏を持つだけでなく、真っ先に火事現場に駆けつけ、纏を持ったまま梯子に登り火事場の屋根にあがり、炎の中、纏を振りたて消火活動の目印となり、仲間の士気もあげなければならないのです。

そのため、腕力、体力、勇気が必要でした。組のシンボルを持っているわけですから、危険が迫ってもギリギリまで踏ん張らざるをえず、結果、命を落とす人も多かったそうです。

ちなみに、纏持の月給は2~3貫文、現代の金額にするとおよそ4~6万円ほど。お金の問題ではないとは思いますが、それにしても危険度に見合わない……。

火を消すのではなく、ぶっ壊す!? 現代とまったく違う江戸時代の消火活動



『鎮火安心図巻』部分
(『鎮火安心図巻』部分)
燃え盛る炎、乱立する纏、あちこちから噴出される水……まさに消火活動の真っ最中です。一見すると現代の消火活動と変わらないようですが、じつは、江戸時代の町火消の仕事は火を消すことがメインではありませんでした。ではなにかといいますと――

延焼を最小限に食い止めること

水が貴重だった江戸時代。火を消すための大量の水がありませんでした。さらに、現代のようなポンプ車やホース車もないのですから、消火は困難だったのです。では、どうやって延焼を食い止めたかというと――

周辺の建物を片っ端からぶっ壊す

これは「破壊消防」と呼ばれる方法です。

町火消たちは、火元の家屋は置いておいて、風下側の家屋を中心にとにかく猛スピードで周辺家屋を壊しまくり延焼を防ぎました。町火消の主力が鳶職だったのは、鳶が建築に携わる職人だったので「建物の壊し方」にも精通していたからです。

あと、身軽なところも鳶が重宝された理由です。江戸時代の木と紙でできた家屋は燃えやすい反面、壊しやすいという利点(?)もありました。

さて、破壊消防を行う町火消が使ったのはこんな道具でした。

鳶口(とびぐち、町火消が使った道具)
画像引用元:川越市蔵造り資料館
鳶口(とびぐち)という道具です。棒の先端についた鉄製のカギ部分を建物に打ち込んで使いました。

同じく建物を壊すのに使われたのが

刺又(さすまた、町火消が使った道具)
画像引用元:wikipedia
刺又(さすまた)(写真右)。

これで柱や梁(はり)を突いて壊しました。江戸時代、刺又は犯罪者を捕獲するための道具としても使われました。

ちなみに、江戸時代に消火活動に使用されたことから、現在、消防署の地図記号はこの刺又を図案化したものになっています。

消防署の地図記号は刺又を図案化している

こんなところに江戸時代の名残があったなんてビックリ。

お次は現在の消防ポンプの原型といわれるこれ。

龍吐水(りゅうどすい、町火消が使った放水ポンプ)

龍吐水(りゅうどすい)という放水ポンプです。

原始的なつくりなうえ水の補給もできなかったので水を消すほどのパワーはなく、主に纏持に水をかけて火の粉から守るために使われたそうです。

ちなみに、江戸の人々はどうやって火事を知ったかといいますと、江戸の町の各所に設置された火の見櫓にある半鐘(はんしょう)の音でした。

『名所江戸百景』「馬喰町初音の馬場」(歌川広重 画)
(『名所江戸百景』「馬喰町初音の馬場」歌川広重 画)
これは現在の中央区日本橋馬喰(ばくろう)町あたりを描いたものですが、中央にそびえ建つのが火の見櫓で、左側に半鐘がぶら下がっているのがわかります。

火元までの距離によって半鐘は鳴らし方が違いました。こんな感じ。



火元が遠い場合
「ジャーン……ジャーン……ジャーン」と間隔をあけて一打ずつ

火消しが出動した合図
「ジャーンジャーン……ジャーンジャーン……」と間隔をあけて2打ずつ

火元が近い場合
「ジャンジャンジャン……ジャンジャンジャン」と連打

火元がめちゃくちゃ近い場合
「ジャンジャンジャンジャンジャンジャン」と乱打

めでたく鎮火した場合
「ジャーン……ジャンジャーン……ジャーン……ジャンジャーン」と一打&二打を交互に




なるほど、わかりやすい。

しかし、いきなり夜中にジャンジャン鳴り出すこともあったでしょうから想像すると恐ろしいです。

派手な喧嘩は芝居にもなった!?気性の荒い火消したちは喧嘩が大好き?



前述したように火消しには気性の荒い者も多く、しかも、町火消は組ごとに異なる纏のもと結束していたので、自然、ほかの組や武家の火消したちと対立し、喧嘩に発展することもよくあり、火事場では手柄を争って「消口(けしくち)争い」と呼ばれる喧嘩もしょっちゅう起きたそう。

なかには火事そっちのけで喧嘩をする町火消もいたとか。幕府が火事場での喧嘩を禁止するお触れをたびたび出したといいますから、よほどです。

喧嘩相手は火消し同士とは限りませんでした。江戸っ子憧れのヒーロー同士によるド派手な喧嘩もありました。

それは、

町火消VS力士

め組の喧嘩(「め組」の鳶人足・辰五郎と長次郎たち)

1805年3月(文久2年2月)のある日、「め組」の鳶人足・辰五郎と長次郎、その知人である富士松が芝神明宮の境内で行われていた相撲見物にやってきました。

芝神明宮エリアは「め組」の管轄だったため、辰五郎と長次郎は役得でタダ見が許されていました。が、ただの知人である富士松はもちろん有料。

ところが辰五郎たちはタダ見させろとゴネたもんだから入り口でひと悶着。

そこに通りかかったのが力士・九竜山。

め組の喧嘩(力士・九竜山たち)

九竜山にいさめられ、辰五郎たちは一旦引き下がりましたが、その直後、運悪く芝居小屋で辰五郎たちと九竜山がバッタリ出会ってしまい、舞台を芝居小屋に移し第2ラウンドが開始。

最終的に九竜山は部屋から力士仲間を、辰五郎たちは半鐘まで鳴らして火消し仲間を動員し、力士VS町火消による大乱闘にまで発展しました。

このいわゆる「め組の喧嘩」は歌舞伎や講談などに取り上げられ、人々に語り継がれることになりました。

あの有名絵師はもともと火消しだった!?



最後に、世界的にもその名を知られる有名絵師の意外な出自についてご紹介。

こちらの浮世絵をご覧ください。

『名所江戸百景』「亀戸梅屋敷」(歌川広重 画)

ゴッホが模写したことでも有名な『名所江戸百景』「亀戸梅屋敷」という作品です。

描いたのはこの絵師

歌川広重の肖像画

歌川広重

先ほどの『名所江戸百景』のほか『東海道五十三次』など斬新な構図の風景画で一世を風靡し、江戸時代後期を代表する絵師となりました。

じつは、この広重、定火消同心の子であり、生まれたのも定火消の火消屋敷でした。早くに両親を亡くすと跡を継いで広重自身も定火消として火事場に出動しました。

しかし27歳の時、幼い頃から好きだった絵の道に専念するため子どもに家督を譲り隠居、画業に専念し、今に知られる大人気絵師となったのです。

『江戸乃華』(歌川広重 画)

これは歌川広重の作品のひとつ『江戸乃華』(部分)。

描かれているのは出動直前の「を組」の火消したち。火事の発生から鎮火までを克明に描いた『江戸乃華』は火消しだった広重ならではの作品で、江戸時代の火消しの実態を知るための貴重な資料にもなっています。

江戸時代の消防活動は今とはかなり異なりますが、現代につながっていることもたくさんありました。

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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?

銀ブラをする昭和の女性1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。『水鶏にだまされて』石川豊信 画(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。


江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?

パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。「アンネナプキン」発売の広告「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。