江戸っ子には2種類いた!?
「アニさん、粋だねぇ」と言いたくなるようないい男。ファッションも洒落てます。
「江戸っ子」という言葉が文献上初めて登場したのは、1771年(明和8)につくられた川柳「江戸っ子の わらんじをはく らんがしさ」だといわれています。
これ以前、江戸住民を指す言葉として「東男(あずまおとこ)」「江戸もの」なんてものがありました。一般に「江戸っ子」というと「長屋に住む庶民」をイメージしますが、じつは「江戸っ子」には2種類のまったく異なるタイプがいたのです。
それは……
●“本格の”江戸っ子
●“自称”江戸っ子
です。それぞれの違いと定義を見ていきましょう。
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江戸生まれのプライド高し!“本格の”江戸っ子
まず、“本格の”江戸っ子から。どういった人物がこれにあたるのかその定義は次のようなもの。
- 江戸城を居城とする将軍さまのお膝元(江戸の中心部)で生まれる
- 水道の水を産湯に使う
- 乳母日傘(おんばひがさ)で育った富裕層
- 宵越しの金を持たず金離れがよい。が、決して下品な使い方ではない
- 「いき」と「はり」とに男を磨く
「江戸っ子」といえば、長屋の庶民とか弥次さん喜多さんとかのイメージが強いですが、本格派はむしろ高級町人・セレブ層です。
ちなみに「いき」とは、心も身なりもさっぱりと洗練されていること。「はり」とは、自分の意志を通す強い気持ちのことです。
江戸時代の豪商・紀伊國屋文左衛門。彼は江戸生まれではないので「江戸っ子」ではありませんが、「金離れのよい高級町人」のイメージとして。あしからず。
こうした「江戸っ子」の意識が江戸時代中期の18世紀半ば以降にできあがった背景には、新興都市として発展した江戸の町の特異性があります。
江戸は神君・徳川家康が1603年(慶長8)に幕府を開いて首都となった新しい町です。町の発展にともない地方から江戸に入ってくる人が増えました。
また、越後屋など大店(おおだな)が支店を江戸で開くようになりましたが、奉公人などは上方など本店から呼び寄せました。さらに参勤交代でやってくる武士も加わり、江戸の町には地方の人々がたくさんいました。これは現代の東京と似てますね。
これは三井高利が開業した越後屋呉服店。現在の三越です。日本橋に大きな店を構え大繁盛しました。店内で働く従業員は本店のある伊勢国からやってきた人々です。
さらに、江戸時代中期以前はまだ江戸文化も成熟しておらず、京や大坂など上方が文化の中心地であり江戸でも上方から送られてくる物品が「下りもの(くだりもの)」として重宝されました。それが江戸時代も中期以降になると江戸でも独自の文化が成熟し、上方に負けないものを生み出せるようになってきました。
方言や生活習慣で地方色を色濃く残す江戸住まいの地方出身者や上方文化に対抗するプライドや「江戸生まれ」としての確固たる美意識が芽生えた結果、「自分は “江戸っ子”である」という意識が生まれたのでしょう。
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