まずは深川江戸資料館の基本情報。
場所は、都営大江戸線もしくは半蔵門線の「清澄白河」駅から徒歩3分。なんというアクセスのよさ。料金は大人400円、小・中学生50円と超リーズナブル。
ちなみに資料館のそばにある霊巌寺には、11代将軍・徳川家斉の時代に「江戸三大改革」のひとつ「寛政の改革」を牽引した堅物マジメ老中・松平定信のお墓があります。
深川江戸資料館のあるエリアは「白河」という地名なのですが、これは松平定信が白河藩主だったことに由来するらしい。
それではこだわりすぎる深川江戸資料館を紹介します!
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深川江戸資料館のこだわり その1。江戸時代の下町を丸ごと再現!やたら細かすぎる設定も
いきなり度肝を抜かれるのは、資料館内部に江戸時代の下町を丸ごと再現していること。
実際に江戸時代にあった深川佐賀町という隅田川沿いの町がモデル。時代的には江戸時代後期で、老中・水野忠邦が「天保の改革」を行ったり、緒方洪庵が大坂で適塾を開いたり、隣国ではアヘン戦争が勃発していたり、と幕末の動乱期に足を突っ込みかけている頃です。“奇想の絵師”歌川国芳が活躍したり、葛飾北斎も80歳を超えながらなお凄みをみせてる。そんな時代の町並み。
まず、一歩入って目に飛び込むのが、この町一番の大店・多田屋。
この時は、お正月が近かったこともあり店先に大きな門松が。江戸時代の門松は現代のとずいぶん違う。
多田屋さんは、当時の畑の肥料である干鰯(ほしか)魚や〆粕(しめかす)を扱う大商店。深川といえば隅田川河口という場所柄、現在の銚子や九十九里で獲れたイワシを加工した肥料の集積地だったわけで、これにもとづきしっかり再現。
また、多田屋さんは魚油(ぎょゆ)も扱っています。余談ですが、魚油は当時の照明器具である行灯(あんどん)などに燃料として使われていました。ロウソクは当時高級品だし菜種油もまだ高い。で、お魚の油が照明の燃料として庶民に使われたんですが、当然ながら魚臭かったそう。
多田屋さんのある表通り(メインストリート)には、ほかに八百屋さんもあります。
この八百屋さんの店名は「八百新」。
主人は30歳で、5歳上の姉さん女房がおり、10歳になるひとり息子がいる、という恐ろしく細かい設定。深川江戸資料館では江戸時代をよりリアルに感じてもらえるよう、いたるところでやたら細かい設定がされているのです。
当時、こんな風に表通りにお店を構える八百屋さんは珍しかったそう。なにせ表通りにある店(表店/おもてだな)は家賃も高い。なので、野菜を売るのは裏長屋に住む棒手振りが多かった。
これは明治時代に撮影された古写真ですが、野菜の棒手振りです。こんな風にいろんな野菜を天秤棒で担いで売り歩きました。このタイプが多かったんですが、八百新の主人は表通りに店を構えがんばったそうです。
店先には大根やねぎ、ごぼう、人参、小松菜などの新鮮野菜のほか、鶏卵も並んでいました。なお、鶏卵は今とは比べものにならないくらい高価だったので、めったなことでは庶民の口に入りませんでした。
八百新のお隣にあるのは米屋「上総屋」。注文に応じて玄米を精米して売るお店だそう。
この上総屋は裏通りにある裏長屋の大家でもあるという設定。
表通りにある八百屋の「八百新」と米屋兼長屋大家の「上総屋」の間には木戸があり、ここをくぐると裏長屋ゾーンとなります。
これが長屋木戸。門のような形をしており、上部には裏長屋の住人の商売が書いてあります。また画像左には「暮れ6つ(日没)に門を閉めるよ」というようなことが書いてあります。
長屋の木戸は不審者を入れないための自衛手段でもあったため、万一、門限に遅れて締め出されてしまった場合には大家さんに直接頼んで開けてもらったんだとか(ガイドさん談)。
木戸をくぐるとそこは裏長屋。当時、この狭い土地にたくさんの人々が身を寄せ合って暮らしていたわけですが、深川江戸資料館の凄さは、この裏長屋に住む住人についてもひとりひとり細かく設定しているところ。見ていきましょう。
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