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江戸時代後期に描かれた裕福な家庭での華やかなひな祭りのようす。4段飾りのゴージャスなひな飾りを前に子どもたちも大はしゃぎ(『風流古今十二月ノ内 弥生』歌川国貞 画)
穢れ祓いの儀式+人形遊び=ひな祭り!?
「あかりをつけましょぼんぼりに〜♪」の童謡でもおなじみ、毎年3月3日に行われる女の子のお祭り「ひな祭り」。ひな人形を飾り、ひし餅やひなあられをお供えし、ちらし寿司やハマグリのお吸い物でお祝いするご家庭も多いと思います。
英語にすると“The Doll’s Festival”とか“The Girls’ Festival”で、最近では海外の人にも受けがいい、このお祭り。
江戸時代にもひな祭りは3月3日に行われていたのですが、当時は旧暦であり、現代のカレンダーにすると3月下旬から4月初旬頃にあたります。正確な日付は毎年変わるのですが、2017年の場合は3月30日が旧暦の3月3日ひな祭りです。
ひな祭りのことを「桃の節句」とも呼びますが、これは旧暦の3月3日頃がちょうど桃の開花時期だったから。現代のひな祭りではちょっと桃の季節には本当は早すぎるんですね。
また、古来、桃には邪気を払う力があるといわれ縁起がよいとされてきました。

画像右、子どもが桃の枝を持っています。ひな飾りに桃の花は欠かせないのは今も昔も同じ(『子宝五節句遊 雛遊』鳥居清長 画)
まずは、ひな祭りとは何か?その由来についてのお話を。
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時はさかのぼって奈良時代。
古代中国で3月最初の巳(み)の日「上巳(じょうし)」に行われていた川などの水辺で穢れを祓う行事が日本に伝わります。盃を水に流し詩歌を詠み合うなどをする宴を催したそう。この風流な穢れ祓いの儀式「曲水の宴」は、平安時代に宮中の公式行事となりました。

京都にある城南宮では毎年4月29日に「曲水の宴」が行われています。画像引用元:Wikiwikiyarou
一方、日本には大昔から「人形(ひとがた)」(「形代(かたしろ)」とも)に身の穢れや災厄を託して祓うという信仰がありました。
3月の上巳の日、平安貴族たちも紙や草木でつくった人形で体をなでて自身の穢れや災厄を託し、その人形を川や海に流すことで厄を祓い、無病息災を祈ったそう。『源氏物語』の主人公・光源氏も須磨の海岸で人形を流しています。この風習は姿を変えつつ「流し雛」として現在でも全国各地で行われています。
また、平安貴族のセレブな子どもたちの間では「ひいな遊び」という遊びがありました。どんなものかというと、紙でできた人形(にんぎょう)を使ったおままごとです。
やがて、3月の上巳に行われていた穢れ祓いの行事や「ひいな遊び」が融合し、3月3日にひな人形を飾る「ひな祭り」が誕生したのです。オメデトー!
ちなみに「ひな祭り」と呼ばれるようになったのは江戸時代中期頃といわれ、それ以前は「ひいな遊び」から変化した「ひな遊び」と呼ばれていたんだとか。

明治時代もしくは大正時代頃に撮影されたひな祭りのようす。女の子たちが晴れ着に身を包んでいます。今ではひな祭りに着物を着る子はなかなかいませんね。画像引用元:長崎大学附属図書館
江戸時代に「ひな祭り」=「女の子の節句」が定着
江戸時代、徳川幕府は「五節句」という5つの祝日を公式設定しました。
- 1月7日 「人日の節句」
- 3月3日 「上巳の節句」
- 5月5日 「端午の節句」
- 7月7日 「七夕の節句」
- 9月9日 「重陽の節句」
現代ではわりとスルーされがちな七夕ですが、江戸時代には祝日だったんですね。
余談ですが、この「五節句」は明治新政府によって廃止されてしまいました……。でも季節の行事として今でも息づいています。
今では「ひな祭りといえば、女の子の節句」というのが常識ですが、もともとは「上巳の節句」つまり「ひな祭り」に男女の区別はなかったんだそう。
がしかし!
幕府が「端午の節句は勇ましい感じがするから男の子の節句ね」と決めたので、雅な雰囲気のある「上巳の節句(ひな祭り)」が女の子の節句となったらしい。なんという意外な事実。

みんなで楽しくひな祭りの準備中。赤ちゃんも人形を触りたいのか一生懸命に手を伸ばしています(『雛祭図』歌川豊清 画)
宮中から武家、さらに庶民へと広まるひな祭り
江戸時代初期の1629年(寛永6年)3月3日、ひな祭りイベントが広まる最初のきっかけとなったできごとが起きます。
二代将軍・徳川秀忠の娘、和子(まさこ)と後水尾天皇との間にできた興子(おきこ)内親王の7歳のお祝いに京都御所で盛大な人形遊びパーティが開催されたのです。これは記録に残る最古のひな祭りともいわれてます。
この興子内親王、盛大にひな祭りが行われた翌年になんと天皇に即位します。奈良時代以降、長らく絶えていた女帝となった明正(めいしょう)天皇こそ彼女なのです。

天皇といえど実権はなく、在位期間もわずか14年だった明正天皇。幕府と朝廷との政争の間で翻弄されました
盛大にひな祭りが行われた直後に天皇になるという大出世をしたことから、「ひな祭りってめちゃくちゃ縁起いいんじゃないの?」というイメージが武家の間で広まり、明正天皇の幸運にあやかろうと大名たちもひな祭りを行うようになったんだとか。
同じ頃、江戸城大奥でもひな祭りを行うようになり、三代将軍・家光の娘の7歳のお祝いの時には各地の大名たちが我も我もとひな人形を献上したそうな。大量のひな人形、はたして全部飾ったんでしょうか?
また、大名家ではひな人形は嫁入り道具のひとつにもなっていきました。
やがてひな祭りは武家から裕福な町人、そして庶民へと広まり、都市部だけでなく地方でもひな祭りが定着していったのです。
こんな川柳があります。
「かけこんで 雛をせつつく 八ツ下り」
寺子屋から帰ってきたのでしょうか。女の子が「うちも早くおひな様出してよぅ」とお母さんをせっついている情景が詠まれています。川柳からもひな祭りが女の子のお祭りとしてひな祭りがすっかり定着していたことが伺えます。
時代によって流行スタイルがあったひな人形いろいろ
「ひな人形」といってイメージするのはこんな感じじゃないでしょうか?

平安貴族のような華麗な着物に身を包んだ男雛と女雛。
現代ではひな人形もバラエティ豊かになりましたが、スタンダードはやっぱりこれ。
しかし、江戸時代初期のひな人形はだいぶ違うビジュアルをしていました。

画像引用元:遠山記念館
こちらは「立雛」と呼ばれる古式ゆかしいひな人形。
一説に室町時代に呪術道具としての「人形(ひとがた)」と「ひいな遊び」の人形(にんぎょう)が融合したかたちで誕生したものなんだとか。紙製(その後、布製も)の立雛は自立できないので、立てかけるなどして飾ったらしい。
ひな人形の原点ともいえる立雛は江戸時代を通してつくられました。
三代将軍・徳川家光が君臨した寛永年間(1624〜44年)頃、現在のような座ったタイプのひな人形も登場します。その名もズバリ「寛永雛」。
寛永雛の特徴
- 男女一対の内裏雛
- 髪の毛はなく黒く塗っただけ
- 女雛は両手を広げているものが多い
- 女雛の衣服が着物+袴(はかま)という古式スタイル
- サイズは10センチ前後と小さめ
この「寛永雛」が現在につながるひな人形の原型なんだそう。
続いてひな人形に変化が訪れるのは元禄時代(1668〜1704年)。“犬公方”でおなじみ五代将軍・徳川綱吉の治世で、絢爛豪華な「元禄文化」が花開いた時代であります。
そんな華やかな時代の空気を受けて、ひな人形もより豪華かつ精巧になります。

画像引用元:雛とべに花の里・河北町
これが「元禄雛」と呼ばれるもの。衣装がグッと豪華になりました。
元禄雛の特徴
- 人形の顔や衣装の生地に芸術性がプラス
- 女雛の衣装が十二単にバージョンアップ(冠はまだなし)
- 髪の毛はまだなく黒塗り
- サイズもひと回り大きめになる
江戸時代中期になるとひな祭りも庶民レベルにまで広まり、盛大に行われるようになりました。
八代将軍・徳川吉宗が活躍した享保年間(1716〜36年)に流行したのがこちらの「享保雛」。

享保雛の特徴
- さらに豪華に進化
- 女雛、ついに冠をかぶり、桧扇(ひおうぎ)を手に持つ
- 男雛、太刀をはき、笏(しゃく)を手に持つ
- 糸でできた髪の毛が生える
- サイズは急激に巨大化
ようやく髪の毛が生えました。
ひな人形の必須アイテムが登場し、かなり現代のひな人形に近づいてきましたね〜。
「享保雛」の注目ポイントはそのサイズ。
初めは20センチ前後だったのがだんだん大きくなって、最終的には50〜60センチを超える巨大ひな人形も出現したんだとか。江戸っ子よ、限度というものがあろうよ。
次第に豪華にそして巨大になっていくひな人形に「待った!」をかけたのは時の将軍・吉宗です。

「ひな人形、デカすぎだろ。」
吉宗は幕政改革「享保の改革」を行ったことでも知られるようにドケチもとい質素倹約の鬼でした。そんな吉宗がこんなぜいたくを見逃すわけがありません。
そこで吉宗が出したのは
「大雛禁止令」
「ひな人形は24センチ(8寸)以下にすること」とサイズを制限。24センチ以上のひな人形は製造も販売も禁止されました。これは細かい...。
しかし、制限がかかると職人魂は燃えるもの。
「芥子(けし)雛」という精巧なミニチュアひな人形が誕生するなど、ひな人形は精巧さと芸術性を高めていきました。
続いて“ワイロ政治家”の代名詞ともいえる江戸時代の大政治家・田沼意次が辣腕を振るった明和年間(1764〜72年)になるとさらに新たなタイプのひな人形が誕生します。
それがこの「古今(こきん)雛」です。

気品がハンパない。
さてその特徴はといいますと。
古今雛の特徴
- 江戸生まれのひな人形
- 目にガラス玉をはめ込むという新手法で、人形の表情が格段に豊かに
- 写実性と装飾性がグレードアップ
- 女雛の冠などがゴージャスに
つ、ついに眼球が!
これはさぞや革新的だったでしょうね。見た人もびっくりしたんじゃないでしょうか。多くの人がその美しさに魅了され、古今雛が大流行したというのもうなずけます。

女性が箱からひな人形を出しているところ。手には女雛用の豪華な冠を持っているので古今雛でしょう(『江戸名所百人美女』より「十軒店」三代歌川豊国 画)
そして現代へ続く……というのがひな人形の大まかな流れなのですが、江戸時代にはほかにもさまざまなタイプのひな人形がありました。ちょっとご紹介。

象牙のひな人形。
これは欲しい! とっても精巧でいつまで見ていても飽きなさそうです。どれほどのサイズがわかりませんが、たぶんかなり小さいものなんじゃないでしょうか。職人技の極み、という感じです。

土人形のおひな様。
これまたかわいらしい。素朴な感じがたまりません。サイズは15センチほどと小ぶりなのがまたキュート。こうした土人形タイプは、江戸だと今戸焼で有名な今戸でたくさんつくられました。現代のインテリアにもマッチしそうです。

丸顔のひな人形。
江戸時代のひな人形は基本的に面長なのですが、そこに一石を投じて大流行したのがこちらの「次郎左衛門雛」。
特徴は、まるで白玉団子のようなまん丸な顔。江戸時代中期に京の人形師・次郎左衛門さんが考案したもので、その愛くるしい丸顔は京だけでなく江戸でも大流行しました。
ひな人形を求める客が殺到! ひな人形バザーは大にぎわい
江戸時代中期頃、ひな祭りが庶民に広まり盛り上がりを見せるなか、毎年2月下旬になると京や大坂、江戸をはじめ各地でひな人形を売る「雛市」が立つようになりました。
江戸市中でもあちこちに雛市が立ったのですが、なかでも有名だったのが十軒店(じっけんだな)。現代の中央区日本橋室町あたりです。

こちらは江戸のガイドブック『江戸名所図会』に描かれた十軒店の雛市のようす。ひな人形を買い求める大勢の人でにぎわっています。
画像左奥に描かれているのは、ひな人形を扱う大型店舗。かなり立派なひな人形を売っているようです。ちょっと庶民は入りにくそう。
拡大してみてみましょう。

いいところのお嬢さんがお母さんとお供の人でしょうか、3人で熱心にひな人形を選んでいます。「お母さま、これ買って❤︎」みたいな感じかと。
大型店舗の手前の大通りにもひな飾りを売る仮設店舗らしきものが見えます。
いったいなにを売っているのか気になりますよね。のぞいてみましょう。

ひな飾りの定番アイテム、雪洞(読み:ぼんぼり)や白酒を入れる酒器などを売っているようです。

こっちには屏風や婚礼道具が並んでいます。ほかにも「立雛」と思しきひな人形も見えます。大型店舗よりリーズナブルなものを売っているのかもしれません。
ここに描かれているのは江戸時代後期のようすなのですが、どうやら江戸時代後期には現代のようなひな飾りアイテムがすでにそろっていたようです。
ちなみに、五人囃子や三人官女などもこの時代にはすでにありました。

立派な三段飾りのひな人形。2段目には五人囃子がチラッと見えてます(二代目喜多川歌麿 画)
雛市で売っているような立派なひな人形を買うことができない人々は、折り紙などでひな人形をつくって飾ったりもしたようです。

紙製の素朴な女雛と男雛。手描きの模様がとってもステキ。

こちらもかわいらしい折り紙のおひな様。ちゃんと顔も描いてあります。
壮麗! 大奥のひな飾りは驚きの12段仕様
現代では居住スペースの問題もあって3段飾りや7段飾りのひな人形を用意するご家庭は減少傾向にあり、男雛と女雛だけの親王飾りとか、ケースに入ったものなどコンパクトなものが人気なようです(地域によりますが)。
が、それとは真逆、とにかく豪華絢爛だったのが江戸城大奥のひな飾りです。

『千代田之大奥』より「雛拝見」揚州周延 画
こちらが江戸城大奥のひな祭り。
江戸城大奥では3月1日から4日まで盛大にひな祭りのお祝いが行われたのですが、ご覧ください、ひな飾りの壮麗さを。なんと12段飾り。幅もめちゃくちゃ広そう。さすが将軍家という感じです。大奥女中たちも美しいひな飾りを見物しようと集まってきています。
ひな祭りには、将軍から正室である御台所や姫君にひな人形がプレゼントされたんだとか。ほかに、諸大名からおひな様にお供えする白酒やハマグリ、お菓子などがどっさり献上されたそう。
数千人の女性がいた“女の園”大奥だけに、ひな祭りは特別な盛り上がりがあったんじゃないでしょうか。
江戸で女性がたくさんいた場所といえば不夜城・吉原遊郭も同じですが、吉原では大々的なイベントは行われなかったようです。でも、遊女のなかには部屋にひな人形を飾る者もいたらしい。幸せをひな人形に祈ったのかもしれませんね。
立派なひな壇を出すには広いスペースが必要になるわけですから、狭い長屋では家具などを活用して仮設のひな壇にしたようです。
「内裏造営 押入れを 明けわたし」
なんて川柳があります。押入れの中身を移動させてひな壇にしたんでしょうね。
ひし餅に白酒、そしてハマグリーーひな祭りの食べ物にはどんな意味があるの?
さて、ひな祭りのお供えといえばまず思いつくのはひし餅ではないでしょうか?

ピンク(桃色)・白・緑の3色がいかにも春らしい。ちなみにこの3色にはそれぞれ意味があります。
- ピンク→邪気を祓うパワーを持つ桃の花カラー
- 白→白酒の色
- 緑→こちらも邪気を祓うパワーを持つというヨモギの色
また、この3色は春の情景を表現しているとも。雪の下には新芽が芽吹き、桜が咲くーーというイメージです。
ところが江戸時代のひし餅はちょっと違う。

画像引用元:TMN world
こちら、深川江戸資料館で再現された長屋のひな祭りのようす。
男雛と女雛のほかに五人囃子も参加し、嫁入り道具も揃っています。長屋暮らしとはいえかなりお金に余裕のある住人のようです。
さてさて、画像中央にかなり大きなひし餅が見えますが、緑と白の2色だけでピンクはありません。
そうなんです。江戸時代のひし餅は緑・白の2色で、ピンクが追加されたのは明治時代からのことなんだそう。2色のひし餅って新鮮なビジュアル。
さて次。
白酒もひな祭りには欠かせないもの。

画像引用元:楽しもうよ.com
白酒とは甘口の濁り酒で、ノンアルコールの甘酒とは似て非なるもの。間違ってお子さんが飲まないようにご注意ください。
「上巳の節句(ひな祭り)」に桃の花を浸したお酒を飲む、というのは江戸時代以前から行われていたようですが、「ひな祭りには白酒」が定番になったのは江戸時代のことだそう。
そのきっかけとなったのが、神田鎌倉河岸に店を構えていた酒屋・豊島屋。
豊島屋は「山なれば富士、白酒ならば豊島屋」といわれたほど白酒で有名な店で、2月下旬の白酒初売りの日にはお客が殺到、そのようすは江戸のガイドブック『江戸名所図会』に紹介されるほどでした。

ワォ! ものすごい繁盛っぷり。画像左上には、「白酒をゲットしようと遠方からも人が大勢やってきて夜明け前から店の前には大行列ができた」というようなことが書いてあります。初売りの日だけで1,400樽を売り上げたというからただごとじゃありません。
あんまり混雑するもんだから、櫓(やぐら)の上には医師と鳶(とび)が待機して、ケガ人対策と行列整理をしています。さながら江戸版DJポリス。

「おーい、あんまり押すなよ!」とでもいっているんでしょうか
白酒で有名になった豊島屋にはこんな伝説があります。
ある夜、豊島屋の初代主人の夢枕におひな様が現れ、おいしい白酒のつくり方を教えてくれたそうな。そして教えられたレシピ通りにつくった白酒をひな祭りの前に売り出したところ大評判になり大ヒット。いつしか「ひな祭りには豊島屋の白酒」となりましたとさ。
こうして江戸でひな祭りのマストアイテムとなった白酒は、江戸から全国へ広まっていったといわれています。
なお、豊島屋の白酒は現代でも買うことができます。江戸っ子が舌鼓を打ったその味をぜひたしかめてみたいものです。
ほかに、ハマグリやアサリなどの貝類をお供えする習慣もありました。

『風流五節句遊』柳谷 画
こちらの絵には人形を持った美女と桃の枝を持った子ども、そして女の子がなにかをつついています。拡大してみましょう。

台にのったお皿にはハマグリやアサリ、サザエなど貝類がてんこ盛り。
現代ではハマグリというと“高級貝”のイメージがありますが、江戸時代には江戸近海でもハマグリがたくさん採れたので値段も安く、庶民でも気軽に買うことができました。高級どころかむしろ庶民派。
また、旧暦のひな祭りの頃は潮干狩りシーズンでもあり、人々は潮干狩りでゲットしてきたハマグリなどをおひな様にお供えすることもありました。
現代、ひな祭りの食べ物といえばちらし寿司&ハマグリのお吸い物が黄金コンビだと思いますが、江戸時代にはハマグリのお吸い物は婚礼メニューの定番でした。

画像引用元:赤酒.com
ちなみに「婚礼のお吸い物にはハマグリを使うべし」といいだしたのは、八代将軍・徳川吉宗。
ハマグリは全国的にたくさん採れて貧富の差なく手に入れることができるから、という理由らしい。じつに細かいところまで気のつくお方です。
余談ですが、婚礼メニューで出されたお吸い物に入っているハマグリを花嫁は食べてはいけない、という謎のルールが江戸時代にはあったそうです。
江戸時代の人々がひな祭りにハマグリのお吸い物を食していたかはわかりませんが、婚礼メニューだったことと関係があるのかもしれないですね(情報求む)。
また、ハマグリの貝殻は対になっていないとピッタリ合わないことから「夫婦和合の象徴」とも考えられており、ハマグリをお供えすることで良縁を願う、という説もあります。
さぁ、最後は毎年頭を悩ませる「男雛と女雛の左右問題」について。
男雛と女雛の左右どっちだ問題を考える
おひな様を飾ったことがある人ならこの問題にぶち当たったことがあるでしょう。
「男雛と女雛って左右どっちに置くんだっけ?」
そう、何年やっていても毎年わからなくなるんですよね。
では、ズバリ、答えをいいましょう。
「男雛が左・女雛が右、しかし逆の場合もある」
おいおいなんだよそれ、というツッコミが聞こえてきそうなので解説します。
まず「男雛が左・女雛が右」の場合について。

『三十六佳撰』「ひな遊 元文頃婦人」水野年方 画
こちらの絵のような置き方ですが、男雛が左=向かって右、女雛が右=向かって左なのでご注意を。これがまたややこしい。
古来日本では「左が上位」という考えがありました。なので朝廷でも天皇が左側に座し、皇后は右側に座しました。これを受け、ひな人形も男雛が左・女雛が右となったのです。ほかに「陰陽説」に由来するという説もありますが、ややこしいので割愛。
江戸時代のひな人形の置き方も「男雛が左・女雛が右」がスタンダードでした。
しかし例外もありました。それは江戸城大奥。
こちらをご覧ください。

先ほどもご紹介した大奥江戸城でのひな祭りのようすを描いたものの一部ですが、12段ひな飾りの最上段に座す男雛と女雛は左右が逆です。その理由については……よくわかりません(情報求む!)。一説に、二代将軍・秀忠の孫である興子内親王が明正天皇になったことから女雛を上位である左側に置くようになったとも。
ところが近年では「男雛が右(向かって左)・女雛が左(向かって右)」もスタンダードになってきています。

こんな感じ。
このスタイルは昭和初期頃から東京を中心に広まったといわれる新しいタイプのもの。
こうしたニュースタイルが広まった理由については、「明治の文明開化に伴う西洋化で西洋にならって男女の立ち位置が逆になった」とか「昭和天皇(大正天皇とも)の即位礼での立ち位置(天皇が右、皇后が左)を関東のひな人形業界が反映した」とか諸説あります。
ちなみに、京都を中心にした西日本では現代でも古式に則った「男雛が左・女雛が右」のスタイルが多いそうです。つまりまとめると「男雛・女雛の置き方は地域によって違う」ということになるでしょう。
なお、「左近の桜、右近の橘」という言葉があるように、お飾りの桜は左側(向かって右)・橘は右側(向かって左)に置くのが今も昔もスタンダードです。
毎年なにげなく飾っていたおひな様ですが、今に至るまでには意外と知らない歴史があったんですね。江戸時代に想いを馳せながら楽しいひな祭りパーティを!
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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?
1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。
(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。
(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。
江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?
パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。
「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。