江戸時代の節分は12月!今とは違う驚きの豆まき風習とは

  • 更新日:2020年1月25日
  • 公開日:2017年2月2日

「鬼は〜外、福は〜内」のかけ声とともに豆をまく節分。江戸時代は、節分の時期や豆まきの仕方など現在と違うところもありました。2月3日の節分についてご紹介します。

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『恵方果報福乃入豆』(歌川国芳 画)
「福は内〜」とまかれた豆の福にあやかろうと必死な女性たちが楽しそう(『恵方果報福乃入豆』歌川国芳 画)
豆まきをする桃太郎(『桃太郎豆蒔之図』月岡芳年 画)
鬼退治のエキスパート、桃太郎も豆をまいてます(『桃太郎豆蒔之図』月岡芳年 画)

江戸時代の「節分」は現代の12月!? しかも、年に4回も「節分」があった??


現代に生きる我々とっては、「節分=2月3日の豆まきイベント」ですが、本来「節分」というのは、立春・立夏・立秋・立冬という“季節の変わり目”の前日のこと。なので、「節分」は1年に4回あったわけです。

現在、2月3日に行っている「節分」のイベントですが、旧暦の「節分」は現代のカレンダーだと12月中旬から1月中旬あたりになります。

正月、晴れ着に身を包む子ども(『豊歳五節句遊』「正月」歌川国貞 画)
美しい晴着に身を包み女性は羽子板を、子どもは凧を手にお正月気分。旧暦のお正月は今よりもっと春に近かったんです(『豊歳五節句遊』「正月」歌川国貞 画)
年に4回あった「節分」のなかで立春前日の「節分」だけが特別扱いされるのも、お正月に近かったことが理由です。春への移り変わりタイミングであり、1年の始まりにも近い。やがて「節分」といえば「立春の前日の節分」のみを指すようになっていきます。

余談ですが、現代人にとって2月3日にするのが当たり前になっている節分ですが、2021年の節分は2月2日になる可能性が大なんだそう。くわしい説明はややこしいので割愛しますが、そもそも立春が何日になるのかは太陽の動きによって変化するので、節分の日も2月2日から4日の間で変動するのだとか。

2月3日が固定ではないんです(衝撃)。たまたま2月4日が立春で、その前日に行う節分が2月3日という年が長らく続いただけだったんですねぇ。へぇ。2021年以降の節分が何日になるのか気になるところです。

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節分イベントで豆をまくのはなんでだ?


節分でやることといったら外せないのが「豆まき」。節分にまく豆は「打ち豆」とか「鬼豆」とか呼ばれました。現代だと「福豆」呼びが一般的。

江戸時代の人々も江戸城大奥から庶民まで、都市や地方のかかわりなくみんな節分には豆まきをしていました。

葛飾北斎が描いた豆まき(『北斎漫画』(四巻)より)
葛飾北斎によるダイナミック豆まき。いかつい男性が投げつける豆は相当イタイようで、背を丸める鬼がちょっと哀れになります(『北斎漫画』(四巻)より)
さて、江戸時代の節分を見ていく前に“そもそも”の歴史をふり返ってみましょう。

時は平安時代。場所は宮中。

奈良時代に古代中国より日本に伝わった「追儺(ついな)」という行事が大晦日の夜に行われていました。新年を迎えるにあたって、年内の病疫を鬼に見立て追い払う、という行事です。

一方、「追儺」の儀式とは別に、平安貴族たちには「節分」に災害よけと長寿を願い読経をするという風習がありました。

さらにいつの頃からか、「節分」に豆を使って邪気を祓う「豆打ち」という儀式が登場します。

昔の日本人は季節の変わり目、年の変わり目には邪気が入り込みやすいと考えており、さまざまな邪気祓いの儀式を行っていたんです。

そして時代が流れていくなかでこれらがゴチャ混ぜになり、室町時代には現代と同じように「鬼は外、福は内」と唱えながら豆をまくことが節分に行われるようになったそうです。

室町時代に京は相国寺の僧・瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)が書いた日記『臥雲日件録(がうんにちけんろく)』にも「明日立春、故及昏景家毎室散敖豆、因唱鬼外服内四字」とあります。意訳すると「明日は立春なのでどの家でも豆をまいて“鬼は外、福は内”と唱える」ということ。550年近くも昔の人々が現代人と同じような節分をしていたというのはひじょーに感慨深いものがありますね。

もともと別物だった「追儺」と「節分」も江戸時代にはすっかり一体化し、「節分=邪気を追い祓うために豆をまく」というのが下々にまで浸透していました。また、「追儺」の儀式も神社などで行われていたようです。

亀戸天神の「追儺」の儀式(『東都歳事記』より)
『東都歳事記』より
これは藤の花で有名な亀戸天神の「追儺」の儀式。「おにやらい」と呼んでいたもよう。

節分の夜、やってきた邪気の象徴である青鬼と赤鬼を神主が問答で負かし退散するというイベントで、画像中央の黒い衣装の人物が神主さん、その前に立ちはだかるのが2匹の鬼さんです。

なお、亀戸天神の「追儺」の儀式は、現代でも節分の夜に行われており、ありがたい福豆をゲットするため多くの氏子が訪れるそうな。

ところで、なんでまくのは大豆なのか?

金太郎が豆まき(歌川国芳 画)
金太郎も豆まき。あっかんべーしている赤鬼がかわいらしい。背後には立派な鏡餅も見え、節分が正月行事であることがわかります(歌川国芳 画)
おまけにもう一枚、豆まきする金太郎。

『坂田金太郎』(歌川国芳 画)
至近距離から全力で豆をぶつけようとする金太郎の表情がこわい(涙目)。おびえる鬼がかわいそうで、もはやどっちが悪役だかわからない(『坂田金太郎』歌川国芳 画)
古来、穀物には邪気を祓うパワーがあるとされていました。あんな小さいのに芽が出て実りをもたらしますからね。生命力の塊です。
かつては大豆ではなく、米や麦、粟(あわ)などを使うこともあったそうですが、大豆が主流になった背景には次のような理由があるとか。

  • 豆は「魔滅(まめ/魔を滅する)」に通じる
  • 中国の医書に「豆は鬼の毒を殺す」とあった
  • 身近でたくさん手にはいる

など。

諸説あって「これが大豆になった理由だ!」というのはまだわからないそうです。現代だと千葉なんかは特産物の落花生をまいたりもしますよね。

また、生の大豆ではなく煎った大豆を使う理由については、「封じ込めた邪気が新たな芽として出ることを防ぐため」とも「魔の目を射る、に通じるため」ともいわれているそうな。ほかにも、豆を炒ると皮がぽろっと取れ実が出ることから、新しい年の誕生を象徴する、なんていう説もあるんだとか。あとで食べるし、煎り豆のほうが食べやすいしね。

また、豆以外のものをまく場合もありました。

浅草寺の節分会(『江戸名所図会』より)
『江戸名所図会』より
こちらは江戸は浅草寺の節分会(せつぶんえ)。

浅草寺の節分会は現代でも盛大に行われており、毎年、たくさんの人が集まっていますが、江戸時代にも大人気でした。今では、成田山新勝寺など各地の大きな寺社が芸能人や人気力士をゲストに迎え盛大な節分会を行っていますが、こうした大々的な節分会を最初に行ったのが浅草寺なんだとか。

江戸のガイドブック『江戸名所図会』にも掲載されるほど大人気だった浅草寺の節分会。現代では集まった大勢の人々に向けてお坊さんたちが福豆をまきますが、江戸時代の浅草寺節分会では豆ではなくこれをまきました。



浅草寺の節分会でまかれたお札(『江戸名所図会』より)

お札


先ほどの絵を拡大したものです。人々が手を伸ばす先にはピラピラと舞い落ちるお札が見えますね。ありがたいお札をゲットしようとみんな必死。

浅草寺の節分会では、本堂の柱に登ったお坊さんが巨大なウチワで扇ぎながらお札を群衆に向けてまいたんだとか。

その数、3,000枚

無事にお札をゲットできた人々は、持ち帰ったお札を玄関にはり魔除けにしたそうです。

しかし1884年(明治17年)にお札をまくのは禁止されてしまったようです(理由は不明)。で、現代同様に豆をまくようになったわけですが、今でもご希望の方にはお札がもらえるそうですよ。

成田山新勝寺の節分会のようすも。

成田山新勝寺の「儺鬼豆」という豆まき行事(『成田山志』より)
『成田山志』より
現代でも有名な成田山新勝寺では節分の夜に「儺鬼豆(やらいおにまめ)」という豆まきイベントをやっていました。豆をまくのは「年男(としおとこ)」の役目で、裃(かみしも)をきちんと着用し、豆を入れた升を乗せた三方を持ちました。

本堂で参拝の儀式を終えたあと、豆はまだかと首を長くして待つ群衆の前に立ち、「福きたれ〜」と大声で3回唱えたあと、3度豆をまいたとか。「年豆」と呼ばれたこの豆を食べると1年中幸せになる、といわれていたので集まった人々は争うように豆を拾いました。そのあたりは今も昔も変わらぬ光景ですね。

現代の成田山新勝寺の節分会
現代の成田山新勝寺の節分会のようす。ものすごい人出です。画像引用元:成田山


「鬼は外、福は内」以外のバリエーションもあった豆まきのかけ声



豆をまく時のかけ声といえば「鬼は外、福は内」がスタンダード。しかし、ところ変わればかけ声変わる。場所により豆まきのかけ声にもいろんなバリエーションがあるんです。

たとえば、先ほどご紹介した浅草寺の節分会。そのかけ声は

「千秋万歳福は内」

観音さまの前には鬼はいない、という理由から「鬼は外」と唱えません。

七代目・市川團十郎の豆まき(『十二組の内 七代目三舛の豆まき』歌川豊国 画)
名優とうたわれた七代目・市川團十郎の豆まき(画像中央)。團十郎のかけ声はどんなものだったんだろう(『十二組の内 七代目三舛の豆まき』歌川豊国 画)

この【「鬼は外」とは唱えない系】はよくあるようで、成田山新勝寺も「不動明王の前に鬼はいない」という理由で「鬼は外」と唱えません。

ほか、たとえば若狭国小浜(現・福井県小浜市)にあった問屋では、「『鬼は外』は『大荷(おおに)は外』に通じるので商売上縁起が悪い、という理由から、こう唱える家もありました。

「福は内、鬼は内」

鬼も迎え入れちゃう器のデカさ。

また、「恐れ入谷の鬼子母神」で有名な仏立山真源寺(東京都台東区)。鬼子母神(もと鬼神だったけど仏教に帰依し子どもの守り神になった神さま)を祀っているので、やっぱり「鬼は外」とは唱えません。そのかわりといってはなんですがこう唱えます。

「福は内、悪魔外」

なんという変化球。悪魔ってなんか斬新。

また、二本松藩(現・福島県二本松市付近)。藩主が「丹羽」という苗字だったため、「鬼は外」と唱えると「お丹羽外」と聞こえちゃうのでこれはまずい、となり、こう唱えるようになったんだとか。

「鬼〜、外〜」

細やかな気配り!「は」を抜いてます。

このユニークな風習は今でも受け継がれているようです。

さらに、「九鬼(くき)」とか「鬼頭(きとう)」とか苗字に「鬼」がつく家でも「鬼は外」以外のバージョンを使用することが多かったんだとか。

そのほか、「福は内、福は内、鬼は外」と「福は内」を2回唱えるバージョン(奥州白川など)や、「福は内、福は内、福は内、鬼は外、鬼は外」と唱えるバージョン(和歌山)なんかもありました。

豆まきのかけ声ひとつとってもいろいろあっておもしろい。自分の故郷のバージョンを調べてみるのも楽しいかもしれません。

豆をまく年おとこ(魚屋北渓 画)
鶴がデザインされたおめでたいファッションで豆をまく年おとこ(魚屋北渓 画)

無言の豆まきに胴上げ!? 大奥の節分がかなりユニーク



将軍の正室である御台所を筆頭に3,000人ともいわれる美女たちが暮らしていた大奥。普段は男子禁制の秘密の花園・大奥ですが、節分の時には男性が立ち入りました。もちろん豆をまくためです。

豆まき役を担当するのは「御留守居役」というエリート官僚の年男。しかも50歳以上のナイスミドルに限りました。若い男性だといろいろアレですからね。

正装をした御留守居役は、「福は内」と大きな声で唱えながら3度豆をまきました。これを大奥の各部屋で行います。「鬼は外」とは唱えなかったようです。ただし、御台所の部屋では無言で豆をまいたそう。

想像するとちょっとシュール。

そして、御台所の年齢にひとつ加えた数の豆を白紙に包み、御台所の御前にささげました。

大奥での節分のようす(『千代田之大奥』より「節分」揚州周延 画)
『千代田之大奥』より「節分」揚州周延 画
これは大奥での節分のようすを描いたものですが、画像中央の上級女中が捧げ持っている三方の上に白紙に包まれた豆が見えます。今から御台所のところへ持っていくのでしょう。

そして画像左、屏風の奥にチラッと見えているのが豆まき役の御留守居役。よく見ると真剣な表情でなにかしています。

節分に豆で「万万歳」という字を書いている御留守居役(『千代田之大奥』より「節分」揚州周延 画)

じつはこれ、豆で「万万歳」という字を書いているところなのです。けしてふざけているわけではなく、これも祝いの儀式の一環であるため、エリート官僚は真剣に業務を遂行しているのであります。

節分セレモニーも終了し、大奥からそそくさと退出しようとする御留守居役ですが、そうは奥女中たちが許しません。待ち構えていた20人ばかりの奥女中たちがダダッと現れ、御留守居役をつかまえると祝い唄を歌いながら胴上げしたのです。

大奥での大掃除(煤払い)後、胴上げをする様子(『千代田之大奥』より「煤払い」揚州周延 画)
『千代田之大奥』より「煤払い」揚州周延 画
大奥で胴上げ、といえば、同じく年末のイベント大掃除(煤払い)のあとにも奥女中たちにより武士が胴上げされていましたが、この節分でも胴上げは恒例イベントだったんですね。

まいた豆はどうするの?



「鬼は外、福は内」と唱えながらまいた豆。さて、そのあとはどうしたんでしょう。

現代でも豆をまいたあとに年の数だけ豆を食べますよね。先ほどご紹介した大奥でも御台所に年の数+1個の豆が献上されていましたが、江戸時代、庶民にもその習慣が定着していました。

年男がまいた豆をひろう女の子(『五節句稚童講釈』より)
年男がまいた豆を女の子たちが一生懸命拾っています。あとで食べるのかな?(『五節句稚童講釈』より)
1年の無病息災を願いながら年の数だけ、もしくはそれにひとつ加えた数の豆を食べる。これは全国津々浦々どこでもやっていたようですが、ほかにこんなことをやるところもありました。

その1「豆でお天気占い」


地域によって(越後国長岡や奥州白川など)は、まいた豆のうち12粒を拾って囲炉裏の灰の上に並べ、豆の焼け具合で来年1年間のお天気占いをしたんだそう。黒くなったら雨、白くなったら晴れ、てな感じ。

その2「豆ご飯にしちゃう」


淡路のほうではまいた豆を年の数だけ食べるだけでなく、翌朝、お米に豆を入れて炊き豆ご飯にして食べたんだそう。煎り豆でもおいしいのか?

豆ご飯
豆ご飯イメージ

その3「おまじないいろいろ」





  • 年の人はまいた豆を拾って道の辻に落として歩く、というユニークなおまじない。

  • まいた豆を大切に取っておいて、初雷の時に食べる。もしくは初旅の時に食べる、なんておまじないも。魔除けかな?

  • 危険な場所へ行く際におまもりとして豆を持っていくor食べるとよい

  • 初雷(立春のあとに鳴る最初の雷)のときに食べると雷除けになる(鬼と雷はワンセット)

  • 囲炉裏に豆を一粒投げ込み、呪文を唱えて害獣除けにする




とまぁ、こんな感じでまいたあとの豆もいろいろな使われ方をしたのです。鬼を撃退するほどのパワーを持つ豆ですからね、そのパワーは無駄にはできません。

節分の魔除けグッズは柊とイワシで決まり



突然ですが、「柊鰯(ひいらぎいわし)」って聞いたことありますか? 西日本では「やいかがし」なんて呼んだりもします。

このようなものです。

柊鰯(読み ひいらぎいわし)
画像引用元:Topicsタンス
柊にイワシの頭が刺さってます

はじめて見るとちょっとビックリ。いったい節分に柊とかイワシとかなんの関係があるのでしょうか?

まず柊。

柊の葉はとってもトゲトゲしていますが、これが魔除けになると昔からいわれてきました。このトゲトゲが鬼の目をつくんだとか。

伊勢神宮のある伊勢地方では、お正月のしめ縄にも柊の葉っぱが飾られています。しめ縄に柊の葉っぱというのもちょっと珍しい。

伊勢地方では、お正月のしめ縄に柊の葉っぱが飾られています
これが伊勢のしめ縄。柊の葉っぱがありますね。画像引用元:伊勢宮
次にイワシ。

おいしいですよね、イワシ。でもちょっと生臭いのは否めない。この「生臭い」のが重要で、このイワシ臭を鬼が嫌がるんだそう。

つまり、柊もイワシも鬼が大嫌いなもの

ダブル攻撃で鬼を完全撃退しようというわけです。

ただ反対に、イワシは鬼の大好物でイワシの匂いにつられてやってきた鬼を柊のトゲでやっつける、という説もあります。これは策士です。

いずれにせよ、柊鰯というのは魔除けのおまじないアイテム。

ちなみに今でも節分の季節になるとスーパーに柊とイワシがたくさん売っていますので、ぜひ、柊鰯を手作りして飾ってみてはいかがでしょうか。

さてこの柊鰯、その歴史はとても古く、一説に平安時代からあるとも。なお、当初はイワシではなくボラだったもよう。時折、大量発生してニュースになるあのボラです。

平安時代の歌人・紀貫之(きのつらゆき)は『土佐日記』のなかでこう記しています。


「今日は都のみぞ思ひやらるる、小家の門の端出之縄(しりしめなわ)、なよし(ボラ)の頭、ひひらぎ等(など)いかにぞと言ひあへなよ」


この日は元日なのですが、門口に飾った正月飾りのしめ縄になんとボラの頭と柊が。現代では正月と節分は別の行事となっていますが、節分も正月行事の一環だった時代にはしめ縄も柊もボラの頭もワンセットだったんですねえ。

江戸時代にはどうやら柊鰯もすっかり市民権を得ていたようで、絵画にもたくさんその存在を確認できます。

「よく見ると実はそこにある」柊鰯を紹介しましょう。

江戸時代の節分(『婦女風俗十二月』「節分」勝川春章 画)
『婦女風俗十二月』「節分」勝川春章 画
美女トリオによる美しい節分風景。足元に台にのせた柊鰯があり、肩車された青い着物の女性の手には柊が見えます。今から飾ろうとしているようです。

拡大するとこんな感じ。

柊鰯(『婦女風俗十二月』「節分」勝川春章 画)

柊鰯、あった!

もう一丁。

江戸時代の節分(『日本風俗図絵』より)
『日本風俗図絵』より
画像左中央に豆をまいている人がいます。その上方に目をやると……やっぱり柊鰯がいるんです。しかも2カ所も。

拡大してみましょう。

柊鰯(『日本風俗図絵』より)

ばっちりイワシの頭も刺さっています。

さらに、もう一丁。

江戸時代の節分(『節分』鈴木春信 画)
『節分』鈴木春信 画
鬼は笠を盾に逃げ出し、福の神は雲に乗ってこんにちは。画像左上をご覧ください。

柊鰯(『節分』鈴木春信 画)

あったあった、柊鰯。

ほかにも節分風景を描いたものにはだいたい柊鰯もこっそりいますので、ぜひ探してみてください。

なお、柊鰯は門や玄関、窓など家のなかと外を結ぶ通り道に飾りました。ちなみに柊鰯も地方によってバリエーションがいろいろあり、たとえば、越後国長岡では柊の木があんまりないので、鰯の頭を大豆の枝に刺したそう。さらに髪の毛を何本か絡みつけたらしい。

現代でも東京近郊では柊のほか豆ガラも一緒に飾ったりします。スーパーではセットになって売っていたりしますね。

節分になると現れる「厄払いさん」って何者!?



節分の日暮れになると「厄払いさん」「厄拂(やくばらい)」などと呼ばれる人が江戸、京、大坂の三都をはじめ全国あちこちに現れました。

「厄払いさん」は、「やくはらいましょう〜」などとよばわりながら町を歩き、声がかかるとその家へ行きお祓いをしました。江戸では「おんやく、おんやく」という呼び声だったらしい。

厄払いさん(『人倫訓蒙図彙』より)
『人倫訓蒙図彙』より
画像右のほっかむりしている人物が「厄払いさん」です。

「厄払いさん」という謎の人物の正体は下級の宗教者だったり物乞いだったりで、頼む人もそれほどお祓いに効果を求めていなかったそうな。「厄払いさん」に支払うお金も少額なので「これも縁起物」と割り切った気持ちだったのかもしれません。

小説『怪談』の作者として有名な明治時代の作家・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も自著『二つの珍しい祝日』のなかで日本の節分について書いており、文中に「厄払いさん」らしき厄落としの人も登場します。

余談ですが、八雲は節分の季節について「冬が和ぎそめて春となる季節」と非常に美しい表現をしています。さすが作家さん、というポエティックさ。

今では消えてしまった「厄払いさん」ですが明治時代にはバリバリの現役だったようです。

節分グルメの今や定番「恵方巻」は謎だらけ



さて、最後は今や節分といえばコレ、というほど全国的に有名になった「恵方巻」について。

恵方巻
画像引用元:縁起物百科事典
かつては関西地方など限定の風習だった恵方巻ですが、今ではデパート、スーパーやコンビニ各社もこぞって恵方巻を販売し、老いも若きも「とりあえず恵方巻、食べとくか」みたいな空気感すらあります。

念のため「恵方巻」とはどんなものかといいますと、七福神にちなんで7種の具材を巻いた太巻きで、食べ方にポイントがあります。恵方を向いて目を閉じ、願い事を念じながらモグモグと無言で丸ごと1本食べきる、というもの。実際やってみるとこれがなかなか大変。あと、大勢でやるとかなりシュール。

そんなユニークグルメ「恵方巻」は知名度こそバツグンなものの、由来や起源については諸説あり謎が多いのです。

一説に、江戸時代末期に大坂の商人たちが商売繁盛を祈願して太巻きを食べたのが恵方巻のルーツともいわれています。が、はたまた、豊臣秀吉の家臣が節分の夜に巻き寿司を食べたのが由来とも、花街の花魁が(以下略)……とも。とにかく諸説ありすぎてよくわかりません(苦笑)。

発祥地も大坂が有力ですが、和歌山説や滋賀説もあるらしい。

関西地方で習慣化したのは、1970年代に大阪の海苔関係者たちによる海苔の販売促進を狙った節分イベントがきっかけなんだとか。バレンタインを仕かけたチョコ業界と同じにおいがします。で、そのあと徐々に全国的に広まっていったわけです。

節分グルメとしては恵方巻きのほかに、節分に蕎麦を食べる風習が江戸時代からありました。これを「年越蕎麦」と呼んでいたそう。「年越蕎麦」というと現代では大晦日に食べる蕎麦を連想しますが、江戸時代の「年越蕎麦」は節分グルメだったのです。また、大坂では麦飯とイワシの焼いたものが節分グルメの定番だったとか。

そのほか、「福茶」というおめでたい特別なお茶もポピュラーな節分グルメ。これは福豆、昆布、梅干、山椒を入れた茶碗に煎茶や湯を注いだもの。節分だけでなく元日にも福茶を飲んだのですが、元日バージョンは元旦にはじめて汲んだ水を使い「大福茶」と呼ばれました。なんともおめでたい!

『高名美人六家撰』(喜多川歌麿 画)
こんな美人が福茶を運んでくれたら幸せも倍増しそう(『高名美人六家撰』喜多川歌麿 画)

なんとなく豆をまいて豆を食べていた節分のイベントですが、知れば知るほど奥深くおもしろいですね。今年は恵方巻きを食べるだけでなく、ぜひ1年の福を願いながら力いっぱい豆をまきましょう!

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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?

銀ブラをする昭和の女性1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。『水鶏にだまされて』石川豊信 画(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。


江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?

パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。「アンネナプキン」発売の広告「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。