大晦日といえば借金取り立て!大掃除後に胴上げ!江戸時代の年末風物詩を紹介

  • 更新日:2024年12月27日
  • 公開日:2016年12月13日

新年を気持ち良く迎える準備のため大忙しの年末ですが、それは江戸時代も同じ。現代と変わらない部分もあり、驚くような部分もありの江戸時代の年末風景をまとめてみました。

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Youtube動画『大晦日に借金バトルだった江戸時代!?大掃除のあと胴上げも!?年末はこう過ごした!【ゆっくり解説】』

お餅をこねる江戸時代の女性(『暦中段尽くし』歌川豊国 画)
鏡餅をつくるのでしょうか、たすきがけの女性が柔らかそうなお餅と格闘中(『暦中段尽くし』歌川豊国 画) 

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江戸城も吉原も商家も長屋も12月13日は「大掃除の日」



年末にやるべきことの筆頭は今も昔も大掃除。新年を気持ちよく迎えるためには、1年間の汚れをきれいさっぱり掃除しなくちゃなりません。

現代では、大掃除のタイミングは各家庭、個人個人の予定に合わせて年末までに終わらせるというのが一般的ですが、じつは江戸時代には大掃除をする日が決まっていました。な、なんだって!?


それは、ズバリ12月13日


江戸時代、今でいう大掃除は「煤払い(すすはらい)」「煤取り」「煤掃き」「煤納め」などと呼ばれていたんですが、12月13日に江戸城大奥で「御煤納御祝儀」という煤払いの行事が行われたことから、それに合わせ大名屋敷から長屋までみーんな一斉に煤払いをしたのです。

江戸だけでなく日本各地の多くの地域で12月13日になると煤払いをしたというのは、なんだか、おもしろいですね。(もちろん旧暦の12月13日の話ですよ)

『冬の宿 嘉例のすゝはき』(三代歌川豊国 画)
『冬の宿 嘉例のすゝはき』(三代歌川豊国 画)
こちらの浮世絵は煤払いに励む町人たち。手ぬぐいかぶってやる気まんまん。

現代では大掃除のリーダー役はだいたいお母さんですが、江戸時代の商家では煤払い担当は、奉公人や若い衆、日頃出入りしている鳶職人など体力のある者がメイン。画像左下には煤払いの合間に食べられるようにと用意された握り飯や煮しめが見えます。おやつには甘いお餅が出されたんだとか。疲れた時の甘いものは昔から変わらずです。

商家では、煤払いが終わったあとには特別なご馳走が振る舞われたそうなのですが、それがこれ。






『捕鯨図』(歌川国芳 画)
『捕鯨図』歌川国芳 画
クジラ


煤払いのあとにはみんなで鯨汁を食べたそう。疲れた体に熱々の鯨汁はいかにもピッタリ。いつもはコキ使われる奉公人たちにもご祝儀としてお酒が振る舞われたうえ、早寝まで許されたとか。大掃除バンザイ!

煤払いについて俳人たちもおもしろい句を残しています。

「煤掃きて しばしなじまぬ 住居かな」(許六)


大掃除してきれいになったら逆に落ち着かない我が家。なんかその気持ちわかります。

「煤はきや なにを一つも 捨てられず」(支考)


大掃除したのになにも捨てられなかった(笑)。あるあるすぎます。
庶民の煤払い川柳もまたおもしろい。

「銭金が こうたまればと 十三日」


煤払いで集まったホコリを見つめて(あー金もホコリみてぇにいつのまにかたまればいいのによぉ〜)とちょっと切なくなる気持ち、わかります。


突然ですが、「そもそもなんで12月13日に大掃除なんだ?」について。

13日という日は暦のうえで万事において(といっても婚礼以外だそう)、「鬼宿日(きしゅくにち)」という最吉日なのだとか。お日柄よし。

でも「大掃除するのに日がよいとか悪いとか関係あるの?」と疑問に思う方もいらっしゃるでしょう。

煤払いというのは単なる大掃除にあらず、もともとは“お清めの儀式”だったのです。元日に降臨して1年の実りと繁栄をもたらすとされる「年神様(歳神、歳徳神とも)」をお迎えするため、1年間でたまった穢れ(ケガレ)とホコリを払って、家中を清めるわけです。煤払いの歴史は古く、平安時代から行われていたのだとか。煤払いは神聖な儀式なので、最吉日である13日が選ばれたんだそう。

正直、「大掃除=いつもはやらない場所までやる掃除」と思っていました、ごめんなさい、今年からは神聖な気持ちで挑みたいと思います(真顔)。

将軍のプライベート空間である大奥でももちろん煤払いが行われました。こんなの。

『千代田之大奥』より(楊洲周延 画)
『千代田之大奥』より 楊洲周延 画
町人と同じく手ぬぐいを頭にかぶった女性たちが立ち働いています。

中央の美しい女性は、将軍や将軍の妻である御台所(みだいどころ)のお世話をする「御中臈(おちゅうろう)」という結構身分の高い大奥女中。煤払いでは指揮官を務め、テキパキと指示を出しました。

先ほど12月13日に煤払いをする、と述べましたが、江戸城は別格。大奥も合わせるとメチャンコ広いので12月1日から煤払いをスタートし13日に煤払い終了となりました。

大奥では掃除する部屋の順番も決まっていたそうで、最初は身分の低い女中の部屋から始まり、最後に御台所の部屋をきれいにしたんだとか。大奥の煤払いは、大奥女中が20人ずつ交代で1日から13日まで毎日行ったといいますので、いかに大奥が巨大だったかがわかりますね。

先ほどの画像、左側にこんな女性がいます。

煤竹を持つ江戸時代の女性

女性が手にしているのは青々とした笹竹。

ん、七夕と勘違いしてる?…わけではもちろんなく。

江戸時代煤払いには今と似たようなホウキのほか、「煤竹(すすだけ)」と呼ばれる葉の茂った笹竹や、竹竿の先に藁を束ねてくくりつけたものなどを掃除道具として使っていたのです。煤払いはもともと神事なので、神聖な植物とされた笹が使われたのでしょうか。

煤竹売り(『東都歳事記』より「商家煤払い」部分)
『東都歳事記』より「商家煤払い」部分
こちらは煤竹売り。煤払いが行われる12月13日が近づくと江戸市中で煤竹売りが登場するわけです。

神聖な気持ちで臨む煤払い、掃除道具である煤竹も新品を使うことが多かったとか。江戸城では天領(幕府の直轄地)から献上された笹竹を使用したようです。

年末の風物詩として人々に年の瀬が近いことを知らせた煤竹売り。その売り声を聞いたおかみさんたちは、「ヤダもう煤竹売りがっ! 1年なんてあっという間ねぇ。煤払いってめんどうよねぇ」なんて井戸端で話していたかもしれませんね。

余談ですが、煤竹売りといえば忠臣蔵の義士のひとり大高源吾が宿敵・吉良上野介の屋敷を監視するため煤竹売りに身をやつしていたとき、俳句の師匠・宝井其角に両国橋でばったり出会い、其角の「年の瀬や 水の流れと 人の身は」という上の句に対し、「あした待たるる この宝船」と下の句を返し吉良邸討ち入りが明日であることを示唆し今生の別をしたエピソードは有名です。

忠臣蔵『義士四十七図 大高源吾忠雄』(尾形月耕 画)
画像左にいるのが煤竹売りに変装した大高源吾(『義士四十七図 大高源吾忠雄』尾形月耕 画)

ただし残念ながらこの感動シーンはのちの創作だそう。それにしても昔は年末になれば必ず忠臣蔵ドラマを放送していたのに、今ではめっきりやらなくなってしまいましたね……ちょっとさみしいです。

さて、江戸城大奥では12月13日に煤払い終了を告げる「御煤納御祝儀」という行事が行われました。

正装である裃(かみしも)を着た「御留守居役」のお役人が笹竹で払いながら「万々歳(ばんばんざい)」(「万々年(まんまんねん)」とも)と唱え、煤払い終了となります。その後、ご祝儀として手ぬぐいや反物などが配られたのだとか。


煤払いのあとは畳も障子も新品に、そして最後は胴上げ!?



江戸城大奥では煤払いのあと、たくさんの畳師たちによる畳替えが行われました。広い大奥の畳替え、さぞかしたいへんな作業だったことでしょうね。大奥だけでなく武家屋敷でも煤払いのあと畳が新品に敷きかえられました。

煤払いをする武家(『武家煤払の図』喜多川歌麿 画)
『武家煤払の図』喜多川歌麿 画
こちらは大勢で楽しげに煤払いをする武家のみなさま。

拡大すると、

煤払いをする武家 左側(『武家煤払の図』喜多川歌麿 画)

手ぬぐいをかぶった女中たちが畳を持ち上げています。このあと、畳替えを行うのでしょう。鼠を追い払う女性も。画像中央には積み上げられた畳も見えます。「サァサ、みなさん、ちょっと一服しましょうか」とでも言っているのか、積み上げられた畳の前にはお茶セットを持った女性も見えます。

煤払いをする武家 右側(『武家煤払の図』喜多川歌麿 画)

足を滑らせたのか尻餅をつく武士と、それを見てキャッキャと笑う若い女性たちも。忙しいながらも楽しげな煤払いの光景は興味深いですね。

商家の煤払いもたいへんにぎやかで大騒ぎ。

『東都歳事記』より「商家煤払い」
『東都歳事記』より「商家煤払い」

こちらはにぎやかに煤払いをする商家のみなさま。

いつの時代もマジメに掃除する人、大掃除でテンション上がっちゃってふざける人がいるようです。かなり裕福な商家のようで、煤払いのあとに畳替えもするのでしょう、画像左奥には畳を運ぶ男性が見えます。

画像右下にはこの店の主人一家でしょうか、掃除は奉公人にまかせ座敷でのんびりくつろぐ人々も。

食事をとる商家

こちらの一団は早くも食事をとっています。蕎麦らしきものをすすっている人もいますね。

蕎麦は江戸グルメの代表格として江戸っ子たちに愛されましたが、煤払いのあとにも蕎麦を食べるのが定番でした。なんでも、大奥で煤払いのあとに「煤払い蕎麦」を食べるのが行事化しており、それが武家や庶民にも広まり定着したのだとか。人々はご近所さんや知人に「煤見舞い」と称して蕎麦を贈りあったんだとか。

胃腸を整えてくれる蕎麦は“身体を清浄にしてくれる食べ物”とも考えられていたので、煤払いで汚れた身体を蕎麦でなかから清めよう、と考えたのかも。まぁ、蕎麦は手軽だしおいしいし忙しい時にはピッタリというのもあったでしょうね。

さてさて、煤払いの風景で気になるのがこれ。

江戸時代、煤払いが終わると胴上げをする様子

え?なにしてんの?

これってもしや胴上げ!?

そうなんです。江戸時代煤払いが終わると胴上げをするというユニークな風習があったんです。煤払いと胴上げの関係ですがこれがよくわかっておらず、今となってはパリピ的な(☝ ՞ਊ ՞)☝ウェーイな感じがただようばかり。

煤払い後に胴上げされる様子(大奥に胴上げされる武士)

先ほどご紹介した大奥での煤払いの光景を描いた絵のなかにも胴上げ集団がいます。

女中たちが武士を(☝ ՞ਊ ՞)☝ウェーイ。

胴上げされる武士の「やめろー!」と言う声が聞こえるよう。胴上げの風習は大奥から庶民に広まったといわれています。

煤払い後に胴上げされる様子(女中たちに胴上げされる男性)

こちらも先ほどご紹介した武家屋敷での煤払いの絵から胴上げ集団。女中たちにロックオンされたイケメンが捕まって胴上げされようとしています。

この胴上げ、とにかく誰彼かまわず標的にされる。

ただやはり若いイケメンや若い女中が標的になりやすかったようで、まあ、胴上げにかこつけてセクハラするわけであります。なので、「狙われる!」と察した者は胴上げが始まりそうになると逃げ回ったのだそう。

ここらへん、身もふたもないのですが、200年以上前でも「※ただしイケメンに限る」わけですね。


「十二日 から色男 狙われる」


なんて川柳もあります。前日からロックオンされるなんて相当なイケメンでしょう。

胴上げの発祥は一説に長野の善光寺にあるといわれています。善光寺では江戸時代初期から12月に五穀豊穣と天下泰平を夜通し祈る年越し行事「堂童子(どうどうじ)」というものがあり、その行事の仕切り役を胴上げしたのだそう。また新潟でも江戸時代初期から胴上げしていた記録が残っているんだとか。謎多き胴上げ。

煤払いのあとのイベントとして胴上げのほか、かくし芸をすることもあったそう。由来とかよくわかんないけど大奥でおもしろそうなことやってるからマネしよう精神ーー日本人のイベント好きは今も昔も変わらないようです。

お正月に欠かせない餅の入手方法は4パターン



大掃除が終わり家がきれいになったところで次にやることはお餅つき

古来、“ハレ”の食べ物として神聖視されお正月などお祝い事には欠かせない存在だった餅。江戸時代にも餅がなくてはお正月を迎えられませんでした。

江戸時代、餅をつくのは12月15日から年末にかけて、というのが決まりでした。ただし、29日は「苦」に通じることからその日につく餅は「苦をつく“苦餅”」と呼ばれ嫌われたのだとか。また、31日のギリギリにつく餅も「一夜餅」と呼ばれ忌み嫌われたそう。

江戸時代の餅つきの様子(『十二月之内 師走餅つき』三代歌川豊国 画)
男性が勢いよく杵を振りあげ、女性がリズムよくこねどり。威勢のよい餅つきに小さな子どもも興味津々。画像左下には薬味用の大根おろしも(『十二月之内 師走餅つき』三代歌川豊国 画)

さて、江戸時代、餅の入手方法は大まかに次の4パターンがありました。

その1「自分たちで餅つきする」



まずは基本、自分たちで餅つき。寺院や武家、大店など使用人がたくさんいるところや、農家などでは自分たちでぺったんぺったん。

吉原での餅つき(『青楼絵抄年中行事』より 十返舎一九 著/喜多川歌麿 画)
『青楼絵抄年中行事』より 十返舎一九 著/喜多川歌麿 画
こちらは“不夜城”吉原での餅つき。妓楼の土間で男性たちが餅をつき、女性たちは鏡餅をつくったり、できた鏡餅を運んだり。遊女見習いの少女である禿(かむろ)はお茶を運んでます。

その2「菓子屋に注文する」



自分たちでやれない人は菓子屋に注文。

菓子屋がつく餅を「賃餅(ちんもち)」といいます。ただし年末は大忙しのため完全予約制で、12月15日以降は注文を受け付けなかったそう。

「賃餅」の看板を掲げ餅を売る江戸時代の菓子屋(『縁組連理鯰』より)
「ちんもち」の看板を掲げた菓子屋。店先にはさまざまな餅が並んでいます(『縁組連理鯰(えんぐみれんりのなまず)』より)

江戸時代の餅つきの様子(『北斎漫画』十二巻より「餅は餅屋」)
葛飾北斎も餅つきの風景をユーモラスに描いています。のびすぎぃ!!(『北斎漫画』十二巻より「餅は餅屋」)

その3「出張餅つきを依頼する」



今の東京では考えられない光景ですが、年末の江戸では通りで餅をつく“出張餅つき屋”がたくさん見られました。

「引きずり餅」と呼ばれたこの出張餅つき屋は、米屋が年末だけの臨時業務としてやっていたとも。依頼をするのは自分たちで餅つきをしない商家や町人などで、依頼を受けた出張餅つき屋は臼や杵、蒸篭(せいろ)など餅つき道具を担い、依頼人の家もしくは店の前で威勢よく餅をつきました。活気ある餅つきは景気づけにもなるというので商家にも人気があったそう。

江戸時代の出張餅つき屋「引きずり餅」(『東都歳事記』「歳暮交加図」)
依頼先に呼ばれた「引きずり餅」。たくさんの人が行き交う往来での餅つきは年末の風物詩(『東都歳事記』「歳暮交加図」)
「賃餅」にしても「引きずり餅」にしても年末は大忙しで、15日から大晦日の夜明けまで昼夜を問わず餅をつく音が江戸市中に響き渡ったそうです。

餅つき芸のクールポコ
出張で威勢よく餅をつくクールポコは現代の「引きずり餅」か?

その4「歳の市」で買う


年末になると各地の神社の境内で、正月用品などを売る「歳の市」が開かれました。餅も売られていたので歳の市で買う人もいました。歳の市についてはまた後ほど。

現代では真空パックのお餅をスーパーで買う人が大多数となり、イベントとしての餅つきがあるのみとなりましたが(それすら感染症うんたらで中止されたり)、江戸時代には100万都市・江戸でも通りのあちこちで餅つきを見ることができたというのは驚きですね。

江戸時代の門松は現代のものと全然違った!



お正月飾りの準備も忘れてはいけません。現代でも年末ともなればデパートなどには立派な門松が飾られますよね。マンション用のリビングに置くことができるミニ門松なんかも売られています。

さて、門松といえば我々がイメージするのはこんな感じ。

門松

はいはい、あるある。

ところが江戸時代の江戸で見られた門松はだいぶ様相が違います。こんなの。

江戸時代の門松(深川江戸資料館)
画像引用元:Wikipedia
なにこれ、めちゃくちゃ大きいんですけど

「門松」といいながらメインは笹竹だし。

イメージする門松とは完全に別物ですが、これが江戸時代の門松。葉を繁らせた笹竹を何本がまとめ、その下に松をぐるりと巻きつけ、さらに薪を束ねたものが土台となっています。

ちなみに、写真は深川江戸資料館で再現された裕福な商家の門松で、門松の高さは財力を示すといわれ、天まで届くような門松はステータスだったのだとか。出入りの鳶職が門松を立てたそうです。

江戸時代の門松づくり(『大晦日曙草紙』より)
イケメン職人が門松づくりの真っ最中(『大晦日曙草紙』より)
なお、門松の飾り方などは地域によってかなり差があり、江戸時代の門松がみんなこんな感じではなかったのでご注意を。

ここで門松の歴史について少し。


これが門松の歴史だ!

門松の歴史は古く、その源流は平安時代にまでさかのぼるそう。常緑樹である松は「祀る」にも通じることから、古来、神様が宿る神聖な樹木とされ、歳神様を家に迎えるための依り代として門松を飾るようになったとも(諸説あり)。平安時代の貴族の遊びに「小松引き」というのがありました。これは正月初めの「子(ね)の日」に野山へ行って子松を根ごと引き抜き、長寿を願ってそれを愛でるというもの。これが時代とともに姿を変え、今の門松につながるといわれています。


前述したように12月13日は煤払い、いわゆる「大掃除の日」だったわけですが、13日には山に門松用の松を採りに行く、という重要な仕事もありました。

『東都歳事記』より「歳暮交加図」部分
『東都歳事記』より「歳暮交加図」部分
山から採ってきたのでしょうか。たくさんの松を背に乗せた馬を行商人がひいています。

現代でも門松を飾り始める時期は12月13日頃からといわれていますが、これは江戸時代の風習に由来しているんですね。ちなみに、餅つきと同じく“苦”に通じる29日と一夜飾りになる大晦日に門松を飾るのは避けるのがよいとされました。

ちなみに、吉原では松飾りを立てるのは12月25日、江戸城大奥でしめ飾りを飾るのは12月28日。場所によってバラつきはあったようです。

松飾りというと、通常は通りに正面を向けて飾りますが、吉原はちょっと違う。吉原では松飾りの正面を見世のほうに向け、通りに背を向けるかたちで飾りました。通りの反対側の見世も同様なので、道を真ん中に背中合わせに松飾りが並んだわけです。

この「背中合わせの松飾り」は吉原の正月名物だったのですが、その理由については、お客を外に出さないようにするおまじないとも通行の邪魔にならないようにするためともいわれています。

また、現代でも正月に飾る人も多いしめ飾りなども江戸時代にはあり、年末ともなれば歳の市などでたくさんのしめ飾りが売られました。しめ飾りは、歳神様をお迎えする清浄な場所を示す、災いなどが家に入らないようにする魔除け、などの役割があるんだとか。へ〜。

江戸時代、しめ飾りや注連縄(しめなわ)を売る店(『大晦日曙草紙』より 歌川国貞 画)
バラエティ豊かなしめ飾りや注連縄(しめなわ)を売る店。小さな子どももワクワクしながら見つめています(『大晦日曙草紙』より 歌川国貞 画)

店先で正月飾りする江戸時代の男性(鈴木春信 画)
2人の男性が店先で正月飾りをしています。画像右には立派な門松も(鈴木春信 画)
しめ飾りを売る店を撮影した古写真
しめ飾りを売る店を撮影した古写真。お手伝いなのか子どもの姿も見える。写真引用:長崎大学電子化コレクション

正月用品はここでゲット! 人、人、人であふれる「歳の市」



正月用品を売る年末商戦は今に始まったことではありません。生活用品を一新し、新たな気持ちで新しい年を迎えたいのは今も昔も同じでした。

正月用品などを売る「歳の市」の始まりは、江戸時代前期の万治年間(1658〜61年)頃の浅草といわれています。

現在、12月15日・16日に開かれ40万人もの人が集まるという「世田谷のボロ市」も江戸時代の「歳の市」が今に続いているものです。現在は日用品のほか食料、骨董品、古本などバラエティ豊かな品々が売られている世田谷ボロ市ですが、江戸時代には農家に必要な鎌や鍬(すき)などといった農具のほか、着物などが売られていました。

12月も半ばを過ぎると江戸の各地で歳の市が開かれましたが、なかでも特ににぎわったのが12月17日、18日に開かれた浅草寺の歳の市。”芋洗い”状態のごった返しぶりはご覧の通り。

浅草寺の歳の市(『六十余州名所図会』「江戸 浅草市」歌川広重 画)
『六十余州名所図会』「江戸 浅草市」歌川広重 画
いやあ、にぎわってます。

どんなものが売られていたかといいますと、注連縄、しめ飾り、羽子板、餅、海老、昆布、鯛、橙(だいだい)といった正月に欠かせない正月グッズのほか、まな板、桶、笊(ざる)などの台所用品や着物、鉢植えの植物なんかもありました。

縁起を担ぐ江戸っ子らしく店名も「大黒屋」とか「宝来屋」などオメデタイのが多かったよう。

女の子の正月遊びの定番、羽根つきに使う羽子板を売る店も年末の風物詩。

現在も毎年12月の17・18・19日の3日間、浅草寺境内で開かれ大勢の人が押し寄せる羽子板市も江戸時代から続いています。羽子板市も、もともとは歳の市だったのですが、羽子板を目当てにやってくるお客さんがあんまり多いので、羽子板だけを売る市として独立したんだとか。

幕末の羽子板屋(『羽子板見世の賑ひ』三代歌川国貞 画)
『羽子板見世の賑ひ』三代歌川国貞 画
これは幕末に描かれた羽子板屋さんの店先。人気役者の舞台姿をデザインしたゴージャスな羽子板がずらりと並んでいます。羽子板は羽根つきに実用されたほか、豪華なものは正月飾りとして座敷に飾られたりもしました。若い娘さんたちは、ごひいきの役者の羽子板を買って部屋に飾って眺めたことでしょう。また、魔除け・厄除けの意味を持つとされた羽子板は縁起物として重宝され、正月の贈答にも使われたほか、女の子の初正月に羽子板を贈るという風習もありました。

さて、12月中旬から各地で開かれた歳の市も大晦日ともなると、今でいう“売り尽くしセール”が行われ正月用品などが捨て値で売られました。なので、お金のない庶民は大晦日まで粘ってお買い得品をゲットしたのだそう。“売り尽くしセール”を待ち望む庶民のキモチは200年以上経っても変わらないのです。

謎の物乞い集団登場。年末風物詩の商売いろいろ



先に登場しました大掃除用の煤竹を売る「煤竹売り」や「門松売り」など、“年末限定”の商売もいろいろありました。

期間限定の商売はほかにこんなものも。

江戸時代の暦売り(『守貞謾稿』より)
『守貞謾稿』より
これは「暦(こよみ)売り」。

暦とは今でいうカレンダーのようなものです。現代でも年末になると新年用のさまざまなカレンダーが書店や雑貨店などいろんなお店で売られていますが、江戸時代には暦売りが売り歩いていました

暦売りが現れるのは年末から正月末までで、老人が多かったのだとか。江戸では「ご調宝大小柱ごよみ、綴ごよみ」という呼び声で売り歩きました。江戸の暦は現代のカレンダーとは全然別物。奥深くてユニークなのでまた別の機会に。

ほかに、神棚にお供えするお神酒(みき)徳利の口飾りを売る行商人や古いお札を集めて歩く「札納め」も暮れの風物詩。

徳利の口飾り売り(『四季交加』より 北尾重政 画)
笑顔がチャーミングな徳利の口飾り売り(『四季交加』より 北尾重政 画)
ユニークなのが「節季候(せきぞろ)」という物乞い軍団

↓これがセキゾロ。

節季候(せきぞろ)(江戸時代の門付の一種、『人倫訓蒙図彙』より)
『人倫訓蒙図彙』より
なんだこれ、怪しいぞ。

これは江戸時代前期から続く商売で、家の前で芸を見せチップをもらう「門付(かどづけ)」の一種。2〜3人ほどでグループを結成し、赤・白・青など色とりどりの紙で飾った編み笠をかぶったり、赤い布で顔を隠し頭にウラジロをつけた笠をかぶったり、松竹梅を描いた紙エプロンをつけたりと、メデタイんだかヘンテコなんだかよくわからないファッションで登場しました。

見るからにやかましそうな節季候ですが、これが騒音的な意味で本当にやかましかった

手に太鼓やササラという竹製の楽器、拍子木を持ちそれを鳴らしまくったうえ、「節季候、節季候、めでたい、めでたい」「節季ぞろぞろ、さっさござれや、さっさござれや」などと囃し立てたのです。

正直、メーワクもいいところ。正月準備で忙しい店先や家先でこれをやられた人々は「これあげるからどっかいって!」とばかりにお金や米などを与えて追っ払ったんだとか。そりゃそうだ。

最初は江戸・京・大坂の三都で見られた節季候ですが、江戸時代後期になると江戸だけになってしまったそう。うるさすぎたのかしらん・・・。

アイデア勝負の珍商売がたくさんあった江戸の町ならではの商売ですね。

最後は大晦日の吉原にだけ出現する謎のキツネ男

狐舞い(『隅田川両岸一覧』より「吉原の終年」葛飾北斎 画)
『隅田川両岸一覧』より「吉原の終年」葛飾北斎 画
画像中央にいるキツネ面をかぶっているのがそれで、「狐舞い」といいます。

吉原に限り、獅子舞ではなく狐舞いがやってきたのですが、華やかな吉原らしく狐舞いのビジュアルも華麗。白面のキツネ面に赤熊(しゃぐま)の毛をかぶり、身にまとうは錦の衣装。

御幣や鈴を手にしたキツネが笛・太鼓のお囃子とともに舞い踊る姿はさぞや美しかったことでしょう。でも、キツネ男は吉原の遊女たちにとっても嫌われていました。

なぜなら、

狐舞いに抱きつかれると妊娠する」という噂が真しやかに流れていたから。

遊女にとって妊娠は商売の妨げになるので、まああの手この手で避妊をしていました。ですので、狐舞いが妓楼に上がり込むと遊女たちは逃げ回ったそうです。なんと美しき鬼ごっこかな。

大晦日名物!? 借金取りVS債務者の熾烈なバトル



商売とはちょっと違いますが、“借金取り”も年末のある意味、風物詩でした。

江戸時代、人々は「掛売り」いわゆる“ツケ”で買い物をすることが多く、支払いは盆と暮れの2季払いというのがスタンダードでした。とはいえ、「ない袖は振れぬ!」とツケを踏み倒されては商売あがったりなので、貧乏人はニコニコ現金払いが基本だったもよう。

そういうわけで、盆と暮れになると商人が“ツケ”をしている人の家に行き代金を回収するのですが、1年の最終日である大晦日は総決算日。

取り立てる方も取り立てられる方もまるで気合が違いました。

闇金ウシジマくん
闇金ウシジマくんより。
取立て屋と化した商人たちは紋付の提灯を手に、大晦日が終わってしまう午前6時頃(明け六つ)まで徹夜で取立てに奔走しました。ウシジマくんばりの過酷な取立てをする者もいたのか「債鬼(さいき)」なんて呼ばれていたとか。鬼じゃ〜、鬼がきよった〜。

取り立てられる方も必死です。

真面目な者はちゃんと期日までにお金を用意したり、あちこちに頭を下げてお金を工面するなどしましたが、なかには仮病を使ったり、居留守を使ったり、一晩中トイレにこもってやり過ごすツワモノもいました。

大晦日の借金攻防戦は年末名物のようなもので、落語や川柳、小説の恰好の題材となりました。


「大晦日 首でも取って くる気なり」


金払えねぇんなら、首おいてけ! 借金取りの気合と覚悟がビシビシ伝わります。

対して、取り立てられる側のキモチを詠んだ川柳。


「大晦日 よくまわるは 口ばかり」


金欠でクビはまわらないけど、言い訳をする口はペラペラとよくまわる、というわけ。いるよね〜こういうヤツ。

井原西鶴の『世間胸算用』(1692年)は大晦日の町人たちの悲喜こもごもを描いた娯楽本ですが、そこにも借金を踏み倒そうと知恵をしぼる男が登場します。

借金を踏み倒そうとする男(『世間胸算用』井原西鶴 作)
画像中央、モロ肌ぬぎになっているのが借金をしている男。男は取立てに来た商人たちに「俺に返す金はない!だからもう今から死ぬんだ!!」と自殺をほのめかします。もちろんブラフです。悪質です。

でもこれが功を奏し「いやぁ、死んじゃいかんよ」と借金取りたちはあきらめて帰ります。でも、取立てに来た材木屋の丁稚だけは「嘘の匂いがする」と男の作戦を見破りやり込めます。画像はまさに丁稚にやり込められているところです。

とまぁ、こんな感じの傍目にはとってもおもしろい攻防戦が大晦日が来るごとに行われていたのです。

「お歳暮」はもともと神様へのお供えを贈り合う習慣



12月になるとよく目にする「お歳暮」の文字。スーパーやデパートでもお歳暮商戦が盛んに行われていますよね。お世話になった人や会社の上司などに感謝の気持ちを込めてハムやらビールやらを送る習慣、として根付いているお歳暮。江戸時代にもお歳暮の習慣がありました。が、今とはだいぶ違う。

そもそも「歳暮」とは「年の暮れ」を意味する言葉で、年末に贈り物を贈り合うイベントのことではありませんでした。

で、贈り物も今なら「これを贈ったらあの人喜んでくれるかな?」と“相手の喜ぶもの”を贈るのが当たり前となっていますが、本来、お歳暮の贈り物は祖先の霊や歳神様へのお供えでした。

神霊への感謝と祈りを込めたお供え物を年の暮れである「歳暮」に分家から本家へ、あるいは子から親へ贈るのがお歳暮のかつての姿だったわけです。

今なら宅急便で送るのが一般的なので、江戸時代もお歳暮シーズンには飛脚が大忙しだったんじゃないかと思うかもしれませんが、

それはナイ

問答無用で手渡し

日頃の感謝と新年への祝いを込めた贈り物を手渡しし、挨拶に伺うことが重要なわけで、少々遠方でも飛脚で送るなんてことはありませんでした。

親族間で行われていた歳暮の贈答はやがて武家、商人、庶民へと広がっていき、年末の一大イベントへとなっていきました。

江戸城では12月25日から「歳暮のご祝儀」として諸大名から献上物が続々と届けられたそうで、28日には御三家をはじめ徳川一門が江戸城に登城し、歳暮の贈り物と挨拶をする儀式があったようです。

『東都歳事記』「歳暮交加図」
画像右下に見える紋付の荷物はどこかの大名のお歳暮でしょう(『東都歳事記』「歳暮交加図」)
贈る品も今では食品から日用品までなんでもありですが、江戸時代には塩鮭やブリ、鰹節などの海産物や餅など、大晦日に食べる「年取り膳」で食べられる食品が一般的でした。

恒例行事として当たり前になりすぎて由来とか考えたことなかったですが、お歳暮にはそんな歴史があったんですね。

江戸っ子の大晦日はやっぱり年越し蕎麦で〆る



さぁ、いよいよ大晦日。

現代人の年越しスタイルといえば、12月31日の深夜0時に鳴る除夜の鐘を聞きながら(もしくはテレビで見ながら)年越し蕎麦を食べる、というのが多いんではないでしょうか。

でも、太陽が沈むと1日がおしまい、と考えられていた江戸時代大晦日の日没が年越しのタイミングでした。なので、大晦日の夜にお雑煮や年取り膳を食べ、歳神様をお迎えしたのです。ちなみに歳神様をお迎えするため大晦日の夜は一晩中、神社などにこもって寝ずにもの意味する習慣もあったんだとか。眠い!

なお、“不夜城”吉原も大晦日は午後10時頃(引け四つ)で全店閉店、元日も終日休業でした。なので、「吉原できれいな遊女を侍らせて寝正月とシャレこもう!」なんてことはどんなお金持ちにもできませんでした。

さて、大晦日に欠かせないBGMといえば除夜の鐘でしょう。

「除夜」とは「旧年を除く」という意味で、大晦日の夜に除夜の鐘をつくようになったのは奈良時代からなのだとか(諸説あり)。そんな昔からゴーン、ゴーンやってたんですね。ちなみに108回鳴らすのは人間の煩悩の数が108つと仏教でいわれており、鐘をつくことで煩悩をひとつずつ心から突き出してしまおうというわけです。

もうひとつこれがなくちゃ年が越せないというのが年越し蕎麦。

蕎麦といえば江戸グルメの代表格ですから、もちろん年越し蕎麦は大晦日の定番でした。

『どうれ百人一首』より年越し蕎麦をすする男性
『どうれ百人一首』より年越し蕎麦をすする男性
余談ですが、江戸っ子=蕎麦大好き!みたいなイメージがありますが、じつは江戸時代中期以前は江戸でも蕎麦よりうどんの方が人気でした。ナンテコッタイ。また、古くは今でいう蕎麦がき=蕎麦で、麺状のものは「蕎麦切り」と呼ばれ別メニューでした。

やがて蕎麦の人気はうどんを凌駕し、江戸っ子はなにかにつけ蕎麦を食べたり、蕎麦を贈ったりするようになりました。引っ越したら「引っ越し蕎麦」、吉原の遊女が馴染み客から布団をプレゼントされたらご祝儀に蕎麦・・・てな感じです。歌舞伎役者は舞台でセリフを間違えると「とちり蕎麦」といって共演者や関係者に自腹で蕎麦を振る舞う、なんてユニークな慣習もあったそう。また、商家などでは毎月末(晦日〈みそか〉)に「今月も無事に過ごせたね」といって蕎麦を食べました。この「晦日蕎麦」のラストを飾るのが大晦日に食べる年越し蕎麦であり、江戸時代中期頃には庶民にも年末の恒例イベントとして定着したようです。

江戸時代中期に刊行された『眉斧日録(びふにちろく)』という本にも「闇をこねるか大年(大晦日)の蕎麦」とあります。

江戸の二八蕎麦屋(『大晦日曙草紙』より)
江戸の二八蕎麦屋。おいしそうに蕎麦をすするお客で賑わっています(『大晦日曙草紙』より)
なお、2月初旬の立春の前日に食べた「節分蕎麦」こそが年越し蕎麦だった、という説もあります。「年越しになんで蕎麦?」という理由については諸説あり、未だに決着はついていません。有名な説をざっと列挙するとーー



その1「細く長く説」

細く長い蕎麦にあやかって長寿を願う、というもの。

その2「運蕎麦説」

鎌倉時代に博多の承天寺で謝国名という人が、年末に貧しい人々に「世直し蕎麦」として人々に蕎麦餅を振る舞い、それを食べた人々の運気が上がったことにあやかって、というもの。

その3「切れやすい説」

ブチっと切れやすい蕎麦を食べ、1年の厄災や穢れ、なんなら借金とも縁を切ろう、というもの。

その4「蕎麦たくましい説」

激しい風雨にさらされても日が当たれば再び立ち上がる蕎麦のたくましさにあやかろう、というもの。

その5「金運説」

金銀細工師が金箔を打つ時にソバ粉を使ったり、金粉を集めるのに蕎麦団子を使ったことから、蕎麦はお金を集める縁起物、というもの。

その6「デトックスフード説」

蕎麦には五臓六腑を清める効果があり、蕎麦を食べ清らかな身体で新年を迎えよう、というもの。




などなど。どれもそれっぽくもあり、後付感もあり・・・果たして真実はどれだ!?

なお、具体的にどんな蕎麦メニューを年越し蕎麦として食べていたのかは残念ながら不明・・・。江戸時代はミニ氷河期で今より寒かったから、かけ蕎麦じゃないかと個人的には予想しています。でも意地っ張りな江戸っ子のことだから「もり蕎麦を寒い時に食べるのが粋☆」とか言いそうな気もしますね。

こうして大晦日の夜も更け、日が昇ればめでたい元日となりました。

あけましておめでとうございます。

大掃除に餅つき、年末セールに年越し蕎麦ーー今でも続く年末の恒例イベントは江戸時代にぜんぶあったんですね。意味が消えたもの、姿を消したものもありますが、伝統行事として大切にしたいものです。

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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?

銀ブラをする昭和の女性1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。『水鶏にだまされて』石川豊信 画(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。


江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?

パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。「アンネナプキン」発売の広告「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。