• 更新日:2022年4月3日
  • 公開日:2016年12月13日


江戸時代の門松は現代のものと全然違った!


お正月飾りの準備も忘れてはいけません。現代でも年末ともなればデパートなどには立派な門松が飾られますよね。マンション用のリビングに置くことができるミニ門松なんかも売られています。

さて、門松といえば我々がイメージするのはこんな感じ。

門松

はいはい、あるある。

ところが江戸時代の江戸で見られた門松はだいぶ様相が違います。こんなの。





江戸時代の門松(深川江戸資料館)
画像引用元:Wikipedia
なにこれ、めちゃくちゃ大きいんですけど

「門松」といいながらメインは笹竹だし。

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イメージする門松とは完全に別物ですが、これが江戸時代の門松。葉を繁らせた笹竹を何本がまとめ、その下に松をぐるりと巻きつけ、さらに薪を束ねたものが土台となっています。

ちなみに、写真は深川江戸資料館で再現された裕福な商家の門松で、門松の高さは財力を示すといわれ、天まで届くような門松はステータスだったのだとか。出入りの鳶職が門松を立てたそうです。

江戸時代の門松づくり(『大晦日曙草紙』より)
イケメン職人が門松づくりの真っ最中(『大晦日曙草紙』より)
なお、門松の飾り方などは地域によってかなり差があり、江戸時代の門松がみんなこんな感じではなかったのでご注意を。

ここで門松の歴史について少し。

これが門松の歴史だ!

門松の歴史は古く、その源流は平安時代にまでさかのぼるそう。常緑樹である松は「祀る」にも通じることから、古来、神様が宿る神聖な樹木とされ、歳神様を家に迎えるための依り代として門松を飾るようになったとも(諸説あり)。平安時代の貴族の遊びに「小松引き」というのがありました。これは正月初めの「子(ね)の日」に野山へ行って子松を根ごと引き抜き、長寿を願ってそれを愛でるというもの。これが時代とともに姿を変え、今の門松につながるといわれています。

前述したように12月13日は煤払い、いわゆる「大掃除の日」だったわけですが、13日には山に門松用の松を採りに行く、という重要な仕事もありました。

『東都歳事記』より「歳暮交加図」部分
『東都歳事記』より「歳暮交加図」部分
山から採ってきたのでしょうか。たくさんの松を背に乗せた馬を行商人がひいています。

現代でも門松を飾り始める時期は12月13日頃からといわれていますが、これは江戸時代の風習に由来しているんですね。ちなみに、餅つきと同じく“苦”に通じる29日と一夜飾りになる大晦日に門松を飾るのは避けるのがよいとされました。

ちなみに、吉原では松飾りを立てるのは12月25日、江戸城大奥でしめ飾りを飾るのは12月28日。場所によってバラつきはあったようです。

松飾りというと、通常は通りに正面を向けて飾りますが、吉原はちょっと違う。吉原では松飾りの正面を見世のほうに向け、通りに背を向けるかたちで飾りました。通りの反対側の見世も同様なので、道を真ん中に背中合わせに松飾りが並んだわけです。

この「背中合わせの松飾り」は吉原の正月名物だったのですが、その理由については、お客を外に出さないようにするおまじないとも通行の邪魔にならないようにするためともいわれています。

また、現代でも正月に飾る人も多いしめ飾りなども江戸時代にはあり、年末ともなれば歳の市などでたくさんのしめ飾りが売られました。しめ飾りは、歳神様をお迎えする清浄な場所を示す、災いなどが家に入らないようにする魔除け、などの役割があるんだとか。へ〜。

江戸時代、しめ飾りや注連縄(しめなわ)を売る店(『大晦日曙草紙』より 歌川国貞 画)
バラエティ豊かなしめ飾りや注連縄(しめなわ)を売る店。小さな子どももワクワクしながら見つめています(『大晦日曙草紙』より 歌川国貞 画)

店先で正月飾りする江戸時代の男性(鈴木春信 画)
2人の男性が店先で正月飾りをしています。画像右には立派な門松も(鈴木春信 画)
しめ飾りを売る店を撮影した古写真
しめ飾りを売る店を撮影した古写真。お手伝いなのか子どもの姿も見える。写真引用:長崎大学電子化コレクション

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