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お花見のメッカのひとつ、隅田川沿いでのお花見風景。満開の桜のもと、誰もかれもが浮かれ気味(『倭風俗墨堤の花』揚州周延 画)
桜だけじゃない!? いろんな花で花見を楽しんでいた江戸っ子たち
現代、私たちが「お花見」という言葉を聞くと一般的には「桜を眺めること」をイメージしますが、江戸時代のお花見は桜に限りませんでした。春の桜に限らずシーズンごとに花見しまくってます。
寒い冬が終わる早春。まず人々の目を楽しませたのが梅の花。「花見は梅にはじまる」なんていわれたんだとか。ちなみに、梅の花見はご老人やインテリ層に人気のちょっと渋い系だったそう。

色っぽいお姉さまがたが梅見をしています。江戸には、蒲田の「梅屋敷」をはじめ梅の名所もたくさんありました(『十二月の内 衣更着 梅見』三代歌川豊国 画)
余談ですが、日本におけるお花見の歴史は奈良時代の貴族たちにあるそうで、彼らが中国からやってきた梅を観賞したのがお花見の起源とも(諸説ありますが)。つまり、梅の花見は王道だったんですね。
ついでにお花見の歴史をもう少し。
平安時代になると、貴族たちは桜の花見を楽しんだそうで、桜を愛でながら和歌を詠んだりしました。この花見文化は鎌倉・室町時代には武士層にも広まります。太閤・豊臣秀吉が最晩年に開いた「醍醐の花見」は特に有名。
そして泰平の世を謳歌する江戸時代、花見は庶民にも広まり、桜のもとでドンチャン騒ぎをする現代のような花見スタイルも誕生したのです。おしまい。
さて話を戻します。
梅のシーズンが終わるといよいよ桜の季節。桜のお花見はのちほどくわしくご紹介するので割愛。
桜と同じ頃に見頃を迎えるのが桃の花。桃見の名所は、かの“犬公方”こと五代将軍・徳川綱吉が「生類憐みの令」の一環で中野(現・東京都中野区)につくった巨大犬小屋の跡地に、八代将軍・吉宗がたくさんの桃の木を植えて桃園にした場所でした。
犬小屋から桃園への劇的ビフォー&アフター。ちなみに、桃見はファミリー層に人気だったとか。
桜と桃が散るとお次は藤。亀戸天神の藤は特に有名で、その香り立つような風景を描いた浮世絵は目にしたことがあるんじゃないでしょうか? これとか。

歌川広重の傑作シリーズ『名所江戸百景』より「亀戸天神境内」。太鼓橋と藤の花のコラボレーションが見事。画面奥には藤見物の人々が見えます
藤と時を同じくして咲き誇るツツジも大勢の人々の目を楽しめました。ツツジというと現代人には庭木とか街路の植栽というイメージですが、江戸時代にはお花見の対象だったんですね。ちょっとビックリ。
日差しが強くなってくると蓮のシーズン到来。蓮の名所としてにぎわった上野の不忍池は、現代でもたくさんの蓮が咲き、初夏の風物詩として人気スポットです。

不忍池に咲く蓮。例年見頃は7月から8月上旬。画像引用元:東京人の東京観光
そして江戸っ子たちのお花見は秋の菊で締めくくりとなったのです。
季節ごとの花をそれぞれの名所に見に行く。風流でいいですね。あらためてまとめると。
江戸時代の花見の流れはこれだ!
梅の花見→桜の花見&桃の花見→藤の花見&ツツジの花見→蓮の花見→菊の花見
梅の花見→桜の花見&桃の花見→藤の花見&ツツジの花見→蓮の花見→菊の花見
では、いよいよ本題の桜のお花見について。
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江戸っ子が見ていた桜はどんなもの?
「桜」といってもさまざまな品種があり、現在では300種以上もの品種があるんだとか!とはいえ日本にある桜の多くが「ソメイヨシノ」と呼ばれる品種で、私たちが見ている桜はだいたいこれ。「桜の開花予想」で基準となるのもソメイヨシノです。
しかし、ソメイヨシノが品種改良により誕生したのは江戸時代末期から明治時代初期といわれ、ソメイヨシノが全国各地に咲き誇るようになるのは明治時代以降のこと。つまり、江戸っ子が眺めていた桜と私たち現代人が眺める桜はちょっと違っていたわけです。
では、江戸時代の桜はどんなものだったのか?

こちらは『梅園草木花譜』という江戸時代の植物図鑑に描かれた「彼岸桜」という名前の桜。春分の頃に咲く早咲きの桜で、お花見のトップバッターを飾りました。
ほかにも「山桜」という花と葉が同時に開くものや、八重桜、しだれ桜などいろんな種類の桜が当時からありました。

『梅園草木花譜』にはさまざまな桜が登場。画像右下は「山桜」の一種と思われます
「花見」というと「あっという間に終わってしまう」というイメージがありますが、江戸時代、お花見の名所として有名だった上野などには開花時期の異なる桜が何種類も植えられていたため、1カ月くらいお花見を楽しむことができたようです。
さて、お次はどこでお花見をしたか? 江戸っ子が殺到した数百年前の人気お花見スポットをご紹介!
江戸の桜の名所、プロデューサーはあの“暴れん坊将軍”!?
四季折々の花たちそれぞれに名所があったように、桜にももちろん名所がありました。では、江戸&江戸近郊のお花見スポット5選をどうぞ!
お花見スポットその1

親子でしょうか。お弁当を持ってお花見にやってきたようです(『江戸名所発句合之内 上野』二代歌川豊国 画)
人気バツグン! 桜を見るならここに決まり!!
上野
現代でもお花見の名所として大人気の上野は、江戸時代初期からお花見のメッカとして大人気。
三代将軍・徳川家光が、桜の絶景で有名だった奈良の吉野を上野に再現しようと桜を植えさせたことがきっかけで桜の名所になったんだとか。江戸の中心地に近いというアクセスのよさもポイント高し。

「生まれながらの将軍である」の名言で有名な家光さま。まさかお花見と深い関係があったとは
しかし、上野といえば徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺のある神聖な場所。そのため次のような厳しいルールがありました。
- 暮れ六ツ(午後6時半頃)には閉門。時間になれば花見客も締め出し
- 酒を飲むのはダメ!
- 三味線や太鼓など鳴り物もダメ!
酒を飲んで騒ぎたい向きにはこれはツライ。「花を見るより騒ぎたい方はどうぞ別の場所へ行ってください」というスタンスです。「山同心(やまどうしん)」という今の警備員のような役人も見回りをしていたのでヘタするとたいへんなことになります。

浮世絵からも静かなお花見のようすが伝わってきます(『江戸名所 上野東叡山境内』歌川広重 画)
江戸時代、やかましい酔っ払いのいない上野のお花見は、静かに桜を楽しみたいご年配の方々や子ども連れの女性陣などに人気があったようです。

神聖な上野ですが、花見客のなかにはこんな風にハメを外してはしゃぐ大人たちもいたのでしょう。目隠しした「鬼役」の男性から必死に逃れる中年女性(画像右)は、必死すぎて帯は解けてます。それにして絶妙にイラっとする表情だ(『江戸名所道外尽 二十一 上野中堂二ツ堂花見」歌川広景 画)
続いてはこちら。
お花見スポットその2

男女のグループがお花見中。女性は手に三味線を持っています。盲目の男性が気づかずに入ってきたことでお弁当はぐちゃぐちゃに。でもみんな楽しそう(『江戸名所道外尽 五 飛鳥山の花見」歌川広景 画)
名将軍プロデュースの名所で心ゆくまでドンチャン騒ぎ
飛鳥山
上野の花見が上品系なら、“いかにもお花見!”な飲めや歌えの大騒ぎ客でにぎわったのがこちらの飛鳥山。同地は現在、東京都北区にある飛鳥山公園となっていますが時代は変われど今でもお花見の人気スポットです。
上野がお花見の名所となったきっかけは三代将軍・家光だった、というのは先ほどご紹介しましたが、飛鳥山がお花見の名所になったのもやっぱり徳川将軍が関係しています。その人物とは、“暴れん坊将軍”でおなじみの八代将軍・吉宗公です。

「徳川幕府中興の祖」ともいわれる吉宗。ドラマのように町人のふりをして事件を解決することはありませんでしたが、幕府の抱える問題の解決に尽力しました
教科書でなんとなーく習った記憶があるかもしれませんが、吉宗は「享保の改革」という幕府立て直し改革をした将軍です。倹約したり、目安箱を置いたり。で、その「享保の改革」の一環で吉宗は「庶民のためのレジャースポットづくり」を行ったのです。
改革には痛みがつきもので、享保の改革では庶民(とくに農民)に大きな負担がかかりどうしても不満がたまる。そこで、レジャースポットをつくることで人々のストレスを発散させる狙いもあったと思われます。もしくは、各地にレジャースポットをつくることで経済効果を狙った、という見方もあります。いずれにせよ絶妙だぞ、吉宗。
さて、先ほどご紹介した上野は吉宗の頃にもお花見スポットでしたが、前述したようにいろいろと厳しいルールがあり思いっきり羽を伸ばして楽しむことはできませんでした。
そこで吉宗は、ハメを外してお花見をできる新・お花見スポットとして飛鳥山に1,000本を超える桜を植樹。結果、飛鳥山は江戸のガイドブック『江戸名所図会』に「きさらぎ・やよひの頃は桜花爛漫として尋常の観にあらず」と表現されるまでの桜の名所となったのです。

丘全体を埋めつくすように植えられた桜が満開になったらさぞかし壮観だったことでしょうね(『飛鳥山はな見』歌川広重 画)
上野とはちがって飛鳥山は江戸の中心地から離れた場所にあるので、お花見へ行くといっても「日帰り旅行」みたいな感覚。でも、その“非日常感”がより人々の心をよりいっそうトキめかせたに違いありません。
余談ですが、飛鳥山のお花見にはユニークな遊びがありました。それがこの「土器(かわらけ)投げ」。

着飾った女性の手には盃のような土器が。これから投げるところでしょうか(『江戸自慢三十六興 飛鳥山投土器』歌川広重・歌川豊国 画)
「土器投げ」というのは文字どおり、土器を崖などの高い場所からエイヤと遠くへ投げとばす遊び。現代だとクレーム必至な危険な遊戯だ。
投げるときに願いを込めたんだとか。飛鳥山以外の場所でも行われたようですが、飛鳥山は特に「土器投げ」スポットとして有名だったようです。
さて、続いてのお花見スポットも吉宗プロデュース(またか!)。
お花見スポットその3

家族連れのグループでしょうか。おそろいの日傘を手にした団体が隅田川沿いでのお花見をエンジョイ!(『隅田川花見』歌川国芳 画)
舟からながめる桜はまた格別
隅田川堤(墨堤)
隅田川沿いは現代でも桜並木が続いており、桜×隅田川×スカイツリーのトリプルコラボで大人気。
隅田川堤が大人気お花見スポットとなったきっかけもやはり徳川吉宗公。向島から千住まで1里(約4㎞)にわたりたくさんの桜を植えました。
隅田川堤に桜を植樹した理由は「土手の強化」ですが、結果的にお花見スポットとしてたくさんの人が集まったのですから一挙両得です。
ちなみに、同地がお花見スポットになった「そもそも」は、吉宗より先の四代将軍・家綱が観賞用の桜を隅田川堤に植えたことらしいのですが、完全に吉宗の功績になっています。まあ、知名度の差か……。
隅田川堤のお花見といえば、舟をやとって船上から桜を楽しむのがセレブ流。そのまま向島の料亭へ向かったり“不夜城”吉原へ繰り出す、なんてスペシャルお花見プランを楽しむこともありました。

美しい芸者たちに囲まれて極楽気分の酔っ払い。舟でのお花見も隅田川堤ならでは(『花見帰り隅田の渡し』渓斎英泉 画)
次もまたまた吉宗公プロデュース。
お花見スポットその4

桜が咲き誇る小高い丘から雄大な海を眺められるという抜群のロケーションから大勢の人々が集まりました(『東都名所 御殿山花見 品川全図』歌川広重 画)
桜と海を同時に楽しめるキング・オブ・行楽地
品川御殿山
江戸の入り口にあたる品川は要衝の地であり、江戸時代初期には将軍が鷹狩りをする際の休憩所もありました。
飛鳥山や隅田川堤と同じく、御殿山も吉宗によって桜の植樹が進められお花見の名所となりました。江戸市中からちょっと足を伸ばしただけで絶景が楽しめる御殿山は、春は桜、夏は潮干狩り、秋は紅葉……と季節ごとの行楽が楽しめる江戸屈指のレジャースポットとしてにぎわいました。

海風を感じながらのお花見はさぞかし気持ちよかったでしょうね(『江戸名所 御殿山花盛』歌川広重 画)
しかし、幕末の到来とともに品川御殿山の絶景は失われます。
ペリー来航の際、幕府が砲台建造のため御殿山を切り崩したのです。明治時代には鉄道も走るようになり、変わりゆく時代のなかで江戸っ子が愛した行楽地は姿を消しました。
かつての御殿山は現在の東京都品川区北品川。高級ホテルや高層ビルが建ち並ぶ「大都市・東京らしい」エリアになりましたが、桜並木が整備されており今も春になると桜を楽しむ人々でにぎわっています。
最後も吉宗関係。
お花見スポットその5

とうとうと流れる水と桜の美しきマリアージュ。手前に大きく描かれた桜の幹から富士山がのぞくという構図が斬新です(『冨士三十六景 武蔵小金井』歌川広重 画)
たまには泊まりがけのお花見はいかが?
小金井(玉川上水堤)
江戸っ子が自慢にしていた「水道」に水を供給していた玉川上水の両岸およそ6㎞にわたる桜並木を目当てに人々が集まりお花見の名所となったのが小金井。その絶景は多くの浮世絵にも描かれ、江戸市中からは泊まりがけでないと行けない場所だったにも関わらず大人気でした。
小金井がお花見の名所となったきっかけもやっぱり吉宗。新田開発の一環で、玉川上水の両岸に奈良の吉野などから取り寄せた桜の苗木を植樹しました。隅田川堤と同じく護岸が目的でしょうね。

明治時代に撮影された小金井でのお花見風景。玉川上水の両岸には花見客を見込んだ茶屋も建ち並び、昭和初期までお花見の名所としてにぎわったそう。画像引用元:長崎大学附属図書館
ほかにも“俳聖”松尾芭蕉が「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と詠んだ浅草や、月見や虫聴き(虫の鳴き声を楽しむ風流な遊び)の名所として知られた道灌山(どうかんやま)なども人気お花見スポットとして多くの人々が集まりました。
現在でも目黒川や上野恩賜公園など超人気お花見スポットにたくさんの人が殺到しますが、江戸時代にもこんなにお花見スポットがあったんですね。
ちなみに、江戸城大奥の女性たちもお花見を楽しんでいたのですが、場所は江戸市中ではなく江戸城の敷地内にある吹上御苑(ふきあげぎょえん)という広大な日本庭園。

『千代田之大奥』「御花見」揚州周延 画
お花見の開催日は桜の開花時期によって変わったそうで、桜が見頃となると吹上御苑のあちこちに幔幕(まんまく)を張ってお花見会場にしたんだとか。この時ばかりは無礼講となったので、奥女中たちも日頃のストレスを発散したことでしょう。
人工的につくられた春限定の大イベント、吉原の夜桜
気軽には行けないけれどお花見の名所として有名だったのが、吉原です。

遊女と夜桜ーーなんとも色っぽい組み合わせ(『吉原仲之町』歌川広重 画)
美しい遊女たちが待つ“不夜城”吉原は庶民にとって憧れの場所でしたが、なかでもお花見の季節は特別でした。
吉原のメイントリート「仲の町」に咲く満開の桜は夜になると雪洞(ぼんぼり)の灯りに照らされました。そこにしゃなりしゃなりと歩を進める花魁道中が通りかかるのですから、この世のものとは思われない妖艶さだったことでしょう。
そんな特別感しかない吉原の桜ですが、じつは植木職人の手によってつくり出された春限定の人工物だったのです。
毎年、旧暦の3月1日になると植木屋さんが吉原に開花前の根付きの桜の木を運び込み、メインストリートに植えました。茶屋からの眺めも考慮して高さ調整も行われたそう。なんという気配り!そして、桜が散ってしまう3月下旬までにすべての桜の木は再び植木職人によって引っこ抜かれました。う〜む、すごい。吉原のエンタメへのこだわりに執念を感じます。
江戸時代へタイムスリップしたらぜひ吉原の夜桜を見てみたいものです。
ファッション自慢にコスプレ、コント、恋の始まりも!?
現代人でもお花見へ行くとなったらワクワクしますが、娯楽が少ない江戸時代、お花見は現代人が感じる以上に大イベントでした。前日からいそいそと支度をし、雨が降らないようにテルテル坊主に願いをかけるーー。
特に女性たちの気合いの入れようはスゴかった。
睡眠時間を削って念入りに化粧をし、お花見用に特別に用意した「花見小袖(花衣とも)」と呼ばれる晴れ着に身を包みました。その着飾りっぷりは正月以上だったとも。

画像左の女性は貝殻がデザインされた個性的な着物。女性たちはセンスをフルに発揮して自慢のファッションでお花見にのぞみました(『隅田堤花盛』渓斎英泉 画)
しかもユニークなのがお花見会場に到着したあと。
お花見場所を確保すると女性たちは自慢の小袖を脱ぎ、袖にひもなどを通して木に吊るし幔幕の代わりにしたんだとか。艶っぽいですね、男性たちの視線が釘づけになったこと間違いなし。

『絵本艶庭訓』に登場するお花見のようす。小袖を吊るして幕のようにしているのがよくわかります
美しく着飾った女性たちが集まるわけですから、お花見は男女の出会いの場にもなったようです。女性たちが気合いを入れるのもうなずけます。きっとお花見からはじまる恋もあったはず。

桜の美しさも霞むばかりのうるわしき美女たち。一目惚れもあった?(『風流花見姿絵』菊川英山 画)
おそろいファッションでお花見を楽しむかわいらしいグループ客もいました。

『江戸名所 飛鳥山花見乃図』歌川広重 画
おそろいの日傘が楽しいこちらのグループは寺子屋の師匠(先生のこと)と習い子(生徒のこと)たちらしい。
子どもたちが読み・書き・そろばんなどを学ぶ寺子屋では、師匠がたくさんの習い子を引率してお花見することもよくあったとか。小学校の遠足みたいですね。一説に寺子屋に習い子を呼び込むためのPR活動でもあったとも。
さて、お花見といえばちょっとハメを外してドンチャン騒ぎがつきもの。
現代だとカラオケしたり一発芸を披露したり、コスプレしたりする人たちもいますよね。江戸時代はどうだったかというと...まあだいたい同じ!
江戸時代の人々も三味線をつま弾きながら吟じたり、踊りやモノマネを披露したり、コスプレをする人もいたそう。たとえば男性が女装したり、女性が男装したり、歌舞伎のキャラクターになりきってみたり。やることは時代が変わってもあんまり変わらない。

女形(おやま)の所作でしょうか。扇子を手にした男性が、腰をくねらせながら三味線にあわせて踊っています(『浪花名所図会 安井天神山花見』歌川広重 画)
「茶番」という即興劇も花見の余興として人気だったそうで、なかなか凝った出し物を演じるグループもいたらしい。
ほかにも俳諧に興じるグループなんかもいました。インテリ層は古式ゆかしく詩歌を詠んだりしました。

よつんばいになった男性の背を踏み台にした女性が、桜の木に句をしたためた短冊を結ぼうとしています。恋の句かな?(『十二ケ月の内 三月 花見』渓斎英泉 画)
やっぱり花より団子! お花見グルメは花見弁当&酒、そして桜餅
「花より団子」という言葉がありますが、このあたりも江戸っ子も現代っ子も似たようなもの。お花見グルメといったらまず思い浮かぶのが「お花見弁当」でしょう。

重詰のイメージ
最近だとSNS映えするフォトジェニックなお弁当もたくさんありますよね。江戸時代の人々もお花見には豪華なお花見弁当を持って行きました。日頃は食べないような豪華メニュー満載の重詰スタイル。

女性が重詰のお弁当を手にしています(『御殿山の花見』可笑斎春扇 画)
一体、どんなお花見弁当に舌鼓を打っていたのか気になりますよね?
江戸時代の料理本『料理早指南』にお花見弁当のメニューがくわしく説明されていますので、ちょっとご紹介しますとこんな感じ。
- 一の重
- かすてら玉子、わたかまぼこ(アワビのワタ入りかまぼこ)、若鮎色付焼、ムツの子、早竹の子旨煮、早わらび、打ぎんなん、長ひじき、春がすみ(寄物)
- 二の重
- 蒸かれい、桜鯛、干大根、甘露梅
- 三の重
- ヒラメとサヨリの刺身(白髪ウドとワカメ添え)
- 四の重
- 小倉野きんとん、紅梅餅、椿餅、薄皮餅、かるかん
- 割籠(わりご)
- 焼きおむすび、よめな、つくし、かや小口の浸物
春の味覚が満載で、文字だけでおいしそうですね。なお、こちらのメニューは「高級お花見弁当」なので、あくまでセレブ向け。
ちなみに、これと対照的なのが落語『長屋の花見』に登場するドケチ大家さん作のお花見弁当。そのメニューは、酒の代わりに番茶、かまぼこの代わりに大根の半月切り、卵焼きの代わりにタクアンというもの。おい、大根ばっかりじゃないか!(怒
まぁ、これはあくまでフィクションのなかのドケチ弁当なのであれですが、庶民も“ハレの日”仕様のお花見弁当を楽しんだことでしょう。
お花見をはじめ、紅葉狩りやお月見などのレジャーに活躍したのが「提重(さげじゅう)」というピクニック用携帯お弁当セットです。

こちらは金蒔絵が施されたゴージャスな提重。
提重には、重箱のほか、お盆、徳利、盃、取り分け用の銘々皿、お盆などがコンパクトに収納されていました。こんな超便利グッズが江戸時代にあったなんてビックリです。
さて、こちらもお花見には絶対に欠かせない「花見酒」。

お猪口(ちょこ)を手にした女性。そのかたわらには重箱も見えます(『江戸むらさき名所源氏御殿山花見 見立花の宴』歌川広重 画)
“俳聖”松尾芭蕉の高弟で酒豪としても知られる宝井其角はこんな句を詠んでいます。
「酒を妻 妻を妾の 花見かな」
とにかく酒が呑みたいんだ、という気持ちがストレートに伝わってくる句です。
お花見を描いた浮世絵にもたくさんの酔っ払いが登場します。

まるでコントの酔っ払い役みたいな「ザ・酔っ払い」。めちゃくちゃご機嫌です(『江戸名所道化尽 三十五 吾妻の森花見』歌川広景 画)
陽気な酔っ払いは楽しいですが、泥酔して人の世話になったり、ほかの花見客とケンカするなどトラブルを起こす迷惑な酔っ払いもたくさんいたようです。そのあたりも昔も今も変わりません。
締めはスイーツでいきましょう。
桜の季節になるとあちこちに並ぶのが桜餅。近頃ではコンビニでも見かけます。桜餅というと関東と関西でスタイルが異なることは有名ですよね。

画像引用元:Wikipedia
こちらは関西風の桜餅。「道明寺」ともいいます。道明寺粉を蒸したモチモチの餅が特徴。
一方、関東風の桜餅はこちら。

画像引用元:長命寺 桜もち
クレープのような薄い生地が特徴です。「長命寺」と呼ばれることもあります。その呼び名の由来ともなっている向島・長命寺門前の桜餅は江戸時代から現代まで知名度も人気もバツグン。江戸っ子たちもお花見のお土産に長命寺の桜餅を買っていきました。

2人組の女性はお花見の帰り道。2人で持っているのが桜餅。ずいぶんたくさん買ったようです(『江戸自慢三十六興 向嶋堤ノ花并ニさくら餅』歌川広重・歌川豊国 画)
関東風桜餅の元祖である長命寺の桜餅が誕生したのは1717年(享保2年)のこと。長命寺の門番だった山本新六という男性が、隅田川堤に咲く桜を見ながら「そうだ、桜の葉を塩漬けにしてスイーツをつくってみよ!」と思いつき生まれたのが桜餅なんだそう。
桜の香りがほのかに移った桜餅は大評判となり、お花見土産の定番となりました。

画像中央、女性におんぶされた子どもが手を伸ばす先には桜餅。「名物桜餅」の短冊が見えます(『春色隅田堤の満花』歌川豊国 画)
長命寺の桜餅は浮世絵などにもたびたび描かれたので、それが人気に拍車をかけ、江戸時代後期には1年間で38万個以上も売れたんだとか。ちなみに1個4文(約80〜100円)とリーズナブルなのもヒットの要因です。
長命寺の桜餅は現役。お花見のお供に江戸の味を楽しむのもいいですね。
江戸時代のお花見と現代のお花見、共通点もたくさんあります。いつの時代もお花見は楽しいものです。
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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?
1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。
(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。
(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。
江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?
パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。
「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。