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名門・上杉家の養子藩主に崩壊寸前の米沢藩が救えるのか!?
上杉鷹山が活躍したのは江戸時代中期、将軍でいえば十代将軍・徳川家治(いえはる)や十一代将軍・家斉(いえなり)の時代です。
ちなみに「上杉鷹山」の名で知られていますが、「鷹山」は隠居後につけた号で名は「治憲(はるのり)」といいます。「鷹山」の読み方は「ようざん」です。「たかやま」ではありません。
鷹山は現代でも米沢市民の熱い尊敬を集めているので「鷹山」なんて呼び捨てにすると米沢市民からクレームが殺到しそうですが、基本的に「鷹山」で進めたいと思いますのであしからず。
さて、鷹山が藩主を務めた米沢藩は、現在の米沢市を中心にした山形県東南部にあたります。
鷹山はその米沢藩の九代藩主なのですが、じつは米沢の出身ではなく遠く離れた日向国高鍋藩(現在の宮崎県の一部)に実家があります。
ではなぜ鷹山が米沢藩主になったのか?
1751年(宝暦元年)、鷹山は高鍋藩主・秋月種美(たねみつ)の次男として江戸で生まれました。一方、米沢の八代藩主・上杉重定には男子がおらず、後継者となる優秀な男子を探していました。
そして白羽の矢が立ったのが親戚筋にあたる秋月家の次男坊・松三郎、のちの鷹山だったのです。鷹山公、幼い頃から利発だったようです。
こうして鷹山は10歳のときに米沢藩の上杉家に養子入りしました。
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上杉家(厳密には長尾上杉家)といえば“軍神”として知られる超有名戦国武将・上杉謙信を初代とする名門中の名門です。

幕末の絵師・月岡芳年の傑作シリーズ『月百姿』より「霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 謙信」。「七尾城の戦い」において本陣で中秋の名月を眺めながら謙信が漢詩を詠んだという逸話を描いたもの。超クール
さて、名家に養子入りしてから7年後、17歳となった鷹山は米沢藩九代藩主となりました。青年藩主の誕生です。鷹山の実家である高鍋藩秋月家は3万石という小大名。そこの次男坊が名門・上杉家に養子入りして当主になったのですからめちゃくちゃラッキー!…でもなかった。
当時の米沢藩は崩壊寸前でした。
理由は財政破綻。借金が異様に膨らんでいる。
名門・上杉家が藩主を務める米沢藩は豊臣秀吉政権下では120万石を誇る大大名でした。しかし、関ヶ原の戦いで敗北した石田三成に味方したため30万石に大減封。4分の1。
さらに、三代藩主の不手際でゴタゴタの世継ぎ問題を起こし15万石にまで減らされてしまいました。さらに2分の1。
つまり最盛期と比べて8分の1。
この2度の大減封にもかかわらず、上杉家では最盛期そのままに5,000人とも6,000人ともいわれる大家臣団を解雇することなく雇用し続けました。収入8分の1になれども支出変わらず。
藩収入の90%以上が藩士の給料だったとか。
余談ですが米沢藩四代藩主は「忠臣蔵
」の敵役でおなじみ吉良上野介の長男・綱憲(つなのり)です。

「忠臣蔵」の第一の見せ場、松の廊下で斬りつけられる吉良さま(画像左)。吉良家も名家として有名(『忠雄義臣録』より 三代歌川豊国 画)
“名門・上杉家”を背負う誇りがそうさせるのか、藩の財政は苦しくなる一方なのに、歴代藩主たちは伝統と格式を重んじ節約することなく金を使い続けました。
しわ寄せは農民に重税として来ます。結果、農民たちは米沢から逃げ出し、農村も荒廃していったのです。
鷹山の先代の時代には米沢藩もかなり緊急事態に陥っていたのですが、当時の八代藩主・重定がまた厄介な浪費家で、藩財政を立て直すどころか藩の赤字に大いに拍車をかける。
そして最終的にはこんなことまで言いだしたのです。
「米沢藩、いっそのこと幕府に返上しちゃおうかなぁ…」
これはヒドい。あまりに身勝手。
結局、重定は隠居。最悪の状況のまま、米沢藩は17歳藩主・鷹山の手に委ねられることになりました。
名君誕生の陰に名家庭教師あり
17歳の若さで瀕死の米沢藩のトップとなった鷹山は、さっそく藩政改革の第一歩を踏み出します。
「上杉家はもはや大家から小家になった」(鷹山の命令文より)
歴代藩主たちが名門のプライドを捨てきれず直視してこなかった現実に向き合ったのです。
鷹山の藩政改革は江戸藩邸でスタートしました。米沢ではなく江戸というのがちょっと意外。

米沢藩上杉家の江戸藩邸があったのは桜田門のすぐ側。レトロな外観が目を引く法務省旧館赤レンガが建つ場所に江戸藩邸があり、鷹山の改革はここで幕を開けました。画像引用元:山形県庁
鷹山は江戸にいた信頼できる改革派の家臣たちに改革案をまとめさせると、12項目からなるある命令を発します。
世に言う大倹約令。
具体的にどんな倹約を行ったかというと...
- 藩主の生活費をこれまでの1/7以下に大幅カット
- 奥女中の人数を50人から9人にカット
- 藩主の衣服を絹から木綿オンリーに変更
- 藩主の食事を一汁一菜の質素メシに
- 年間行事の規模縮小&中止
- 贈答の禁止
など。

一汁一菜イメージ。画像引用元:歌舞伎美人
これは思いきっています。
八代将軍・徳川吉宗もそうですが、大々的な改革をスタートさせるにあたってリーダー自らが率先して質素倹約のモデルとなる。いくら「節約」を叫んでもリーダーがぜいたくしていたら説得力ありません。わかっててもなかなか出来ないことですが、若きリーダー・鷹山は鉄の意志で実行します
ここがスゴイよ鷹山公!
リーダーが率先してやることで部下たちへの説得力が増す。
それにしても17歳の若さでこの決断力と実行力、ハンパないですよね。さすが「名君」の誉れ高い鷹山公、若い頃からタダ者じゃない。
幼少の頃から利発だった鷹山ですが、“改革のリーダー”としての鷹山が誕生した裏にはある人物との出会いがありました。
藩主になる前の鷹山に「藩主としての心得」を教育した学者。
名を細井平洲(へいしゅう)。

鷹山が“生涯の師”と仰いだ細井平洲
平洲がいなかったら名君・鷹山公もなかったといっても過言じゃないキーパーソンです。細井平洲はどちらかというとマイナーな人物ですが、鷹山だけでなく当時の有力大名たちもこぞって師事したほか、死後も吉田松陰や西郷隆盛ら幕末の偉人たちに大きな影響を与えた偉大な学者であり教育者です。地元・愛知県では今も尊敬を集めています。
学者というと「机の前に座って難しい本をたくさん読み、弟子に語るのも難しい話ばかり」というような堅苦しいイメージがありますが、平洲は全然ちがう。むしろ真逆。
平洲のポリシーは「学問の目的は実践にあり、学問とは生活に密着したものでなければならない」というもの。
そのため精力的に外へ出て江戸の街頭で辻講釈を行いました。
平洲の講義は「誰にでもわかりやすくおもしろいのに聞いたあと心に響く」と話題になり、身分・性別に関わりなく大勢の人々が平洲の講義を聴くために集まったといいます。

平洲の教えをまとめた『平洲嚶鳴館遺草』は吉田松陰や西郷隆盛らにも愛読されたそう。画像引用元:往来物倶楽部
江戸にいた米沢藩の改革を願う家臣たちは「いずれ藩主となられる松三郎さま(鷹山の幼名)によい家庭教師を探さねば」と考えていました。そこに入る「江戸で評判になっているスゴイ学者がいる」という情報。
そして細井平洲は14歳の鷹山の家庭教師となり、若い鷹山に「上に立つ者の心得」を叩き込んだのです。
平洲が鷹山に説いた最も重要なことがこれ。
「治者は民の父母たれ」
藩主というのは支配者ではない。領内に住むすべての人々は自分の子どもだと思えば、人々が苦しんでいるの安穏と見ていられるはずはない。親は自分のことを差し置いても子どもの幸せを願うもの。藩主も自分の身を削ってでも領民の幸せのために行動せよーー
というような感じでしょうか。
あとでくわしくお話ししますが、鷹山の革命には「すべては領民の幸せのために」という“愛”があふれています。現・東京都知事の小池百合子さんが「都民ファースト」をうたっていますが、それより250年も前に鷹山は「領民ファースト」を掲げていたわけです。
こちらは藩主となった際に鷹山が決意を込めて詠んだものですが、平洲の教えがストレートに反映されています。
平洲は藩主として苦難の道を進む鷹山にこんな激励の言葉を送りました。
なにをするにも勇気が必要、勇気があればなんでもできる! というわけです。いい言葉。
藩政改革という大事業のなかなんども挫折を味わうことになる鷹山ですが、そのたびにこの恩師の言葉にパワーをもらったんじゃないでしょうか。

平洲の故郷である愛知県東海市の市役所前にある平洲&鷹山の像。足元には「勇なるかな〜」と「なせば成る〜」というそれぞれの名言が刻まれています。画像引用元:不楽是如何~史跡めぐりドライブ~
いよいよ米沢に初入国! 鷹山、米沢の惨状に衝撃を受ける
1769年(明和6年)、19歳となった鷹山は藩主としてこれから治めることになる米沢の地に初めて足を踏み入れます。

鷹山ではないですが、米沢藩上杉家の大名行列のようす
本国で待っているのは「名門・上杉家」の格式を重んじるプライド高き古参の重臣たち。彼らは若い藩主を見くびっているところがありました。
曰く「若い」
曰く「他家しかも小藩からやってきたよそ者」
曰く「名門・上杉家のなんたるかを知らない」
曰く「米沢のことなんてなにもわかるまい」
完全アウェイ。
鷹山は最初から厳しいハンデをいくつも背負っていたのです。自分にマイナスイメージを持っている重臣たちが待ち構えているところで大胆な改革を断行しようとしているわけですから、初めて米沢入りする鷹山は死地に飛び込むような心境だったんじゃないでしょうか。
さて、米沢との国境にある宿場・板谷宿に到着した鷹山、宿場のようすに愕然とします。

江戸から米沢までの道中を描いた江戸時代後期の絵図『江戸道中絵図』。画像左下に「板谷」とあるのが見えます
本来ならにぎわっているはずの宿場は人影もまばらで、新藩主の初の国入りという一大イベントにもかかわらず出迎えもない。宿泊するための場所も食事も用意されていないありさま……。
宿場の人々は重税に耐えかね離散し、過疎化が進んだ宿場はすっかり荒廃していたのです。
駕籠から暗い宿場を眺め、「米沢の国の現状がここまで悲惨だとは……」と、さすがの鷹山も絶望的な気持ちに襲われます。
その時、傍にあった火皿が鷹山の目に入ります。冷え切った灰のなかに今にも消えそうな小さな火種を発見したのです。その火種に根気強く息を吹きかけた鷹山は部下たちに向かってこう言います。
「今の米沢藩はすっかり冷え切った灰のようなものである。しかしこの消えかけていた小さな火種も根気強く息を吹きかけ続ければ大きな火となる。同じように根気強く改革を続ければ、米沢の土地と人々の心のいつかよみがえるかもしれない」

イメージです。
火皿のなかの小さな火種を改革の火種になぞらえ、改革の向こうにある明るい未来を示したのです。
本格的な改革のスタート
いよいよ米沢に入った鷹山は本格的な改革をスタートさせます。
鷹山は財政面に強い竹俣当綱(たけのまたまさつな)を改革の実行リーダーに指名。
まずは着手したのは徹底的な倹約と余剰金の捻出でした。

鷹山の右腕として活躍した竹俣当綱
竹俣当綱をはじめ鷹山の改革サポート中心メンバーたちは、もともとは現状を憂い上司である古参の重臣たちにいろいろ意見したりして煙たがられ江戸へ左遷された連中です。(竹俣当綱などは前藩主・上杉重定の寵臣を「藩にとって害悪」として粛清してしまったほど)
このいわば“問題児グループ”が改革の実行部隊という任においては最適だったわけです。
さて、前述したように江戸にいた頃、鷹山は「大倹約令」を発令し、自らも節約モデルとなって質素倹約ライフに励んだわけですが、同時に、この「大倹約令」を本国・米沢にも送り「米沢にいる藩士たちも倹約に励むように」と命じていました。
しかし、新参の若者藩主をあなどっていたのか藩の重臣たちはまるで節約などしない。
そこで鷹山はあらためて「大倹約令」の徹底を命じます。
次にリアルな赤字額の洗い出しをし、“借金の見える化”を行いました。
米沢藩の過去1年間の収入・支出・借金をくわしく書き出した帳簿をつくったのです。いわば「藩の家計簿」。ちなみに、こうした帳簿はこれまで米沢藩ではつくっていなかったんだとか。
しかも、鷹山はこの赤字だらけの帳簿を藩士全員に公開しました。現代風に言うならオープンブック・マネジメントです。
ここがスゴイよ鷹山公
鷹山は情報の公開&共有を行うことで、藩士全員に「米沢ヤバイ! なんとかしなきゃ!!」という改革への参加意識を芽生えさせた。
一方、すでにしちゃっている莫大な借金についても手を打ちました。
米沢藩が商人らに借りた金は20万両(200億円くらい)にも膨れあがっていたのですが、鷹山は借金を整理するため「無利息・長期返済」を要請しました。「絶対、なにがあっても完済するから!」と約束して。
鷹山は節約の鬼でしたが、「節約!節約!!では人の心は落ち込んでしまう。人々がやりがいを見つけ出せることをやらなければ」と考えていました。
荒廃した農村の復興。なんといってもこれが急務です。
鷹山が行った対策をざっと羅列すると……
- 納税の緩和
- 農民から過剰に搾り取ろうとする不正役人を排除
- 新田の開発 などなど
鷹山の農業改革で重要なポイントがあります。それが
武士の農業への参加です。
鷹山は新田開発にあたり、古代中国の豊作祈願儀式「籍田の礼」を行いました。この時、なんと藩主である鷹山自らが鍬(くわ)をふるって土を耕したのです。
これは異例中の異例。こんな殿さまはいない。

鷹山が田を耕したといわれる場所には現在、碑が建っています。画像引用元:米沢観光Navi
ここがスゴイよ鷹山公!
藩主が実際に農業に携わることで、農業の尊さをアピール。農民のやる気をアップ! また、「農業=農民のもの」という固定観念をクラッシュ!
余談ですが、鷹山公には次のような「時代劇の主人公かよ!」と思わずツッコミたくなるようなエピソードがあります。
ある日、干した稲束の取り入れをしていた老婆がおりました。今にも雨が降りそうで老婆が焦っていると、通りがかりの2人の武士が手伝ってくれました。老婆が「餅を持ってお礼に行きたい」というと、武士は「では、米沢城の門番に話を通しておく」と答えたそうな。後日、老婆が餅を持って米沢城へ行くと、通された先にいたのはなんと鷹山公その人。武士どころか藩主の登場に老婆は腰が抜けるほどビックリ! しかも褒美だといって銀5枚までいただいた。老婆はこの恩を忘れないため家族や孫たちに足袋を贈ることにしたそうなーー
お殿さまがお忍びで困っている老人を助ける……ってオイオイそんなドラマみたいなエピソード信じないよ。「水戸黄門」だってホントは漫遊してなかったのと一緒でしょ?
と思うかもしれませんが、これは実話。なぜなら老婆からの手紙と足袋が残っているのです。

ほぼカタカナで書かれた老婆の手紙と足袋は現在、米沢市宮坂考古館で展示されています
こんなところからも鷹山公の型破りな藩主スタイルが伺えます。こんな風に鷹山は自分の足で領内を歩き、自分の目で現状を知ろうとしていたのです。
さて、話を戻して。
鷹山は帰農を希望する藩士には農地を与えたり、新たに開発した田畑からの収入は期間限定ながら丸ごと開発者のもの、など斬新な手法で新田開発を促しました。
結果、下級武士だけでなく上級武士のなかからも新田開発に乗り出す者も現れるようになっていきました。平和な時代に無用の長物となった刀の代わりに、実りをもたらす田畑を拓くための鍬を持ったわけです。
ガチガチの身分意識があった当時においてこれは革命的。先例のないことだらけの鷹山の改革は旧臣たちの目には「危険」と映ったことでしょう。
そして事件が起きます。その時、1773年8月15日。
旧臣たちの不満爆発! クーデター勃発に鷹山どうする!?
1773年8月15日(安永2年6月27日)の早朝、江戸家老の須田満主をはじめ代々上杉家に仕えてきた7人の古参重臣たちが鷹山のもとに押しかけました。

画像左が鷹山。古参重臣たちが決死のクレーム!
曰く「お屋形様(鷹山のこと)の率先して行う一汁一菜や木綿の着物を着るなどは小事にすぎない」
曰く「今やっている改革のせいで国内はメチャクチャだ。伝統的なやり方に戻すべき」
曰く「武士に農民のまねごとをさせることは“鹿を馬”とするようなもの」
曰く「竹俣をはじめ改革派の連中は即時退役させよ!」
世にいう「七家騒動」(しちけそうどう)。
古参7人は取り囲んだ鷹山の返答次第では、強制監禁である「主君押込」までしかねない勢い。つまりこれはクーデターです。
鷹山は「自分ひとりで決められることではないので、先代・重定さまの意見も聞いてみる」といって状況打破のため退室しようとするのですが、7人は文字通り鷹山をガッチリ包囲してそれを許さない。
上杉鷹山も必死。古参7人も必死。押し問答は4時間も続きます。
なんとか部屋から脱出した鷹山。先代・重定はこれを伝え聞き「きゃつら、藩主が若いからと侮って、なんたる無礼!」と大激怒します。旧臣たちは重定時代の重臣だったので、鷹山はその処分を自分ひとりで決めるのではなく、先代の重定にも話を通したのです。このあたり、鷹山は若いのに本当に用意周到です。
その後、鷹山はクーデターを起こした7人に厳しい処分を下します。うち2人は切腹、残りの5人も隠居および蟄居もしくは閉門、さらに給料カットが命じられました。また、クーデターの黒幕とわかった藩医も斬首となりました。

切腹イメージ(注:米沢藩ではありません)
ここがスゴイよ鷹山公!
藩内で重きをなしてきた代々の重臣たちに厳罰を下すことで、自分の改革への覚悟がどれほど強いものなのか改めて藩士たちに知らしめた。
一大プロジェクトの失敗、右腕の失脚、相次ぐ天災ーー立ちはだかる壁に改革中止!?
改革反対派を迅速かつ果断に一掃した鷹山は、さらなる改革への道を邁進します。
「国を豊かにするには地場産業の開発が必要」と考えた鷹山は、改革実行リーダー竹俣当綱の提案により一大プロジェクトに着手します。
それは
漆、桑、楮(こうぞ)それぞれ100万本を植樹しよう!プロジェクト。
漆も桑も楮もそれを原料にさまざまな商品を生みだせる植物。たとえば、漆からは塗料やロウができ、桑はカイコのエサとなるので養蚕、ひいては生糸の生産、さらには絹織物までつくりだせる。楮は紙の原料になる、という具合です。

漆の実からは木ロウがとれます。wikipedia
これまで米一辺倒だった米沢の農業に新風を吹き込もうとしたのです。
ここがスゴイよ鷹山公!
米沢の気候風土にマッチした植物を原料に米沢特産のヒット商品をつくれば新たな収入源とすることができる! 鷹山公の思考は常に時代の先を行く。
漆・桑・楮をそれぞれ100万本も植えようという大プロジェクト。アイデア自体もすごいですが、その実施内容もすごい。
なんと植物の苗を農地だけでなく、空き地や町民の住居、さらに寺社の所有地、さらにさらに藩士たちの屋敷の土地にまで植えてしまおうとする。
壮大なプロジェクトを迅速に進めるため、割り当てより多く植えた者には奨励金を、割り当てに満たない者には罰金を課したのも、斬新ながら実に巧み。
100万本植樹プロジェクトは試行錯誤しながらも順調な発展をみせ、漆からできたロウソクが最初のヒット商品となりました。
ところが、まもなく西日本で櫨(はぜ)を原料にしたロウソクが登場。漆のロウソクより高性能なうえに安いとあってたちまち大人気になり、漆ロウソクは市場から駆逐されてしまいました……。
一方、鷹山は“人づくり”、人材育成にも力を注ぎました。
教育、育成は目先の結果は出にくいもの。苦境ではどうしても後回しになりますが、鷹山はなんとかやりくりして、財政難により閉鎖していた藩の学問所を再興し、「興譲館」と名づけた藩校を創設したのです。

人材育成の本拠地となった「興譲館」。藩校の名づけ親は鷹山の恩師・細井平洲
入学者の大半は20代の青年で上級藩士の子弟が多かったのですが、才能と志がある者ならば下級武士だろうが庶民だろうが身分に関係なく入学OKでした。
最盛期には1,000人ともいわれる大勢の若者がここで学び、その後、興譲館の卒業生が改革の先頭に立って活躍しました。
当然失敗もあるが、そこで止まらずに改革を推進させる鷹山。しかし、そんな鷹山でさえも非常に辛い決断となる出来事が起きます。
これまで改革をリードしてきた右腕・竹俣当綱をクビにしたのです。
実行リーダーとして権力を握っていた竹俣は、強引なやり方が反感を買ったのか、権力の座に溺れてしまったのか専横や不正が批判されるようになり、「竹俣を排除すべし」という声が各所から上がるようになっていたのです。
改革スタートから苦難をともにしてきた右腕を切るのは鷹山公にとって苦渋の決断だったことでしょう。まさに「泣いて馬謖を斬る」。
さらに改革の道を阻む逆風が吹き荒れます。
1783年8月3日(天明3年7月6日)
浅間山が噴火。

浅間山噴火を伝える絵
大量の火山灰は太陽の光をさえぎり、東北地方を中心に農村部に深刻な被害をもたらします。近世日本最大の飢饉といわれる「天明の大飢饉」が訪れたのです。

『天明飢饉之図』には飢饉の惨状が生々しく描かれています。数万人もの餓死者が出した大飢饉では人肉を食べる者も……
鷹山の改革により甦りつつあった農村も大飢饉の影響を受け再び荒廃、プロジェクトの失敗や右腕失脚なども重なり改革に暗雲が立ち込めます。
そんななか鷹山はある決意をします。
まだ35歳という若さながら隠居し、次期藩主の座を先代・重定の実子である治広に譲ったのです。
次期藩主に送った鷹山の言葉が名言すぎる
早すぎる隠居の理由は「改革挫折の責任を負って」ともいわれますが、一方で「隠居」という自由度の高いポジションにつくことが目的だったという見方もあります。
隠居なら参覲交代しなくていいので、米沢に腰を据えて改革に挑めますし、藩主時代よりは自由に領内を歩いて実情を見聞できる、と鷹山は考えたのかもしれません。
家督を治広に譲る際に鷹山公が「藩主の心得」として贈った言葉、いわゆる「伝国の辞」が至言なのでご紹介します。

鷹山が考える「藩主のあるべき姿」が「伝国の辞」には凝縮されています。ちなみに写真は複製。画像引用元:歴史ロマンをもとめて~さどこブログ~
- 一、国家は先祖より子孫へ伝え候 国家にして我私すべき物には来れなく候
- 一、人民は国家に属したる人民にして 我私すべき物にはこれなく候
- 一、国家人民のために立たる君にし 君のために立たる国家人民にはこれなく候
ざっくり要約しますとこんな感じ。
- 一、藩は先祖から子孫へ伝えられるものなので私物化してはならない
- 一、領民は藩主の私物ではない
- 一、藩主は藩と領民のためにこそ存在する
この「伝国の辞」は以降、明治時代まで代々の上杉家藩主に「家訓」として受け継がれました。すべては領民のためにーーという“鷹山イズム”はこうして脈々と受け継がれていったのです。
ここがスゴイよ鷹山公!
ガチガチの封建社会の当時にあって、「領民とゴマは絞れば絞るほど…」と考えるトップもたくさんいたが、鷹山は「藩と藩主は領民を守るために存在する」という超近代的な思考を持っていた。
鷹山カムバック! 長期的視点で行われた改革第2ステージ
偉大な先代の後に続くのはいつの時代も難しいもの。
十代藩主・治広の代になると改革の空気も薄れ、再び米沢藩に暗雲が立ち込め始めます。隠居からわずか5年、鷹山は表舞台にカムバックします。

再び立ち上がる鷹山公。米沢市にある上杉神社に建つ鷹山の像はめちゃくちゃカッコイイ。画像引用元:Wikipedia
藩政改革第2ステージで実行リーダーに任命されたのは、財政面に強い莅戸義政(のぞきよしまさ)。莅戸は前リーダーの竹俣当綱がクビになったあとに隠居していたのですが、鷹山が呼び戻し抜擢しました。
第2ステージで鷹山が行ったことをザッと並べるとーー
- 1.上書箱(じょうしょばこ)の設置
- 身分を問わず広く意見を聞くために“ご意見BOX”を設置。八代将軍・徳川吉宗の「目安箱」みたいなもの。町人だろうが農民だろうが誰でもOK! 改革の役に立ちそうな意見はドンドン採用された。
- 2.「十六ヵ年財政再建計画」の実施
- 経済面に明るい莅戸の提案により実施された大胆な財政再建計画。藩費の半分を借金返済にあて、16年で完済しようというもの。
- 3.藩をあげての商品開発
- 米沢ならではの商品開発をし、米沢を元気に!鷹山の改革のなかでバラエティ豊かな米沢名物が誕生。
たとえば「米沢織」(よねざわおり)。

画像引用元:山形県庁
鷹山の最終目標は、養蚕から絹製品の作成まで一気通貫で領内で行うこと。そのため、藩の役人に命じカイコの飼育方法などマニュアル化(『養蚕手引』)させ領内に配布したり、織物職人を他藩からスカウトしたり。
また、メイン労働力として武家の婦女子に目をつけたのもポイント。鷹山の側室・お豊の方も率先して働いたとか。

カイコの飼育をする女性たち。江戸時代以降も養蚕業や生糸産業では女性が労働力として活躍しました(『女織蚕手業草』部分 喜多川歌麿 画)
こうした努力により江戸時代後期には、「絹織物の産地」として米沢は全国的にも知られるようになりました。
またたとえば「鯉料理」。

現在でもご当地グルメとして米沢の鯉料理は健在。画像引用元:技あり米沢
当時、栄養豊富なタンパク源として鯉は“医療食”として珍重されていました。
そこで鷹山は鯉養殖の先進地から鯉の養殖のノウハウを教わり、米沢城のお堀で鯉の稚魚を飼育。これが、現代でも有名な米沢鯉の始まりだそう。その後、領内の池や沼、さらには藩士たちの屋敷にも池をつくらせ鯉の養殖をさせたんだとか。
さらに「お鷹ぽっぽ」。

名前だけでなく見た目もチャーミングな米沢名物の工芸品。画像引用元:東北STANDARD
冬の間は農閑期となり農民たちの手もすくーーここに着目した鷹山は冬の副業として木彫りの工芸品(笹野一刀彫)をつくることを奨励。
今に残る米沢の工芸品「お鷹ぽっぽ」もそのひとつ。縁起物らしい。
ここがスゴイよ鷹山公!
いろいろな“ムダ”を極力カット。そして今まで見えていなかった“使えるもの”を発見し、その資産を最大限に活用できるよういろいろ工夫!老人や婦女子を労働力として動員したのはその代表例。彼らも労働を通じて収入と生きがいをゲットできるのでいいことづくし!
時代を先取りした鷹山の災害対策&福祉政策
地場産業の盛り上げに力を注ぐ一方、鷹山が力を入れたのが災害対策と社会福祉政策。このあたりは時代を問わず社会の大問題です。
前述したように天明の大飢饉で米沢藩も大ダメージを受けました。そこで鷹山は「まさか!」の時に備えてさまざまな対策を行いました。
災害対策その1 長期プランの備蓄をしよう!
20年間で15万俵もの“非常食用”の籾(もみ)を備蓄することを目標。「どんな飢饉がやってきても絶対に助かる」という量の非常食をキープすることを目指したことに脱帽。

籾とは脱穀する前のお米のことだよ!画像引用元:Wikipedia
災害対策その2 サバイバルマニュアルの作成&配布
飢饉で食糧難となったときに活躍する非常食レシピ集『かてもの』を作成。作成を提案したのは鷹山の右腕・莅戸義政さん。
1,575冊が藩内で配布され、その後の飢饉の際にも大活躍! ちなみに、第二次世界大戦下では米沢市が食糧難を解消するため『かてもの』を再発行したことも。

『かてもの』には野山で入手できる野草など80種類以上もの素材が食材として紹介され、レシピもわかりやすくとっても実用的。専門家である医師が実食していたり、役人自らが先んじて口にすることで食の安全を保証!ドングリやタンポポなど現代人からすると「!?」と思ってしまうようなものも代用食になりました。
こうした努力のおかげもあり天保の大飢饉の際には米沢藩の被害は最小限に抑えられたそう。
ここがスゴイよ鷹山公!
「豊かな日の間によくよくまさかの準備を怠らないように」という現代に通じるリスクマネジメントをしていた。
次に社会福祉政策について。
これは本当に驚きなのですが、今から200年以上も前の米沢には「介護休暇制度」や「高齢者手当」などの社会福祉制度が既にあったのです。
社会福祉政策その1 現代の「介護休暇制度」に通じる「看病断(かんびょうことわり)」制度
父母や妻子が病気の際の休暇を許可。ちなみに江戸時代、親の介護や看病をするのは男性の仕事でした。
さらに、身寄りがいない場合や看病が困難な場合などには地域ぐるみで看病や介護をサポートする仕組みも考えられていたんだとか。
社会福祉政策その2 ご長寿さんにはプレゼント
長寿の老人を集めた「敬老の会」を催したり、ある年齢以上のものには手当がつくなどさまざまな敬老政策を行いました。

江戸時代の元気なご長寿さんたち(『田家茶話六老之図』歌川国芳 画)
ほかにも、貧困などの理由から乳児の命を意図的に奪う「間引き」という悪習の根絶や、政府公認の売春婦(公娼)の廃止にも鷹山は取り組んだりしました。
時代に先駆けた“やさしい社会づくり”に力を注いだ鷹山ですが、そこには自身の体験が大きく影響しています。
鷹山が19歳のとき、2つ年下の幸姫(よしひめ)を正室として迎えました。
しかし、幸姫には心身に障害があったそうで、彼女の成長は10歳ほどの幼女のままで止まっていたんだとか……。幸姫は30歳の若さで他界してしまうのですが、13年という結婚生活のなかで鷹山は幼女のような妻のために折り紙で鶴をつくってプレゼントしたり、一緒に人形遊びをしたりすることもあったそうです。

人形遊びに興じる子どもたち。多忙な日々の合間に鷹山も幸姫とこんな風に遊んだのでしょうか(『四季の詠おさな遊』渓斎英泉 画)
しかも、藩主にとって子どもをなすことは重要課題だったのにも関わらず、鷹山は側室を持とうとしなかったとか。幸姫のことをとっても気づかっていたことがよくわかります。
最終的に重役たちに懇願され、お豊の方を側室として迎え2人の男児に恵まれるのですが、どちらの子どもも若くして他界、鷹山の直系の血は絶えてしまいました。
また鷹山は実父と養父、2人の老父の介護も誠心誠意努めました。
鷹山は江戸にいた実父・秋月種美(たねみつ)の介護のため米沢から江戸へ向かい、30日余り老父の世話をしました。残念ながら実父は他界してしまうのですが、その喪が明ける間もなく、今度は米沢から養父・上杉重定が病で倒れたという知らせが届きます。
急ぎ江戸から米沢へ帰った鷹山は、それから80日あまり身を粉にして養父の看病にあたりました。ちなみに重定は看病の甲斐あって元気になりました。
江戸と米沢、今なら新幹線で数時間の距離ですが江戸時代にはものすごく遠い。そこを往復して110日以上もの介護・看病を行った鷹山公。こうやって苦労した体験が時代に先駆けた介護休暇制度の制定につながったのでしょう。
ここがスゴイよ鷹山公!
心身ともに幼い妻のため、病に苦しむ2人の父のため骨身を惜しまず尽くした鷹山公。その経験を政策に反映し、“やさしい社会づくり”を目指した。
すべては領民のためにーー生涯を米沢藩の再生に捧げた鷹山公は、1822年4月2日(文政5年3月11日)の朝、眠るようにこの世を去りました。死因は過労と老衰だといいます。
そして鷹山の死の翌年、ついに米沢藩は藩財政を苦しめていた膨大な額の借金を完済したのです。
あまりに有名な鷹山公の言葉です。
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり」
武田信玄の言を参考にしたこの名言を、まさに体現した生涯でした。
こんな話があります。
鷹山の死から56年の月日が流れ、時代は江戸から明治に変わった1878年(明治11年)のこと。日本各地を旅していた英国人女性旅行家イザベラ・バードが米沢を訪れました。

イザベラ・バードが残した日本旅行の記録は、外国人から見た当時の日本を知ることができる貴重な資料
米沢の美しい農村風景に感激したイザベラ・バードはこう記しました。
「米沢はアジアのアルカディア(桃源郷)である」
鷹山が19歳で初めて国入りした時には荒廃しきっていた米沢の地は、鷹山の55年にわたる努力と家臣や領民たちの協力によって見事に再生を果たし、その後もその精神は受け継がれ米沢の地にしっかりと根を張っていたのです。

イザベラ・バードが感動した米沢盆地の田園風景。画像引用元:おきたまジェーピー
アメリカ合衆国大統領が上杉鷹山公を尊敬していた!?
最後に。
あるアメリカ合衆国大統領が上杉鷹山公を尊敬していたというエピソードについて。
その大統領とはこの方。

今も絶大な人気を誇る第35代アメリカ大統領J・F・ケネディ。パレード中に暗殺されるという衝撃的な最期を迎えたことはあまりに有名
第35代アメリカ大統領J・F・ケネディ。
ケネディ大統領と鷹山公のエピソードというのは次のようなもの。
1961年(昭和36年)、大統領となったケネディにある日本人の新聞記者が「日本で最も尊敬する人物は誰ですか?」と質問しました。するとケネディ大統領は「それはヨウザン・ウエスギだ」と答えました。しかしそこにいた日本人は誰も「ウエスギヨウザン」という名前を知らなかった。
このエピソードは有名なのですが、真偽については長らく議論がされてきました。なにより後世の日本人自身がこれを否定していました。
曰く「常識的に考えてありえない」
曰く「どうせ誰かの嘘やデマだろう」
曰く「ただのリップサービス。本気にとる方がどうかしている」
曰く「別エピソードから生まれたフィクション」
ですが、それから52年後の2013年(平成25年)。
ケネディ大統領の長女で当時の駐日大使だったキャロライン・ケネディがに来日した際に、次のように発言するのです。

画像引用元:Wikipedia
「父であるJ・F・ケネディは江戸時代の米沢藩主・上杉鷹山を尊敬していました。大統領就任演説で発言した『国家があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが国家に何ができるかを問おうではないか』という言葉も、鷹山の考えに影響を受けている」
常識にとらわれず、なすべきことのため改革を推進し続けた名君・上杉鷹山公は、時代を超え国境を超えて今も尊敬され続けています。
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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?
1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。
(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。
(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。
江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?
パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。
「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。
