ひげ男子代表のEXILEは刑罰の対象!?
ちょっと古い写真ですがひげがわかりやすいので。
ひげ男子あこがれの存在であるEXILE。素敵なひげをはやしていますが、もしEXILEが江戸時代に生きていたら、揃いも揃ってなんたる不届き者たちと、ただちに罰金刑に処せられます。
そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、江戸時代の浮世絵、お江戸日本橋の上を行きかう大勢の人をみてみると、
『日本橋の晴嵐』渓斎英泉
武士、町人、商人とさまざまな身分の男性たちが行き交っていますが、罰金刑を恐れてか、ひげの男性はどこにも見当たりません。オシャレにうるさいといわれた江戸っ子がみんなツルツルしています。
拡大しても、
このとおり。
印象だけではよくないので数字でみると、
上の江戸浮世絵のひげ男子は0/14人。ひげ率0%。
さっきのEXILEのひげ男子は10/14人。ひげ率71%。
その差は歴然で、数百年の時を経て日本のひげ事情が一変していることが分かります。
別の浮世絵でも確認してみましょう。
「二十六夜待」というお月見イベントに集まった人々。たくさんの屋台が立ち並んでいます。(『東都名所高輪廿六夜待遊興之図』歌川広重 画)。拡大画像はこちら。
こちらはお月見イベントで大にぎわいのようすを描いたものです。たくさんの人でごった返していますが、ひげの男性は、やっぱりひとりも見当たりません。
「待て待て、教科書でみた昔の武将とかたしかひげがあったぞ」というのもそのとおりで、江戸時代のひげ刑罰を知るには、まずは日本の歴代ひげ男子を振り返る必要があります。肖像画でみていきましょう。
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日本の歴代ひげ男子
古代日本におけるひげについては少々不明なので割愛。たぶんそれなりにボサボサです。では、まずは飛鳥時代。
代表者はこの方、
聖徳太子です。
中国風のひげ、いまではあまりみないタイプです。聖徳太子だけでなく飛鳥時代の男性は、中国風のひげが多かったようです。ちなみに、この画「唐本御影(とうほんみえい)」といいまして、聖徳太子を描いた最古の肖像画といわれ、1万円札にも使用されました。しかし、最近の教科書などでは「伝・聖徳太子」となっており、聖徳太子を描いたものか疑問視されています。そのせいか、さいきん教科書での扱いが不憫になりつつあります。
続いて奈良時代。
この時代の代表者はこの方、
日本の第50代天皇、桓武天皇(かんむてんのう)です。今上天皇が第125代なので、半分とちょっと前ぐらいの天皇。
おひげですが、ものすごく蓄えていらっしゃいます。基本は聖徳太子から続く中国ひげですが、ワイルドさが増しています。高貴な方もひげ男子だったようです。
桓武天皇といえば、なんといっても日本の歴史に残るビッグプロジェクト「平安京へ都を遷そうぜ(平安京遷都)」、そして、日本仏教の2大天才、空海と最澄の保護者ですね。
さて、平安京遷都によって平安時代が幕をあけます。
平安時代の代表者はこの方、
藤原道長です。
だいぶテイストが違う。聖徳太子〜桓武天皇までの中国風ひげからではなく、ちょびひげ。ちょびひげというと、聞こえが悪いですが現代にだいぶ近いです。平安貴族は手入れのいきとどいた小奇麗なひげを好んだようで、ひげ剃りが始まったのも平安時代とか。なお、この時代、僧侶以外はひげを生やすのが一般的だったそうです。
藤原道長は天皇の母方のおじいちゃんで、関白として政権を掌握しこの世の春を謳歌した人物です。
イケイケすぎて、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と歌いました。意味は「この世はオレのためにあるようなもんだし。満月みたいなもん。欠けたり足りないものとかないし」。すごい。『源氏物語』の紫式部ら女流文学者のパトロンとしても知られます。
さて、鎌倉時代いってみましょう。
代表者はこの方、
源頼朝です。鎌倉幕府を開きその後700年近く続く武士の時代を切り開きました。
藤原道長のちょびひげとは違い、武家の代表らしく威風堂々たるひげです。平安時代から登場した武士は好んで堂々たるひげを生やしたそうです。あごひげは兜の緒の都合から蓄える場合が多かったとか。
ちなみに、おなじみのこの頼朝の肖像ですが、近年、別の人物の肖像ではという説も……。
どんどんいきましょう。
さらに室町時代。
代表者はこの方、
室町幕府の初代将軍・足利尊氏です。
これまた堂々たるひげを生やしています。勇ましいです。やはり武士にひげは必須のよう。
後醍醐天皇と対立し後世、「逆賊」のそしりを受け評判はあまりよくない尊氏。しかし、敵味方に礼儀を尽くすとってもいい人だったらしいです。あ、ちなみにこの肖像画も尊氏本人ではなく側近の高師直という説があります。え、また……?
さて、群雄割拠の戦国時代に突入します。
代表者はこの方、
あの織田信長をも震えさせた“甲斐の虎”武田信玄です。
これぞ戦国武将という超ワイルドなひげ!とくに、ほほひげの荒ぶり方、半端ない。信玄だけでなく、戦国大名はみんなひげを生やしていました。もともとひげの薄かった豊臣秀吉などはつけひげまでしていたという逸話が残っています。心理戦が重要な戦国の世にあって、ひげには「表情をわかりにくくする」という効果もあります。なにより、“豪傑”“男らしさ”“強さ”のシンボルとしてわかりやすい。
こうして戦乱の世にあって、ひげは空前の大ブームとなり、「ひげを生やさねば武士ではない」とまでいわれるほどでした。
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熱狂的なひげブームVSひげ取締まり
戦乱の時代が終わり、泰平の世・江戸時代が幕を開けるとひげ事情は一変します。あれほど大ブームだったのに、徳川家康が天下をとったあと、大名たちはわれ先にとひげを落としました。かつては“強さのシンボル”としてもてはやされたひげですが、天下が統一された江戸時代、堂々たるひげを生やし“強さ”をアピールすることは、“天下の支配者・徳川家への反逆心の現れ”と捉えられるようになったからです。しかし一方、江戸時代前期の貞享から元禄(1684~1704)頃、今度は下級の武家の使用人や庶民の間ではひげが大ブームになります。
江戸時代初期の江戸の町を描いた『江戸図屏風』。通りを歩く武士や働く大工、町人らの顔にはひげが!
大工のあたりを拡大してみると、
ほぼ全員ひげが生えています。
江戸時代前期に起きたひげブームはかなり熱狂的なものだったようで、ひげのない者は、紙でひげを作りロウと松脂(まつやに)で固め“こより”で耳にかける「懸けひげ」という伊達メガネならぬ“伊達ひげ”をしたり、顔に墨でひげを描いてしまう者までいたとか。
ひげのなかでも特に人気だったのが、「鎌ひげ」「奴(やっこ)ひげ」と呼ばれた鼻の脇からほほにかけて生やした立派な「大ひげ」でした。
「鎌ひげ」を生やした人=江戸時代の流行に敏感なひげ男子とは、こんな人になります。
『浅草奥山道外けんざけ』歌川国芳 画。
うん、すごい。
これは武家の使用人です。ちなみに、武家の使用人は「奴(やっこ)」と呼びまして、お正月にあげる凧の「やっこだこ」のデザインは、このころのひげブームの名残りですね。
江戸時代のひげブームの名残りは、お正月の凧に残されてます。
さて、このひげブームに幕府が待ったをかけました。1670年、4代将軍・徳川家綱が、「大ひげ禁止令」を出すのです。その理由とは、
「堂々たるひげはムダに荒っぽい男気をあおり、戦国の遺風を想起させ無頼の徒を増やす」
しかし、いつの時代も流行はくり返すもの。10年ぐらい経つとまたひげブームが起きる。
これに対して、徳川幕府としては「このやろう、今度はまじで許さねえぞ」と、罰金刑付きで「大ひげ禁止令」をふたたび出すわけです。
以降、自分でひげを処理することができない老人以外、貴賎の区別なくひげは禁止となりました。ひげ男子不遇の時代です。かろうじて、武士以外の者がチョロっとあごひげを生やす程度は大目に見られたそうです。なので、権威を強調したい医者などはあごひげを生やしましていました。しかし、これにて江戸時代の一般人の間ではひげは完全に廃れ、前述したように浮世絵に登場する人々のなかにもひげ面はいなくなったのです。
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明治から近代へ
ひげ、再び表舞台へ
このように江戸時代には嫌われていたひげですが、幕末の動乱を経て明治時代になると再びブームとなります。戦国時代には“強さ”のシンボルだったひげ、今度は“文明開化”のシンボルとしてもてはやされるようになるのです。当時、欧米でもひげがブームだったことから、欧米帰りの政治家を皮切りに、文化人や学者、教員など特に威厳を必要とする職業の人を中心にひげを生やすようになりました。
明治新政府の面々。みなさん立派なひげを生やしています。ちなみにこれは「征韓論」について論争している場面で、中央の人物は上野公園の像でおなじみ西郷隆盛です。ひげモジャモジャです。なんだかイメージと違いますね。(『征韓論之図』永嶌孟斎)
ちなみに、明治時代のひげといえばこの人。
明治から大正にかけて活躍した陸軍の軍人、長岡外史。
重力無視で横に伸びてます。
このひげは「プロペラ鬚」と呼ばれ、本人は「世界一」を自称し自慢していたとか。
明治時代の文明開化で再び表舞台にあがったひげ。その後、終戦までは“威厳”のシンボルとして軍人などが好んでひげを生やしました。そして現代、かつてはサラリーマンがひげを生やしていると眉をひそめられたものでしたが、今では職業に関わらずひげは市民権を得て男性の顔を彩っているのです。同じ「ひげ」でに時代によってこんなに違うなんておもしろいですね。