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将軍の居城として天下を睥睨してきた壮麗な江戸城本丸(『江戸図屏風』より)
江戸時代 徳川全将軍
まずは誰もが知っている超有名な初代将軍のあのお方からいってみましょう!
天下取りの秘訣は「長寿」にあり!? 苦労人から天下人になった“神君”
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初代将軍・徳川家康
(読み:とくがわいえやす)
家康のここがすごい!
- 最終的に天下を取り、江戸に幕府を開いた
- 有能な人材を見抜き適材適所に配した
- とにかく長生きした
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戦国時代を生き抜き天下を手にし徳川幕府を開いた初代将軍・徳川家康。令和5年の大河ドラマ『どうする家康』ではどんな家康像が描かれるか楽しみです。
「織田がつき 羽柴がこねし天下もち 座りしままに 食うは徳川」という狂歌は有名。「タヌキじじい」とあだ名されるように老練なイメージがありますが、その人生は苦労と忍耐の連続でした。
三河の田舎の弱小大名の子として生まれた家康は、6歳から19歳までの間、人質として苦渋の生活を送り、「三河の宿無し」と揶揄されることもあったとか。
でも、この苦労と忍耐の日々は家康の「忍耐強い」という最大の長所づくりに大きな影響を与えたといわれています。
家康は「東海一の弓取り」と評されるほどの戦上手でしたが、三方ヶ原での大敗北&脱糞事件、愛息・信康の切腹、決死の伊賀越え・・・など戦国時代には何度もピンチに陥りました。
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三方ヶ原での敗戦の戒めとして描かせた「しかみ像」(『徳川家康三方ヶ原戦役画像』)
そして、豊臣秀吉の遺児・秀頼との最終決戦。秀頼に対し家康がもっとも脅威に感じたのは「若さ」でした。天下を目前に戦国大名たちが志半ばで次々に倒れていくのを見てきた家康がこう考えたのは不思議ではありません。
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「長生きした者が最後は勝つ」
家康は少しでも長生きするため、めちゃくちゃ健康に気遣い、将軍なのに食事は健康的な粗食を心がけ、鷹狩りや水泳などで運動をし、はてには薬も自分で調合するまでに。もはや“健康オタク”です。
そして、当時としてはものすごく高齢の74歳の時、ついに豊臣家を滅亡に追いやり、名実ともに天下人の座を勝ち取ったのです。ちなみに、関ヶ原の戦いに勝利し征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いたのはそれより12年前のこと。
開いたばかりの幕府の体制づくりや江戸の都市づくり、大名たちへの対応、大坂で威勢を誇る豊臣家への対策、諸外国への対応などを同時にこなしていたわけですから超人的なおじいちゃんです。
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久能山東照宮にある家康の手形。かなり立派な手だったようです
目の上のたんこぶだった豊臣家を滅ぼし、次期将軍職も息子・秀忠に譲り徳川幕府の基礎づくりを終えた家康は、安心したのか大坂夏の陣の翌年、75歳で世を去りました。
死因については、「鯛の天ぷらにアタった説」が長らく信じられていましたが、天ぷらを食べてから亡くなるまでちょっと日にちがありすぎることもあり、現在では「胃ガン説」が有力だそうです。
余談ですが、“健康オタク”の家康は、死の間際になってもかかりつけ医の調合した薬ではなく、お手製の薬を服用していたとか。お医者さんを信じたほうがよかったんじゃ・・・。
死後、「東照大権現」という神様として日光東照宮に祀られた家康は、“権現様”と呼ばれ江戸時代を通じて歴代将軍、大名、武士たちから崇拝されたのでした。
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日光東照宮の奥社にある家康のお墓。お墓は見守るように江戸の方向を向いています
なお、家康の名言・遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからずーー」という言葉が有名ですが、実はこれ、後世の創作とも。そうか…。
徳川家康の詳細データ
次は“恐妻家”として有名な二代目。
堅実な政治で徳川幕府の土台を固めた“二代目”の鑑
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二代将軍・徳川秀忠
(読み:とくがわひでただ)
秀忠のここがすごい!
- 大名、朝廷を抑え幕府の礎を固めた
- 江戸のライフラインを整備
- 隠し子がめちゃくちゃ優秀
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偉大な初代の陰に隠れがちなのが“二代目”というポジション。秀忠もその例に洩れず、一般的に存在感は薄め・・・。かすかにあるイメージとしては
「ああ、あの奥さんに頭が上がらなかった人ね」
とか
「関ヶ原の戦いに遅刻したポンコツでしょ」
とか
「地味。」
とか
そんな感じではないでしょうか。
しかし、いくら初代が偉大でも二代目がちゃんとしていないと何事も失敗するのが世の習い。秀忠は二代将軍として、家康の路線を忠実かつ堅実に引き継ぎ徳川幕府の支配体制を確かなものにしました。
結構、いろんなことをやっています。例えば…
などなど。
どうですか?めちゃくちゃ頑張っていたんですよ、秀忠さん。
そんな秀忠は家康の三男坊で、兄が2人いました。家康が一番期待をかけていた長男・信康(のち切腹)と、勇武の将として名を馳せた次男・秀康(豊臣秀吉の養子、のち結城家の養子)。
2人とも武将としての才能は抜群で、誰もが認める武勇の人でした。
一方の秀忠といえば、武将としての評価はイマイチ・・・。なにせ、初陣となった“天下分け目”の関ヶ原の戦いにおいて、知将・真田昌幸に翻弄され、3万8千もの大軍を率いながら、わずか2千人が籠城する信濃国上田城を落とせず、あろうことか関ヶ原の大戦に大遅刻したのです。
まぁ、武将として評価が低いのはしょうがない。家康が大激怒したのもしょうがない。
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西軍東軍が関ヶ原で大激突した「天下分け目の大戦」。これに遅刻するなんて・・・(『関ヶ原合戦図屏風』部分)
で、「二代将軍、誰にする?」という話題になった時、家康の側近たちは「武訓抜群な秀康派」vs「マジメが取り柄の秀忠派」に分かれ議論は紛糾。
しかし、家康は最終的に武将としてはイマイチな秀忠を後継者に選びました。
その理由は「戦乱の世は終わり平和な世を治めるのに必要なのは、武勇ではなく知勇」というもの。秀忠の二代目としての素質を見抜いた家康も、そんな父の期待に応えた秀忠も大したもんです。
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こちらは2016年の大河ドラマ『真田丸』に登場した星野源さん演じる徳川秀忠。秀忠ってフィクションだとこんな感じに柔和なキャラクター設定ですよね。
実際、性格は温厚で知的だったそうなのですが、後世に遺体調査をおこなったところ予想外にもかなりのマッチョだったことが判明しています。
そんな秀忠で忘れてならないのが“恐妻家”エピソード。当時にあって非常に珍しくひとりの側室も置かなかったことは有名です。正室は織田信長の妹・お市の三女である江(ごう)。
2011年の大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』ではヒロインになりましたね。
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戦国時代を代表する美女として名高いお市の方の娘だけあり、江もかなりの美人だったとか
意外と知られていないですが、江はバツ2、秀忠はバツ1での結婚でした。
かの“第六天魔王”織田信長の血を引くことを誇りに思っていた江はプライドが高く、秀忠は頭が上がらなかったといわれていますが、実際には“恐妻家”ではなく“愛妻家”なだけだったという見方もあります。
妻に誠実だった秀忠ですが、一度だけ浮気をします。秀忠、お前もか・・・。
しかも、自分の乳母の侍女というめちゃくちゃ身近な女性。これ、恐妻家の一度の気の迷いだったわけですが、あろうことか、この浮気で子どもができてしまいました。
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「…え?」
将軍の生殖能力、半端ない。隠し子のことは秘事中の秘事とされ、数人の側近しか知らなかったとか。
ちなみに、その隠し子は
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のちに会津藩初代藩主となる保科正之。
一度の浮気でできた隠し子がめちゃくちゃ有能とか、なんかズルいですな。
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父・秀忠に冷遇されながらも徳川将軍家に絶対的忠誠心を持ち「徳川将軍家に刃向かうやつは子孫とは認めない」という遺訓まで残した保科正之
秀忠は、戦乱の世では“凡将”として終わったことでしょう。でも、安定こそが最優先事項だった幕府草創期、冷静沈着でマジメな秀忠は立派に二代目としての役目を果たしました。
まだ豊臣恩顧の大名たちが力を持っていた時代にあって内乱が起こらなかったのは秀忠の手腕の賜物といっても過言ではないでしょう。もう地味な二代目なんて言わせないぞ!
おまけ。
秀忠の亡き後、その遺体は東京都港区の一角にあった台徳院霊廟に埋葬されたのですが、戦災で焼失してしまったため、徳川家の菩提寺・増上寺に改装されました。
その際、秀忠の遺体調査が行われましたが、秀忠の遺体は座したままの姿勢でまるで畳んだ提灯のごとく圧縮されていたそう・・・。
土中の石の重みが理由とかなんとか。それにしてもそんな苦しい体勢でずっと眠っていたかと思うと不憫です。また、遺体には数々の銃創が残っており、骨にまで達するような傷もあったとか。秀忠も戦国時代を生き延びた人物だった証ですね。
徳川秀忠の詳細データ