次は“篤姫の旦那さん”として有名な十三代目。
病弱で内向的な“お飾り”将軍
十三代将軍・徳川家定
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黒船来航ショックの激震が走るなか将軍となったのは、歴代将軍でもっとも酷評されることもある徳川家定。
家定は十二代将軍・家慶の四男だったのですが、兄たちが次々に死亡、というか家慶の子ども27人のうち無事に生き延びたのが家定だけだったので将軍となりました。
祖父・家斉、父・家慶ともに健康体だったのに対し、家定は幼い頃から病弱。一説に脳性麻痺だったともいわれ、言動に不自由がありました。さらに、乳母以外の人間には心を開かなかったといわれるほどの極度の人見知りのうえ癇癪持ち。
周囲からは武家社会の長・将軍の器とは思われず、祖父の家斉が思い余って家定を毒殺しようとした、なんて噂もあるほどでした。
家定の父・家慶のことを「凡庸の人」とこき下ろした幕末の俊英・松平春嶽は家定を評して「凡庸のなかで最も下等」とめちゃくちゃヒドイことをいっています。さらに、松平春嶽は家定を“イモ公方”という誰がどう聞いても悪口にしか聞こえないあだ名をつけていました。
このあだ名の由来は家定の趣味がお菓子づくりだったから。蒸し芋や炒豆を自分でつくり家臣に振るまうこともあったとか。時にはカステラをつくったというから将軍というよりもはやスイーツ職人です。時代はもう泰平の世ではなく「幕末」の動乱期が始まってますから、春嶽が呆れるのもムリはない。
ただ、幕末の幕臣・朝比奈昌広は明治になって家定についてこう語っています。
「家定公は、凡庸だ暗愚だといわれているが、それは春嶽ら英俊と比較するからだ!諸侯のなかには家定公よりもっと劣る大名も多くいたはず」
「それフォローになってないから…」
なかなか苦しいフォローではありますが、もっと平和な時代だったら家定もここまでケチョンケチョンに酷評されなかっただろうことは確かです。
また、江戸城でアメリカ総領事・ハリスを引見した際には将軍らしい威厳のある口上を述べたとか。
一説にこの時、家定は頭を左肩のほうに傾け、足を踏み鳴らすという奇妙な行動をしたといわれます(脳性麻痺の症状とも)。
さて、そんなパッとしない家定のパッとする嫁として有名なのが、大河ドラマで一躍江戸時代を代表するヒロインのひとりとなった篤姫です。
篤姫は家定の正室ですが、じつは3番目のお嫁さんです。家定が18歳の時に京から皇族のお姫様を迎えたのですが、若くして他界。翌年、再び京から皇族のお姫様を正室に迎えたのですが、わずか半年後に他界・・・。
家定が「公家の娘は虚弱でいかん。次は武家出身の健康で長生きしそうな女性を迎えよう」と望んで、薩摩藩の島津家から輿入れしてきたのが篤姫です。
家定と篤姫の結婚生活は1年半ほどの短いものでしたが、家定が特製のカステラを篤姫にご馳走したとか、結構仲よさげなエピソードも残っています。
が、残念ながら子宝には恵まれず、お決まりの将軍継子問題が勃発します。家定は現将軍ながら蚊帳の外でしたが、最後には「次期将軍には紀州藩の徳川慶福(のち家茂)にする」と諸大名に宣言し、ゴタゴタに自ら幕を下ろしました。
将軍らしいところを最後に見せた家定は、満足したのかその半月後、35歳の若さで世を去りました。
徳川家定の詳細データ
- 生没:1824年5月6日(文政7年4月8日)〜1858年8月14日(安政5年7月6日)
- 将軍在位期間:嘉永6年(1853年)11月23日〜安政5年(1858年)7月6日
- 父:徳川家慶
- 母:本寿院
- 正室:鷹司任子(あつこ/若くして他界)、一条秀子(若くして他界)、天璋院(篤姫)
- 側室:志賀
- 子ども:なし
- あだ名:イモ公方
- 身長:150cm
- 死因:脚気(コレラ説あり)
- 墓所:徳川将軍家の菩提寺・上野寛永寺
次は勝海舟も忠誠を誓った英邁な青年。
感動エピソード満載! 激動の時代に散った若き将軍
十四代将軍・徳川家茂
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虚弱な十三代将軍・家定が世継ぎのないまま死んでしまったので、当然起きた将軍継子バトルの結果、13歳の若さで十四代将軍となったのが家茂です。
家茂が将軍職にあった7年は短いながらも日本史に残る歴史的事件がてんこ盛り。どんなことがあったのがざっと年表にしますとーー
- 1858年(安政5年)
- 大老・井伊直弼がアメリカと日米修好通商条約を結ぶ
- 1859年(安政6年)
- 「安政の大獄」で吉田松陰ら処刑
- 1860年(安政7年)
- 「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が水戸藩浪士らに襲撃され殺される
- 1862年(文久2年)
- 孝明天皇の異母妹・和宮と家茂が結婚
- 「坂下門外の変」で老中・安藤信正が水戸藩浪士らに襲撃される
- 「生麦事件」で薩摩藩士がイギリス人を殺害
- 1863年(文久3年)
- 「生麦事件」の報復としてイギリスが薩摩藩を砲撃(薩英戦争)
- 長州藩の高杉晋作が「奇兵隊」を設立
- 1864年(元治元年)
- 「池田屋事件」で新選組、大暴れ
- 長州藩が京で挙兵(禁門の変)
- 長州藩をお仕置きするため幕府が大軍を出す(第一次長州征伐)
- 長州藩、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊に砲撃される(下関戦争)
- 1865年(慶応元年)
- 第二次長州征伐の途上で将軍・家茂、死去
教科書でも見たことある出来事がたくさん。
受験生泣かせのややこしい時代です。
こんな時代に13歳で将軍となったわけですから、そのストレスは想像を絶するわけで、そりゃあ20歳で死んでしまうのも無理はない。甘いものばっかり食べて30本も虫歯をつくりますよ。
幼い頃、家茂は動物好きで池の鯉やペットの鳥と戯れるのを楽しみにしていたそうですが、13歳で将軍としての重責を担わなくてはならなくなった家茂は、そうしたささやかな楽しみをすべて捨て、一心不乱に文武に励みます。それは子どもながらにこう決意したからです。
「よい将軍になろう」
もともと聡明だったこともあり、健気な少年将軍に幕臣たちも心打たれ、忠誠を誓ったに違いありません。
辛辣な人物評価で知られる幕末の英雄・勝海舟もそのひとり。
家茂は勝海舟を非常に信頼していたのですが、勝もまた家茂に真心をもって仕えました。江戸で家茂の訃報を知った勝はこう日記に残しています。
「徳川家、今日滅ぶ」
と。
それほど勝は家茂に幕府の未来を感じていたのでしょう。激動の時代に重責を担い若い命を散らせた家茂を思うと、勝は後年涙ぐむこともあったとか。歴史に「たられば」は禁句ですが、もし家茂がもっと長生きしていれば、倒幕の流れは止められずとも幕府の命運も少し違ったものになったかもしれませんね。
また、十三代将軍・家定を“イモ公方”とヒドイあだ名で呼んでいた幕末の俊英・松平春嶽は、若い家茂の補佐役として揺らぐ幕政を支えた人物ですが、家茂は将軍である自分にも率直に意見する春嶽を信頼し、春嶽もそんな家茂に期待を寄せビシバシ指導したようです。
家茂の人柄のよさを感じさせるこんなエピソードもあります。
家茂には戸川安清(やすずみ)という70歳を過ぎた書道の先生がいました。戸川は先代・家定にも仕えた幕臣で、家茂の正室・和宮が京から江戸へお嫁にやってくる際も警護役を務めています。
さてある日、戸川に書を習っていた家茂は突然、この老人に頭の上から水をぶっかけます。そして「続きはまた明日にしよう」といって笑いながら退室してしまいました。家茂らしからぬ突然の蛮行に、その場に取り残された側近たちは一同騒然とします。
するとびしょ濡れになった戸川おじいちゃん、泣きながらこんなことを話し出します。
「じつは歳のせいでちょっとした弾みで失禁してしまったのだ・・・。上様の御前で失禁などもってのほか、本来なら厳罰に処せられても当然のこと。それなのに上様は、わざと水をかけ皆に失態がバレぬようにしてくださった・・・。それだけじゃなく、『続きはまた明日』といって言外に不問に処すと示してくださった・・・」
家茂、めっちゃいい人。
ちなみに、長寿連載国民的マンガ『こち亀』にもこのエピソードを元ネタにした回があり、当時のネットでも「元ネタ初めて知ったけど、家茂ぐう聖」とちょっとした話題になしました。こんな形で歴史上の人物が再評価されるのが日本らしい。
歴代将軍のなかでも、その人柄で人気が高い家茂ですが、歴代将軍屈指の愛妻家でも有名。
家茂の正室は、時の天皇・孝明天皇の異母妹である皇女・和宮。お父さんは先帝・仁孝天皇。つまり、天皇の娘です。
気品あふれる美しい女性ですね。
歴代将軍の正室は基本的に皇族のお姫様を京から迎えていましたが、将軍と天皇の娘との結婚となると、これは幕府始まって以来はじめて。
黒船来航以来、国内では「外国を追い払え!」という攘夷運動が活発になっていました。さらに、「幕府は政権を朝廷に返上しろ!!」という尊王運動も声高に叫ばれるようになり、過激な尊攘派が倒幕運動に走るようになっていました。
幕府の権威なんて地に落ちています。
そこで、朝廷の力を借りてみずからの権力回復を狙う幕府側の思惑と、政治的発言力を強め攘夷実行を狙う朝廷側の思惑が合致し、家茂と和宮は結婚することになりました。
優しい家茂のこと、本当は来たくなかった江戸へ連れてこられ心細い和宮に細々と気遣いをしたのでしょう、政略結婚ながら家茂と和宮の夫婦仲はとっても良好でした。
ですが、幸せな時間も長くは続きませんでした。
倒幕を掲げ過激な行動を続ける長州藩への征討を決めた幕府は、2度にわたり大規模な征討軍を派遣します。2度目の長州征伐では、なんと将軍の家茂が自ら先頭に立ち出陣しました。先陣に立つ将軍なんて家康以来、これは否が応でも士気が上がる。
しかし、心身の過労が祟ったのか、長州征伐の途上、体調を崩した家茂は大坂城で息を引き取りました。まだ20歳という若さでした。
それから1ヶ月半ほどのち、和宮のもとに冷たくなった家茂が戻ってきました。時間が経ちすぎているので和宮は家茂の死に顔すら見ていないでしょう。
ある日、和宮に家茂の形見として西陣織の織物が届けられます。それは長州征伐に赴く家茂に「お土産は何がいい?」と問われ、和宮がおねだりしたものでした。亡き夫からのプレゼントを手にした和宮は、辛い胸のうちを次のような和歌にしました。
「空蝉(うつせみ)の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」
どんな美しい西陣織の織物もあなたがいてこそ美しいのに・・・というような意味です。
その西陣織はその後、この和歌とともに徳川家菩提寺・増上寺に奉納され、袈裟として仕立てられ「空蝉の袈裟」として現存しています。
家茂と和宮の感動エピソードはまだ続きます。
昭和30年代に増上寺の墓地改葬が行われ、遺骨調査なども行われたのですが、和宮のお墓から1枚の写真が発見されました。そこに写っていたのは、まだ顔に幼さの残る直垂に烏帽子姿の若い男性。
写真に写ったこの人物は夫の家茂に違いないといわれています。
しかし、非常に残念極まりないことに、この写真は今は見ることができません。湿板写真というもので、調査中の不手際から画像が消えてしまったのだとか。
ちなみに、遺骨調査の結果、家茂は当時の人には珍しいくらいに鼻が高かったとか。細面で鼻が高いとかイケメンを想像しますが、かなり出っ歯(しかも虫歯だらけ)だったそうです。
徳川家茂の詳細データ
- 生没:1846年7月17日(弘化3年5月24日)〜1866年8月29日(慶応2年7月20日)
- 将軍在位期間:安政5年(1858年)12月1日〜慶応2年(1866年)7月20日
- 父:徳川斉順(なりゆき/紀州藩11代藩主)
- 母:実成院
- 正室:静寛院宮(皇女・和宮)
- 側室:なし
- 子ども:なし
- 身長:156.6cm
- 死因:脚気による心不全
- 墓所:徳川将軍家の菩提寺・増上寺