次は江戸時代のビッグダディ。
幕府の絶頂期に50年も君臨した精力絶倫の“オットセイ将軍”
十一代将軍・徳川家斉
家斉のここがすごい!
- とにかく子だくさん
- とにかく精力絶倫&超健康
- 江戸時代だけじゃなく日本史上、征夷大将軍として一番長く将軍をやっていた
- 結果的に江戸の庶民文化「化政文化」が花開いた
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十一代将軍・家斉の偉業といえばなにか?ひとつ挙げるなら、それは
子作り。
側室の人数は名前が確認されているだけでも16人といいますから実際にはもっとたくさんいたでしょう。一説に40人以上いたとか。まさにハーレム。
で、側室たちとの間に生まれた子どもの数がまたすごい。その数、
53人
男子26人+女子27人。
「子どもは野球チームがつくれるくらい欲しいな(笑)」のレベルじゃない。子どもだけでリーグ戦ができちゃう。
ただ、乳幼児の死亡率が高かった江戸時代。将軍家といえどもそれは同じで、53人のうち無事に成長したのは半分くらいだったとか。それでもすごい人数です。子宝に恵まれなかった将軍たちが多いなか、例外的な精力絶倫ぶり。
家斉は旺盛な精力を維持するため、1年中毎日欠かさず生姜を食べていたほか、オットセイのペニスを粉末にした強壮剤を愛飲していたとか。そのためついたあだ名が・・・
オットセイ将軍。
うーん、このあだ名はいやだ・・・。
家斉がなぜこれほど子作りに執念を燃やしたのか。その理由は、御三家や御三卿を含む徳川家の血を実家の一橋家の血筋で統一しようという野望があったからといわれています。家斉は将軍になる際、父・徳川治済(はるさだ)にこの野望のためとにかく子どもをたくさんつくるように命じられたとか。
「徳川をすべて我が血筋に塗り替えてやるっ」
この途方もない野望はなんと成功。
実際、家斉の子女たちは十二代将軍となった次男(長男は早世)を除き、全員が徳川家の親類大名家をはじめ全国各地の大名家に養子に入ったり、お嫁に行き、水戸藩を除く御三家と御三卿はすべて家斉の血筋に塗り替えられました。
さらに、全国各地の大名に子女を送り込むことで、家斉は将軍家と諸大名との結びつきを強固なものにしようとしました。諸大名にとっても将軍家から養子や嫁を迎えると、領地を増やしてもらえるなど特別待遇をしてもらえるうえ、大名家としての「格」がアップするので喜んで血縁関係を結ぶ藩も多くありました。
しかし、この子女バラマキ大作戦は莫大な費用がかかり幕府財政の悪化に拍車をかけたうえ、大名家の秩序混乱ももたらします。
八代将軍・吉宗以降、基本的に「倹約」路線でやってきた将軍たちでしたが、家斉の場合は全くの逆路線。浪費、浪費、また浪費。
前述したように多くの側室を持ったため大奥も過去最大級に巨大化し、3,000人近くの女性が大奥にいたとか。将軍が浪費するなら大奥だって贅沢三昧。当然ながら、あっという間に幕府の財政は傾きまくりました。
家斉治世の初期にはストッパーがいたため、浪費もそれほどひどくはありませんでした。それが八代将軍・吉宗の孫で、15歳の若さで将軍となった家斉の補佐役だった老中・松平定信。マジメな定信は祖父・吉宗と同じく「倹約こそ正義」の人で、家斉やお大奥にも倹約を強制しました。「江戸三大改革」のひとつ「寛政の改革」も定信が行ったものです。
しかし、倹約を押しつける定信に対し家斉は次第に不満を募らせ関係は悪化、21歳となった家斉は定信をクビにします。代わって老中にはイエスマンを置き、以後、家斉は思うがままに贅沢三昧をするようになったのです。
大奥の風紀も乱れ、大奥女中と僧侶による禁断の破廉恥スキャンダル事件(感応寺事件、智泉院事件など)が起きたのも家斉の時代です。
「寛政の改革」による締め付けから解放されぜいたくに耽る家斉の享楽的空気は時代の空気にもなり、結果として「化政文化」と呼ばれる町人文化が花開きました。
江戸グルメの代表格として知られる寿司やうなぎなんかが人気となったのもこの頃。弥次さん喜多さんコンビのドタバタ珍道中『東海道中膝栗毛』(十返舎一九 作)や曲亭馬琴の伝奇ロマン長編『南総里見八犬伝』など今でも有名な文学作品も多数生まれました。
また、浮世絵が最盛期を迎え、世界的にも有名な絵師がたくさん活躍しました。写楽に喜多川歌麿に葛飾北斎に歌川広重に国芳・・・みんな登場してます。
「やせ蛙まけるな一茶これにあり」の句でおなじみ俳人・小林一茶も化政文化を代表する有名人です。
私たちが「江戸時代」といわれてイメージする江戸時代の人々の暮らしぶりなんかはだいたいこの時代が大元になっています。
江戸時代後期の思想家・頼山陽が著書の国史書『日本外史』のなかで「盛りを極む」と表現しているように、家斉が将軍職にあった50年はまさに天下泰平・幕府の絶頂期でした。
しかし、政治の放任と長年の浪費は、「幕府の財政難」「政治の腐敗」という負の遺産を次の世代に残すことになりました。そして、幕府崩壊の足音も次第に近づいてきていました。
病弱な将軍が多いなか異例ともいえる健康体だった家斉は大病を患うこともなく65歳まで将軍の座に居座り、さらに将軍引退後も大御所として実権を手放しませんでした。
やりたい放題だった家斉でしたが、誰にも気づかれぬうちに息を引き取ったとか。栄華を極めた将軍のなんとも寂しい最期でした。
幕府が朝廷に政権を返上するまであと26年。
家斉の死で時代はいよいよ激動期に入っていきました。
徳川家斉の詳細データ
次はモットーは「親父のようにはなりたくない」の十二代目。- 生没:1773年11月18日(安永2年10月5日)〜1841年2月27日(天保12年閏1月7日)
- 将軍在位期間:天明7年(1787年)4月15日〜天保8年(1837年)4月2日
- 父:徳川治済(御三卿のひとつ一橋家当主)
- 母:お富の方
- 正室:広大院(薩摩藩の超人、島津重豪の娘)
- 側室:たくさん
- 子ども:徳川家慶(いえよし/十二代将軍)ほかたくさん
- あだ名:オットセイ将軍
- 身長:156.6cm
- 死因:急性腹症
- 墓所:徳川将軍家の菩提寺・上野寛永寺
黒船来航でショック死!? 時代の荒波を乗り越えられなかった“そうせい様”
十二代将軍・徳川家慶
家慶のここがすごい!
- 「黒船来航」という江戸時代きっての大事件に立ち会った
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徳川家慶は“オットセイ将軍”家斉の次男で、長男が幼くして他界したため十二代将軍となりました。しかし、家斉が50年も将軍に居座ったうえに引退後も大御所として実権を手放さなかったので、家慶が将軍になれたのは45歳の時。実権を握ることができた時にはもう49歳になっていました。
家慶は、“幕末の四賢侯”のひとり松平春嶽に「凡庸の人」と酷評されたり、家臣の意見に反対することはなく「そうせい」と答えるだけだったことから“そうせい様”とあだ名されたり、趣味の絵画に没頭したため、「無能な暗君」というイメージで語られることが多い将軍です。
「そうせい」
※デジャヴ感半端ないのは、4代将軍・家綱が「さようせい」様だから
しかし、浪費の権化だった父・家斉が世を去ると、これまでの鬱憤を晴らすように幕府を立て直すため色々とがんばったんだと声を大にして言いたい。
父・家斉のイエスマンとして幕政を思うがままにしてきた政治家たちを一掃し、マジメな水野忠邦を老中にすると「綱紀粛正」「質素倹約」を掲げた「天保の改革」を実行させました。でも、この改革はあまりに性急であまりに厳しすぎ庶民からも大反感を買い、わずか2年で失敗してしまいました。
余談ですが、この改革で庶民の娯楽として大人気だった歌舞伎も大ダメージを受けたのですが、“遠山の金さん”こと町奉行の遠山景元の活躍により歌舞伎文化は守られました。
改革の失敗で水野忠邦が失脚したあとは、24歳のまだ若い阿部正弘を老中に抜擢するなど、家慶は有能と見た人物を年齢に関係なく登用する柔軟さも持っていました。
そして家慶は、時代が大転換するきっかけとなる大事件に直面します。
ペリーが4隻の黒船を率いて浦賀にやってきたのです。
ここから時代はいよいよ「幕末」に突入します。じつはこの「黒船来航」について幕府上層部は1年以上前から情報を掴んでいたのですが、泰平の世に慣れきってしまった結果か危機感を持つ者は幕府内でも少なかったとか。なので実際にペリーが「開国シナサーイ」とやってきたもんだから幕府は大混乱に陥ったのです。
温和で冷静沈着な性格だったという家慶も黒船来航にショックを受けたのか、事件から2週間後に病に倒れ、間もなく世を去りました。
父・家斉を反面教師にしていた家慶ですが、精力絶倫ぶりは父譲りだったようで、家慶も27人も子どもをもうけました。しかし、無事に生き延びたのは十三代将軍となる家定だけというなんとも悲しい結果に・・・。
余談ですが、家慶は生姜が大好きだったそうで、これも父譲り。親子というものは嗜好も似るのでしょうか。
もう少し余談ですが、家慶の個性的な肖像画はかなり生前の家慶の特徴を捉えているらしいです。頭が大きくて、六頭身、あごがシャクレ気味・・・。絵師よ、もうちょっと美化しても良かったのでは?
徳川家慶の詳細データ
- 生没:1793年6月22日(寛政5年5月14日)〜1853年7月27日(嘉永6年6月22日)
- 将軍在位期間:天保8年(1837年)4月2日〜嘉永6年(1853年)6月22日
- 父:徳川家斉
- 母:香琳院
- 正室:喬子(たかこ)女王
- 側室:たくさん
- 子ども:徳川家定(十三代将軍)ほかたくさん(ただし家定以外、早世)
- あだ名:そうせい様
- 身長:154cm
- 死因:暑気あたり(熱中症による心不全)
- 墓所:徳川将軍家の菩提寺・増上寺
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