さてお次は劣等感にさいなまれた続けた九代目。
“小便公方”はじつは隠れた名君!?
九代将軍・徳川家重
家重のここがすごい!
- 人物鑑定眼がすごい
- 優秀な長男を残した
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“暴れん坊将軍”の長男として期待された家重でしたが、生来病弱なうえ、脳性麻痺のため言語は不明瞭、絶えず歯ぎしりをし、手も不自由だったとか・・・。対して家重の弟である宗武や宗尹(むねただ)は聡明で優秀。次第に「次期将軍には弟君の宗武の方が・・・」という声が高まり、吉宗の側近で老中・松平乗邑(のりさと)などは宗武推しの急先鋒になり、家重を廃嫡しようとまでしていました。
偉大なる父と優種な弟たちに比べられる辛さもあり、もともと内気な性格だった家重はますます内にこもるようになり、周囲の目から逃れるように大奥に入り浸り、すべてを忘れるかのごとく酒を飲みまくりました。
そんな家重でしたが、歴代将軍のなかでも珍しく正室との仲は良好だったようです。正室とともに船で隅田川を遊覧した、なんてほのぼのエピソードも残っています。三代将軍・家光に聞かせてやりたいですね。
めでたく2人の間には子どもも誕生しましたが、残念なことに生まれて間もなく死去。さらに、産後の肥立ちが悪く、妻までも23歳の若さで世を去りました。家重の悲しみは想像を絶するものだったでしょう。
「次期将軍の器ではないのではないか?」
と、周囲から危ぶまれた家重でしたが、父で八代将軍の吉宗は「将軍継子は長幼の序が絶対ルール」と、長男の家重を九代将軍に指名しました。でも、やっぱり心配だったのか将軍引退後も大御所としてしっかり政務を主導しました。
35歳でようやく将軍となった家重は、自分をバカにしていた人々を遠ざけます。自分を見下していた優秀な弟たちには登城を禁じ、弟を次期将軍に推していた老中・松平乗邑はクビ。相当、恨みがたまっていたのでしょうねぇ。
“暗愚な将軍の代表格”みたいな不名誉なイメージで語られることの多い家重ですが、決して無能なバカ殿ではありませんでした。
言語障害により家重の言葉を理解できたのは側用人の大岡忠光だけだったとか、排尿障害のため頻尿で、江戸城から徳川家の菩提寺・上野寛永寺までの数kmを行くだけで道中に23か所もトイレを設置せねばならず、口さがない江戸っ子たちが“小便公方”と陰で冷やかした、とかそういったエピソードばかりが取り上げられるのも家重にとっては不運なこと。
あまり記録も残っていないし、大奥にこもってたのもイメージが悪い要因かもしれません。幕府の公式記録である『徳川実紀』も家重のことについては「病弱で表にもあんまり出てこないからよくわかんね」みたいな冷たいあしらい・・・。これは当時の障害に対する偏見が大いに影響しているといわれています。
そんな感じで色々相まって暗君呼ばわりされてきた家重ですが、先進的な経済観念を持つ経済のプロ・田沼意次を見出し大名に取り立てたのは家重であり、意次のほかにも有能な人材を登用していることから人を見る目は確かなものがありました。臨終の際にもこう遺言しています。
「田沼を大事にセェヨ」
政治面でも家重がリーダーシップをとることはなかったとはいえ、幕政は比較的安定していました。また、趣味だった将棋の腕前もかなりのものだったそう。将棋は知的な遊びですから、家重も知的レベルの高い人物だったと想像します。あと、絵もかなりお上手で優しい雰囲気のいい絵を残しています。
余談ですが、遺骨調査の結果、家重は歴代将軍のなかでもトップクラスのイケメンだったという説もあります。有名な肖像画は顔面麻痺の影響か表情が歪んで描かれていますが、こんな肖像画もあります。
とても同じ人物を描いたものとは思えない(笑)。でも遺骨調査の結果、どうやらハゲていたらしい・・・。
さらに余談ですが、家重には「本当は女性だった?」という珍説もあります。あまりに表に出なかったこと、遺骨に女性的特徴があるような気がすることなどが「家重女性説」の根拠となっているそうなのですが・・・はてさて、いかに。
謎に満ちた将軍・家重は、偉大なる父もその将来を期待した才気あふれる子どもを残し世を去りました。
徳川家重の詳細データ
- 生没:1712年1月28日(正徳元年12月21日)〜1761年7月13日(宝暦11年6月12日)
- 将軍在位期間:延享2年(1745年)11月2日〜宝暦10年(1760年)5月13日
- 父:徳川吉宗
- 母:深徳院
- 正室:増子女王(皇族の王女さま)
- 側室:至心院(十代将軍・徳川家治の生母)、安祥院(清水徳川家初代当主・徳川重好の生母)
- 子ども:徳川家治(十代将軍)、徳川重好(清水徳川家初代当主)
- あだ名:小便公方
- 身長:推定156cm
- 死因:尿路障害、尿毒症
- 墓所:徳川将軍家の菩提寺・増上寺
次は祖父・吉宗が期待をかけるも・・・の十代目。
情熱を傾けたのは政治ではなく将棋
十代将軍・徳川家治
家治のここがすごい!
- 武芸も芸術も得意な文武両道の才人
- 将棋がケタ外れに強かった
- 放任主義のおかげで田沼意次が大活躍
- めちゃくちゃ愛妻家。しかも相思相愛
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“無能な暗君”とのレッテルを貼られた九代将軍・家重の長男で、残念ながら世間の評判は今も昔も「田沼意次に政治を丸投げし、自分は趣味の将棋三昧だった無能な暗君」。親子二代で暗君あつかいは悲しすぎる。
悪評が定着してしまっている十代将軍・家治ですが、子どもの頃は非常に聡明で、暴れん坊な八代将軍・吉宗が「息子(家重)はあんまり期待できないけど、孫の家治(当時は竹千代)は将来有望じゃ!」と太鼓判を押すほどでした。孫の家治にかけた期待は非常に大きく、吉宗自ら帝王学を教え込みます。
こんなエピソードがあります。
ある時、家治少年が習字を書いていた時のこと。「龍」という文字を書いていたのですが、のびのびと書きすぎて最後に点を打つスペースがなくなってしまいました。
「さて、どうするかな?」と吉宗が興味津々で見ていると、家治少年はためらいもなく紙の外の畳に点を書いたという。これを見て「さすがじゃ!この子には天下を治める将器がある!」と吉宗おじいちゃんは大満足したとか。
家治も偉大なおじいちゃん・吉宗をとても尊敬しており、長じてからも吉宗を手本に文武両道に励み、質素倹約に努めたそう。鉄砲や剣術もかなりの腕前だったといわれています。
十代将軍となった家治は、「田沼意次は優秀だから、引き続き重用するように」との父・家重の遺言を忠実に守り、田沼意次を老中に抜擢。意次もその期待に応えるように辣腕を振るいまくり、時代に先駆けた重商主義政策をガンガン推し進めました。敵の多かった意次が活躍できたのも将軍・家治の後ろ盾があったればこそです。
しかし、聡明で武芸にも秀でリーダーシップもあったであろう家治がなぜすべてを田沼意次に丸投げしたのか?
その真相を知るのは家治本人だけであり、知りようがありませんが、子どもを次々と亡くしたことも大きく影響していると考えられています。また、ただ単にやる気がなかった、という身も蓋もない説もあります。
家治は正室・倫子女王をとても大事にした愛妻家で、2人の女の子にも恵まれました。正室との間に2人も子どもができるのは非常に稀なことです。家光に聞かせて(以下略)。
ですが、悲しいかな、2人とも幼くしてなくなってしまいました。このあたり、父・家重と似ています。さらに、側室が生んだ長男・家基(いえもと)も18歳の若さで急死してしまいます。
長男・家基は父の家治に似て非常に聡明で次期将軍として周囲からの期待も大きかった有望な青年でした。それが鷹狩りの帰りにポックリ突然死んでしまったのです。
もうひとりの側室が生んだ次男も生後間もなく死去し、家治は授かった子ども全員に先立たれるという悲劇に見舞われました。さらに愛する正室の倫子までもが他界。これは家治が厭世的になってしまうのも仕方がありません。
私生活で不幸が続いた家治が没頭したのが趣味の世界でした。
芸術的才能にも恵まれていた家治は書画も得意で、躍動感にあふれる馬の絵も残っています。多趣味だった家治が特に熱中したのが将棋です。
家治の将棋の棋譜が現存しており、それによればアマ高段者レベルの腕前だったとも。さらに趣味が高じて詰将棋(将棋の駒を使ったパズル)の本まで出しています。
これは家治が考案した詰将棋百番をまとめた『御撰象棊攷格(ごせんしょうぎこうかく)』(写本)。専門家によると「公家風の淡白でおおらかな作風」なんだとか。
しかし上様、将棋のマナーに関しては結構ワガママだったようで、苦境に立たされると「待った」をかけたうえに相手の駒を戻すこともあったとか。
将軍「待った! (そして相手の駒を戻す)」
部下「…。」
余談ですが、50歳で世を去った家治の死には当時から「毒殺ではないのか?」という不穏な噂がささやかれていました。
容疑者として田沼意次が疑われたりもしたが、意次にとって家治は大事な後援者。長生きを願いこそすれ暗殺するなんて自分の失脚を早めるようなことをするはずないから論外でしょう。ほかにも一橋家当主・徳川治済(はるさだ)とか、のちの老中・松平定信とか疑わしい人物はいますが、家治の死の真相は歴史のミステリーです。
徳川家治の詳細データ
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