【画像あり】好奇心の塊・平賀源内のフリーダム過ぎる生涯とは【発明も芸術も】

  • 更新日:2017年5月5日
  • 公開日:2016年8月13日

「エレキテルの人」でおなじみの平賀源内。“日本のダ・ヴィンチ”とも”奇才”とも評される源内の意外と知られていない波乱万丈の生涯をまとめてみました。

平賀源内の肖像画(明治時代)

後世に描かれた肖像画ですが、漂う普通じゃないオーラ。なかなかのイケメンです。

平賀源内は、とにかく好奇心が尋常ではなく、何にでもトライしてみました。といえば聞こえはいいのですが、その肩書きたるや本草学者(薬学者)、地質学者、鉱山技師、蘭学者、発明家、起業家、イベントプランナー、作家、コピーライター、陶芸家、西洋画家など、振れ幅が大きすぎて、もはや何が本職かわからないほど。

そんな彼の好奇心に満ちた人生をまとめました。

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平賀源内が生きた時代は江戸時代の中頃。“暴れん坊将軍”こと8代将軍徳川吉宗が世を治めたり、老中・田沼意次が幅を利かせていた頃。源内讃岐国(現・香川県さぬき市)にて下級武士の子として生まれました。

子どもの頃からとにかく好奇心旺盛、思いついたアイデアを形にしないと気が済まない。たとえば、11歳のときに作ったカラクリ掛け軸がこれ。


「お神酒天神」の掛け軸(平賀源内11歳の作品)
「お神酒天神」の掛け軸。画像引用元:YSミニ辞典
掛け軸の前に徳利を置けば、天神様の顔が酔ったように赤く変わるという仕掛けで、周囲の大人を仰天させました。

「天狗小僧」ともあだ名された源内少年の神童っぷりは、高松藩主の耳にまで届くまでになり、下級武士の子ながら、藩医に学問を教えてもらえるという高待遇を得ます。

そして、25歳の時、源内の人生に大きな影響を与える出来事が起こります。

それは、藩からの遊学許可。

遊学先は西洋との玄関口・出島のあるインターナショナルな地域、



長崎

長崎に実在した扇型の出島
おなじみ扇型の出島。オランダ貿易に関わるオランダ人たちはこの人工島に居住しました
並外れた好奇心を持つ源内を長崎に送り出す。

藩としては、もちろん「ゆくゆくは藩に還元してくれれば」という意図なわけですが、初めて触れる生の西洋文化や最新知識にビシビシ刺激を受けた源内は、どうにもうずうずが止まらなくなり、脱藩して浪人になってしまいます。これはひどい。

枷の取れた天狗小僧が目指すは江戸。

平賀源内、27歳の時のことでした。

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