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生類憐れみの令はなぜ出された?
「歴史なんて知らん」という人でも一度は聞いたことがある「生類憐れみの令(読み しょうるいあわれみのれい)」。日本の歴史上“悪法”と悪名高き法令。出したのはこの方、五代将軍・徳川綱吉です。

徳川幕府五代将軍・綱吉。父は“生まれながらの将軍”三代将軍・徳川家光。綱吉の時代には天下もすっかり平和になり、絢爛豪華な「元禄文化」が華開き、経済的にも好調でした。また、富士山も大爆発したり、「忠臣蔵」でおなじみ赤穂浪士の討ち入りが行われたのも綱吉の時。
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意外に誤解されている?本当の生類憐れみの令とは
「生類憐れみの令」をひとつの法令だと誤解している人も多いと思いますが、「生類憐れみの令」とは24年間という長きにわたって発令された動物保護を目的とする130以上の法令の総称です。
一般に「生類憐れみの令」というと、綱吉が“犬公方(いぬくぼう)”と揶揄されたように犬を過剰に保護したイメージがありますが、保護対象は、牛、馬、鳥、魚……果ては貝や虫にまで及びました。
ですので、ほっぺたに止まった蚊をぺちりと叩いたがために、「おぬし、いま殺生したな!?」と罪に問われた方もいたとか。
ありとあらゆる生き物を対象に非常に細かい規則と厳しい罰則をもうけたため“悪法”として有名になってしまった「生類憐れみの令」ですが、そもそもなぜ綱吉はこのような法令を発したのでしょうか?
これには、ある人物が深く関わっているとされていました。
その人物とは、

僧侶・隆光(りゅうこう)
綱吉の母・桂昌院も心酔していた隆光。
子宝に恵まれず悩む綱吉に対し隆光が「なに、子どもができない?それは上様が前世で殺生を犯した報いですな。なので生き物を大切にすべきですぞ~。あと、上様は戌(いぬ)年生まれだから特に犬を大切に~」とアドバイスした、というもの。
これまで長らく、この「隆光アドバイス説」が生類憐れみの令の発端といわれていましたが、現在では意外な事実が判明しています。
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なぜ「生類憐れみの令」は発せられた?本当の目的は?
「生類憐れみの令」の最初の法令が出された1685年。このとき、隆光は江戸にいませんでした。つまり、隆光は綱吉に直接アドバイスできず、この説は信ぴょう性が薄くなります。
近年、有力になっている説。
それは、
人々の意識を変えよう説です。
綱吉が将軍となった時代、天下が統一されておよそ80年が経ち平和になってきているとはいえ、世の中はまだ戦国時代の荒々しい空気が残っていました。江戸には「かぶき者」と呼ばれた荒くれ者たちもいました。

江戸時代初期の江戸を描いた『江戸図屏風』には刀を振り回しケンカする「かぶき者」が。彼らは昼間から暴れまわり、放火や辻斬りまでしたとか。また、犬を殺したり食べたりなんてことも。
綱吉は学問を愛し、儒学にも傾倒したインテリでした。世の中を安定させ、真に平和な世を築くためには、刀を振り回し“殺生上等”みたいな殺伐とした風潮は改めなければならないと考えたのです。
そこで、「殺生は悪いことである」という、今なら当然とされる思想を人々に徹底させるため動物愛護を掲げる「生類憐れみの令」を出したのです。
生類憐れみの令は、人間も保護対象だった
「生類憐れみの令」は“動物保護法”のイメージが強いですが、忘れてならない保護対象が人間です。じつは江戸時代前期、いまでは考えられないようなことがまま行われていました。
それが、

(『金父母(こがねのかぞいろ)』より)
捨て子です。
これは籠に入った捨て子が発見されたところ。
また、病人を山野に捨てたり、旅先で病気になった人を放置したりといったことも。儒学に傾倒していた綱吉は「仁の心」つまり「いたわりの心」を重んじていたため、こうした悪習を改めたいと痛烈に感じていました。
そこで出したのが「捨て子禁止」や「病人の保護」を命じた法令です。あまり知られていませんが、これらも「生類憐れみの令」のひとつです。
特に「捨て子禁止令」については、単に捨て子を禁じただけでなく、捨て子を予防するために町ごとに子どもの人別帳(今でいう戸籍のようなもの)をつくるように命じました。しかし、捨て子はなかなか減らなかったようで、綱吉は何度も「捨て子禁止令」を出しました。ちなみに、この「捨て子禁止令」は綱吉の死後も幕府や諸藩で引き継がれていきました。
ほかにも、牢獄の環境改善も命じたり、病人に限っては許可なく駕籠(かご)に乗ってもよい、という法令もありました。「生類憐れみの令」は“動物保護”の面が強調されがちですが、じつはこのように、“弱者保護”を目的とした福祉政策でもあったのです。時代を先取りしています。
“犬公方”綱吉 巨大犬小屋を中野につくる
さてさて「生類憐れみの令」を語るうえで避けて通れないのが「お犬さま」の話し。
のちに“犬公方”と揶揄されたように綱吉は犬に関する法令を数多く出しました。その理由は、綱吉が戌年生まれだから……ではなく、江戸時代、人々にとって一番身近な動物が犬だったからです。
じつは当時、江戸など都市部では増加した野犬が人を襲うという事件が頻発し問題となっていました。

(『十二ヶ月年中江戸風俗』より)
ケンカする犬を子どもたちが止めようとしています(それともけしかけているのかも)。浮世絵などにも犬はしばしば登場するように、江戸市中にはたくさんの野良犬がいたようです。
一方、鷹狩り用のエサに犬の肉を使用したり、人が犬肉を食べることもありました。こうしたことにより、「生類憐れみの令」が出される前から藩によっては、野犬に対する法令や犬の殺生を禁じる法令を出していました。
しかし、人との関わりが密なだけに問題解決も難しく、綱吉も「生類憐れみの令」で犬に対する法令を特に強化したのです。
綱吉は犬を保護するため、「犬毛付書上帳(いぬけつけかきあげちょう)」という犬の戸籍のようなものを作ることを命じました。
また、大久保、四谷、中野に犬を保護する収容施設もつくりました。特に中野の「御囲(おかこい)」はなんと東京ドーム20個分ほどという巨大な犬小屋で、そこに8万匹とも10万匹ともいわれる犬が収容されたそうです。
この中野の犬小屋(犬屋敷)。
今のどのあたりだったかというと、地図がこちら。

中野駅前全体からお隣高円寺駅近くまで、広範囲に犬小屋だったことがわかります。
とくに二の囲いが熱い。
中野サンモールや中野サンプラザ、そして中野ブロードウェイがすっぽりと吸い込まれていることがわかります。
現代では、「魔の巣窟」とよばれ休日は数万人のオタクで溢れかえる中野ブロードウェイですが、300年前はオタクではなく数万匹のワンちゃんで溢れかえっていたことになります。
ちなみに犬たちのエサ代や施設維持費などは江戸市民や江戸周辺の農民から徴収された税金でまかなわれましたので、当然ながらものすごい不満を生むこととなり、綱吉の死後、あっさり「御囲」は撤去されてしまいました。

中野駅近くにある中野区役所の前には、かつて「御囲」があったことをしのばせる犬の像があります。
なぜ「生類憐れみの令」はエスカレートしていったのか?
綱吉は関ヶ原・大阪の陣以後の戦後生まれの世代です。
泰平の世の申し子として、福祉政策に情熱を燃やす綱吉は、革新的ともいえる生類憐れみの令を出しました。
最初はどちらかというと道徳論的な発令だったのですが、みんながあまり守ってくれなかったため、綱吉は諦めず、24年間にもわたり発令し続けため、エスカレートしていきます。
結果、「え?こんなものも??」と思ってしまうほど、ありとあらゆる生き物を対象にやたらと細かい規則が設けられていくことになります。
これはやりすぎ、生類憐れみの令
- 道路をうろついている子犬を見つけたら母犬を見つけること
- ケンカしている犬を見かけたら水をまくなどして引き分けさせること
- 田畑を荒らすカラスやトンビは生け捕りにして伊豆七島へ運んでから放せ
- 馬のたてがみを切ること禁止
- 生きた魚や小鳥、鶏、亀、貝類を食料として売買すること禁止
- 鰻(うなぎ)、ドジョウも売買禁止
- 金魚を飼う者はその数を届け出よ
などなど。
これはさすがに守るのしんどい。
しんどいが、法令に反した場合には島流しや死刑にされた人もいたというから、なんとも恐ろしい。エスカレートした「生類憐れみの令」により人々は動物愛護精神を持つようになったかというと、極端な締め付けはかえって反発を生んでしまったようです。
地方では意外と無視されていた!?
綱吉が情熱を傾けた「生類憐れみの令」ですが、厳しかったのは江戸や京など都市部だけで、地方では結構ナアナアだったそうです。
たとえば、長崎。長崎は西洋文化の影響が色濃い土地で、鶏や豚などの肉食がすでに習慣化していました。そのため「生類憐れみの令」を徹底させることは難しかったようです。
また、徳川御三家のひとつ尾張。『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』という日記を書いた尾張藩士・朝日文左衛門という人なんかは、「生類憐れみの令」を無視して禁じられていた釣りを楽しんでいたとか。しかも、番人に見つかっても「こらこら」と注意されるくらいで罰せられることもなかったとか。地方ではかなり緩やかだったようです。

(『東都花暦十景』より「木場ノ魚釣」渓斎英泉 画)
釣りをする子ども。江戸時代、釣りは庶民の間に娯楽として広まりました。「生類憐れみの令」で禁じられていた釣りですが、どうやらこっそり釣りをする人はいたようです。
ちなみに、徳川綱吉と同時代を生きた人に“水戸黄門”こと水戸藩の徳川光圀(みつくに)がいます。水戸黄門は、「生類憐れみの令」を大批判し、綱吉をいさめるために犬の毛皮を送った、という逸話も残されています(後世の創作という説もあり)。
綱吉の死後、「生類憐れみの令」は……
綱吉が死んだあと「生類憐れみの令」はどうなったかといいますと、なんと綱吉の死からわずか10日後には六代将軍となった徳川家宣(いえのぶ)が「法令に反しても罪に問わなくてよい」と指示、その後、捕まっていた人々も釈放され、ものすごい速さで廃止されていきました。
ちなみに、綱吉は「100年後もこのままに」と遺言していたのですが完全に無視されたようです。とはいえ、「捨て子の禁止」など一部の法令は引き続き施行されました。
エスカレートした「生類憐れみの令」が多くの人々を苦しめたのは確かですが、その根底には「弱者保護」の精神と「仁の心」が流れており、“悪法”とばかり言い切れないプラスの面もたくさんあったこともまた確かだといえるでしょう。
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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?
1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。
(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。
(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。
江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?
パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。
「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。