生類憐れみの令は、人間も保護対象だった


「生類憐れみの令」は“動物保護法”のイメージが強いですが、忘れてならない保護対象が人間です。じつは江戸時代前期、いまでは考えられないようなことがまま行われていました。

それが、


江戸時代の捨て子(『金父母 こがねのかぞいろ』より)
(『金父母(こがねのかぞいろ)』より)
捨て子です。

これは籠に入った捨て子が発見されたところ。

また、病人を山野に捨てたり、旅先で病気になった人を放置したりといったことも。儒学に傾倒していた綱吉は「仁の心」つまり「いたわりの心」を重んじていたため、こうした悪習を改めたいと痛烈に感じていました。

そこで出したのが「捨て子禁止」や「病人の保護」を命じた法令です。あまり知られていませんが、これらも「生類憐れみの令」のひとつです。

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特に「捨て子禁止令」については、単に捨て子を禁じただけでなく、捨て子を予防するために町ごとに子どもの人別帳(今でいう戸籍のようなもの)をつくるように命じました。しかし、捨て子はなかなか減らなかったようで、綱吉は何度も「捨て子禁止令」を出しました。ちなみに、この「捨て子禁止令」は綱吉の死後も幕府や諸藩で引き継がれていきました。

ほかにも、牢獄の環境改善も命じたり、病人に限っては許可なく駕籠(かご)に乗ってもよい、という法令もありました。「生類憐れみの令」は“動物保護”の面が強調されがちですが、じつはこのように、“弱者保護”を目的とした福祉政策でもあったのです。時代を先取りしています。

“犬公方”綱吉 巨大犬小屋を中野につくる


さてさて「生類憐れみの令」を語るうえで避けて通れないのが「お犬さま」の話し。

のちに“犬公方”と揶揄されたように綱吉は犬に関する法令を数多く出しました。その理由は、綱吉が戌年生まれだから……ではなく、江戸時代、人々にとって一番身近な動物が犬だったからです。

じつは当時、江戸など都市部では増加した野犬が人を襲うという事件が頻発し問題となっていました。

江戸時代の野良犬(『十二ヶ月年中江戸風俗』より)
(『十二ヶ月年中江戸風俗』より)
ケンカする犬を子どもたちが止めようとしています(それともけしかけているのかも)。浮世絵などにも犬はしばしば登場するように、江戸市中にはたくさんの野良犬がいたようです。

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一方、鷹狩り用のエサに犬の肉を使用したり、人が犬肉を食べることもありました。こうしたことにより、「生類憐れみの令」が出される前から藩によっては、野犬に対する法令や犬の殺生を禁じる法令を出していました。

しかし、人との関わりが密なだけに問題解決も難しく、綱吉も「生類憐れみの令」で犬に対する法令を特に強化したのです。

綱吉は犬を保護するため、「犬毛付書上帳(いぬけつけかきあげちょう)」という犬の戸籍のようなものを作ることを命じました。

また、大久保、四谷、中野に犬を保護する収容施設もつくりました。特に中野の「御囲(おかこい)」はなんと東京ドーム20個分ほどという巨大な犬小屋で、そこに8万匹とも10万匹ともいわれる犬が収容されたそうです。

この中野の犬小屋(犬屋敷)。

今のどのあたりだったかというと、地図がこちら。

中野の犬小屋跡(犬屋敷) 地図

中野駅前全体からお隣高円寺駅近くまで、広範囲に犬小屋だったことがわかります。

とくに二の囲いが熱い。

中野サンモールや中野サンプラザ、そして中野ブロードウェイがすっぽりと吸い込まれていることがわかります。

現代では、「魔の巣窟」とよばれ休日は数万人のオタクで溢れかえる中野ブロードウェイですが、300年前はオタクではなく数万匹のワンちゃんで溢れかえっていたことになります。

ちなみに犬たちのエサ代や施設維持費などは江戸市民や江戸周辺の農民から徴収された税金でまかなわれましたので、当然ながらものすごい不満を生むこととなり、綱吉の死後、あっさり「御囲」は撤去されてしまいました。

中野区役所前 犬の像

中野駅近くにある中野区役所の前には、かつて「御囲」があったことをしのばせる犬の像があります。

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