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古典怪談として有名な「累ヶ淵(かさねがふち)」の主人公・累。怖い…(『見立三十六歌撰之内 藤原敏行朝臣 累の亡魂』三代歌川豊国 画)
100話語り終えるとなにかが起きる!? 江戸時代にブームになった怪談会「百物語」のやり方って?
現在、夏となればライブハウスなどで怪談会が催されたり、友だち同士でコワい話を語り合う……なんてことがまま行われます。肝を冷やして涼を呼ぼう、というわけです。
江戸時代の庶民たちも似たようなことをやっていました。とはいえ、現代のように怪談=夏の風物詩というわけではなかったみたいで、怪談会は夏に限った遊びではなかったようですが。

怪談を話していたら本当に幽霊が! 頭を抱える人々から悲鳴が聞こえてきそうです(『百物語』喜多川歌麿 画)
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では、江戸時代の怪談会「百物語」のやり方をご紹介しましょう(時代や流儀によって多少異なる)。
- 参加人数:自由(7〜8人がベストらしい)
- 開催時間:新月の夜
- 開催場所:参加者のうち誰かの家。使用するのは3部屋(最低2部屋)
- 必要な道具:灯芯(灯りをつけるための芯)×100本、灯油(ともしあぶら)を入れた油皿、青い紙で周囲を囲った行灯、鏡×1面
!注意事項!
刃物は危険なので、部屋や周辺に刃物があれば遠くへ片付ける。もちろん刀も帯刀しない。
刃物は危険なので、部屋や周辺に刃物があれば遠くへ片付ける。もちろん刀も帯刀しない。
さぁ、では「百物語」を始めましょう。
ちなみに、使用する3部屋の振り分けは、「参加者が集まる部屋」「空き部屋」「行灯と鏡が置いてある部屋」となっており、部屋の配置がL字型になっているのが理想的なのだそうですが、横続きでもOKらしいです。そして「参加者が集まる部屋」も「空き部屋」も真っ暗。行灯がある部屋も100本もの灯芯に火が灯っているとはいえ、現代の電球の明るさに比べたらかなり薄暗い。つまり、ものすごく暗いなかで怪談会は行われていたというのを念頭においてください。

行灯のなかにある灯芯に火をつける女性。100本の灯芯が並ぶと壮観かつ異様な光景だったろうな(『風俗三十二相』「暗そう」月岡芳年 画)
これが百物語の手順だ!
- 手順その1
- 参加者は部屋に入ったら内側を向いて車座になります。
- 手順その2
- ひとりずつ怪談を1話、語ります。
- 手順その3
- 1話語り終えたら、隣接する空き部屋を通り抜け、鏡と行灯の置いてある部屋へ向かいます。空き部屋は真っ暗なので手探り&足探り状態でソロソロと進んでいきます。※この間も退室者を除いた参加者で怪談トークは続行中。絶やさない。
- 手順その4
- 鏡と行灯のある部屋へ到着したら、行灯のなかに置いてある100本の灯芯のうち1本を抜いて火を消します。それから鏡を手に取り、自分の顔を見ます(地味にこれが一番怖い……)。
- 手順その5
- 再び空き部屋を手探り状態で通り抜け、参加者の輪に戻り、自分の番が来たらまた怪談を語ります。
- 手順その6
- これを続けていき、100話目が終わり、100本すべての灯芯の火が消えると、墨を流したような暗黒の世界が訪れます。と、その瞬間、本物の怪異が現れ……ギャーーーー!!!!!

「百物語」をして100話すべて語り終えたら、本物の妖怪が出てきてびっくりぎょうてん!(『百物語化物屋敷の図』歌川国芳 画)
以上が怪談会「百物語」の大まかな流れです。想像するだけでブルっときます。
ただし、100話すべて語らず99話でストップするのが一般的だったんだとか。
もともと武士の肝試しがルーツともいわれる怪談会ですから、本物の怪異が出ないための安全策として99話でストップしたとも。それでも100話すべて語ったツワモノ(?)もいたのでしょう。実際に怪異が起きた、という記録も残っています。
怪談会「百物語」の由来についてはよくわかっていませんが、17世紀半ば、江戸時代前期の4代将軍・徳川家綱の頃にはすでに行われていたようです。
武士から庶民に広まった怪談会「百物語」は、肝試しのゲームとして、また、寝ずの番をする夜伽や夜勤の者たちの眠気覚ましのカンフル剤として大いに人気を集めました。
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なお、怪談会「百物語」で語られる怪談ですが、幽霊や妖怪が出るような“いかにも”な怪談もありましたが、不思議な話だとか奇妙な現象の話だとか怨念や恨みつらみなどとは縁のないフワッとした内容のものも多かったんだとか。怪談話では、狸とか狐とか蛇とか動物も大活躍しました。

不思議なできごとの裏に狸あり!? 江戸時代の怪異と動物は切っても切れない関係(『狸の川がり』(上)『狸の夕立』(下)歌川国芳 画)
怪談会「百物語」のブームをさらに後押ししたのが『百物語』がタイトルについた怪談集の出版ラッシュです。その嚆矢となったのが、1677年(延宝5年)に出版された『諸国百物語』(著者不明)という本で、序文によれば信州諏訪(長野県諏訪)で浪人者を中心に3〜4人の旅の若侍たちが行った「百物語」での怪談話をまとめたものなんだそうな。北は仙台から南は九州まで100の怪談が収録されています(20話×5巻)。幽霊あり、鬼あり、大蛇あり、生き返る死者ありとバラエティに富んでいます。

2巻に収録の「小笠原どの家に大坊主ばけ物の事」という怪談の挿絵。屏風の向こうから大きな顔がのぞき込んでいます。
ちなみに、『諸国百物語』以降、たくさんの『百物語』の名を冠した怪談集が出版されたのですが、実際にちゃんと100話収録したものは『諸国百物語』だけというから驚きます。いいかげんだなあ。
そのほか、江戸時代には怪異小説の白眉といわれる『雨月物語』(上田秋成)なども誕生し、怪談ブームに拍車をかけました。
今も語り継がれる「日本三大怪談」とは?
「日本三大◯◯」というのはいろんなジャンルに当てはまるベスト3の呼称ですが、「日本三大怪談」なんていうものもあります。
その筆頭といえばやっぱりこれ。

どクズな夫の奸計により醜い容貌となり、恐ろしい怨霊となってしまったお岩さん(『百物語』「お岩さん」葛飾北斎 画)
ご存知、『四谷怪談』。
『四谷怪談』といえば、江戸時代後期に活躍し斬新な演出で大人気を博した天才的戯作者・鶴屋南北の歌舞伎作品『東海道四谷怪談』が有名です。赤穂義士47人による仇討ち物語『仮名手本忠臣蔵』と表裏一体をなす作品として南北が作り上げました。ものすごく大雑把にあらすじを説明すると「悪逆非道な夫・伊右衛門の毒により醜い姿に成り果てた妻のお岩が死して怨霊となり、自分を裏切った伊右衛門らに復讐を果たす」という因果応報の物語。これにより、お岩さんは恐ろしい怨霊の代名詞的存在となり、その後の怨霊イメージに大いに影響を与えました。
『東海道四谷怪談』には元ネタは実話とも都市伝説ともいわれるこんなお話。舞台となった場所は江戸は四谷左門町(現・豊島区雑司が谷)、時代は元禄の頃という。
お先手鉄砲同心・田宮又左衛門にはひとり娘のお岩がいたが、疱瘡の後遺症で顔は崩れ、性格にも問題があったため嫁のもらい手もなかった。ところが口の巧い仲人の手管により伊右衛門という浪人者を婿に迎えることに。しかしほどなく伊右衛門は上司の愛人と浮気。愛人と手を切りたかった上司と伊右衛門は手を組み、お岩を田宮家から追い出す。夫の裏切りを知ったお岩は半狂乱となり失踪するが、その後、田宮家には次々と不幸な出来事が起こり、やがて家は断絶したという……
鶴屋南北は『東海道四谷怪談』を生み出すにあたり、こうした都市伝説をいくつか巧みに融合させ、怪談に真実味を持たせ、リアルな恐怖を観客に与えることに成功しました。
また、南北が作中に散りばめた印象的なシーンの恐ろしさと美しさは、後世に作られた小説や映画などさまざまなジャンルの『四谷怪談』作品にも大いに影響を与えました。例えば、伊右衛門の毒におかされたお岩が櫛で髪をとくと、髪がごっそり抜け落ちる「髪梳(かみす)き」と呼ばれるシーンや、伊右衛門に殺害されたお岩と小仏小平の死体が裏表に打ち付けられた戸板が登場する「戸板返し」のシーンなどなど。


「戸板返し」のシーンは浮世絵でも裏返るとお岩が現れるような演出付きで出版されました。歌舞伎の舞台では戸板の裏表でお岩と小平それぞれの衣装がセットされ、ひとりの役者が早替えで2役を演じたんだそう(『四ツ谷怪談 戸板返之図』豊原国周 画)
恐ろしき怨霊というイメージのお岩さんですが、モデルとなった実在の女性は貞淑で夫婦仲もよかったともいわれています。
余談ですが、京極夏彦さんの小説『嗤う伊右衛門』は『四谷怪談』を京極流に大胆アレンジした傑作ですのでオススメです。怖いだけでなく美しく悲しいんです、これが。
さて、次。
「日本三大怪談」の2つ目はやはりこれでしょう。

お菊幽霊、皿、井戸という『皿屋敷』に欠かせないモチーフを北斎流にアレンジした傑作。まるで蛇体のように並んだ皿と絡みつく黒髪が妖艶。まさに天才の発想(『百物語』「さらやしき」葛飾北斎 画)
『番町皿屋敷』。
こちらもご存知の方は多いはず。非業の死を遂げ幽霊となったお菊さんが、夜な夜な井戸から出てきて皿を数えては「1枚足りない……」と嘆き悲しむというお話です。
怪談話として有名な『番町皿屋敷』ですが、日本全国に似たような話が点在しており、お菊の墓とされるものも各地にあります。たとえば『番町皿屋敷』は江戸時代の江戸は番町という場所を舞台にした怪談ですが、戦国時代の播州(現・兵庫県)を舞台にした『播州皿屋敷』というのもあります。「『皿屋敷』もの」は江戸時代だけでなく、明治、大正、昭和と時代を超えて歌舞伎や浄瑠璃、講談、戯曲などさまざまな形で発表され続けました。悲しき幽霊・お菊さんの物語には、日本人の琴線に触れるなにかがあるのでしょうねぇ。

幕末の鬼才・月岡芳年の描くお菊さんは幽霊だからこその浮世離れした美しさ。美人に描かれることの多いお菊さんですが、これはトップクラス(『新形三十六怪撰』「皿やしき於菊乃霊」)
これで最後。
「日本三大怪談」のラストはこちら。

『牡丹灯籠』に登場する幽霊のお露さん。芳年の手にかかるとやっぱり美しい。牡丹灯籠を持つ下女・お米を先導に愛しい人の元へ通うワンシーン(『新形三十六怪撰』「ほたむとうろう」月岡芳年 画)
『牡丹灯籠(ぼたんどうろう)』。
『四谷怪談』『皿屋敷』に比べるとちょっとマイナーかもしれません。『牡丹灯籠』とはどんな怪談なのかというとこんなお話。
旗本の娘・お露は萩原新三郎という浪人に一目惚れした挙句、恋い焦がれて焦がれ死にしてしまう。お露の下女・お米も、お露のあとを追い世を去る。死して愛しい新三郎を忘れられないお露はお米を引き連れ、下駄の音をカランコロンと鳴らしながら、毎夜、新三郎の元へ通う。お露を幽霊とは知らない新三郎はお露を愛し、逢瀬を重ねる。しかし、新三郎の下男・伴蔵はある夜、新三郎がドクロを抱いているのを見て、お露の正体が幽霊だと知る。新三郎もお露の正体が幽霊と知り、このままでは命が危ないと魔除けのお札を張り巡らせた部屋にこもるがーー
で、最終的にどうなったかというと、お露さんに金をチラつかされ主人を裏切った伴蔵が魔除けのお札を剥がしてしまい、新三郎はお露さんに手を取られ仲良く(?)あの世行きとなります。お露さんにとってはハッピーエンド?
さて、『四谷怪談』や『皿屋敷』が実話や伝説をベースにしているのに対しこの『牡丹灯籠』は完全フィクションの怪談で、生みの親は明治の大落語家・三遊亭円朝です。25歳のときの作品だそう。

『牡丹灯籠』のほか『真景累ヶ淵』『子育て幽霊』など多くの怪談噺を創作した初代・円朝。「名人」の名をほしいままにした大落語家で、幽霊画コレクターとしても有名。
『牡丹灯籠』のベースとなったのは、江戸時代の怪奇小説の元祖ともいわれる怪談集『伽婢子(おとぎぼうこ)』(浅井了意)のなかの「牡丹灯籠」という物語。ちなみにこれは中国明代の怪異小説集『剪灯新話(せんとうしんわ)』のうち「牡丹燈記」を翻案したものだそうなので、大元のネタは中国小説ということになるそう。円朝はこうした怪奇小説をベースに当時実際に起きたいろんな事件などをブレンドして怪談『牡丹灯籠』を生み出したのです。なお、『牡丹灯籠』はとても壮大なドラマで、よく知られるお露さんと新三郎の下りは物語のほんの一部にすぎません。
人外ラブストーリーが昨今ブームとなっていますが、『牡丹灯籠』はある意味、人間×幽霊の人外ラブ怪談なので時代を先取りしているといえるんじゃないでしょうか。
以上、「日本三大怪談」でした。
「日本三大幽霊」なら私を忘れないで! 60年も続いた怨念。実話をベースにした怪談とは?
「日本三大怪談」をご紹介したついでに、俗にいう「日本三大幽霊」もご紹介しましょう。
「え? 三大怪談に登場する3人の幽霊じゃないの?」と思いますよね、普通。でも、なぜか『牡丹灯籠』のお露さんに代わって、別の怪談からエントリーする場合もあります。
それが、こちら!

江戸時代後期に出版された挿絵入り怪談集『絵本百物語』で紹介された累。ものすごく怖いです。
怪談『累ヶ淵』に登場する幽霊、累(かさね)さん
『四谷怪談』など多くの怪談が実際の事件をベースにしているように、『累ヶ淵』も下総国岡田郡羽生村(現・茨城県常総市水海道羽生)を舞台に60年もの長きにわたり続いた恐ろしい怨霊事件がベースになっています。その事件というのがじつに悲惨、また悲惨。
羽生村に住む百姓・与右衛門に娘がひとりいた。名前は助(すけ)。後妻の連れ子で、醜い容貌と足が不自由だったことから与右衛門は助を嫌い、挙句、川に捨て殺害する(外道すぎる)。その後、後妻との間に女の子が誕生。しかし、「累(るい)」と名付けられたその娘は、死んだ助に生き写しであった。そのため村人たちは「助がかさねて生まれ変わった」と噂し、「るい」ではなく「かさね」と呼び恐ろしがった。
両親に先立たれながらも無事に成長した累は、病気で苦しんでいたところを助けた旅人と結婚する。が、幸せは続かず、夫となった男も見た目の醜さから累を疎むようになり、ついに川へ突き落とし殺してしまう(またか!)。累の死後、男は後妻を迎えるがすぐに死亡、何人後妻を迎えても次々と死んでしまった。
ようやく6人目の後妻との間に娘「菊」が誕生するが、菊に助と累の怨霊が交互に取り付き、菊の口からこれまで受けた非道を吐き出す。噂を聞いた祐天上人がその法力により助と累の怨霊を成仏させ、ようやく怨念の連鎖は断ち切られたのだったーー

菊に取り付いた累の怨霊(左)と対峙する祐天上人(右)。祐天上人は「江戸時代最強のエクソシスト」ともいわれるほど霊力に優れた人物で逸話もたくさん(歌川豊国 画)
なんという凄惨な事件でしょうか。見た目が醜いとこんなひどい仕打ちをされなきゃいけないのかッ(憤怒)。そりゃ、末代まで祟りたくもなるってもんですよ。
ちなみに、茨城県常総市にある法蔵寺というお寺には累一族のお墓が今もあります。
この累事件は江戸時代前期の『死霊解脱物語聞書』をきっかけに江戸時代を通じて広く流布され、歌舞伎や小説、落語などさまざまな形で取り上げられました。特に4代目鶴屋南北の『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』や初代・三遊亭円朝の怪談噺『真景累ヶ淵』は「累もの」の代表的な作品です。

「累もの」の歌舞伎作品のワンシーン。今まさに累が殺されようとしている(『稚馴染累詞(おさななじみかさねことば)』勝川春好 画)
さてさて次はちょっと趣向を変えて、怪談というか都市伝説です。
江戸時代を代表する都市伝説「本所七不思議」がちっとも怖くない!?
「学校の七不思議」などとしてよく知られる「七不思議」というフレーズ。ある特定の場所や地域にまつわる不思議な話や怖い話を7つまとめた表現で、これも一種の怪談です。
「◯◯七不思議」というのは江戸時代からすでに全国各地にあり、大都市・江戸でもそこかしこに「七不思議」がありました。「千住七不思議」「麻布七不思議」「八丁堀七不思議」などなど。欲望と愛憎が渦巻く江戸城、特に大奥でも不思議話はたくさん伝えられています。このように江戸を舞台にした都市伝説は数ありますが、なかでも有名なのが「本所七不思議」です。
本所は現在の東京都墨田区の南部で、いわゆる「下町」と呼ばれるエリアです。明暦の大火後に開発が進み、新興住宅地となり武家屋敷や寺社も建ち並びました。

いく筋もの運河が流れる本所エリアには川沿いに材木問屋もたくさんありました(『富嶽三十六景』「本所立川」葛飾北斎 画)
江戸時代から現代に伝わる都市伝説「本所七不思議」とは一体どんな内容なのか気になりますよね?では7つの不思議話をご紹介していきます。
その1 置行堀(おいてけぼり)
恐怖レベル★★★★☆

『本所七不思議之内 置行堀』歌川国輝 画
運河の多い本所では人々がよく釣りをしていた。ある時、仲間と釣りをした男が魚もたくさん釣れたので帰ろうとしたところ、堀のほうから「おいていけ〜、おいていけ〜」という不気味な声が……。ギョッとした男は逃げるように家へ帰るが、魚籠(びく)をのぞくと、なんと!...たくさんあったはずの魚は一匹残らず消えていたーー
というのが「置行掘」の基本ストーリーです。むむ、あまり怖くないような...。さすがにもっと怖い方がいいんじゃないかと当時から思われていたのか、「2人の釣り人のうち、ひとりは魚籠を置いて逃げたので難を逃れたが、魚籠を持って逃げようとしたほうの男は堀から伸びた腕に捕らえられ死亡した」「魚籠を置いて逃げ、そのあと戻って魚籠をのぞいたら空っぽになっていた」など色々なバリエーションが存在します。
この「置行堀」は落語などにも取り上げられているので、「本所七不思議」のなかでも一番有名です。ちなみに「千住七不思議」にも「置行堀」がありますが、本所のそれとは別の堀での怪事です。
どんどんいきます。
その2 送り提灯(ちょうちん)
恐怖レベル★★☆☆☆

『本所七不思議之内 送提燈』歌川国輝 画
本所出村町での怪事。ある暗い夜、酒に酔った武士が歩いていると夜道の案内をするかのように提灯の明かりが突然ぼんやりと現れた。その明かりに近づこうとするとフッと消え、離れるとまた明かりが灯る。何度やってもこれの繰り返しで、明かりに追いつくことは絶対にできなかったーー
これも似たような話があちこちにあります。不思議っちゃ不思議ですが、怖くはないような……いや、実際こんな目に遭ったら怖いな、やっぱり。
その3 送り拍子木(ひょうしぎ)
恐怖レベル★★☆☆☆

『本所七不思議之内 送撃柝』歌川国輝 画
本所入江町での怪事。ある静かな夜のこと、夜回りが「火の用心」と声をあげ拍子木を打ち鳴らし夜道を歩いていると、背後からカチカチと拍子木の音が聞こえてくる。音のほうを振り返るが誰もいなかったーー
「送り提灯」と内容はほぼ同じ(笑)。自分の前で起きた不思議か背後で起きた不思議かの違いだけで、これもあんまり怖くありません。
その4 燈無蕎麦(あかりなしそば)別名 消えずの行灯
恐怖レベル★★★★☆

『本所七不思議之内 燈無蕎麦』歌川国輝 画
夜になると本所の堀割下には二八蕎麦屋が出たが、そのうちの1軒は店先の行灯に火が灯ることがついぞなかった。そして、この行灯に火を灯そうものなら、その者は帰宅後に必ず凶事に見舞われたというーー
怖いというより理不尽。親切にも火をつけたら不幸な目に遭うとか最悪だ。ということで恐怖レベルかなり高めにしました。
「燈無蕎麦」とは正反対のバージョンもあります。「消えずの行灯」という話で、「店の主人もおらず、誰も油を足していないのに絶対に行灯の火が消えない蕎麦屋がある」という内容です。あれ? ますます怖くなくなった。
ちなみにこの怪異の正体はタヌキともいわれています。なので先ほどの浮世絵にも行灯の上にタヌキが乗っているのです。
次もタヌキ。
その5 狸囃子(たぬきばやし)
恐怖レベル★★☆☆☆

『本所七不思議之内 狸囃子』歌川国輝 画
毎夜、人気のない野原の近くから楽しげなお囃子の音が聞こえてくる。その音を追っても音の出所には近づけず、歩き回っているうちに夜明けになっており、見知らぬ場所に立っていたーー
音の怪異の一種で、正体はタヌキだと考えられていましたが、ホントのところは正体不明。「狸囃子」じゃなくて「馬鹿囃子(ばかばやし)」と呼ばれることも。
その6 足洗邸(あしあらいやしき)
恐怖レベル★★★★★

『本所七不思議之内 足洗邸』歌川国輝 画
本所三笠町(現・東京都墨田区亀沢)にあった味野岌之助という旗本の屋敷でのこと。毎夜、深夜になると生臭い風が吹いてきてミシミシと家を揺らすような大きな音がしたかと思うと、天井をやぶって血にまみれた毛むくじゃらの巨大な足がヌッと現れた。そして「足を洗え」という恐ろしい声が……。いわれた通りに足を洗ってやると足は満足したように消えるが、洗わないと足が暴れるのか家が大揺れに揺れた。こんなことが毎晩続いたため、たまりかねた味野は同僚に相談する。この怪事に興味を持った同僚は味野と屋敷を交換することに。しかし、同僚が移り住んでからは不思議なことに足が現れることはなくなったというーー
血まみれで毛むくじゃらの巨大足は非常に怖いのですが、それよりもとにかく迷惑。寝不足になります。「本所七不思議」のなかでもいろんな意味で一番怖いと思います。
ちなみにこの怪事の正体もタヌキなんじゃないかという噂が。江戸の怪異はだいたいタヌキ。
その7 片葉の芦(あし)
恐怖レベル★☆☆☆☆

『本所七不思議之内 片葉ノ芦』歌川国輝 画
本所にお駒さんという美しい女性がいた。彼女に想いを寄せる留蔵というならず者、お駒さんが一向になびかないことに業を煮やし、ついにお駒さんを襲い、片手片足を切断し殺害したうえ、その死体を堀に投げ捨てる。以後、この殺人事件のあった駒止橋付近に生える芦は、奇妙にも片側しか葉をつけなくなったというーー
事件はヒドいもんだし、葉が片側にしかつかなくなったのも怨念がなせることと想像すると恐ろしい。でも、現象としては「ちょっと変わった植物が生えている」というだけで、第三者に被害はないわけですからそんなに怖くない。まぁ、江戸時代の怪談は現代的な“怖い”という感覚だけでくくれるものでもないので、これもれっきとした怪談です。
さて、以上で本所にまつわる不思議な話は7つ出揃ったのですが、「本所七不思議」にはまだほかの不思議話も伝わっています。七不思議なのに7つ以上もあるーーこれが一番の不思議!
番外編1 津軽の太鼓
本所にあった津軽越中守の屋敷にある火の見櫓には奇妙なことがあった。それは、通常ならば火の見櫓にあるはずの火災を知らせる際に打ち鳴らす板木の代わりに、太鼓がぶら下がっていたこと。火災の際にもこの太鼓が鳴らされた。しかし、いったいなぜ太鼓なのかーーその理由は誰も知らないーー
おしまい。
え?
いや、不思議。あきらかに不思議だけど決定的にインパクト不足。なので「本所七不思議」からリストラされがちな奇談です。
番外編2 落ち葉なき椎(しい)
本所にあった新田藩松浦家の屋敷にはそれは立派な椎の大木があった。ところが不思議なことにこの椎の木は1枚も葉を落とすことがなかった。そのため周囲の人々は大いに君悪がったというーー
おしまい。
「津軽の太鼓」と同じ感想ですので以下省略。リストラやむなしって感じです。
怖い話も怖くない話もありますが、それも七不思議のうち。とにかく江戸のあちこちに不思議話は転がっていました。夜も明るい大都会・東京では怪異も減ってしまいましたが、大都市とはいえ江戸の町では狐狸妖怪の類が跋扈し、そこかしこに不思議があったのです。
江戸時代の幽霊画特集もあわせてどうぞ。
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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?
1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。
(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。
(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。
江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?
パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。
「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。