次はちびっ子将軍。
満3歳で将軍、満6歳で夭折した哀しき七代目
七代将軍・徳川家継
家継のここがすごい!
- 満3歳で将軍になった
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六代将軍・家宣もマイナー系でしたが、七代将軍・家継も知名度は低めですね。家宣もわずか3年しか将軍職に就いていなかったのですが、七代将軍・家継も将軍職にあったのはわずか3年。しかも満3歳から満6歳までという“幼将軍”。
なので、自分でなにかを成せるわけもなく評価もしようがないので、一般的にあまり知られていないのはしょうがない。政治に関しては、側用人の間部詮房と新井白石に一任し、先代・家宣の治世から続く「正徳の治」が行なわれました(幕府内の反発とかいろいろあって改革は頓挫)。
四代将軍・家綱、五代将軍・綱吉、六代将軍・家宣と3代にわたって世継ぎに恵まれなかった徳川将軍家。将軍が他界するたびに将軍継子問題に揺れました。
六代将軍・家宣には何人か子どもが生まれたのですが、不運なことに次々と幼くして命を落とし、家継だけが生き延びました。
とはいえ、家宣が他界した時、家継はまだたったの満3歳。幕府の公式記録『徳川実紀』に「生来聡明にして仁慈の心あり」と書かれ、先代の六代将軍・家宣のブレーンとして活躍した新井白石からもその利発さから将来を嘱望され帝王学を叩き込まれた家継でしたが、病には勝てずわずか満6歳で世を去りました。
新井白石「上様には期待してたのになぁ」
家継はあまりに幼くして将軍となったうえ病弱だったので、就任早々からある話題が持ち上がります。
「上様がお世継ぎを残さず他界されたら次期将軍は誰?」
大奥では次期将軍を巡り派閥争いが激化。
父もすでにこの世におらず、周囲もそんな感じなので家継は孤独でした。哀れな家継が唯一心を許し、父のごとく慕ったのが側用人の間部詮房でした。間部が外出から戻ると自ら出迎え抱きついたほどだったとか。あまりに家継が懐いているのと、家継の生母・月光院が美しき未亡人であることもあって、「家継は本当は月光院と間部との不義の子では?」なんてゲスな噂まで流れたとか(デジャブ感)。
ちなみに、大奥スキャンダル事件として有名な「絵(江)島生島事件」が起きたのは家継の時代で、家継の生母・月光院と家宣(六代将軍)の正室・天英院による次期将軍を巡る熾烈な争いがウラにあるといわれています。
満6歳で他界した家継ですが、臨終時の身長に合わせてつくったといわれる大樹寺(愛知県岡崎市)にある位牌によれば135cmとかなり長身。現代っ子の満6歳男子の平均身長が122cm前後なので、当時の子どもと比較したらめちゃくちゃデカイ。なお、遺骨は長年の雨水により流され棺内には残っていなかったそうです。子どもの骨だからもろかったのでしょうか。
なお、七代将軍・家継が子を成さぬまま他界したことにより、“神君”徳川家康公から続いてきた徳川宗家の血はここで途絶えてしまいました。
徳川家継の詳細データ
次はお待たせしました。もしかしたら人気ナンバーワンかもしれない米将軍。
紀州からやってきた、知らぬ者なき“暴れん坊将軍”
八代将軍・徳川吉宗
吉宗のここがすごい!
- ものすごい強運の持ち主
- ものすごく自分に厳しい生活をした
- 「享保の改革」を行い「徳川幕府中興の祖」と尊敬を集める
- 象が見たいからといってベトナムから輸入させ、象ブームを起こした
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平和に慣れダレきった武士たちの根性を叩き直し、枯渇した幕府の金庫を立て直し、かつての強い幕府を取り戻すべく獅子奮迅の働きをし「徳川幕府中興の祖」と評される徳川吉宗。
歴代将軍のなかでも絶大な人気を今なお誇り、「江戸時代の名君といえば?」と聞かれたら「吉宗!」と答える人も多いのではないでしょうか。そして吉宗といったらやっぱりこのイメージ。
名作時代劇ドラマ『暴れん坊将軍』は、吉宗人気のかなり大きな要因となっている気がします。このドラマで「吉宗は庶民に優しい偉大なる将軍」というイメージが完全にできあがったんじゃないでしょうか。
さて、史実の吉宗も将軍職にあった29年の間にじつに多くのことを行いました。吉宗の行った幕府立て直し一大プロジェクト「享保の改革」は「江戸三大改革」のひとつとして教科書でもおなじみ。ちなみに、あとのふたつは「寛政の改革」と「天保の改革」です。
どんな改革だったか忘れちゃった方も多いと思いますので、「享保の改革」をざっとご紹介。
当時は、側近政治による政治の腐敗、それまでの浪費のツケで傾きまくった幕府の財政、平和に慣れきったことによる武士の惰弱化・・・などなど問題が山積しておりました。
で、吉宗はこうした問題を解消し、幕府の権力を再び強力なものとすべく大鉈を振るいまくりました。大雑把に「享保の改革」で行ったことをまとめますとーー
何はともあれ質素倹約
幕府財政を立て直すため、質素倹約を奨励。将軍ながら吉宗は、食事は1日2食・一汁三菜の粗食、着物は木綿に限定するなど自らが範となりぜいたくを厳しく戒めました。大奥の改革
財政立て直しの一環で有名なエピソードがあります。吉宗の時代、大奥は巨大化してしまい、たいへんな“金食い虫”でした。ある時、吉宗は家臣に「大奥からとっておきの美女を50人選べ」と命令します。選ばれた50人の美女たちを前に、吉宗はこう告げます。
「君たちは美人なので良縁もあるだろう。大奥以外で働くように」
吉宗は大胆なリストラを断行することで、大奥のコスト削減を実現します。
「町火消し」の組織化をはじめとする江戸の都市改革
吉宗と同じく時代劇ドラマのヒーロー、名奉行・大岡越前こと南町奉行の大岡忠相(ただすけ)が主導。「目安箱」の設置
庶民の意見を聞くためのシステム。貧乏人に優しい無料の医療施設「小石川養生所」も目安箱の投書が設立のきっかけ。吉宗は庶民の実情を調査するため子飼いのスパイ集団「御庭番」も駆使しました。(『るろうに剣心』にも登場するアレ)経済の中心である「米」に関わるあれこれを改革
新田開発したり、年貢徴収法を変更したり。“米将軍”とあだ名されるほど。なにせ、当時の経済の中心は米でしたから、財政改革をするのに米は避けて通れませんでした。司法制度の改革
幕府の基本法典である『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』を作成。教科書でもおなじみ。武芸の奨励
吉宗は体育会系将軍。幕府の平和路線により弱体化した武士たちを叩きなおすため、五代将軍・綱吉の「生類憐れみの令」以来禁じられていた鷹狩りを30数年ぶりに復活。尊敬する家康公も大好きだった鷹狩り、吉宗も大好き。鹿狩りも大好き。鷹狩りや鹿狩りは将軍の威光を示すイベントであり、集団における指揮体制の強化、江戸周辺の視察などの意味もありました。
などなど、改革で実行した施策は盛りだくさん。
ほかにも、優秀な人材をバシバシ登用したり、“甘藷先生”として有名な学者の青木昆陽にサツマイモの栽培を命じたり、キリスト教対策のため輸入が禁止されていた洋書の輸入を緩和したり(ただしキリスト教関係は厳禁)、桜の名所・飛鳥山をはじめ庶民の行楽地を整備したり、江戸に「象ブーム」を巻き起こしたり・・・。
あと、夏の一大イベントとして毎年テレビ中継もされる隅田川の花火大会。あれもその起源は吉宗にあり。大飢饉とコレラで命を落とした多くの人々の魂を弔うために大川(現・隅田川)で行った花火大会がルーツだといわれています。
超人的活躍をした“暴れん坊将軍”には超人的エピソードがたくさんあります。
身長180cm説もそのひとつ。マツケン吉宗のイメージがあるためか、たしかに長身なイメージがありますが、本当のところは推定身長156cm。ただ、これ江戸時代においては平均的な身長です。
まだあります。子どもの頃、周囲が手を焼くほどの本当の“暴れん坊”だったといわれる吉宗は身体能力がずば抜けていたそうで、突進してきた巨大なイノシシを一撃でぶちのめしたとか、逃げようとした獲物の鶴を2kmも走って追いかけたとか、とても将軍とは思えないトンデモエピソードのデパート状態。
「徳川幕府中興の祖」としてその後の将軍たちからも手本とされ、時代劇ではヒーローになり“完全無欠な人気者”という印象の吉宗ですが、ここからは吉宗のちょっとブラックなお話。
そもそも吉宗は将軍になるはずもない立場でした。
吉宗の出身地は現在の和歌山県である紀州藩で、お父さんは御三家のひとつ紀州徳川家二代藩主・徳川光貞。お母さんは和歌山城の女中で、お風呂の番の時に“お手つき”になったともいわれてます。光貞の四男坊だった吉宗にとって将軍どころか紀州藩主も夢のまた夢、小藩の大名として生涯を終えてもおかしくありませんでした。
ところが、兄たちに加え父親までもが次々に他界し、棚ぼた式に紀州藩五代藩主になってしまいました。この時、吉宗22歳。
紀州藩主時代、吉宗は藩政改革をさまざま行い大成功を収めており、のちの「享保の改革」にはこの時の経験が大いにいかされました。
吉宗のラッキーは続きます。
六代将軍・家宣が病死、七代将軍・家継もわずか8歳で病死、そして、八代将軍最有力候補として名のあがっていた尾張藩主・徳川吉通(よしみち)までも謎の急死を遂げたのです。で、最終的に吉宗が八代将軍となったわけです。このあまりに都合よすぎる展開に、「吉宗がジャマ者を次々に毒殺したのでは?」という黒い疑惑が今もささやかれています。果たして、真相はいかに・・・?
また、「享保の改革」は「江戸三大改革」のなかで唯一成功した改革として非常に評価が高いのですが、幕府を立て直すために増税など農民に苦しいところを押し付けた改革でもありました。
幕府は潤ったけど農民は疲弊した、という部分でマイナス評価する向きもあります。農民一揆もめちゃくちゃ起きてるし。さらに、「ぜいたくは敵」方針を庶民にも強制したので文化的にも停滞期でした。
余談ですが同じ頃の尾張名古屋では“吉宗のライバル”といわれる尾張藩主・徳川宗春(むねはる)が吉宗の倹約路線に逆行するような積極政策で名古屋をバブル状態にしていました。バブルなんで、間もなく弾けちゃいましたが・・・。
最後に晩年の吉宗について。
あまり知られていませんが、晩年の吉宗は介護生活を送っていたようです。
将軍を引退後、中風(脳卒中)を患った吉宗は、右半身麻痺と言語障害という重い後遺症に悩まされたそう。側近の小笠原政登が記した『吉宗公御一代記』によれば、90人もの小姓が吉宗のお世話をし、食事やリハビリなどきめ細やかな介護がされたもよう。その甲斐あって、江戸城を歩き回れるくらいには回復した吉宗でしたが、脳卒中を再発し68歳で世を去りました。九代将軍・家重への心配を残して・・・。
輝かしい功績と絶大な人気のためあまり語られませんが、吉宗にも影の部分があったのです。
徳川吉宗の詳細データ
- 生没:1684年11月27日(貞享元年10月21日)〜1751年7月12日(寛延4年6月20日)
- 将軍在位期間:享保元年(1716年)8月13日〜延享2年(1745)9月25日
- 父:徳川光貞(紀州藩二代藩主)
- 母:浄円院(お由利の方)
- 正室:理子(まさこ)女王(皇族の王女さま)
- 側室:深徳院(九代将軍・家重の生母)、深心院(御三卿の一橋徳川家初代当主の生母)、本徳院、覚樹院ほか
- 子ども:徳川家重(九代将軍)、徳川宗尹(むねただ/一橋徳川家初代当主)ほか
- あだ名:米将軍、鷹公方
- 尊敬する人:初代・徳川家康、五代将軍・徳川綱吉
- 身長:推定156cm
- 死因:脳卒中
- 墓所:徳川将軍家の菩提寺・上野寛永寺