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江戸時代の夏は今より涼しかった?
今年も夏がやってきます。近年、「猛暑」ばかりでウンザリですが、江戸時代は現代のように扇風機やエアコンなんて便利なものはありませんでした。では、どのように夏の暑さをしのいでいたのでしょうか?

女性が手にした団扇と風になびく風鈴がいかにも夏らしい(『縞揃女弁慶』「三井寺の鐘」歌川国芳 画)
まずは、江戸時代の夏と現代の夏、気温の違いのお話を。
ヒートアイランド現象などにより東京では夏になると30℃を超える日も珍しくなくなりました。気象庁によると東京の8月平均気温は26.7℃だそう(2015年)。
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一方、数百年前は世界的に「小氷河期」だったこともあり、江戸時代における夏の平均気温は、現代より2~3℃低かったといわれています。
アスファルト道路による照り返しもないので、現代より体感的にかなり涼しかったはず。
とはいえ、やはり夏は暑いので、江戸時代は基本的に一番暑い真昼間には働かず、比較的涼しい朝と夕方に働き、日没までには夕食を終えて夕涼みするという人も多かったんだとか。

川辺の床机台に腰掛け夕涼み(『大川端夕涼み図』鳥居清長 画)
さてそれでは江戸っ子流夏の過ごし方を「ファッション」「グッズ」「食べ物」「娯楽」の4ジャンルに分けて見ていきましょう。
ファッション編
夏ファッションの定番、浴衣の登場現代でも夏ファッションの定番として人気の高い浴衣。浴衣は平安時代の「湯帷子(ゆかたびら)」が原型といわれ、儀式などで沐浴する際に着用しました。
木綿と入浴習慣が普及した江戸時代になると、浴衣は風呂上りのあとに羽織るバスローブのような使い方がされるようになり、さらに、銭湯(湯屋)の帰りや夕涼み、家でくつろぐ際にも着られるようになっていきました。
ただし、あくまで浴衣の位置づけは「リラックスウェア」。近所や夏祭りなど“くだけた”場所はぎりぎりセーフでしたが、昼間に浴衣で町中を歩き回るのはNGだったようです。

見た目にも涼しげな白鳥柄の浴衣を着ています(『東都見立 呉服屋八景』「松坂屋の帰帆」歌川豊国 画)
ちなみに、夏の着物として裏地のない「単衣(ひとえ)」というものもあります。浴衣と単衣の違いは、浴衣は素肌の上に1枚で着るもの、単衣は肌着(襦袢)の上に着るものということ。
また、色や柄にも違いがあり、浴衣は白地の木綿を藍で染め抜く、もしくは藍地の木綿を白で染め抜き、柄も大きめで大胆なものが多かったんですが、単衣は濃い色地に縞や細かい柄のものが多かったそう。

江戸時代後期の浴衣。白地に「大漁紋」と呼ばれる海老や蛸などの柄が大胆にデザインされています(『白木綿地大漁模様浴衣』)
サラリとした肌触りで吸水性も高い木綿の浴衣は、夏を涼しく過ごすための必須アイテムでした。
グッズ編
江戸の夏グッズには、現代も大活躍のアイテムがいっぱい!
ファッションの次は夏グッズ。江戸時代の夏に欠かせないアイテムのなかには、数百年後の現代でも活躍するものもたくさんあります。
その1 団扇(うちわ)
まずは、現代でも夏のイベントなどには欠かせない団扇。その歴史は古く、古墳時代には中国から日本に伝来したそう。
当時は「翳(さしば・さしは)」といって、団扇の柄を長くしたような形状でした。用途は涼をとるためにあおぐ、というより、威厳を正すため貴人の顔を隠す、虫を追い払うのが主だったとか。
時代が下り室町時代末期になると、現代の団扇に近いものが登場、さらに江戸時代には庶民にも普及していき、扇いで涼をとったり、炊事の火起こしに使ったり、虫を採るのに使うなど日常的実用品として幅広いシーンで利用されるようになりました。

不忍池のほとりで団扇を持った女性が蛍を追っている夏らしい浮世絵(『江都夏十景』「不忍か池」鳥居清長 画)
さらに、手動扇風機のようなものも。それがこれ。

晴れ着を着た裕福な商人のお嬢様の手元にあるのが手動扇風機「手回し団扇」(『あつまけんしみたて五節句』部分 三代歌川豊国 画)
団扇を数枚使った「手回し団扇」。その発想はなかった。大奥や裕福な商人など一部の人々が使用していたようです。こんなものが江戸時代にすでにあったなんてビックリ。
さらに、団扇は、おしゃれアイテムとしてファッションに取り入れる、芸術品として飾る、なんて使い方も。芸術性の高さから観賞用にもなった「団扇絵」は、歌川広重、歌川国芳、歌川豊国らといった超一流絵師が手がけました。

歌川国芳の団扇絵で、団扇絵の画面を鏡に見立て化粧をする女性を描いたユニークなもの
その2 蚊遣り(かやり)
こちらも夏の必須アイテム、蚊遣り。今も昔も人類は蚊に悩まされていました。
現代だと渦巻状の蚊取り線香やスプレータイプの殺虫剤などがありますが、江戸時代にはまだ殺虫効果成分はなく、松の葉などを炭でいぶし、煙と匂いで蚊を追い払いました。
ちなみに、蚊取り線香を入れる陶器の入れ物といえばブタの形をした“蚊遣りブタ”を思い浮かべる人も多いかと思いますが、じつは、江戸時代にも“蚊遣りブタ”があったのです。それがこれ。

江戸時代の蚊遣りブタ(新宿区四谷にあった武家屋敷から出土)
鼻がキュッとしててなんともかわいらしいブタさん。江戸時代後期のもので、現在の新宿区四谷にあった武家屋敷から出土しました。
「なんでブタなの?」という疑問がわきますが、一説に徳利の形を横にしたら「あれ?これブタに似てない??」となったからとも。江戸時代の蚊遣りにはブタだけでなくさまざまな形があったそうです。
その3 蚊帳(かや)
こちらも蚊関係の夏必須アイテム。夏の夜を快適に過ごすためには欠かせないものでした。
蚊帳も歴史が古く、古代エジプトの美しき女王クレオパトラも使っていたとかなんとか。日本には奈良時代に中国から伝来したといわれ(もっと古い古墳時代とも)、江戸時代には庶民に広まりました。
蚊帳売りは夏の到来を知らせる風物詩となり、蚊帳は夏の季語ともなるなど人々の生活に浸透しました。現代でも蚊帳愛好者は結構いるみたいで、通販なんかでも手軽に買うことができます。

古写真のなかにも蚊帳を撮影したものは多い。蚊が蚊帳の中に入らないようあまり開けずに入るのが大切。画像引用元:長崎大学附属図書館

蚊帳のなかに蚊が侵入した場合は、こよりを燃やしてその火で直接、蚊を退治。これを「蚊やき」といいました(『星の霜当世風俗』「蚊やき」歌川国貞 画)
その4 すだれ
これも現役選手です。すだれをかけるだけで涼しさが増すようですよね。実際、日よけにもなるし、風は通しても熱をこもらせないすだれは非常に優れた夏アイテムです。
さて、このすだれ、奈良時代にはあったようで、平安時代の女流作家・清少納言も『枕草子』のなかですだれについて記しています。宮中などで使われていたものは、布で縁取りされた「御簾(みす)」と呼ばれるもので、部屋の間仕切りや日よけ、目隠しなどの目的で利用されました。
江戸時代前期には江戸にもすだれ職人がいたといわれ、しだいに庶民にも広まりました。ちなみに、「すだれ」と似たものに「よしず」というものがありますが、すだれが一般的に軒に吊るして使うのに対し、よしずはすだれよりひと回りサイズも大きく、主に立てかけて使います。

すだれを巻き上げ、縁側で夕涼み中(『庭中の涼み』喜多川歌麿 画)
その5 風鈴(ふうりん)
現代のようなガラスの風鈴が登場したのは江戸時代のことで、チリンチリンという涼しげな音色で耳から涼を感じました。
ガラス風鈴が江戸に登場した当初、長崎のガラス職人がわざわざやってきてつくったそうで、ガラスが貴重品だったこともあり、お値段はなんと現代の金額で200万円以上もしたとか。
その後、江戸でもガラス細工が盛んになるとガラスの風鈴も手ごろな値段となり、夏には天秤棒に風鈴をぶら下げた風鈴売りが売り歩きました。素材としてはガラスのほか、金属製のものや陶器製のものもありました。

江戸時代の風鈴。形状も現代のものと同じ(松斎長喜 画)
その6 釣りしのぶ
ちょっと聞きなれないこちらも、江戸時代に江戸で生まれた夏のインテリア。
釣りしのぶは、竹の棒などにコケを巻きつけ、その上にシダの一種である「しのぶ」をはわせ、屋形船や灯籠、筏などさまざまな形に仕立てたもので、軒下に吊るして楽しみました。
江戸時代の庭師が手慰みに始め、出入りの屋敷にプレゼントしたのが始まりといわれ、江戸時代末期には庶民にも広まったそう。
夏の季語でもあり、江戸時代を代表する歌人・小林一茶も「水かけて 夜にしたりけり 釣荵(つりしのぶ)」と詠んでいます。

鮮やかな緑は見た目にも涼しげ。現在、釣りしのぶ工房は都内では1軒だけ。画像引用元:江戸美学研究会
その7 金魚
夏といえば夏祭り、夏祭りといえば金魚すくい。飼育が簡単なことから金魚は今もペットとして人気。ゆったりと泳ぐ姿は、見ているだけで癒されます。
ちなみに、金魚のルーツは中国の長江流域にあり、およそ1600年も昔、ここにいたフナのなかに突然変異で赤い色のものが現れ、それに品種改良を重ねて今の金魚となりました。そんな金魚が日本にやってきたのは室町時代といわれています(諸説あり)。
江戸時代になると大々的に養殖が行われるようになりましたが、江戸前期にはまだまだ高値の華のぜいたく品で、一部の特権階級だけが金魚を愛でていました。
それが江戸時代中期以降になると大量生産により価格も下がり、金魚は手の届くペットとして広く庶民にも愛されるようになりました。

『東都見立夏商人』「金魚売」(歌川国貞 画)
こちらは江戸の夏の風物詩、金魚売(きんぎょうり)。江戸時代後期に登場した金魚を売り歩く夏限定の商人です。タライのなかで金魚が泳いでいます。
画像左下のタライの取っ手にぶら下がっているのは「金魚玉」と呼ばれるガラス製の容器で、これに金魚を入れて持ち帰り、そのまま軒下などに吊るして楽しんだとか。
今だと金魚すくいの金魚をビニール袋に入れて持ち帰りますが、それのガラスバージョンといったところでしょうか。風流ですね。

美しい金魚は美女との相性バツグンで、浮世絵にも多数登場。金魚玉を持っています(『金魚玉を持つ女』喜多川歌麿 画)
ちなみに、金魚すくいも江戸時代に始まったとか。さて、買ってきた金魚を江戸時代の人々はどのように楽しんでいたかといいますとこんな感じ。

『あつまけんしみたて五節句』部分(歌川国貞 画)
大きな陶器製の鉢に金魚が泳いでいてホテイアオイのような水草が浮いています。子どもが鉢をのぞき込んで、エサをあげようとしているようです。
今だと金魚を飼う場合、ガラスやアクリル、プラスティック製の四角い水槽のほか、レトロな金魚鉢も人気ですよね。この金魚鉢、意外と歴史は浅く広く普及したのは昭和以降なんだとか。
江戸時代にはまだ大きなガラス製品は一般的ではなく、金魚も木桶やタライ、陶器もしくは漆器製の水鉢で飼っていました。なので、金魚は上からのぞいて鑑賞する「上見(うわみ)」スタイル。
そのため、金魚は上から見た時に美しく見えるように改良が重ねられました。その最たるものがランチュウという丸っこい金魚。これは上から見た際にウロコの美しさが際立つように背びれがありません。

画像引用元:金魚一道
その8 蛍(ほたる)
蛍も夏の夜を彩る風物詩ですよね。
淡い光を放って飛ぶ蛍は古くから日本人を魅了したようで、平安時代には『源氏物語』など文学作品にもよく登場するようになります。
現在、都市部ではなかなかお目にかかれなくなってしまいましたが、江戸時代の江戸には蛍がたくさんおり、谷中の蛍沢(現・東京都台東区)や高田の落合の姿見橋(現・東京都新宿区)、江戸川小日向(現・東京都文京区)、王子飛鳥山(現・東京都北区)などは蛍の名所として有名でした。
夏の夕暮れとなると江戸っ子たちもちょっと郊外に足を伸ばし、蛍狩りに興じました。蛍は比較的簡単に捕まえることができるので、大人も子どもも団扇や笹の葉などで蛍を捕まえ、蛍籠に入れて持ち帰ったそう。

ほうきのようにした笹の葉で子どもが蛍を捕まえようとしています(『江戸砂子子供遊』「早稲田蛍がり」歌川芳幾 画)
また、郊外まで足を運ばずとも市中には夏になると蛍を売り歩く「蛍売り」が現れ、こちらも夏の訪れを告げる風物詩となっていました。
食べ物編
夏だからこそおいしい! しかも夏バテにも効果バツグン!?
続きまして夏グルメ。夏の定番食べ物といえば、鰻に冷やし中華、カキ氷などを思い浮かべますが果たして江戸の夏グルメはどんなものなんでしょうか。
その1 鰻(うなぎ)
夏のスタミナ食といえば鰻。土用の丑の日ともなればスーパーには鰻がズラリと並びますよね。
江戸の夏にも鰻は欠かせないもので、海水の混じった隅田川や深川でとれた鰻は特においしいとされ、江戸っ子たちは「鰻は江戸前に限る!」と自慢にしたとか。
現代のような蒲焼スタイルの鰻が登場したのは江戸時代中期のことといわれます。

料理人がいきのいい鰻をさばいています。左上には「かばやき」と大書した看板も(「かばやき沢村訥升」歌川国芳 画)
ですが日本人が鰻を食べるようになったのはもっとずっと大昔、なんと新石器時代までさかのぼるそう。
奈良時代にはすでに夏のスタミナ食として食べられていたといわれる鰻ですが、蒲焼登場以前は長いままもしくはブツ切りにした鰻を串に刺し丸焼きにしました。
味付けは塩や味噌、酢。ただし、この鰻の丸焼きは泥臭いうえに脂っぽいことからあまり人気はなかったそう……。
そんな不人気グルメだった鰻も蒲焼という調理法の登場により一気に大人気グルメに大変身。さらに18世紀後半には醤油、味醂が普及し現代に似たような味のタレとなり、ますます鰻人気は高まりました。
ちなみに、「関東の背開き、関西の腹開き」といわれるように、鰻の開き方は東西で異なり、その理由について「武都・江戸では切腹を連想させる腹開きを嫌った」という説が有名ですがどうも俗説の域をでないみたいです。
今でも受け継がれる「土用の丑の日に鰻を食べる」という習慣のルーツについても、マルチな天才・平賀源内が売り上げ不振に悩む鰻屋に頼まれて「本日土用丑の日」のキャッチコピーを考案した、という説が有名ですが、超有名マルチ文化人・大田南畝(蜀山人)考案説や学者・貝原益軒考案説もあり真偽のほどは不明です。

エレキテルで有名な平賀源内。時代を先取りしすぎた天才として有名
さて、屋台グルメとして庶民の舌を楽しませていた鰻ですが、江戸時代後期になると鰻専門料理屋も続々登場、江戸市中だけで数百件もあったといわれています。江戸の人、鰻好きすぎ。
また、鰻の有名店では「鰻切手(うなぎきって)」というものも販売。これはなんと鰻の商品券です。贈答用として人気があったといいますから、いかに鰻が大人気の食べ物だったかうかがえます。
ちなみに、うな丼が登場したのは江戸時代後期の文化期(1804~18)頃といわれ、「大野屋」という鰻屋が「元祖鰻めし」として売り出したのが最初といわれています。うな重登場はさらにあと、大正時代なんだとか。
その2 心太(ところてん)
お次は夏の涼味として人気のところてん。奈良時代にはあったといわれ、江戸時代になると夏を知らせる庶民の味として人気を集めました。
初夏ともなればところてん売りが「ところてんやァ、てんやァ」という独特の呼び声で町を売り歩きました。

ところてん売りが「ところてん突き」でところてんをお客の皿に突き出しています。今と同じです。(『新文字絵づくし』より)
味付けは砂糖やきなこをまぶして食すのが一般的だったそうですが、江戸では醤油が普及すると醤油をかけ、芥子(からし)をつけることも。
値段は1~2文(約25~50円)とお手軽プライスで、庶民の夏のおやつとして大人も子どもも大好きでした。
その3 冷水売り(ひやみずうり)
こちらも初夏になると登場する夏の風物詩。「ひゃっこい、ひゃっこい」の売り声で町を歩きました。
湧き水などの清水に砂糖を加え、白玉を浮かべお客に出します。器にはより冷たさを感じられるように真鍮(しんちゅう)や錫(すず)といった金属の椀を使うことも。
値段は1杯4文(約100円)ですが、追加料金を払えば砂糖を増量してもらうこともできました。冷蔵庫も保冷容器もない時代ですから、「ひゃっこい」といってもどれほど冷たいかは疑問ですが、暑い夏に飲む甘い1杯はさぞかしおいしかったでしょう。

天秤棒に水の入った桶を下げ売り歩いた冷水売り。手にしたお椀はかなり大きい。これで100円なら安いかも(「水売り」歌川豊国 画)
その4 甘酒
甘酒?
実は、江戸時代の夏の飲み物として定番だったのが甘酒です。
今だとむしろ冬の飲み物というイメージがありますが、“飲む点滴”ともいわれるほど栄養豊富な甘酒を江戸っ子たちは夏バテ防止、疲労回復の栄養ドリンクとして飲んでいました。
俳句の世界でも甘酒は夏の季語になっています。初夏ともなれば甘酒売りが町を売り歩き、そのお値段は1杯4文(約100円)でした。

明治時代中期に撮影された甘酒売り。釜のなかに甘酒が入っており、右側の箱には茶碗などが収納されています
その5 冷○○
夏の食べ物には名前に「冷」がつくものがたくさんあります。たとえば、冷奴、冷麦、冷そうめん……などなど。
これらは江戸っ子の夏の涼味でもあり、江戸時代中期には現代とほぼ同じような食べられ方をしていました。
そうめんは、白く細長い見た目が糸に似ていることから裁縫上達を祈願し七夕にはお供え物とされ、庶民も七夕にそうめんを食しました。
ちなみに、半分に割った竹にそうめんを流す「流しそうめん」の最も古い記録は、江戸時代の琉球(現・沖縄県)にあるんだとか(諸説あり)。

笹の葉に短冊を飾るなど楽しそうな七夕のようすを描いた浮世絵。スイカとそうめんは七夕の食べ物の定番(『文月西陣の星祭り』三代歌川豊国 画)
その6 氷
庶民の夏の食べ物ではないですが、旧暦の6月1日は「氷朔日(こおりついたち)」といって、加賀藩から将軍家に氷が献上されました。
この氷は冬の間にできたものを氷室(ひむろ)で保存しておいたものです。江戸城内では御台所から子どもたちまで削った氷が配られたんだとか。
江戸っ子たちもこの日は氷にちなんで、氷餅(真冬に北風にさらしてつくった乾餅)などを食べたそうです。

女性が手に持っているのは、桃の入った器ですが、上には氷がてんこ盛り!これも氷室から運ばれてきたものだろう(『逢身八懐 湯しま暮雪』歌川国芳 画)
ほかにも、水で冷やしたスイカや瓜も夏の定番で、冷たく甘いフルーツはおいしい水分補給として重宝されました。
娯楽編
近場で楽しむ! 暑さをふきとばす夏レジャー
最後は夏ならではのイベントをご紹介。暑い夏にもいろいろな楽しみがありました。
その1 花火
日本で最初に花火見物をしたのは、神君・徳川家康だといわれています(諸説ありますが)。家康が幕府を開いてから10年後の1613年(慶長18)のことだそう。
当初、花火は中国など外国製で、打ち上げも外国人が行っていましたが、泰平の世となり出番のなくなった鉄砲師や砲術師らにより次第に日本人の手で花火の製造、打ち上げが行われるようになったとか。
花火大会で特筆すべき大イベントは、1733年(享保18)に行われた「両国川開き」です。

画像手前の両国橋には人、人、人!川にも花火見物の屋形船がたくさん(『東都両国夕涼之図』歌川貞房 画)
始めたのは“暴れん坊将軍”こと8代将軍・徳川吉宗。
前年に起きた「享保の大飢饉」とコレラ流行を受け、慰霊と悪霊退散を祈願して行われることになった「水神祭」の一環として花火大会が催されました。
これ以後、両国川開きの花火は毎年恒例となり、約300年後の現代にも続きます。それが、テレビ中継もされる大イベント隅田川花火大会なわけです。
ちなみに、今でも花火大会で「玉屋ァ~!」「鍵屋ァ~!」というかけ声を聞くことがありますが、これは「玉屋」と「鍵屋」という2大花火店が江戸にあったことに由来します。
「鍵屋」から暖簾分けしてできたのが「玉屋」で、両国川開きでは両国橋を挟んで上流を「玉屋」、下流を「鍵屋」が担当し、互いに競い合うように花火を打ち上げました。
その時に見物客が「玉屋~」「鍵屋~」とかけ声を飛ばして、それぞれの花火に称賛の声を送ったのです。

両国川開きは浮世絵にも数多く描かれています。当時の花火大会で打ち上げられた花火は20発ほどだったとか(『名所江戸百景』「両国花火」歌川広重 画)
現在の花火はカラフルですが、江戸時代の花火は淡いオレンジ色の1色だけ。明治時代になって海外から多くの化学薬品がもたらされると現代のようなカラフルな花火が誕生しました。
さて、大人たちは花火大会をひと目見ようと大川(現在の隅田川)に繰り出し夏の夜を楽しみましたが、子どもたちだって花火は大好き。
線香花火や癇癪玉などの「おもちゃ花火」は江戸時代からあり、数百年前の子どもたちも今と同じように楽しみました。

花火で遊ぶ子どもたち。ちょっと逃げ腰の子もいるのが微笑ましい(『子供遊花火の戯』)
その2 舟遊び
暑い夏でも川を渡る風は涼しいもので、屋形船で納涼、なんてオツでいいですよね。
舟遊びの原型は平安時代の貴族の遊びにあるといわれ、平和な江戸時代に、河川整備が進んだ“水の都”江戸で粋で風流な遊びとしてブームとなりました。
花火大会を描いた浮世絵にも大小無数の屋形船が水上にひしめいています。
はじめは、大名など武家だけが豪華で大型の屋形船を建造し楽しんでいましたが、やがて質素な小型屋形船も登場し庶民も舟遊びを楽しむようになったとか。

男女グループが舟遊びを満喫中。手前の小型舟では魚をさばいています(『吾妻橋下の舟遊び』鳥居清長 画)
その3 滝浴み(たきあみ)
こちらも水辺の夏の遊び。水しぶきをあげて落下する滝を眺めて楽しんだり、滝の近くでお弁当を食べたり、もちろん滝に打たれたり。
涼を求め、江戸っ子たちは江戸近郊の滝の名所に足を伸ばしました。江戸っ子もマイナスイオンを浴びていたんですね~。
滝浴みのメッカとしてにぎわったのが、現在の東京都北区の王子界隈。俗に「王子七滝」と呼ばれるように滝が多く、特に「不動の滝」はダントツ人気を誇りました。
現在、滝があった往時をしのぶものはなにもなくなってしまったのはちょっと残念…。

画面を縦断するように滔々と流れ落ちる王子不動の滝。滝の近くには茶店が開かれお客が涼んでいます。ちなみに実際の滝よりデフォルメされています(『名所江戸百景』「王子不動之滝」歌川広重 画)
その4 怪談会
夏の夜、怪談で涼むなんてどうでしょう。怪談語りの名人・稲川淳二さんも夏は超多忙。怖い話にゾッとすれば暑さも吹き飛びます。
さて、江戸時代、「百物語」という怪談会が夏の肝試しとして大人気に。伝統的ルールは以下の通り。
- 用意するものは、灯心100本を放射状に並べた油皿、青い紙を貼った行灯、鏡
- 行うのは新月の夜。照明の乏しい江戸時代のことなので真っ暗!
- 7~8人ほどのグループで行い、内側を向いてサークル状に座る。ちなみに、刀など危険物は遠くに片付けておく
- 場所は参加者の誰かの家で、3間続きの部屋で行う。みんなが座っている部屋、鏡と行灯を置いた部屋、その間に一部屋、という感じ
これで準備は整いました。さて、始めましょう。
真っ暗な部屋に集まりサークル状に座った参加者は、順番にひとりずつ怪談を語ります。
1話語り終えた人は、次の部屋――ここも真っ暗なので手探りで歩きながら行灯と鏡の置いてある奥の部屋へ行きます。
そして、行灯のなかに置いてある火のついた灯心100本のなかから1本を抜いて消し、鏡で自分の顔を確かめてから、みんなのいる部屋へ戻ります。
これを順々に行い、100話を語り終え最後に残った灯心も消え真っ暗闇になったその時……ひゅ~ドロドロっと本当に“出る”――というのが「百物語」です。でも、実際には99話でやめたんだとか。万が一のための安全策といわれています。
ちなみに、「怪談」といっても幽霊話だけでなく不思議な話なども多かったそう。それにしても怪談会のシチュエーションが怖い。暗い部屋に置かれた鏡で見る自分の顔はさぞ恐ろしかったはず。

ほ、本当に出た~!!(『百物語』喜多川歌麿 画)
その5 行水(ぎょうずい)
イベントというような大げさなものではありませんが、これも夏には欠かせない納涼方法。
今でもビニールプールを庭先などに出して子どもたちが水遊びしたりしますが、あれも行水の一種といえるでしょう。
江戸っ子たちは、夏になると大きなタライにぬるま湯を入れ、大人も子どもも行水して汗を流しさっぱりしました。江戸時代は各家庭にお風呂がないので、暑い夏には行水が盛んに行われたのです。浮世絵にもたくさん描かれています。

小さな子どもが行水中。手に小さな手桶を持っているのがかわいらしい(喜多川歌麿 画)
エアコンの効いた部屋でのんびりもいいですが、今年の夏は江戸の昔に思いを馳せつつ、甘酒片手に団扇であおぎながら夕涼み――というのも粋かもしれません。
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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?
1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。
(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。
(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。
江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?
パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。
「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。