次は「尊敬する人はおじいちゃんの“権現様”です」のサラブレッド将軍。
幕府体制を磐石のものにした“生まれながらの将軍”
三代将軍・徳川家光
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地味な二代目から生まれた色々とハデな三代目。
「生まれながらの将軍」だし、「参勤交代」だし、「島原の乱」だし、「鎖国」だしーーもう江戸時代前半のイベントもりだくさん。(ちなみに最近では「鎖国」という言葉は教科書から消えつつありますが…)。
20歳という若さで三代将軍に就任し、武家の頭領となった家光が、並み居る諸大名を前にして「余は生まれながらの将軍である」と言い放ち、大名たちのド肝を抜いたのは有名な話。プライドが高く独裁的な将軍、というイメージのある家光ですが、幼少期はかなり可哀想な感じでした。
幼い頃の家光は、将軍になってからの冷酷非情さとは反対に病弱で大人しい、無口な少年だったそう(吃音もあったとか)。しかもルックスもお世辞にも可愛いとはいえない感じ。
対して、弟の忠長(幼名は国松)は美少年だわ賢いわで両親から溺愛されました。結果、「三代将軍は弟の忠長にしたほうがいいんじゃないの?」なんて不穏な空気になり・・・。
見かねた家光の乳母・春日局が駿府にいる大御所・家康に直訴したというエピソードは有名ですよね(これは巷説に過ぎないとも)。ともあれ少年時代の家光はあまり両親から愛されなかったようです。
なお、将軍就任後に実弟・忠長には切腹を命じてます。ひでぇ。
さて、偉大なる初代が築きマジメな二代目が引き継いだ徳川幕府を、三代目となった家光は大きく発展させました。
父・秀忠が存命中は秀忠が大御所として政治を掌握していましたが、秀忠が没すると家光は、秀忠時代の重臣を次々にクビにし、自分の側近を重用。のちに続く幕政システムの基礎を作り上げました。「老中」や「若年寄」「奉行」などの役職が誕生したのも家光時代です。
ざっと家光の功績をまとめるとーー
- 諸大名に参覲交代を義務化(目的は将軍家と大名たちの絶対的主従関係を刷り込ませるため。大名家の財力を疲弊されるためじゃないよ!)
- 幕府の安泰を図るため大名たちを次々と改易
- キリシタンの徹底弾圧&いわゆる「鎖国」の完成。出島も作ったよ!
- 「島原の乱」を鎮圧(一揆軍はみな殺し!生き残ったのはひとりだけ・・・)
などなど。
いろんなことをやっています。さすが知名度バッチリ将軍。冴えない少年時代から一転、「武断政治」と呼ばれる強権政策をガンガン推し進めるまでの偉大なる将軍になった家光。
そんな家光が尊敬してやまなかったのが祖父・家康でした。
家光が肌身離さず持っていた守り袋のなかに、「二世ごんげん 二世将軍」「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」などと書いた紙を入れていたそう。家光は家康が好んだ武芸や鷹狩りにも熱心に取り組みました。似てないのは、家康が質素倹約の鬼だったのに対し、家光はド派手好きだったことくらいでしょう。
家光が家康を敬愛すること尋常ではないので、「家光の本当の父親は本当は家康なんじゃ・・・」なんてゲスな俗説もあるほど(ちなみに母親は春日局説)。
さて、家光といえば「女嫌い」、いやどっちかというと「男好き」だったことも忘れてはなりません。乳母の春日局は頭が痛かったことでしょう。
「上様、お世継ぎはどうなさるおつもりですか・・・(泣)」by.春日局
当時、武士の間で男色はさほど珍しくはありませんでしたが、家光の場合は“ガチ”。22歳の時に京から公家のお姫さま、鷹司孝子を正室に迎えたのですが、異常に冷たかった。結婚直後に即別居、事実上の離婚状態がずーっと続きもちろん“夜の営み”も皆無。
なにが気に入らなかったのか生涯冷遇し、死後に形見分けで遺したのは金50両とわずかな道具類だけだったとか。家光ひどい。
で、正室をほったらかしにして夢中になったのが可愛い男の子たち。
将軍のお世話役である小姓のなかでお気に入りを見つけると寵愛するわけです。
かなり嫉妬深い性格だったようで、家光が16歳の時こんな事件が起きました。
ある日、愛する小姓がほかの小姓と風呂場でイチャイチャしていたのを目撃してしまった家光、「なにしてんのっ!」とばかりに怒り狂い恋人(少年)を斬りつけたそう・・・。
うーん…そうか。
家光は人事登用の際にも寵愛する小姓たちから有能なものを抜擢することしばしばでした。なかでも小姓から老中にまで大出世した堀田正盛は、才気あふれる少年だったようで家光から非常に愛され、正盛もまた家光に非常に忠実に仕え、家光の死後には殉死しています。
愛だね、愛。
そんなこんなで男性とばかりラブロマンスを繰り広げていた家光さん、気づいたら30歳過ぎても子どもがいないという非常事態に。
これは、将軍としてさすがにまずい。
まずすぎる。
この将軍家大ピンチに乳母・春日局はあらゆるタイプの美女を集め、なんとか家光に女性に目覚めてもらうよう苦心します。
その甲斐あって、ようやく家光も思うわけです。
「女性もいいね❤︎」
38歳で初めての子をもうけてからは次々と側室との間に子をなしました。
でも面白いのが家光の女性の趣味。実質的な日本最高権力者が好んだのは農民の娘とか八百屋の娘とか尼さんとか・・・斜め上すぎです。余談ですが、家光の側室で五代将軍・綱吉の生母、桂昌院が八百屋の娘から将軍生母になるというシンデレラストーリーを歩み「玉の輿」の語源になったと言われています。ただしこれあくまで俗説のようです。
家光の時代にはいろんなことがありすぎてなんとなく長生きしていそうですが、じつは48歳と意外に若くして世を去っています。歴代将軍としては5番目の短命です。なんという濃厚な人生だったことでしょうか。
徳川家光の詳細データ
- 生没:1604年8月12日(慶長9年7月17日)〜1651年6月8日(慶安4年4月20日)
- 将軍在位期間:元和9年(1623年)7月27日〜慶安4年(1651年)4月20日
- 父:徳川秀忠
- 母:江
- 正室:鷹司孝子(公家のお姫様)
- 側室:桂昌院(五代将軍・綱吉の生母)、宝珠院(四代将軍・家綱の生母)ほか多数
- 子ども:千代姫(尾張藩 藩主・徳川光友の正室)、徳川家綱(四代将軍)、徳川綱吉(五代将軍)ほか
- 身長:推定157cm
- 死因:脳卒中?
- 墓所:日光山輪王寺
- 尊敬する人物:祖父・徳川家康
次は超有名将軍に挟まれた地味な四代目。
“さようせい様”とあだ名された病弱将軍
四代将軍・徳川家綱
家綱のここがすごい!
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三代将軍・家光、五代将軍・綱吉の名前を知っている人はたくさんいるでしょう。ですが、その間に挟まれた四代将軍となると「誰だっけ?」という方が意外に多いのではないでしょうか。
そんな悲しい四代将軍の名は家綱。家光の「家」と綱吉の「綱」なのでちょうど間という感じで覚えやすい。
とても影の薄い四代将軍・家綱が将軍になったのはわずか11歳の時。父・家光が急死してしまったので少年将軍が誕生しました。
しかも生まれつきめちゃくちゃ病弱で、何人もの医師が近侍していたというから幕府の先行きはお先真っ暗・・・と思いきや、優秀な閣僚たちのサポートのおかげでむしろ幕府は安定しました。
なかでも歴史に残る逸材がいた。
しかも、2人も。
1人目。
先代・家光に重用され、あの島原の乱も鮮やかに鎮圧した幕府の重鎮、
“知恵伊豆”でおなじみ名老中・松平信綱。
2人目。
おじいちゃん・秀忠が生涯一度の浮気でつくった、
おじにあたる保科正之。
この時代、浪人たちによる幕府転覆計画テロ事件「由井正雪の乱(慶安の変)」や江戸の大半が焼失した「明暦の大火」など大事件も起こりましたが、これら閣僚たちの働きで乗り越えました。
生まれつき病弱で性格も温和一辺倒だった家綱は、政治に関しては重臣たちに任せていました。決裁に関しては、もっぱらある言葉をオウムのように唱えるのみ。
「さようせい(そのように取り計らえ)」
そこでついたあだ名は“さようせい様”だったそう。もうそのままだね。
というと家綱は無能将軍のようですが、完成された幕政システムがスムーズに機能するようになったともいえます。
政治の代わりに家綱が夢中になったのは芸術の世界でした。なかでも絵画が得意で、特に鶏の絵をたくさん描き、家臣にもプレゼントしていたとか。ちょっと微笑ましい。
家綱の時代、幕府は安定期を迎えたものの大きな悩みがありました。
それは家綱に世継ぎが誕生しないこと。
懐妊はするも流産という悲しい結果を繰り返し、しかも虚弱体質な家綱は子どものないまま危篤に陥ってしまいます。
「え、え、待って?五代将軍はどうすんの!?」
という大問題を解決する苦肉の策として弟の徳川綱吉(当時は館林藩主・松平綱吉)を養子に迎え、後継者とすることにしました。
後継者問題もクリアになり安心したのか、間もなく家綱は世を去りました。
徳川家綱の詳細データ
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