授業料は野菜払い!? 江戸時代の高い教育水準を支えた「寺子屋」が柔軟すぎる

  • 更新日:2017年8月18日
  • 公開日:2016年3月30日

幕末に訪日した外国人は日本人の識字率の高さに驚愕したそうです。江戸時代の教育水準を支えた「寺子屋」の柔軟な教育方針についてまとめました。

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江戸時代の子が字の練習中(『五常』「智」鈴木春信 画)
女の子が先生に手を添えられて字の練習中(『五常』「智」鈴木春信 画)

全国総数は2万軒!?寺子屋が全国各地にあったワケ


ご存知のように江戸時代は士農工商の身分制度が確立していた封建社会。そのため、教育機関も身分によって次のように大まかにわけられていました。

  • 武士(藩士)の子ども→藩校
  • 庶民の子ども→寺子屋

このほか、藩校と寺子屋の中間的存在で下級武士から町人、農民まで幅広く受け入れた「郷学(校)」と、専門的教育を受けられる「私塾」というものがありました。

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庶民の学校といえば「寺子屋」としてその名は有名ですが、じつは江戸では「寺子屋」とは呼んでいなかったそう。「手習(てならい)」「手習指南所」「手跡指南(しゅせきしなん)」「筆道稽古(ひつどうけいこ)」などと呼んだんだとか。

ですが、ここでは一般に使われる「寺子屋」で話をすすめていきましょう。ちなみに、「寺子屋」という名称は、江戸時代より前の中世に寺が教育の場として使われていたことの名残なんだとか(諸説ありますが)。

寺子屋の授業風景をちょっと見てみましょう。

男女別の寺子屋風景を描いたもの(『文学ばんだいの宝』一寸子花里 画)
(『文学ばんだいの宝』一寸子花里 画)
こちらは、男女別の寺子屋風景を描いたもの。たくさんの子どもたちが勉強中ですが、机の向きはバラバラだし、勉強に来ている子どもたちの年齢もかなりマチマチです。

先生はどこかというと、画像左奥と右奥に座っています。それにしても、子ども同士でふざけたり、先生にイタズラしたり、無法地帯です。

寺子屋は「現代の小学校のルーツ」みたいに表現されることもあるのですが、似ている点もあり大きく違う点もあります。

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まず、現代の小学校は多くが公立、つまり市町村が管理・運営していますが、寺子屋の経営者は先生本人、つまり民間の教育施設です。なので、幕府や藩とは一切無関係。援助もないかわりに介入もありませんでした。

ところで、どれくらいの寺子屋が全国にあったと思いますか? 諸説ありますが幕末にあった寺子屋は日本全国で見るとその数なんと…


1万5000~2万軒ほど

江戸だけでも1000~1300軒ほどもあったとか。ちなみに、現在、全国の小学校の学校数が2万601校だそうなので、ほぼ同数です。いかに寺子屋が全国のあちこちにあったのかが想像していただけるんじゃないのでしょうか。

たくさん寺子屋があった理由は、それだけ需要があったから。「学問なくして将来いい暮らしはできない」。町人にしても農民にしてもある程度のポジションにつけるようになるには文字学習が必須だったんです

越後屋の店内(『職人尽絵詞』より/北尾政美 画)
(『職人尽絵詞』より/北尾政美 画)
これは江戸を代表する呉服店・越後屋の店内。画像右端にいるのは番頭でしょう。番台で帳面をつけています。商人にとって、文字を読んだり、描いたり、計算が必要不可欠なのは想像しやすいかと思いますが、大工も図面を引くには読み書き計算ができなければ棟梁になれません。

農民にとってもそれは同じ。村の運営に関わるリーダー格になろうとしたら、読み書き計算は必須でした。もし、文字が読めなければ領主からのお触れも理解できません。

現代でも「将来、エラくなりたかったら勉強しなさい!」と親や先生が口をすっぱくして子どもに言いますが、そのあたりは江戸時代も同じだったようです。

で、就学率はどれくらいだったかといいますと、幕末の江戸では就学率 約80%だったとも(諸説ありますが)。これは、当時の欧米と比較しても非常に高い就学率だったといわれます。子どもたちは当たり前のように寺子屋に通っていたみたいですね。


寺子屋の先生は無資格でしかも兼業先生!?



さてさて、現代の小学校と寺子屋の違いをざっと羅列すると――



  • 義務教育ではない

  • 先生は無資格

  • 入学、卒業とも年齢は自由

  • 授業時間に決まりはない

  • 決まった時間割はない

  • 授業内容に決まりはない

  • 教科書は人それぞれ(え?

  • 授業料も人それぞれ(え?




などなど。

こう見ると小学校とはまるで別物です。では、それぞれについてもうちょっとくわしく見ていきましょう。

義務教育が江戸時代になかったのは前述しましたので割愛。まず、先生について。

寺子屋の師匠(『一掃百態図』より/渡辺崋山 画)
(『一掃百態図』より/渡辺崋山 画)
画像左にいる男性が先生です。当時、寺子屋の先生は「師匠」と呼ばれていました。現在の先生には教育免許が必要ですが、寺子屋の先生は無免許、学と志があれば誰でもなれました。

どんな人が先生になったかというと、僧侶、神官、武士、浪人、医者、町人、村役人などが多かったんだとか。また、女性の先生も結構いたようです。専業で先生をやっている人はまれで、ほとんどが副業として先生をしていたそうです。隠居後の仕事として先生をやっている人も多かったみたいです。

江戸時代の子どもたちにとって、寺子屋が初めてのそして最後の教育機関になることが多かったため、寺子屋の先生を「生涯の師」と慕う生徒もたくさんいたとか。そのため、先生が他界すると生徒たちで費用を出し合い遺徳をしのんで墓石を建てることもあったそう。

寺子屋の先生の墓石(筆子塚)
画像引用元:東京都江戸川区の歴史
これがその墓石で、寺子屋の生徒を「筆子(ふでこ)」と呼んだことから「筆子塚」といいます。写真は東京都江戸川区にある萬福寺に残る筆子塚ですが、同様のものは全国あちこちにあり、師弟愛の深さを今に伝えています。いい話だなあ。

寺子屋に通う子どもたちの年齢はバラバラ



続いて、寺子屋に通う子どもたちの年齢について。入学の年齢について特に決まりはありませんでしたが、江戸ではだいたい男女ともに入学年齢6~7歳だったとか。卒業の年齢も任意ではありましたが、だいたい男児12~13歳、女児13~14歳で卒業したとか。このあたりは現代の小学校とほぼほぼ同じですね。

『広重戯画』「寺子屋遊び」(歌川広重 画)
先生にイタズラをしかける悪ガキ。こんな子はいつの時代にもいるもんです(『広重戯画』「寺子屋遊び」歌川広重 画)
女の子は教育の仕上げとして、武家や大店(おおだな)に女中奉公へ行くこともあったそうです。

登校も下校も時間に決まりはナシ!



お次は授業時間と時間割について。現代の小学校は学年にもよりますが8時半に1限目がスタート、途中休憩をはさみながら2限目、3限目……と続き給食を食べて15時半に下校という感じです。

一方、寺子屋はといいますと、先生によって差はありましたが、朝8時頃にスタート、午後2時頃に終了というのが一般的だったようで、時間割はありませんでした。家の手伝いやお稽古ごとなどにより午前だけで帰る、という子どもも多かったとか。

ちなみに、当然といいますか給食は出ません。なので、お弁当を持ってくるかお昼ごはんを食べに一旦家に帰ったりしました。

現代の小学校は土日が休みですが、寺子屋は毎月1、15、25日が定休日で、ほかに五節句と年末年始もお休みでした。ほぼ毎日のように授業があるわけですが、必ず出席しなければならないわけではなく、用事がある時は随時お休みしていたようです。

完全個別指導!教えてくれるのは将来に直結した実用的な知識



お次は授業内容。現代のように国が指定した学習指導要領があるわけではないので、こちらも先生によって授業内容もマチマチでした。一般的には「読み」「書き」「そろばん」という初歩的学習からスタートし、子どもの成長や将来就くであろう職業に応じて必要な知識を指導しました

『稚六芸(おさなりくげい)』「書数(しょすう)」(歌川国貞 画)
読み・書き・そろばんは商家に奉公する丁稚に必要不可欠なスキルでした(『稚六芸(おさなりくげい)』「書数(しょすう)」歌川国貞 画)
ちなみに、現代の小学校は一斉指導が基本ですが、寺子屋の場合は子どもたちの年齢も出身も異なるので個別指導が基本でした。

寺子屋によって差はありましたが、生徒数は平均30人ほどだったようです。また、多くの寺子屋は男女共学だったようですが、部屋を別にしたり、男児専門・女児専門の寺子屋なんていうのもあったそうです。

『寺子供幼遊(てらこどもおさなあそび)』(作者不明)
(『寺子供幼遊(てらこどもおさなあそび)』作者不明)
こちら、男女共学の寺子屋の授業風景。授業そっちのけでケンカしてます。ちなみにこの絵は寺子屋の風景に見立てて旧幕府軍(女児)と新政府軍(男児)の争いを描いた風刺画なんだそう。

女児専門の寺子屋の授業風景(『絵本栄家種(えほんさかえぐさ)』より/勝川春潮 画)
(『絵本栄家種(えほんさかえぐさ)』より/勝川春潮 画)
こちらは女児専門の寺子屋の授業風景。読み書きだけでなく、しつけや礼儀作法なんかも教えてくれたんだそう。

江戸時代、女の子の教育も熱心に行われていました。といっても、学問による高い教養は女子には不用という考えが主流で、女の子に必要とされたのは「良妻賢母になるための教養・知識」でした。将来、玉の輿に乗って良妻賢母になるためには、読み書き、礼儀作法、裁縫などなど学ぶことはたくさんあったわけです。当時の女の子の多忙な毎日が滑稽本『浮世風呂』(式亭三馬 著)に登場します。こんな感じ。


朝起きるとまず寺子屋に行き、その後、三味線の師匠につき朝稽古。家に帰ってやっと朝食を食べたら、今度は踊りのお稽古へ行ったあと、再び寺子屋へ。さらにお琴のお稽古にも行き、帰宅。息つく間もなく家で三味線と踊りのおさらい。ちょっとだけ自由時間があって、日が暮れるとお琴のおさらい……。


めちゃくちゃハードです。ちなみにこれ、10歳の女の子の生活です。まぁ、フィクションなので“盛っている”ところはあると思いますが、江戸時代も現代顔負けの教育熱心さだったようです。

話を寺子屋に戻しましょう。授業の基本はお手本を何度も練習するというものでしたが、年に2回大イベントがありました。日頃の学習成果を発表する会「席書(せきがき)」です。

寺子屋での発表会(席書)のようす(『幼童席書会(ようどうせきがきかい)』歌川国芳 画)
(『幼童席書会(ようどうせきがきかい)』歌川国芳 画)
こちらの絵はにぎやかな席書のようすを描いたものです。こんな感じでみんなの前で書いた書は鴨居などに貼り出されました。子どもの上達ぶりを見ようと親や近所の人たちも見に来たそう。現代の小学校でもダンスや歌の発表会がありますが、それに通じるものがありますね。

ほかに毎月テストのようなものがあったそうで、成績の優秀な子どもには先生からご褒美(筆など)がもらえたんだとか。

寺子屋で使われた教科書は将来に合わせて各種用意



お次は教科書です。寺子屋には規定の教科書というのはありませんでしたが、全国で幅広く使われた教科書的なものはありました。それが「往来物(おうらいもの)」と呼ばれる書籍です。

寺子屋の定番教科書『庭訓往来』(1799年刊)

こちらは全国の寺子屋で使われた定番中の定番教科書『庭訓往来(ていきんおうらい)』(1799年刊)です。

「往来物」というのは、手紙のやりとり形式でつくられた教科書の総称で、なかでも『庭訓往来』は衣食住をはじめ、職業、建築、宗教、歴史など幅広い一般常識を内容とし、多くの単語と文例が学べることからもっともポピュラーな教科書として広く使われました。

寺子屋は読み書きそろばんの基礎学問からスタートし、最終ステップでは子どもたちが将来就くであろう職業に必要な知識を指導してくれました。そのため、教科書も将来の職業別に各種ありました。たとえば、商人の子ども、もしくは商家へ奉公予定ならばこちらの教科書。

寺子屋における商家用教科書『商売往来』

その名も『商売往来(しょうばいおうらい)』です。商業に必要な単語(商品の名前など)や知識、商人の心構えなどを学ぶことができました。

また、たとえば、農民の子どもならばこちらの教科書。

寺子屋における農民用教科書『百姓往来』

ズバリ、『百姓往来』です。農作業をはじめ、年貢などの納税、牛馬の飼育法、農民の生活など農家に必要な単語や知識を学ぶことができました。

また、職人の子どもならばこちら。

寺子屋における職人用教科書『番匠往来』

『番匠往来(ばんしょうおうらい)』という教科書。大工や職人になるために必要な単語や知識を学ぶことができました。

ほかにも、漁民の子どもには『船方往来(ふなかたおうらい)』、八百屋の子どもには『八百屋往来』などなど、さまざまな職業に応じた多種多様な教科書が用意されていました。

また、職業を超えて必要となる知識、たとえば手紙の慣例語句を集めた『消息往来』、日本各地の地理を学ぶための『都路往来(みやこじおうらい)』なんてものもあり、「往来物」の総数は7000種類とも!

現代の教科書との違いは「実用的な知識」を内容としていること。詰め込み学習は今も昔も同じ。ただ、寺子屋での勉強は実用一辺倒、将来に直結した知識を学び、教科書である「往来物」も実用知識を詰め込んでありました。

寺子屋をテーマにした双六(『春興手習出精双六(しゅんきょうてならいしゅっせいすごろく)』歌川広重 画)
寺子屋をテーマにした双六。入門、席書、褒美、罰など寺子屋の生活のほか、初歩から応用までカリキュラムの変遷も(『春興手習出精双六(しゅんきょうてならいしゅっせいすごろく)』歌川広重 画)
また、寺子屋では学問だけでなく礼儀作法や道徳なんかも厳しく教えられたそうです。あんまり先生の言うことを聞かない悪ガキにはこんな罰も待っていました。

『諸芸稽古図会』部分(歌川広重 画)
(『諸芸稽古図会』部分/歌川広重 画)
画像右。机の上で正座させられているのが反省中の子ども。まあ、顔を見る限りぜんぜん反省していなさそうですが。

払えるだけでOK!? 良心的だった寺子屋の授業料



最後は入学金と授業料について。現代の小学校は義務教育ですから入学金・授業料は無料です。一方の寺子屋は個人経営なわけですから、入学金である「束修(そくしゅう)」と授業料である「謝儀」を納めるのが一般的でした。

しかし、入学金・授業料ともに決まった金額はなし

先生のほうも「いくら払ってね」とうのは絶対にいわないお約束になっており、基本的には払える額を払ってくれればいいよ、というスタンスでした。

たとえば、授業料は年に5回納めるのですが、1回分は裕福な大店(おおだな)の子どもなら金1分(約2万円)、あまり裕福でない家なら200~300文(約4000~6000円)とピンきり。

さらに現金とは限らず、農村などではこんなものを授業料として払うこともあったとか。

農村では、寺子屋の授業料を野菜で払うこともあった

授業料、とれたて新鮮な野菜

地域によっては、お酒や蕎麦、餅、スルメなどなんでもありです。とにかく「支払える分を払えばよし」というなんとも良心的な授業料でした。

ほかに、畳を新調するための費用として「畳料」200~300文(約4000~6000円)を6月に、手を温めるための炭代として「炭料」200~300文(約4000~6000円)を10月に支払いました。また、盆暮には日頃のお礼として餅やそうめんなどの品物を贈ったそうです。

そのほかにも寺子屋で使用する紙や墨、筆などの消耗品も自腹です。当時、紙は貴重品でしたので真っ黒になるまで何度も何度も書きました(使用後はもちろん再利用)。

『浮世五色合』「黒」(歌川豊国 画)
(『浮世五色合』「黒」歌川豊国 画)
寺子屋は民間の個人経営でしたが、経営者である先生は授業料だけではとても食べていけません。しかし、授業料にこだわらなかったのは、あくまで兼業師匠だったこともありますが、なにより「子どもたちに知識を教えたい」という志によるボランティア精神

また、寺子屋の先生になると人別帳(にんべつちょう/今でいう戸籍みたいなもの)に「手跡指南」と登録されたり、周囲から「寺子屋のお師匠さま」として尊敬を集めるなど見えない部分で満足を得られることがいろいろあったんだそうです。

明治時代になり小学校登場、消えゆく寺子屋



多くの子どもたちが通い、幕末日本の高い教育水準を支えていたといっても過言ではない寺子屋ですが、時代の流れには逆らえません。明治時代になると、新政府により全国に小学校がつくられるようになりました。

明治時代の小学校(『訓童小学校教導之図』肉亭夏良 画)
(『訓童小学校教導之図』肉亭夏良 画)
寺子屋の個別指導は、近代化された小学校の一斉指導へと変わっていきます。徐々に消えていった寺子屋ですが、なかには小学校の母体となったものや小学校の役割を肩代わりしたものもありました。小学校という新しい教育施設がスピーディに整備できたのは、全国各地で庶民の子どもたちを教えてきた寺子屋の存在が大きかったといわれています。

庶民の学校・寺子屋は、庶民の識字率や知識を高め、江戸時代に花開いた芸術文化、工芸、建築などさまざまな分野を支えた一因となりました。また、当たり前のように通っていた小学校ですが、そのルーツには江戸時代に庶民の学校として大きな役割を果たしていた寺子屋があったんですね。

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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?

銀ブラをする昭和の女性1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。『水鶏にだまされて』石川豊信 画(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。


江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?

パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。「アンネナプキン」発売の広告「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。