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傘張りに精を出す男性(ただし職人)。明治時代に撮影されたもの。画像引用元:長崎大学附属図書館
年収25万円以下!? 超低賃金だった下級武士たち
江戸時代の武士たちは、現代の公務員に似たようなポジション。もちろん給料をもらえたわけですが、武士のランクによって給料の支払いスタイルが異なりました。
「知行取(ちぎょうどり)と呼ばれた上級武士たちは、幕府から与えられた領地で取れた年貢米の35〜40%が年収として懐に入りました。
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一方、中流・下流の武士のほとんどは、給料に何をもらっていたかと言いますとーー

お米。
江戸時代はお米が経済の基本だったので、今のように現金で給料が支払われることはまれで、お米でもらうのがほとんど。で、自分たちで食べる分を取っておいて、残りを現金に換えて生活費にしていました。
武士の給料は基本的に固定給のうえ、親から子に代々引き継がれました。そのため、時代が下がるとともに物価が上がると生活はカツカツに……。
しかも、泰平の世とはいえ、武士の本分は「戦時に戦うこと」なので、万が一の戦に備えて常に何人かの家来を雇わなければいけませんでした。たとえば200石の武士なら家来は4人、1,000石の武士なら家来は21人という具合に、給料が増えればそれだけ家来の数も増えました。
高給取りの武士といえど、家族のほか、家来や使用人を養わねばならず、さらに礼儀を重んじる武士のこと、交際費や儀礼費をケチることなんてなりません。屋敷だって見苦しくないようにキープせねばなりません。結果、給料だけでは足りず札差(ふださし)など金融業者に多額の借金をする武士もたくさんいました。

威風堂々とした壮麗な大名行列。威厳に満ちた武士たちだが、その懐事情は意外にもお寒いものだったようです(『千代田之御表』「正月元日諸侯登城桔梗下馬」より 橋本周延 画)
そもそもめちゃくちゃ低収入の武士たちもいました。
「さんぴん武士」と蔑まれた下級武士たちがそれで、年収は「3両1人扶持」。1両を約8万円と推定すると、
その年収、
24万円。
+お米(1日5合相当)。
月収に直すと、1ヶ月2万円+お米。
現代のワーキングプアも青ざめる低収入っぷりです。

まさに「うわっ…私の年収、低すぎ…?」
でも、「さんぴん武士」たちの多くは旗本や御家人らに仕える住み込みの武士だったそうで、生活費はあまりかからなかったとか。それにしてもこの年収では贅沢なんて夢のまた夢です。
プライドで腹はふくれぬ!ならば内職だ!!
「武士は喰わねど高楊枝」なんて言葉があるように、貧乏でもプライドだけは高かった武士たち。でもプライドだけでは腹はふくれぬし、ましてや家族を養うことなんてできません。
物価が高騰しだした江戸時代中期以降、生活苦に喘いだ武士たち始めたのが内職。基本的に武士の内職は禁じられていたそうですが、下級武士の内職に限っては許されていたそうです。また、藩によっては黙認どころか内職を奨励していたところもありました
さて、武士の内職というと真っ先に思い浮かぶのがこれではないでしょうか。

画像引用元:長崎大学附属図書館
傘張り。
時代劇ドラマでも浪人者が傘張りの内職をしているシーンがよく登場するぞ。
実際に傘張りの仕事は武士の内職のド定番。
特に、現代の東京都港区青山にあった青山の鉄砲百人組の組屋敷では、組織的な傘張りの内職が行われていました。彼らの作る傘はとても評判がよく「青山傘」というブランドにまでなったとか。
そんなブランド傘を手がけていた青山の鉄砲百人組たち。
元をただせばその正体はーー

甲賀の忍者です。
ちなみに写真は『影の軍団』に登場する服部半蔵(千葉真一)なので伊賀忍者ですが、細かいことは気にしないでほしい。
「鉄砲百人組」は戦に備えての鉄砲集団なのですが、鉄砲を放つ代わりに傘を作っていたわけです。平和な江戸時代にあって、甲賀の忍者たちは優秀な傘職人軍団になっていたのです。
余談ですが、江戸時代の傘は現代に比べてとっても高価でした。
女性やセレブに人気の「蛇の目傘」は新品だと1本およそ2万円。「番傘」という一番リーズナブルな庶民向け傘でも1本5,000〜7,000円くらい。
なので人々は傘が破れても捨てることはなく、「古傘買い」というリサイクル業者に売りました。その古傘は、紙を張り替えて新しく再生されて売られるのですが、ここで活躍したのが傘張りを内職にした武士たちです。
限られた資源を大切し再利用が徹底的に行われたエコ都市・江戸の“縁の下の力持ち”として、下級武士たちは頑張っていたのです。

メリーポピンズばりに傘片手に飛んでいる少女。ちなみにこれは、願掛けのため京の清水の舞台から飛び降りているところ。こんな無茶して傘が壊れても大丈夫。内職の武士が張り直してくれます。(鈴木春信 画)
青山の鉄砲百人組が傘張りならば、牛込弁天町(現・新宿区弁天町)の鉄砲百人組は提灯張りの職人集団として有名でした。しかも、こちらも有名忍者軍団「根来(ねごろ)組」。忍者は手先が器用だったんでしょうかね。
武士にとって手習い(書道)は心得のひとつだったため、提灯の文字入れなどはお手の物だったようです。

提灯の絵付け作業を撮影した古写真(被写体は内職している武士ではありませんので悪しからず)
甲賀、根来ときたら伊賀忍者だって何かやってたはず、と思いますよね。
はい。やってました内職。
江戸時代、千駄ヶ谷(現・渋谷区千駄ヶ谷)に組屋敷があった伊賀者たちは、どんな内職をしていたかと言いますとーー驚きのこちら。

画像引用元:Find Travel
鈴虫の養殖。
伊賀忍者、まさかの昆虫ブリーダーになる、の巻。
鈴虫のほかコオロギも養殖していたほか、虫カゴの製作も行っていました。
飼育された虫たちは、虫売りに卸され市中や縁日などで販売されました。鳴き声の美しい鈴虫やコオロギはペットとして庶民に大人気となったのですが、その裏には伊賀忍者たちがいたとは驚きです。

江戸時代の虫売り。オシャレな格子柄が虫屋の目印(『夜商内六夏撰 虫売り』歌川豊国 画)
江戸時代の人気ペットといえば金魚ブームの影にも武士の内職がありました。
江戸時代中期以降、それまで高級ペットだった金魚は国内での養殖が盛んに行われるようになったことで手軽に手に入る庶民的ペットとなり、金魚売りは夏の風物詩となりました。
で、金魚の養殖を手がけていたのが下級武士たちだったのです。
現在の台東区台東にあった下谷(したや)の御徒組の組屋敷は金魚の養殖で有名だったようです。ちなみに、御徒組の本来の役目は、将軍が外出する際の沿道警備です。
そんなイカツイ武士たちが可愛らしい金魚を熱心に育てていたのを想像するとちょっと微笑ましいですね。

金魚と美女は鉄板の組み合わせで浮世絵にも多数登場。この金魚も下級武士が内職で育てたものかも(喜多川歌麿 画)
武士の内職からブームや名所が生まれる!?
武士の内職から生まれたのは金魚ブームだけではありません。
庶民文化が花開いた江戸時代後期の文化文政年間(1804〜30年)、「変化朝顔(へんげあさがお)」という突然変異から生まれた変わり咲きの朝顔が大ブームとなりました。

これが朝顔!?と思ってしまうような不思議に美しい変化朝顔が江戸時代に大人気に。品種改良によりバラエティ豊かな変化朝顔が生まれました(『朝顔三十六花撰』より 万花園主人 撰 服部雪斎 画)
ブームのきっかけは、変化朝顔の栽培を熱心に行っていた市兵衛という植木屋さん。市兵衛さんは、金魚の内職でご紹介した下谷の御徒組屋敷に出入りしていたのですが、その縁で生活に苦しむ下級武士たちに内職として朝顔づくりを指南し、武士たちは組屋敷の庭で朝顔の栽培を行うようになったのだとか。
やがて下谷の御徒組の組屋敷は「朝顔屋敷」と呼ばれ、多くの見物客でにぎわう名所にまでなったというから内職も侮れません。

見た目も愛らしい朝顔はデザインとしても人気。こんなオシャレな日傘もあったようです(『今世斗計十二時 未の刻』三代歌川豊国 画)
ちなみに、入谷は今でも朝顔で有名で、毎年7月には「入谷朝顔まつり」が盛大に行われ、多勢の来場客でにぎわっています。
内職から花の名所となった場所として、現在の新宿区百人町にあった大久保の鉄砲百人組の組屋敷も超がつくほど有名でした。
鉄砲百人組の伊賀者たちが手がけたのはツツジ。
一帯の組屋敷の庭や垣根で栽培したツツジはなんと数百株ともいわれ、花の盛りともなれば武家の奥方から庶民まで多勢の見物客が押し寄せたそう。江戸時代のガイドブック『江戸名所図会』にもツツジの名所として紹介されるほどでしたので、江戸観光にやってきた地方の人々も訪れたことでしょう。

ツツジが咲きほこる壮麗な眺めにセレブの女性たちもうっとり(『江戸名所図会』「大久保」)
植物つながりでいえば、最近若い女性たちの間で密かに人気を高めつつある盆栽も代表的な武士の内職のひとつでした。
ほかに、凧揚げも江戸時代に大ブームとなったものですが、凧揚げの凧づくりも武士の内職として重宝されました。
特に山手一帯の御家人組屋敷では凧づくりを始め、竹細工が盛んに行われていたそうです。手先の器用な人が多かったのか、職人顔負けの繊細な仕事ぶりだったとか。

幕府が禁止令を出すほど大ブームとなった凧揚げ。自作も多かったが買うことも(『五節句之内睦月』部分 歌川国芳 画)
武士の内職から名産品も誕生
内職に精を出したのは江戸に住む武士だけではありません。地方の下級武士たちもせっせと内職に励みました。むしろ、藩が武士たちに内職を奨励することもありました。
たとえば、米沢藩の上杉鷹山。「為せば成る」の名言で有名な名君ですが、藩財政の立て直しを図っていた鷹山も武士の内職を奨励しました。
下級武士や武家の婦女子たちが内職として手がけ、やがて米沢名物にまでなったものに「米沢織」という織物があります。
また、米沢地方の名物料理のひとつ「鯉料理」も、その始まりは上杉鷹山が家臣たちに鯉の養殖を奨励したことなんだとか。最初は米沢城のお堀で鯉を養殖していたというから、鷹山公は考え方が柔軟なお方だったのでしょう。

武士が内職として養殖に励んだ米沢鯉は、今も米沢の伝統料理として愛されています。画像引用元:技あり米沢
また、上総国の久留里藩(現・千葉県君津市)では周辺に高級楊枝の材料として知られる「クロモジ」という植物がたくさん生えていたことから、城下で武士たちが楊枝づくりの内職を行っていました。
「楊枝といえば上総地方のものが第一」と非常に評判がよかったとか。久留里城の別名「雨城」から「雨城楊枝」と呼ばれるこの楊枝は現在も高級楊枝として料亭や茶会の席で愛されています。

画像引用元:千葉県の自然 見~つけた♪
前述したように、「傘張り」は武士の代表的内職でしたが、地方の武士の内職から誕生した非常にユニークな傘がありました。それが、こちら。

画像引用元:ちらん生工
これは「知覧提灯(ちらんちょうちん)」と呼ばれる珍しい傘なのですが、なにがユニークってその変化ぶり。
半開きにすれば傘となり、全開すると提灯に変身、さらに閉じると護身用の武器にもなるという三徳傘なのであります。現在ではインテリアとして使われることが多いんだとか。考案したのは薩摩藩の武士・富永五助さん。江戸時代後期、薩摩藩の下級武士の内職として広まったそうです。
マンガの元祖は武士の内職だった!?
武士たちが行っていた内職には教養を活かしたものもありました。その代表はこちら。

『一掃百態図』より 渡辺崋山 画
寺子屋の師匠。
寺子屋は子どもたちが「読み・書き・そろばん」などを学ぶ場所で、現在の小学校に似ていますが、「師匠」と呼ばれた先生に資格は必要なく、武士や僧侶など博識な人物が務めました。
珍しいところでは内職で作家業を始める武士もいました。
マンガの元祖ともいわれる「黄表紙」という新ジャンルの生みの親、恋川春町も本業(?)は駿河国小島藩の武士。
もともと書や絵が得意だったそうで、副業として作家業を始めたところ人気作家となりました。
未来世界を描いた江戸版SFマンガ『無益委記(むだいき)』など斬新な作風でヒット作を飛ばした春町でしたが、寛政元年(1789年)に出した『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』という作品が、老中・松平定信の「寛政の改革」を風刺しているとされ幕府に出頭を命じられる事態に・・・。
病気を理由に出頭に応じなかった春町ですが、その後まもなく他界。失意の末の自殺では、ともいわれています。ヒットしすぎた内職作家の悲しい末路です。

恐ろしいほど未来を予想していると話題の『無益委記』。未来のマゲはこんなにトンガってます。恋川春町 作・画(1781年)
お金はなくともヒマはたっぷりあった下級武士たちの内職事情。傘張りだけかと思いきや、こんなにも色々なことをやっていて、しかもブームの立役者にもなっていたとは。内職、侮れません。
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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?
1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。
(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。
(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。
江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?
パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。
「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。