名君誕生の陰に名家庭教師あり
17歳の若さで瀕死の米沢藩のトップとなった鷹山は、さっそく藩政改革の第一歩を踏み出します。
「上杉家はもはや大家から小家になった」(鷹山の命令文より)
歴代藩主たちが名門のプライドを捨てきれず直視してこなかった現実に向き合ったのです。
鷹山の藩政改革は江戸藩邸でスタートしました。米沢ではなく江戸というのがちょっと意外。
鷹山は江戸にいた信頼できる改革派の家臣たちに改革案をまとめさせると、12項目からなるある命令を発します。
世に言う大倹約令。
具体的にどんな倹約を行ったかというと…
- 藩主の生活費をこれまでの1/7以下に大幅カット
- 奥女中の人数を50人から9人にカット
- 藩主の衣服を絹から木綿オンリーに変更
- 藩主の食事を一汁一菜の質素メシに
- 年間行事の規模縮小&中止
- 贈答の禁止
など。
これは思いきっています。
八代将軍・徳川吉宗もそうですが、大々的な改革をスタートさせるにあたってリーダー自らが率先して質素倹約のモデルとなる。いくら「節約」を叫んでもリーダーがぜいたくしていたら説得力ありません。わかっててもなかなか出来ないことですが、若きリーダー・鷹山は鉄の意志で実行します
ここがスゴイよ鷹山公!
リーダーが率先してやることで部下たちへの説得力が増す。
リーダーが率先してやることで部下たちへの説得力が増す。
それにしても17歳の若さでこの決断力と実行力、ハンパないですよね。さすが「名君」の誉れ高い鷹山公、若い頃からタダ者じゃない。
スポンサーリンク
幼少の頃から利発だった鷹山ですが、“改革のリーダー”としての鷹山が誕生した裏にはある人物との出会いがありました。
藩主になる前の鷹山に「藩主としての心得」を教育した学者。
名を細井平洲(へいしゅう)。
平洲がいなかったら名君・鷹山公もなかったといっても過言じゃないキーパーソンです。細井平洲はどちらかというとマイナーな人物ですが、鷹山だけでなく当時の有力大名たちもこぞって師事したほか、死後も吉田松陰や西郷隆盛ら幕末の偉人たちに大きな影響を与えた偉大な学者であり教育者です。地元・愛知県では今も尊敬を集めています。
学者というと「机の前に座って難しい本をたくさん読み、弟子に語るのも難しい話ばかり」というような堅苦しいイメージがありますが、平洲は全然ちがう。むしろ真逆。
平洲のポリシーは「学問の目的は実践にあり、学問とは生活に密着したものでなければならない」というもの。
そのため精力的に外へ出て江戸の街頭で辻講釈を行いました。
平洲の講義は「誰にでもわかりやすくおもしろいのに聞いたあと心に響く」と話題になり、身分・性別に関わりなく大勢の人々が平洲の講義を聴くために集まったといいます。
江戸にいた米沢藩の改革を願う家臣たちは「いずれ藩主となられる松三郎さま(鷹山の幼名)によい家庭教師を探さねば」と考えていました。そこに入る「江戸で評判になっているスゴイ学者がいる」という情報。
そして細井平洲は14歳の鷹山の家庭教師となり、若い鷹山に「上に立つ者の心得」を叩き込んだのです。
平洲が鷹山に説いた最も重要なことがこれ。
「治者は民の父母たれ」
藩主というのは支配者ではない。領内に住むすべての人々は自分の子どもだと思えば、人々が苦しんでいるの安穏と見ていられるはずはない。親は自分のことを差し置いても子どもの幸せを願うもの。藩主も自分の身を削ってでも領民の幸せのために行動せよーー
というような感じでしょうか。
あとでくわしくお話ししますが、鷹山の革命には「すべては領民の幸せのために」という“愛”があふれています。現・東京都知事の小池百合子さんが「都民ファースト」をうたっていますが、それより250年も前に鷹山は「領民ファースト」を掲げていたわけです。
こちらは藩主となった際に鷹山が決意を込めて詠んだものですが、平洲の教えがストレートに反映されています。
平洲は藩主として苦難の道を進む鷹山にこんな激励の言葉を送りました。
なにをするにも勇気が必要、勇気があればなんでもできる! というわけです。いい言葉。
藩政改革という大事業のなかなんども挫折を味わうことになる鷹山ですが、そのたびにこの恩師の言葉にパワーをもらったんじゃないでしょうか。
次ページ:いよいよ米沢に初入国! 鷹山、米沢の惨状に衝撃を受ける