旧臣たちの不満爆発! クーデター勃発に鷹山どうする!?
1773年8月15日(安永2年6月27日)の早朝、江戸家老の須田満主をはじめ代々上杉家に仕えてきた7人の古参重臣たちが鷹山のもとに押しかけました。
曰く「お屋形様(鷹山のこと)の率先して行う一汁一菜や木綿の着物を着るなどは小事にすぎない」
曰く「今やっている改革のせいで国内はメチャクチャだ。伝統的なやり方に戻すべき」
曰く「武士に農民のまねごとをさせることは“鹿を馬”とするようなもの」
曰く「竹俣をはじめ改革派の連中は即時退役させよ!」
世にいう「七家騒動」(しちけそうどう)。
古参7人は取り囲んだ鷹山の返答次第では、強制監禁である「主君押込」までしかねない勢い。つまりこれはクーデターです。
鷹山は「自分ひとりで決められることではないので、先代・重定さまの意見も聞いてみる」といって状況打破のため退室しようとするのですが、7人は文字通り鷹山をガッチリ包囲してそれを許さない。
上杉鷹山も必死。古参7人も必死。押し問答は4時間も続きます。
なんとか部屋から脱出した鷹山。先代・重定はこれを伝え聞き「きゃつら、藩主が若いからと侮って、なんたる無礼!」と大激怒します。旧臣たちは重定時代の重臣だったので、鷹山はその処分を自分ひとりで決めるのではなく、先代の重定にも話を通したのです。このあたり、鷹山は若いのに本当に用意周到です。
その後、鷹山はクーデターを起こした7人に厳しい処分を下します。うち2人は切腹、残りの5人も隠居および蟄居もしくは閉門、さらに給料カットが命じられました。また、クーデターの黒幕とわかった藩医も斬首となりました。
ここがスゴイよ鷹山公!
藩内で重きをなしてきた代々の重臣たちに厳罰を下すことで、自分の改革への覚悟がどれほど強いものなのか改めて藩士たちに知らしめた。
藩内で重きをなしてきた代々の重臣たちに厳罰を下すことで、自分の改革への覚悟がどれほど強いものなのか改めて藩士たちに知らしめた。
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一大プロジェクトの失敗、右腕の失脚、相次ぐ天災ーー立ちはだかる壁に改革中止!?
改革反対派を迅速かつ果断に一掃した鷹山は、さらなる改革への道を邁進します。
「国を豊かにするには地場産業の開発が必要」と考えた鷹山は、改革実行リーダー竹俣当綱の提案により一大プロジェクトに着手します。
それは
漆、桑、楮(こうぞ)それぞれ100万本を植樹しよう!プロジェクト。
漆も桑も楮もそれを原料にさまざまな商品を生みだせる植物。たとえば、漆からは塗料やロウができ、桑はカイコのエサとなるので養蚕、ひいては生糸の生産、さらには絹織物までつくりだせる。楮は紙の原料になる、という具合です。
これまで米一辺倒だった米沢の農業に新風を吹き込もうとしたのです。
ここがスゴイよ鷹山公!
米沢の気候風土にマッチした植物を原料に米沢特産のヒット商品をつくれば新たな収入源とすることができる! 鷹山公の思考は常に時代の先を行く。
米沢の気候風土にマッチした植物を原料に米沢特産のヒット商品をつくれば新たな収入源とすることができる! 鷹山公の思考は常に時代の先を行く。
漆・桑・楮をそれぞれ100万本も植えようという大プロジェクト。アイデア自体もすごいですが、その実施内容もすごい。
なんと植物の苗を農地だけでなく、空き地や町民の住居、さらに寺社の所有地、さらにさらに藩士たちの屋敷の土地にまで植えてしまおうとする。
壮大なプロジェクトを迅速に進めるため、割り当てより多く植えた者には奨励金を、割り当てに満たない者には罰金を課したのも、斬新ながら実に巧み。
100万本植樹プロジェクトは試行錯誤しながらも順調な発展をみせ、漆からできたロウソクが最初のヒット商品となりました。
ところが、まもなく西日本で櫨(はぜ)を原料にしたロウソクが登場。漆のロウソクより高性能なうえに安いとあってたちまち大人気になり、漆ロウソクは市場から駆逐されてしまいました……。
一方、鷹山は“人づくり”、人材育成にも力を注ぎました。
教育、育成は目先の結果は出にくいもの。苦境ではどうしても後回しになりますが、鷹山はなんとかやりくりして、財政難により閉鎖していた藩の学問所を再興し、「興譲館」と名づけた藩校を創設したのです。
入学者の大半は20代の青年で上級藩士の子弟が多かったのですが、才能と志がある者ならば下級武士だろうが庶民だろうが身分に関係なく入学OKでした。
最盛期には1,000人ともいわれる大勢の若者がここで学び、その後、興譲館の卒業生が改革の先頭に立って活躍しました。
当然失敗もあるが、そこで止まらずに改革を推進させる鷹山。しかし、そんな鷹山でさえも非常に辛い決断となる出来事が起きます。
これまで改革をリードしてきた右腕・竹俣当綱をクビにしたのです。
実行リーダーとして権力を握っていた竹俣は、強引なやり方が反感を買ったのか、権力の座に溺れてしまったのか専横や不正が批判されるようになり、「竹俣を排除すべし」という声が各所から上がるようになっていたのです。
改革スタートから苦難をともにしてきた右腕を切るのは鷹山公にとって苦渋の決断だったことでしょう。まさに「泣いて馬謖を斬る」。
さらに改革の道を阻む逆風が吹き荒れます。
1783年8月3日(天明3年7月6日)
浅間山が噴火。
大量の火山灰は太陽の光をさえぎり、東北地方を中心に農村部に深刻な被害をもたらします。近世日本最大の飢饉といわれる「天明の大飢饉」が訪れたのです。
鷹山の改革により甦りつつあった農村も大飢饉の影響を受け再び荒廃、プロジェクトの失敗や右腕失脚なども重なり改革に暗雲が立ち込めます。
そんななか鷹山はある決意をします。
まだ35歳という若さながら隠居し、次期藩主の座を先代・重定の実子である治広に譲ったのです。