• 更新日:2023年1月8日
  • 公開日:2017年2月17日


次は「尊敬する人はおじいちゃんの“権現様”です」のサラブレッド将軍。

幕府体制を磐石のものにした“生まれながらの将軍”


徳川家光の肖像画
三代将軍・徳川家光
(読み:とくがわいえみつ)
家光のここがすごい!
  • 教科書に載るレベルの出来事をかなりやった(参勤交代、鎖国、島原の乱etc)
  • 将軍なのに世継ぎとか気にせず自分の嗜好に忠実
  • じつは柳生新陰流の免許皆伝

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地味な二代目から生まれた色々とハデな三代目。

「生まれながらの将軍」だし、「参勤交代」だし、「島原の乱」だし、「鎖国」だしーーもう江戸時代前半のイベントもりだくさん。(ちなみに最近では「鎖国」という言葉は教科書から消えつつありますが…)。

20歳という若さで三代将軍に就任し、武家の頭領となった家光が、並み居る諸大名を前にして「余は生まれながらの将軍である」と言い放ち、大名たちのド肝を抜いたのは有名な話。プライドが高く独裁的な将軍、というイメージのある家光ですが、幼少期はかなり可哀想な感じでした。

松方弘樹が演じる徳川家光(映画『柳生一族の陰謀』より)
名作映画『柳生一族の陰謀』に登場する家光(画像右)はかなり強烈なキャラクターになっておりインパクト抜群。松方弘樹さんがいい演技してます
幼い頃の家光は、将軍になってからの冷酷非情さとは反対に病弱で大人しい、無口な少年だったそう(吃音もあったとか)。しかもルックスもお世辞にも可愛いとはいえない感じ。

対して、弟の忠長(幼名は国松)は美少年だわ賢いわで両親から溺愛されました。結果、「三代将軍は弟の忠長にしたほうがいいんじゃないの?」なんて不穏な空気になり・・・。

見かねた家光の乳母・春日局が駿府にいる大御所・家康に直訴したというエピソードは有名ですよね(これは巷説に過ぎないとも)。ともあれ少年時代の家光はあまり両親から愛されなかったようです。

なお、将軍就任後に実弟・忠長には切腹を命じてます。ひでぇ。

徳川忠長(漫画『シグルイ』より)
残酷絵巻『シグルイ』に登場する、狂気を帯びた徳川忠長。これは切腹させなきゃ(使命感)
さて、偉大なる初代が築きマジメな二代目が引き継いだ徳川幕府を、三代目となった家光は大きく発展させました。

父・秀忠が存命中は秀忠が大御所として政治を掌握していましたが、秀忠が没すると家光は、秀忠時代の重臣を次々にクビにし、自分の側近を重用。のちに続く幕政システムの基礎を作り上げました。「老中」や「若年寄」「奉行」などの役職が誕生したのも家光時代です。

ざっと家光の功績をまとめるとーー

  • 諸大名に参覲交代を義務化(目的は将軍家と大名たちの絶対的主従関係を刷り込ませるため。大名家の財力を疲弊されるためじゃないよ!)
  • 幕府の安泰を図るため大名たちを次々と改易
  • キリシタンの徹底弾圧&いわゆる「鎖国」の完成。出島も作ったよ!
  • 「島原の乱」を鎮圧(一揆軍はみな殺し!生き残ったのはひとりだけ・・・)

などなど。

オランダ商人たちが隔離された出島
オランダ商人たちが隔離された出島。現在、出島復元プロジェクトが進行中
いろんなことをやっています。さすが知名度バッチリ将軍。冴えない少年時代から一転、「武断政治」と呼ばれる強権政策をガンガン推し進めるまでの偉大なる将軍になった家光。

そんな家光が尊敬してやまなかったのが祖父・家康でした。

家光が肌身離さず持っていた守り袋のなかに、「二世ごんげん 二世将軍」「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」などと書いた紙を入れていたそう。家光は家康が好んだ武芸や鷹狩りにも熱心に取り組みました。似てないのは、家康が質素倹約の鬼だったのに対し、家光はド派手好きだったことくらいでしょう。

家光家康を敬愛すること尋常ではないので、「家光の本当の父親は本当は家康なんじゃ・・・」なんてゲスな俗説もあるほど(ちなみに母親は春日局説)。

さて、家光といえば「女嫌い」、いやどっちかというと「男好き」だったことも忘れてはなりません。乳母の春日局は頭が痛かったことでしょう。

春日局の肖像画

「上様、お世継ぎはどうなさるおつもりですか・・・(泣)」by.春日局

当時、武士の間で男色はさほど珍しくはありませんでしたが、家光の場合は“ガチ”。22歳の時に京から公家のお姫さま、鷹司孝子を正室に迎えたのですが、異常に冷たかった。結婚直後に即別居、事実上の離婚状態がずーっと続きもちろん“夜の営み”も皆無。

なにが気に入らなかったのか生涯冷遇し、死後に形見分けで遺したのは金50両とわずかな道具類だけだったとか。家光ひどい。

で、正室をほったらかしにして夢中になったのが可愛い男の子たち

将軍のお世話役である小姓のなかでお気に入りを見つけると寵愛するわけです。

『男色秘戯画帖』(古川師重 画)
陰間(かげま)を侍らす武士。家光もこんな感じだった?(『男色秘戯画帖』古川師重 画)
かなり嫉妬深い性格だったようで、家光が16歳の時こんな事件が起きました。

ある日、愛する小姓がほかの小姓と風呂場でイチャイチャしていたのを目撃してしまった家光、「なにしてんのっ!」とばかりに怒り狂い恋人(少年)を斬りつけたそう・・・。

うーん…そうか。

家光は人事登用の際にも寵愛する小姓たちから有能なものを抜擢することしばしばでした。なかでも小姓から老中にまで大出世した堀田正盛は、才気あふれる少年だったようで家光から非常に愛され、正盛もまた家光に非常に忠実に仕え、家光の死後には殉死しています。



だね、

そんなこんなで男性とばかりラブロマンスを繰り広げていた家光さん、気づいたら30歳過ぎても子どもがいないという非常事態に。

これは、将軍としてさすがにまずい。

まずすぎる。

この将軍家大ピンチに乳母・春日局はあらゆるタイプの美女を集め、なんとか家光に女性に目覚めてもらうよう苦心します。

春日局が礎を築いた江戸城大奥には選りすぐりの美女がたくさん(『千代田之大奥』揚州周延 画)
春日局が礎を築いた江戸城大奥には選りすぐりの美女がたくさん。でも家光は見向きもしなかった(『千代田之大奥』揚州周延 画)

その甲斐あって、ようやく家光も思うわけです。





三代将軍・徳川家光の肖像画

「女性もいいね❤︎」


38歳で初めての子をもうけてからは次々と側室との間に子をなしました。

でも面白いのが家光の女性の趣味。実質的な日本最高権力者が好んだのは農民の娘とか八百屋の娘とか尼さんとか・・・斜め上すぎです。余談ですが、家光の側室で五代将軍・綱吉の生母、桂昌院が八百屋の娘から将軍生母になるというシンデレラストーリーを歩み「玉の輿」の語源になったと言われています。ただしこれあくまで俗説のようです。

家光の時代にはいろんなことがありすぎてなんとなく長生きしていそうですが、じつは48歳と意外に若くして世を去っています。歴代将軍としては5番目の短命です。なんという濃厚な人生だったことでしょうか。

『枯木梟図』
個人的に家光を語る上で外せないヘタウマふくろうの絵。こんな可愛い絵を描く家光は、悪い人じゃなかったような気がします(『枯木梟図』)

徳川家光の詳細データ

次は超有名将軍に挟まれた地味な四代目。

“さようせい様”とあだ名された病弱将軍


徳川家綱の肖像画
四代将軍・徳川家綱
(読み:とくがわいえつな)
家綱のここがすごい!
  • 優秀な閣僚たちを信じ、政治にノータッチ。結果、幕政が安定
  • 殉死を禁止
  • 由井正雪の乱」や「明暦の大火」など大事件が勃発
  • 優しい人柄をしのばせるエピソードが多数
  • 鶏の絵の上達具合がすごい

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三代将軍・家光五代将軍・綱吉の名前を知っている人はたくさんいるでしょう。ですが、その間に挟まれた四代将軍となると「誰だっけ?」という方が意外に多いのではないでしょうか。

そんな悲しい四代将軍の名は家綱。家光の「家」と綱吉の「綱」なのでちょうど間という感じで覚えやすい。

とても影の薄い四代将軍・家綱が将軍になったのはわずか11歳の時。父・家光が急死してしまったので少年将軍が誕生しました。

しかも生まれつきめちゃくちゃ病弱で、何人もの医師が近侍していたというから幕府の先行きはお先真っ暗・・・と思いきや、優秀な閣僚たちのサポートのおかげでむしろ幕府は安定しました。

なかでも歴史に残る逸材がいた。

しかも、2人も。

1人目。

先代・家光に重用され、あの島原の乱も鮮やかに鎮圧した幕府の重鎮、




松平信綱像(平林寺蔵、高村光雲 作)

“知恵伊豆”でおなじみ名老中・松平信綱

2人目。

おじいちゃん・秀忠が生涯一度の浮気でつくった、




保科正之(会津藩初代藩主、父は徳川秀忠)

おじにあたる保科正之

この時代、浪人たちによる幕府転覆計画テロ事件「由井正雪の乱(慶安の変)」や江戸の大半が焼失した「明暦の大火」など大事件も起こりましたが、これら閣僚たちの働きで乗り越えました。

明暦の大火(『むさしあぶみ』より、浅井了意 作)
明暦の大火のルポ『むさしあぶみ』に描かれた惨状。この火事で多くの人命が失われました。家綱は焦土と化した江戸の復興に尽力しました
生まれつき病弱で性格も温和一辺倒だった家綱は、政治に関しては重臣たちに任せていました。決裁に関しては、もっぱらある言葉をオウムのように唱えるのみ。




四代将軍・徳川家綱の肖像画

「さようせい(そのように取り計らえ)」


そこでついたあだ名は“さようせい様”だったそう。もうそのままだね。

というと家綱は無能将軍のようですが、完成された幕政システムがスムーズに機能するようになったともいえます。

政治の代わりに家綱が夢中になったのは芸術の世界でした。なかでも絵画が得意で、特に鶏の絵をたくさん描き、家臣にもプレゼントしていたとか。ちょっと微笑ましい。

『闘鶏図』(徳川家綱 画)
幼い頃に描いた『闘鶏図』。ほのぼのタッチに味わいがあります
家綱の時代、幕府は安定期を迎えたものの大きな悩みがありました。

それは家綱に世継ぎが誕生しないこと。

懐妊はするも流産という悲しい結果を繰り返し、しかも虚弱体質な家綱は子どものないまま危篤に陥ってしまいます。


「え、え、待って?五代将軍はどうすんの!?」

という大問題を解決する苦肉の策として弟の徳川綱吉(当時は館林藩主・松平綱吉)を養子に迎え、後継者とすることにしました。

後継者問題もクリアになり安心したのか、間もなく家綱は世を去りました。

徳川家綱の詳細データ
  • 生没:1641年9月7日(寛永18年8月3日)〜1680年6月4日(延宝8年5月8日)
  • 将軍在位期間:慶安4年(1651年)8月18日〜延宝8年(1680年)5月8日
  • 父:徳川家光
  • 母:宝樹院(お楽の方)
  • 正室:浅宮顕子
  • 側室:養春院(薄命の京美人)、円明院
  • 子ども:なし(養子・綱吉
  • あだ名:さようせい様
  • 身長:推定158cm
  • 死因:病死(詳細は不明)
  • 墓所:徳川将軍家の菩提寺・上野寛永寺

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