徳川歴代将軍を全員紹介!教科書に載ってないエピソードこそ面白かった【覚え方も】

  • 更新日:2023年1月8日
  • 公開日:2017年2月17日

令和5年の大河ドラマ『どうする家康』。その家康から始まる265年続く江戸時代。歴代将軍15人の興味ぶかいエピソード、略歴、性格、評価、死因などをまとめてみました。これを読めば将軍がもっと好きになること間違いなし!

江戸ブログの記事をYouTubeに引っ越しました!
チャンネル登録をお願いします!

江戸城本丸(『江戸図屏風』より)
将軍の居城として天下を睥睨してきた壮麗な江戸城本丸(『江戸図屏風』より)


まずは誰もが知っている超有名な初代将軍のあのお方からいってみましょう!

天下取りの秘訣は「長寿」にあり!? 苦労人から天下人になった“神君”


徳川家康の肖像画
初代将軍・徳川家康
(読み:とくがわいえやす)
家康のここがすごい!
  • 最終的に天下を取り、江戸に幕府を開いた
  • 有能な人材を見抜き適材適所に配した
  • とにかく長生きした

スポンサーリンク


戦国時代を生き抜き天下を手にし徳川幕府を開いた初代将軍・徳川家康。令和5年の大河ドラマ『どうする家康』ではどんな家康像が描かれるか楽しみです。

織田がつき 羽柴がこねし天下もち 座りしままに 食うは徳川」という狂歌は有名。「タヌキじじい」とあだ名されるように老練なイメージがありますが、その人生は苦労と忍耐の連続でした。

三河の田舎の弱小大名の子として生まれた家康は、6歳から19歳までの間、人質として苦渋の生活を送り、「三河の宿無し」と揶揄されることもあったとか。

でも、この苦労と忍耐の日々は家康の「忍耐強い」という最大の長所づくりに大きな影響を与えたといわれています。

家康は「東海一の弓取り」と評されるほどの戦上手でしたが、三方ヶ原での大敗北&脱糞事件、愛息・信康の切腹、決死の伊賀越え・・・など戦国時代には何度もピンチに陥りました。

徳川家康の「しかみ像」(『徳川家康三方ヶ原戦役画像』)
三方ヶ原での敗戦の戒めとして描かせた「しかみ像」(『徳川家康三方ヶ原戦役画像』)
そして、豊臣秀吉の遺児・秀頼との最終決戦。秀頼に対し家康がもっとも脅威に感じたのは「若さ」でした。天下を目前に戦国大名たちが志半ばで次々に倒れていくのを見てきた家康がこう考えたのは不思議ではありません。




初代将軍・徳川家康の肖像画

「長生きした者が最後は勝つ」


家康は少しでも長生きするため、めちゃくちゃ健康に気遣い、将軍なのに食事は健康的な粗食を心がけ、鷹狩りや水泳などで運動をし、はてには薬も自分で調合するまでに。もはや“健康オタク”です。

そして、当時としてはものすごく高齢の74歳の時、ついに豊臣家を滅亡に追いやり、名実ともに天下人の座を勝ち取ったのです。ちなみに、関ヶ原の戦いに勝利し征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いたのはそれより12年前のこと。

開いたばかりの幕府の体制づくりや江戸の都市づくり、大名たちへの対応、大坂で威勢を誇る豊臣家への対策、諸外国への対応などを同時にこなしていたわけですから超人的なおじいちゃんです。

徳川家康の手形(久能山東照宮)
久能山東照宮にある家康の手形。かなり立派な手だったようです
目の上のたんこぶだった豊臣家を滅ぼし、次期将軍職も息子・秀忠に譲り徳川幕府の基礎づくりを終えた家康は、安心したのか大坂夏の陣の翌年、75歳で世を去りました。

死因については、「鯛の天ぷらにアタった説」が長らく信じられていましたが、天ぷらを食べてから亡くなるまでちょっと日にちがありすぎることもあり、現在では「胃ガン説」が有力だそうです。

余談ですが、“健康オタク”の家康は、死の間際になってもかかりつけ医の調合した薬ではなく、お手製の薬を服用していたとか。お医者さんを信じたほうがよかったんじゃ・・・。

死後、「東照大権現」という神様として日光東照宮に祀られた家康は、“権現様”と呼ばれ江戸時代を通じて歴代将軍、大名、武士たちから崇拝されたのでした。

徳川家康のお墓(日光東照宮の奥社)
日光東照宮の奥社にある家康のお墓。お墓は見守るように江戸の方向を向いています
なお、家康の名言・遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからずーー」という言葉が有名ですが、実はこれ、後世の創作とも。そうか…。

徳川家康の詳細データ
  • 生没:1543年1月31日(天文11年12月26日)〜1616年6月1日(元和2年4月17日)
  • 将軍在位期間:1603年慶長8年()2月12日〜慶長10年(1605年)4月16日
  • 父:松平広忠
  • 母:於大の方
  • 正室:築山殿朝日姫
  • 側室:養珠院、西郷局、阿茶局、英勝院、雲光院、相応院ほか
  • 子ども:松平信康結城秀康徳川秀忠(二代将軍)、徳川義直(尾張藩 初代藩主、尾張徳川家の祖)、徳川頼宣(紀州徳川家の祖)、徳川頼房(水戸藩 初代藩主、水戸徳川家の祖)ほか
  • あだ名:タヌキじじい、古タヌキ、権現様、神君など多数
  • 身長:推定159cm
  • 死因:胃ガン?
  • 墓所:日光東照宮、久能山東照宮など

次は“恐妻家”として有名な二代目。

堅実な政治で徳川幕府の土台を固めた“二代目”の鑑


徳川秀忠の肖像画
二代将軍・徳川秀忠
(読み:とくがわひでただ)
秀忠のここがすごい!
  • 大名、朝廷を抑え幕府の礎を固めた
  • 江戸のライフラインを整備
  • 隠し子がめちゃくちゃ優秀

スポンサーリンク


偉大な初代の陰に隠れがちなのが“二代目”というポジション。秀忠もその例に洩れず、一般的に存在感は薄め・・・。かすかにあるイメージとしては

「ああ、あの奥さんに頭が上がらなかった人ね」

とか

「関ヶ原の戦いに遅刻したポンコツでしょ」

とか

「地味。」

とか

そんな感じではないでしょうか。

しかし、いくら初代が偉大でも二代目がちゃんとしていないと何事も失敗するのが世の習い。秀忠は二代将軍として、家康の路線を忠実かつ堅実に引き継ぎ徳川幕府の支配体制を確かなものにしました

結構、いろんなことをやっています。例えば…

  • 大名および朝廷の統制を図った(大御所として家康が裏にありつつ、教科書でおなじみ『武家諸法度』『禁中並公家諸法度』を整備)
  • 朝廷との関係強化のため愛娘・和子(まさこ)を後水尾天皇に入内させた
  • 後顧の憂いを断つため福島正則など有力外様大名を次々に改易
  • のち江戸っ子が自慢した水道(神田上水)を整備。

などなど。

どうですか?めちゃくちゃ頑張っていたんですよ、秀忠さん。

そんな秀忠家康の三男坊で、兄が2人いました。家康が一番期待をかけていた長男・信康(のち切腹)と、勇武の将として名を馳せた次男・秀康豊臣秀吉の養子、のち結城家の養子)。

2人とも武将としての才能は抜群で、誰もが認める武勇の人でした。

一方の秀忠といえば、武将としての評価はイマイチ・・・。なにせ、初陣となった“天下分け目”の関ヶ原の戦いにおいて、知将・真田昌幸に翻弄され、3万8千もの大軍を率いながら、わずか2千人が籠城する信濃国上田城を落とせず、あろうことか関ヶ原の大戦に大遅刻したのです。

まぁ、武将として評価が低いのはしょうがない。家康が大激怒したのもしょうがない。

関ヶ原合戦図屏風(部分)
西軍東軍が関ヶ原で大激突した「天下分け目の大戦」。これに遅刻するなんて・・・(『関ヶ原合戦図屏風』部分)
で、「二代将軍、誰にする?」という話題になった時、家康の側近たちは「武訓抜群な秀康派」vs「マジメが取り柄の秀忠派」に分かれ議論は紛糾。

しかし、家康は最終的に武将としてはイマイチな秀忠を後継者に選びました。

その理由は「戦乱の世は終わり平和な世を治めるのに必要なのは、武勇ではなく知勇」というもの。秀忠の二代目としての素質を見抜いた家康も、そんな父の期待に応えた秀忠も大したもんです。

星野源が演じる徳川秀忠(大河『真田丸』より)

こちらは2016年の大河ドラマ『真田丸』に登場した星野源さん演じる徳川秀忠。秀忠ってフィクションだとこんな感じに柔和なキャラクター設定ですよね。

実際、性格は温厚で知的だったそうなのですが、後世に遺体調査をおこなったところ予想外にもかなりのマッチョだったことが判明しています。

そんな秀忠で忘れてならないのが“恐妻家”エピソード。当時にあって非常に珍しくひとりの側室も置かなかったことは有名です。正室は織田信長の妹・お市の三女である江(ごう)

2011年の大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』ではヒロインになりましたね。

江(ごう)。織田信長の妹・お市の三女
戦国時代を代表する美女として名高いお市の方の娘だけあり、江もかなりの美人だったとか
意外と知られていないですが、江はバツ2、秀忠はバツ1での結婚でした。

かの“第六天魔王”織田信長の血を引くことを誇りに思っていた江はプライドが高く、秀忠は頭が上がらなかったといわれていますが、実際には“恐妻家”ではなく“愛妻家”なだけだったという見方もあります。

妻に誠実だった秀忠ですが、一度だけ浮気をします。秀忠、お前もか・・・。

しかも、自分の乳母の侍女というめちゃくちゃ身近な女性。これ、恐妻家の一度の気の迷いだったわけですが、あろうことか、この浮気で子どもができてしまいました




二代将軍・徳川秀忠の肖像画

「…え?」


将軍の生殖能力、半端ない。隠し子のことは秘事中の秘事とされ、数人の側近しか知らなかったとか。

ちなみに、その隠し子は


会津藩初代藩主・保科正之の肖像画

のちに会津藩初代藩主となる保科正之

一度の浮気でできた隠し子がめちゃくちゃ有能とか、なんかズルいですな。

保科正之(会津藩初代藩主、父は徳川秀忠)
父・秀忠に冷遇されながらも徳川将軍家に絶対的忠誠心を持ち「徳川将軍家に刃向かうやつは子孫とは認めない」という遺訓まで残した保科正之
秀忠は、戦乱の世では“凡将”として終わったことでしょう。でも、安定こそが最優先事項だった幕府草創期、冷静沈着でマジメな秀忠は立派に二代目としての役目を果たしました。

まだ豊臣恩顧の大名たちが力を持っていた時代にあって内乱が起こらなかったのは秀忠の手腕の賜物といっても過言ではないでしょう。もう地味な二代目なんて言わせないぞ!

おまけ。

秀忠の亡き後、その遺体は東京都港区の一角にあった台徳院霊廟に埋葬されたのですが、戦災で焼失してしまったため、徳川家の菩提寺・増上寺に改装されました。

その際、秀忠の遺体調査が行われましたが、秀忠の遺体は座したままの姿勢でまるで畳んだ提灯のごとく圧縮されていたそう・・・。

土中の石の重みが理由とかなんとか。それにしてもそんな苦しい体勢でずっと眠っていたかと思うと不憫です。また、遺体には数々の銃創が残っており、骨にまで達するような傷もあったとか。秀忠も戦国時代を生き延びた人物だった証ですね。

徳川秀忠の詳細データ
  • 生没:1579年5月2日(天正7年4月7日)〜1632年3月14日(寛永9年1月24日)
  • 将軍在位期間:慶長10年(1605年)4月16日〜元和9年(1623年)7月27日
  • 父:徳川家康
  • 母:西郷局
  • 正室:お江(その前に小姫とは離婚)
  • 側室:浄光院(静)
  • 子ども:千姫豊臣秀頼の正室)、徳川家光(三代将軍)、徳川忠長(駿河藩 藩主)、保科正之(初代会津藩主)ほか
  • 身長:推定158cm
  • 死因:胃ガン?
  • 墓所:徳川家の菩提寺・増上寺


次は「尊敬する人はおじいちゃんの“権現様”です」のサラブレッド将軍。

幕府体制を磐石のものにした“生まれながらの将軍”



徳川家光の肖像画
三代将軍・徳川家光
(読み:とくがわいえみつ)

家光のここがすごい!

  • 教科書に載るレベルの出来事をかなりやった(参勤交代、鎖国、島原の乱etc)

  • 将軍なのに世継ぎとか気にせず自分の嗜好に忠実

  • じつは柳生新陰流の免許皆伝




地味な二代目から生まれた色々とハデな三代目。

「生まれながらの将軍」だし、「参勤交代」だし、「島原の乱」だし、「鎖国」だしーーもう江戸時代前半のイベントもりだくさん。(ちなみに最近では「鎖国」という言葉は教科書から消えつつありますが...)。

20歳という若さで三代将軍に就任し、武家の頭領となった家光が、並み居る諸大名を前にして「余は生まれながらの将軍である」と言い放ち、大名たちのド肝を抜いたのは有名な話。プライドが高く独裁的な将軍、というイメージのある家光ですが、幼少期はかなり可哀想な感じでした。

松方弘樹が演じる徳川家光(映画『柳生一族の陰謀』より)
名作映画『柳生一族の陰謀』に登場する家光(画像右)はかなり強烈なキャラクターになっておりインパクト抜群。松方弘樹さんがいい演技してます
幼い頃の家光は、将軍になってからの冷酷非情さとは反対に病弱で大人しい、無口な少年だったそう(吃音もあったとか)。しかもルックスもお世辞にも可愛いとはいえない感じ。

対して、弟の忠長(幼名は国松)は美少年だわ賢いわで両親から溺愛されました。結果、「三代将軍は弟の忠長にしたほうがいいんじゃないの?」なんて不穏な空気になり・・・。

見かねた家光の乳母・春日局が駿府にいる大御所・家康に直訴したというエピソードは有名ですよね(これは巷説に過ぎないとも)。ともあれ少年時代の家光はあまり両親から愛されなかったようです。

なお、将軍就任後に実弟・忠長には切腹を命じてます。ひでぇ。

徳川忠長(漫画『シグルイ』より)
残酷絵巻『シグルイ』に登場する、狂気を帯びた徳川忠長。これは切腹させなきゃ(使命感)
さて、偉大なる初代が築きマジメな二代目が引き継いだ徳川幕府を、三代目となった家光は大きく発展させました。

父・秀忠が存命中は秀忠が大御所として政治を掌握していましたが、秀忠が没すると家光は、秀忠時代の重臣を次々にクビにし、自分の側近を重用。のちに続く幕政システムの基礎を作り上げました。「老中」や「若年寄」「奉行」などの役職が誕生したのも家光時代です。

ざっと家光の功績をまとめるとーー



  • 諸大名に参覲交代を義務化(目的は将軍家と大名たちの絶対的主従関係を刷り込ませるため。大名家の財力を疲弊されるためじゃないよ!)

  • 幕府の安泰を図るため大名たちを次々と改易

  • キリシタンの徹底弾圧&いわゆる「鎖国」の完成。出島も作ったよ!

  • 「島原の乱」を鎮圧(一揆軍はみな殺し!生き残ったのはひとりだけ・・・)




などなど。

オランダ商人たちが隔離された出島
オランダ商人たちが隔離された出島。現在、出島復元プロジェクトが進行中
いろんなことをやっています。さすが知名度バッチリ将軍。冴えない少年時代から一転、「武断政治」と呼ばれる強権政策をガンガン推し進めるまでの偉大なる将軍になった家光。

そんな家光が尊敬してやまなかったのが祖父・家康でした。

家光が肌身離さず持っていた守り袋のなかに、「二世ごんげん 二世将軍」「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」などと書いた紙を入れていたそう。家光は家康が好んだ武芸や鷹狩りにも熱心に取り組みました。似てないのは、家康が質素倹約の鬼だったのに対し、家光はド派手好きだったことくらいでしょう。

家光家康を敬愛すること尋常ではないので、「家光の本当の父親は本当は家康なんじゃ・・・」なんてゲスな俗説もあるほど(ちなみに母親は春日局説)。

さて、家光といえば「女嫌い」、いやどっちかというと「男好き」だったことも忘れてはなりません。乳母の春日局は頭が痛かったことでしょう。

春日局の肖像画

「上様、お世継ぎはどうなさるおつもりですか・・・(泣)」by.春日局

当時、武士の間で男色はさほど珍しくはありませんでしたが、家光の場合は“ガチ”。22歳の時に京から公家のお姫さま、鷹司孝子を正室に迎えたのですが、異常に冷たかった。結婚直後に即別居、事実上の離婚状態がずーっと続きもちろん“夜の営み”も皆無。

なにが気に入らなかったのか生涯冷遇し、死後に形見分けで遺したのは金50両とわずかな道具類だけだったとか。家光ひどい。

で、正室をほったらかしにして夢中になったのが可愛い男の子たち

将軍のお世話役である小姓のなかでお気に入りを見つけると寵愛するわけです。

『男色秘戯画帖』(古川師重 画)
陰間(かげま)を侍らす武士。家光もこんな感じだった?(『男色秘戯画帖』古川師重 画)
かなり嫉妬深い性格だったようで、家光が16歳の時こんな事件が起きました。

ある日、愛する小姓がほかの小姓と風呂場でイチャイチャしていたのを目撃してしまった家光、「なにしてんのっ!」とばかりに怒り狂い恋人(少年)を斬りつけたそう・・・。

うーん...そうか。

家光は人事登用の際にも寵愛する小姓たちから有能なものを抜擢することしばしばでした。なかでも小姓から老中にまで大出世した堀田正盛は、才気あふれる少年だったようで家光から非常に愛され、正盛もまた家光に非常に忠実に仕え、家光の死後には殉死しています。

だね、

そんなこんなで男性とばかりラブロマンスを繰り広げていた家光さん、気づいたら30歳過ぎても子どもがいないという非常事態に。

これは、将軍としてさすがにまずい。

まずすぎる。

この将軍家大ピンチに乳母・春日局はあらゆるタイプの美女を集め、なんとか家光に女性に目覚めてもらうよう苦心します。

春日局が礎を築いた江戸城大奥には選りすぐりの美女がたくさん(『千代田之大奥』揚州周延 画)
春日局が礎を築いた江戸城大奥には選りすぐりの美女がたくさん。でも家光は見向きもしなかった(『千代田之大奥』揚州周延 画)

その甲斐あって、ようやく家光も思うわけです。

三代将軍・徳川家光の肖像画

「女性もいいね❤︎」

38歳で初めての子をもうけてからは次々と側室との間に子をなしました。

でも面白いのが家光の女性の趣味。実質的な日本最高権力者が好んだのは農民の娘とか八百屋の娘とか尼さんとか・・・斜め上すぎです。余談ですが、家光の側室で五代将軍・綱吉の生母、桂昌院が八百屋の娘から将軍生母になるというシンデレラストーリーを歩み「玉の輿」の語源になったと言われています。ただしこれあくまで俗説のようです。

家光の時代にはいろんなことがありすぎてなんとなく長生きしていそうですが、じつは48歳と意外に若くして世を去っています。歴代将軍としては5番目の短命です。なんという濃厚な人生だったことでしょうか。

『枯木梟図』
個人的に家光を語る上で外せないヘタウマふくろうの絵。こんな可愛い絵を描く家光は、悪い人じゃなかったような気がします(『枯木梟図』)


徳川家光の詳細データ




次は超有名将軍に挟まれた地味な四代目。

“さようせい様”とあだ名された病弱将軍



徳川家綱の肖像画
四代将軍・徳川家綱
(読み:とくがわいえつな)

家綱のここがすごい!

  • 優秀な閣僚たちを信じ、政治にノータッチ。結果、幕政が安定

  • 殉死を禁止

  • 由井正雪の乱」や「明暦の大火」など大事件が勃発

  • 優しい人柄をしのばせるエピソードが多数

  • 鶏の絵の上達具合がすごい




三代将軍・家光五代将軍・綱吉の名前を知っている人はたくさんいるでしょう。ですが、その間に挟まれた四代将軍となると「誰だっけ?」という方が意外に多いのではないでしょうか。

そんな悲しい四代将軍の名は家綱。家光の「家」と綱吉の「綱」なのでちょうど間という感じで覚えやすい。

とても影の薄い四代将軍・家綱が将軍になったのはわずか11歳の時。父・家光が急死してしまったので少年将軍が誕生しました。

しかも生まれつきめちゃくちゃ病弱で、何人もの医師が近侍していたというから幕府の先行きはお先真っ暗・・・と思いきや、優秀な閣僚たちのサポートのおかげでむしろ幕府は安定しました。

なかでも歴史に残る逸材がいた。

しかも、2人も。

1人目。

先代・家光に重用され、あの島原の乱も鮮やかに鎮圧した幕府の重鎮、

松平信綱像(平林寺蔵、高村光雲 作)

“知恵伊豆”でおなじみ名老中・松平信綱

2人目。

おじいちゃん・秀忠が生涯一度の浮気でつくった、

保科正之(会津藩初代藩主、父は徳川秀忠)

おじにあたる保科正之

この時代、浪人たちによる幕府転覆計画テロ事件「由井正雪の乱(慶安の変)」や江戸の大半が焼失した「明暦の大火」など大事件も起こりましたが、これら閣僚たちの働きで乗り越えました。

明暦の大火(『むさしあぶみ』より、浅井了意 作)
明暦の大火のルポ『むさしあぶみ』に描かれた惨状。この火事で多くの人命が失われました。家綱は焦土と化した江戸の復興に尽力しました
生まれつき病弱で性格も温和一辺倒だった家綱は、政治に関しては重臣たちに任せていました。決裁に関しては、もっぱらある言葉をオウムのように唱えるのみ。

四代将軍・徳川家綱の肖像画

「さようせい(そのように取り計らえ)」

そこでついたあだ名は“さようせい様”だったそう。もうそのままだね。

というと家綱は無能将軍のようですが、完成された幕政システムがスムーズに機能するようになったともいえます。

政治の代わりに家綱が夢中になったのは芸術の世界でした。なかでも絵画が得意で、特に鶏の絵をたくさん描き、家臣にもプレゼントしていたとか。ちょっと微笑ましい。

『闘鶏図』(徳川家綱 画)
幼い頃に描いた『闘鶏図』。ほのぼのタッチに味わいがあります
家綱の時代、幕府は安定期を迎えたものの大きな悩みがありました。

それは家綱に世継ぎが誕生しないこと。

懐妊はするも流産という悲しい結果を繰り返し、しかも虚弱体質な家綱は子どものないまま危篤に陥ってしまいます。

「え、え、待って?五代将軍はどうすんの!?」

という大問題を解決する苦肉の策として弟の徳川綱吉(当時は館林藩主・松平綱吉)を養子に迎え、後継者とすることにしました。

後継者問題もクリアになり安心したのか、間もなく家綱は世を去りました。


徳川家綱の詳細データ

  • 生没:1641年9月7日(寛永18年8月3日)〜1680年6月4日(延宝8年5月8日)

  • 将軍在位期間:慶安4年(1651年)8月18日〜延宝8年(1680年)5月8日

  • 父:徳川家光

  • 母:宝樹院(お楽の方)

  • 正室:浅宮顕子

  • 側室:養春院(薄命の京美人)、円明院

  • 子ども:なし(養子・綱吉

  • あだ名:さようせい様

  • 身長:推定158cm

  • 死因:病死(詳細は不明)

  • 墓所:徳川将軍家の菩提寺・上野寛永寺



次は再評価が進む“犬公方”なあの方。

じつは有能な将軍だった!? 再評価が進むインテリ犬大好き将軍



徳川綱吉の肖像画
五代将軍・徳川綱吉
(読み:とくがわつなよし)

綱吉のここがすごい!



綱吉といえば“犬公方”というあだ名で有名。

綱吉のやったことといえば“天下の悪法”と悪名高い「生類憐れみの令」がよく知られていますが、近年、時代に先駆けた優れた福祉政策と再評価され、綱吉像も見直されつつあります。実際に綱吉と対面したドイツ人医師ケンペルも「非常に英邁な君主で、彼のもとで素晴らしい国になっている」というようなことを書き残しています。

綱吉は学問大好きのインテリ将軍だったのですが、それは父・家光が「次期将軍となる兄さん・家綱への礼を失することなく、兄をよく助けよ」という教えを幼い綱吉に叩き込んだ故とか。

結果、綱吉は儒教に傾倒し、武士たちにも「これから大事なのは武力じゃない。学問!忠孝!礼儀ぞ!」と学問を奨励しました。「日本学校発祥の地」といわれる湯島聖堂を学問の中心地にしたのも綱吉です。

湯島聖堂での講義のようす(『聖堂講釈図』)
湯島聖堂での講義のようす。武士に求められるものも時代とともに変化しました(『聖堂講釈図』)
学問を愛し、血なまぐさいことを嫌った綱吉は、未だに戦国の遺風が残る世情を憂いていました。綱吉が将軍になった当時、江戸市中でも辻斬りとか犬を食用にするとか、今では考えられないようなことが横行していたのです。

そこで「無益な殺生は悪である」という意識を人々に徹底させるために出したのが「生類憐れみの令」でした。

生き物に対する行き過ぎた法令という面ばかりが取り上げられがちですが、当時多かった捨て子を禁止したり、行倒れの病人の保護を命じたり弱者に優しい法令でもあったんです。

犬に関する細々とした法令がたくさんあるのは、綱吉が戌年生まれだったから・・・ではなく、犬が人の生活にも身近な動物だったからと思われます。野良犬問題も深刻でしたし。まあ、綱吉が犬好きだったというのも理由のひとつにあるかもしれませんが。

江戸時代の野良犬(『十二ヶ月年中江戸風俗』より)
江戸市中にもたくさんの野良犬がうろついており、人にかみつくこともしばしば(『十二ヶ月年中江戸風俗』より)
インテリ・綱吉の切実な願いから生まれたものの、違反する者が続出したことに綱吉の完璧主義な性格が作用して、次第に「生類憐れみの令」はエスカレートしていきます。

24年間も内容を変えつつ細かい法令を増やしていったのだから、綱吉の本気っぷりと同時に執拗なほどの潔癖ぶりが伺えます。しかも、法令の本来の精神を理解しない役人が「蚊を殺したから逮捕!」など極端な取り締まりを行ったものだから、人々から反発されるようになり“犬公方”なんて揶揄されるまでになってしまったのです。

それでも、綱吉自身は法令に込めた想いを信じ、遺言でこう伝えます。

五代将軍・徳川綱吉の肖像画

「100年後もこのままで...」

ただこれ切ないのが、綱吉の死後、次の将軍・家宣(いえのぶ)によって100年どころかすぐに失効されてしまいました(一部は継続)。

切ない...。

また、綱吉の評価が低かった理由として、時代劇ドラマの影響も大なり。

水戸黄門』、『忠臣蔵』、という日本人大好き二大時代劇の両方で、なんと綱吉は“悪役”ポジション!

“水戸の御老公”こと水戸光圀は、水戸藩主として将軍・綱吉の政治に諫言した、という逸話がたくさん。黄門様人気が高いばっかりに綱吉は貶められる。『忠臣蔵』でも赤穂浪士たちがヒーローなので、敵役の吉良はもちろんのこと、主君・浅野内匠頭即時切腹を命じた綱吉も悪役に

これは、もうとばっちりです。

ドラマ『水戸黄門』より
みんな大好き、水戸の黄門様は史実とかなり異なるキャラクター

また、当時は自然災害が続発したことも綱吉の評判の悪さに繋がります。

富士山大爆発&浅間山爆発、大地震発生、飢饉発生と、数々の困難が起こるたびに綱吉もなんとか奮闘しますが、「天変地異が起きるのは将軍に徳がないからだ!」という風潮が起こり、政権への不信感につながるわけです。

富士山の宝永大噴火を描いた画
富士山の宝永大噴火を描いたもの。現在も残る宝永火口はこの時にできたもので、以後、富士山は現代まで沈黙を守っています
こうなると、もう何やっても悪くいわれる負のスパイラル。

ほかにも、タブーとされてきた貨幣の改鋳を行ったり、側近の妻&娘に手を出したとか、部下の妻にすぐ手を出すとか噂されたり、いろんなことが相まって長らく悪評ばかり目立つようになってしまったわけです。

ほかに、忠孝の心を大事にした綱吉が生母・桂昌院を大切したら、“マザコン”呼ばわりされたり...。まあ、桂昌院が熱心に仏教を信仰しており、その影響を受けた綱吉が幕府財政を傾かせるほどガンガン寺社の建造を行ったのはやりすぎか...。

綱吉の前半の政治は「天和の治」と呼ばれ、“善政”として当時評価されてました。

「民は国の本である」として疲弊する農政の大改革を行ったり、金銀山の枯渇や「明暦の大火」後の大規模再開発による幕府の財政難を打開するため倹約令を発したり(ただし寺社は建てる!)、幕府の方針を「武」から「文」の平和路線に大転換したり。

あと、井原西鶴やら近松門左衛門やら尾形光琳やら松尾芭蕉やら錚々たる顔ぶれが活躍をした「元禄文化」が花開いたのも綱吉の時代です。

京や大坂など上方の裕福な町人を中心に絢爛豪華で華やかな芸術が開花し、多数の名作、名品、名人が誕生しました。

見返り美人図(菱川師宣 画)
菱川師宣作の名画『見返り美人図』など有名作品がたくさん
歴史上の人物の評価は時代や研究によってガラリと変わるものですが、綱吉が暗君から名君になる日も遠くないかもしれませんね。

おまけ。

現代も子どもの健やかな成長を願って行われる「七五三」の行事。その起源は、綱吉が長男・徳松の健康を祈って行った催しにある、といわれています。ただ、悲しいことに徳松は5歳という幼さで世を去ってしまいました。

江戸時代の七五三(『七五三祝ひの図』、三代歌川豊国 画)
江戸時代の「七五三」のようす(『七五三祝ひの図』三代歌川豊国 画)


徳川綱吉の詳細データ

  • 生没:1646年2月23日(正保3年1月8日)〜1709年2月19日(宝永6年1月10日)

  • 将軍在位期間:延宝8年(1680年)8月23日〜宝永6年(1709年)1月10日

  • 父:徳川家光

  • 母:桂昌院

  • 正室:鷹司信子

  • 側室:瑞春院(お伝の方)、寿光院、清心院ほか

  • 子ども:鶴姫、徳松(早世)

  • あだ名:犬公方

  • 身長:124cm(諸説あり)

  • 死因:はしか(麻疹)で伏せっている時に食べた餅を詰まらせ窒息死?(妻・信子の無理心中説あり)

  • 墓所:徳川将軍家の菩提寺・上野寛永寺





次は、歴代将軍で一番背が高いうえにイケメンだったらしい六代目。

将軍就任期間わずか3年、側近の方が有名な勉強大好き将軍



徳川家宣の肖像画
六代将軍・徳川家宣
(読み:とくがわいえのぶ)

家宣のここがすごい!

  • 有能な人材をどんどん採用

  • 江戸の庶民からも人気




五代将軍・綱吉のインパクトが強すぎる反動か、知名度が低い六代将軍。正直、ブレーンとして活躍した新井白石の方が教科書とかでもしっかり記載されており、有名なんじゃないでしょうか。

そんな不憫な六代将軍・家宣ですが、あまり知られていないのも致し方なし。なにせ、3年しか将軍やっていません。家宣が六代将軍に就任したのは、なんと48歳の時。これは62歳で将軍となった初代・家康に次ぐ高齢での就任です。

五代将軍・綱吉に世継ぎもがいなかった(いたけど早世)ので、綱吉の甥っ子である家宣に白刃の矢が立ち六代将軍となりました。ちなみに、四代将軍・家綱の死後に起きた将軍継子問題の時、綱吉とともに家宣も五代将軍候補でした。

徳川家宣の胞衣を埋めたといわれる「胞衣塚」がある根津神社(東京都文京区)
東京都文京区にある根津神社には家宣の胞衣(えな)を埋めたといわれる「胞衣塚」があります
家宣は先代の綱吉と同じくとても勉強熱心なインテリで、ブレーンの新井白石が「こんなに勤勉な君主は古今東西を探してもいない」と驚嘆したそう。また、清廉潔白な性格で不正を嫌い、自分におもねる人間を嫌悪したとか。聡明かつ慈悲深い人物としても知られたそうで、総合すると“めちゃくちゃイイ人”だったようです。

政策においても、エスカレートしすぎて人々を苦しめた「生類憐れみの令」を綱吉の死後、速攻で廃止したり(一部は継続)、インフレしていた経済状況を改善させるため財政改革を行ったり、有能な人材をたくさん登用したりとがんばっていました。

六代将軍・家宣&ブレーンの新井白石&側用人の間部詮房の3人体制で挑んだ幕政改革は「正徳の治」として有名です。人々から善政を期待された家宣でしたが、残念ながら51歳で他界。その死に江戸の庶民までもが悲しみにくれたとか。

性格のよかった(たぶん)六代将軍・家宣は、遺骨調査の結果、長身&イケメンだったと予想されています。ただし、かなり猫背だったとか。身長160cmといえば、現代では長身といえませんが当時にあっては長身の部類で、確認できる歴代将軍のなかでは長身ナンバーワンだそう。


徳川家宣の詳細データ

  • 生没:1662年6月11日(寛文2年4月25日)〜1712年11月12日(正徳2年10月14日)

  • 将軍在位期間:宝永6年(1709年)5月1日〜正徳2年(1712年)10月14日

  • 父:徳川綱重

  • 母:長昌院

  • 正室:近衛煕子(天英院)

  • 側室:お喜世の方(月光院)お須免の方、お古牟の方、斎宮

  • 子ども:徳川家継(七代将軍)ほか

  • 身長:160cm

  • 死因:インフルエンザ

  • 墓所:徳川将軍家の菩提寺・増上寺



次はちびっ子将軍。

満3歳で将軍、満6歳で夭折した哀しき七代目



徳川家継の肖像画
七代将軍・徳川家継
(読み:とくがわいえつぐ)

家継のここがすごい!

  • 満3歳で将軍になった




六代将軍・家宣もマイナー系でしたが、七代将軍・家継も知名度は低めですね。家宣もわずか3年しか将軍職に就いていなかったのですが、七代将軍・家継も将軍職にあったのはわずか3年。しかも満3歳から満6歳までという“幼将軍”。

なので、自分でなにかを成せるわけもなく評価もしようがないので、一般的にあまり知られていないのはしょうがない。政治に関しては、側用人の間部詮房と新井白石に一任し、先代・家宣の治世から続く「正徳の治」が行なわれました(幕府内の反発とかいろいろあって改革は頓挫)。

四代将軍・家綱、五代将軍・綱吉、六代将軍・家宣と3代にわたって世継ぎに恵まれなかった徳川将軍家。将軍が他界するたびに将軍継子問題に揺れました。

六代将軍・家宣には何人か子どもが生まれたのですが、不運なことに次々と幼くして命を落とし、家継だけが生き延びました。

とはいえ、家宣が他界した時、家継はまだたったの満3歳。幕府の公式記録『徳川実紀』に「生来聡明にして仁慈の心あり」と書かれ、先代の六代将軍・家宣のブレーンとして活躍した新井白石からもその利発さから将来を嘱望され帝王学を叩き込まれた家継でしたが、病には勝てずわずか満6歳で世を去りました。

新井白石の肖像画

新井白石「上様には期待してたのになぁ」

家継はあまりに幼くして将軍となったうえ病弱だったので、就任早々からある話題が持ち上がります。

「上様がお世継ぎを残さず他界されたら次期将軍は誰?」

大奥では次期将軍を巡り派閥争いが激化

父もすでにこの世におらず、周囲もそんな感じなので家継は孤独でした。哀れな家継が唯一心を許し、父のごとく慕ったのが側用人の間部詮房でした。間部が外出から戻ると自ら出迎え抱きついたほどだったとか。あまりに家継が懐いているのと、家継の生母・月光院が美しき未亡人であることもあって、「家継は本当は月光院と間部との不義の子では?」なんてゲスな噂まで流れたとか(デジャブ感)。

ちなみに、大奥スキャンダル事件として有名な「絵(江)島生島事件」が起きたのは家継の時代で、家継の生母・月光院と家宣(六代将軍)の正室・天英院による次期将軍を巡る熾烈な争いがウラにあるといわれています。

絵島生島事件(『新撰東錦絵 生島新五郎』月岡芳年 画)
スキャンダルの中心人物である大奥女中の絵島は月光院派の重要人物だったので、事件後、月光院派は劣勢となりました(『新撰東錦絵 生島新五郎』月岡芳年 画)
満6歳で他界した家継ですが、臨終時の身長に合わせてつくったといわれる大樹寺(愛知県岡崎市)にある位牌によれば135cmとかなり長身。現代っ子の満6歳男子の平均身長が122cm前後なので、当時の子どもと比較したらめちゃくちゃデカイ。なお、遺骨は長年の雨水により流され棺内には残っていなかったそうです。子どもの骨だからもろかったのでしょうか。

なお、七代将軍・家継が子を成さぬまま他界したことにより、“神君”徳川家康公から続いてきた徳川宗家の血はここで途絶えてしまいました


徳川家継の詳細データ

  • 生没:1709年8月8日(宝永6年7月3日)〜1716年6月19日(享保元年4月30日)

  • 将軍在位期間:正徳3年(1713年)4月2日〜享保元年(1716年)4月30日

  • 父:徳川家宣

  • 母:月光院

  • 正室:なし

  • 側室:なし

  • 子ども:なし

  • 身長:135cm

  • 死因:急性肺炎

  • 墓所:徳川将軍家の菩提寺・増上寺





次はお待たせしました。もしかしたら人気ナンバーワンかもしれない米将軍。

紀州からやってきた、知らぬ者なき“暴れん坊将軍”



徳川吉宗の肖像画
八代将軍・徳川吉宗
(読み:とくがわよしむね)

吉宗のここがすごい!

  • ものすごい強運の持ち主

  • ものすごく自分に厳しい生活をした

  • 「享保の改革」を行い「徳川幕府中興の祖」と尊敬を集める

  • 象が見たいからといってベトナムから輸入させ、象ブームを起こした




平和に慣れダレきった武士たちの根性を叩き直し、枯渇した幕府の金庫を立て直し、かつての強い幕府を取り戻すべく獅子奮迅の働きをし「徳川幕府中興の祖」と評される徳川吉宗。

歴代将軍のなかでも絶大な人気を今なお誇り、「江戸時代の名君といえば?」と聞かれたら「吉宗!」と答える人も多いのではないでしょうか。そして吉宗といったらやっぱりこのイメージ。

名作時代劇ドラマ『暴れん坊将軍』
画像引用元:東スポ
名作時代劇ドラマ『暴れん坊将軍』は、吉宗人気のかなり大きな要因となっている気がします。このドラマで「吉宗は庶民に優しい偉大なる将軍」というイメージが完全にできあがったんじゃないでしょうか。 

さて、史実の吉宗も将軍職にあった29年の間にじつに多くのことを行いました。吉宗の行った幕府立て直し一大プロジェクト「享保の改革」は「江戸三大改革」のひとつとして教科書でもおなじみ。ちなみに、あとのふたつは「寛政の改革」と「天保の改革」です。

どんな改革だったか忘れちゃった方も多いと思いますので、「享保の改革」をざっとご紹介。

当時は、側近政治による政治の腐敗、それまでの浪費のツケで傾きまくった幕府の財政、平和に慣れきったことによる武士の惰弱化・・・などなど問題が山積しておりました。

で、吉宗はこうした問題を解消し、幕府の権力を再び強力なものとすべく大鉈を振るいまくりました。大雑把に「享保の改革」で行ったことをまとめますとーー

何はともあれ質素倹約


幕府財政を立て直すため、質素倹約を奨励。将軍ながら吉宗は、食事は1日2食・一汁三菜の粗食、着物は木綿に限定するなど自らが範となりぜいたくを厳しく戒めました。

大奥の改革


財政立て直しの一環で有名なエピソードがあります。吉宗の時代、大奥は巨大化してしまい、たいへんな“金食い虫”でした。ある時、吉宗は家臣に「大奥からとっておきの美女を50人選べ」と命令します。

選ばれた50人の美女たちを前に、吉宗はこう告げます。

八代将軍・徳川吉宗の肖像画

「君たちは美人なので良縁もあるだろう。大奥以外で働くように」

吉宗は大胆なリストラを断行することで、大奥のコスト削減を実現します。

「町火消し」の組織化をはじめとする江戸の都市改革


吉宗と同じく時代劇ドラマヒーロー名奉行・大岡越前こと南町奉行の大岡忠相(ただすけ)が主導。

一番組い組(『江戸の花子供遊び』「一番組い組」歌川芳虎 画)
大都市・江戸で頻発する火事から庶民を守るため組織されたのが民間の消防組織「町火消し」(『江戸の花子供遊び』「一番組い組」歌川芳虎 画)

「目安箱」の設置


庶民の意見を聞くためのシステム。貧乏人に優しい無料の医療施設「小石川養生所」も目安箱の投書が設立のきっかけ。吉宗は庶民の実情を調査するため子飼いのスパイ集団「御庭番」も駆使しました。(『るろうに剣心』にも登場するアレ)

経済の中心である「米」に関わるあれこれを改革


新田開発したり、年貢徴収法を変更したり。“米将軍”とあだ名されるほど。なにせ、当時の経済の中心は米でしたから、財政改革をするのに米は避けて通れませんでした。

司法制度の改革


幕府の基本法典である『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』を作成。教科書でもおなじみ。

武芸の奨励


吉宗は体育会系将軍。幕府の平和路線により弱体化した武士たちを叩きなおすため、五代将軍・綱吉の「生類憐れみの令」以来禁じられていた鷹狩りを30数年ぶりに復活

尊敬する家康公も大好きだった鷹狩り、吉宗も大好き。鹿狩りも大好き。鷹狩りや鹿狩りは将軍の威光を示すイベントであり、集団における指揮体制の強化、江戸周辺の視察などの意味もありました。

江戸時代の鹿狩り(今の千葉県松戸市の小金牧、『小金原田蒐之図』部分)
今の千葉県松戸市の小金牧では大規模な鹿狩りがたびたび行われました(『小金原田蒐之図』部分)
などなど、改革で実行した施策は盛りだくさん。

ほかにも、優秀な人材をバシバシ登用したり、“甘藷先生”として有名な学者の青木昆陽にサツマイモの栽培を命じたり、キリスト教対策のため輸入が禁止されていた洋書の輸入を緩和したり(ただしキリスト教関係は厳禁)、桜の名所・飛鳥山をはじめ庶民の行楽地を整備したり、江戸に「象ブーム」を巻き起こしたり・・・。

あと、夏の一大イベントとして毎年テレビ中継もされる隅田川の花火大会。あれもその起源は吉宗にあり。大飢饉とコレラで命を落とした多くの人々の魂を弔うために大川(現・隅田川)で行った花火大会がルーツだといわれています。

超人的活躍をした“暴れん坊将軍”には超人的エピソードがたくさんあります。

身長180cm説もそのひとつ。マツケン吉宗のイメージがあるためか、たしかに長身なイメージがありますが、本当のところは推定身長156cm。ただ、これ江戸時代においては平均的な身長です。

まだあります。子どもの頃、周囲が手を焼くほどの本当の“暴れん坊”だったといわれる吉宗は身体能力がずば抜けていたそうで、突進してきた巨大なイノシシを一撃でぶちのめしたとか、逃げようとした獲物の鶴を2kmも走って追いかけたとか、とても将軍とは思えないトンデモエピソードのデパート状態。

江戸時代の鹿狩り(今の千葉県松戸市の小金牧、『小金原田蒐之図』部分)
和歌山駅にある吉宗像は、日本各地にある有名人の像の中でも屈指のカッコよさ!画像引用元:SWAAAAAAAP
「徳川幕府中興の祖」としてその後の将軍たちからも手本とされ、時代劇ではヒーローになり“完全無欠な人気者”という印象の吉宗ですが、ここからは吉宗のちょっとブラックなお話。

そもそも吉宗は将軍になるはずもない立場でした。

吉宗の出身地は現在の和歌山県である紀州藩で、お父さんは御三家のひとつ紀州徳川家二代藩主・徳川光貞。お母さんは和歌山城の女中で、お風呂の番の時に“お手つき”になったともいわれてます。光貞の四男坊だった吉宗にとって将軍どころか紀州藩主も夢のまた夢、小藩の大名として生涯を終えてもおかしくありませんでした。

ところが、兄たちに加え父親までもが次々に他界し、棚ぼた式に紀州藩五代藩主になってしまいました。この時、吉宗22歳。

紀州藩主時代、吉宗は藩政改革をさまざま行い大成功を収めており、のちの「享保の改革」にはこの時の経験が大いにいかされました。

吉宗のラッキーは続きます。

六代将軍・家宣が病死、七代将軍・家継もわずか8歳で病死、そして、八代将軍最有力候補として名のあがっていた尾張藩主・徳川吉通(よしみち)までも謎の急死を遂げたのです。で、最終的に吉宗が八代将軍となったわけです。このあまりに都合よすぎる展開に、「吉宗がジャマ者を次々に毒殺したのでは?」という黒い疑惑が今もささやかれています。果たして、真相はいかに・・・?

徳川吉宗の八代将軍就任の様子(『旧徳川八代将軍宣下之図』)
吉宗の八代将軍就任を描いた明治期の作品(『旧徳川八代将軍宣下之図』)
また、「享保の改革」は「江戸三大改革」のなかで唯一成功した改革として非常に評価が高いのですが、幕府を立て直すために増税など農民に苦しいところを押し付けた改革でもありました。

幕府は潤ったけど農民は疲弊した、という部分でマイナス評価する向きもあります。農民一揆もめちゃくちゃ起きてるし。さらに、「ぜいたくは敵」方針を庶民にも強制したので文化的にも停滞期でした。

江戸時代の「打ちこわし」(『江戸市中騒動図』)
吉宗の時代、江戸でも「打ちこわし」が発生するように(『江戸市中騒動図』)
余談ですが同じ頃の尾張名古屋では“吉宗のライバル”といわれる尾張藩主・徳川宗春(むねはる)が吉宗の倹約路線に逆行するような積極政策で名古屋をバブル状態にしていました。バブルなんで、間もなく弾けちゃいましたが・・・。

最後に晩年の吉宗について。

あまり知られていませんが、晩年の吉宗は介護生活を送っていたようです。

将軍を引退後、中風(脳卒中)を患った吉宗は、右半身麻痺と言語障害という重い後遺症に悩まされたそう。側近の小笠原政登が記した『吉宗公御一代記』によれば、90人もの小姓が吉宗のお世話をし、食事やリハビリなどきめ細やかな介護がされたもよう。その甲斐あって、江戸城を歩き回れるくらいには回復した吉宗でしたが、脳卒中を再発し68歳で世を去りました。九代将軍・家重への心配を残して・・・。

右は馬上の吉宗公、左は吉宗が描いた馬の墨絵
画像右は馬上の吉宗公、左は吉宗が描いた馬の墨絵。馬が大好きだった吉宗は馬の絵も上手でした。画像引用元:毎日新聞
輝かしい功績と絶大な人気のためあまり語られませんが、吉宗にも影の部分があったのです。


徳川吉宗の詳細データ

  • 生没:1684年11月27日(貞享元年10月21日)〜1751年7月12日(寛延4年6月20日)

  • 将軍在位期間:享保元年(1716年)8月13日〜延享2年(1745)9月25日

  • 父:徳川光貞(紀州藩二代藩主)

  • 母:浄円院(お由利の方)

  • 正室:理子(まさこ)女王(皇族の王女さま)

  • 側室:深徳院(九代将軍・家重の生母)、深心院(御三卿の一橋徳川家初代当主の生母)、本徳院覚樹院ほか

  • 子ども:徳川家重(九代将軍)、徳川宗尹(むねただ/一橋徳川家初代当主)ほか

  • あだ名:米将軍、鷹公方

  • 尊敬する人:初代・徳川家康五代将軍・徳川綱吉

  • 身長:推定156cm

  • 死因:脳卒中

  • 墓所:徳川将軍家の菩提寺・上野寛永寺



さてお次は劣等感にさいなまれた続けた九代目。

“小便公方”はじつは隠れた名君!?



徳川家重の肖像画
九代将軍・徳川家重
(読み:とくがわいえしげ)

家重のここがすごい!

  • 人物鑑定眼がすごい

  • 優秀な長男を残した




“暴れん坊将軍”の長男として期待された家重でしたが、生来病弱なうえ、脳性麻痺のため言語は不明瞭、絶えず歯ぎしりをし、手も不自由だったとか・・・。対して家重の弟である宗武や宗尹(むねただ)は聡明で優秀。次第に「次期将軍には弟君の宗武の方が・・・」という声が高まり、吉宗の側近で老中・松平乗邑(のりさと)などは宗武推しの急先鋒になり、家重を廃嫡しようとまでしていました。

偉大なる父と優種な弟たちに比べられる辛さもあり、もともと内気な性格だった家重はますます内にこもるようになり、周囲の目から逃れるように大奥に入り浸り、すべてを忘れるかのごとく酒を飲みまくりました。

そんな家重でしたが、歴代将軍のなかでも珍しく正室との仲は良好だったようです。正室とともに船で隅田川を遊覧した、なんてほのぼのエピソードも残っています。三代将軍・家光に聞かせてやりたいですね。

『隅田川両岸一覧』(葛飾北斎 画)
たくさんの船が行き交う隅田川の風景。これは江戸時代後期に葛飾北斎が描いたものですが、家重の頃も隅田川はにぎやかだったことでしょう(『隅田川両岸一覧』より)
めでたく2人の間には子どもも誕生しましたが、残念なことに生まれて間もなく死去。さらに、産後の肥立ちが悪く、妻までも23歳の若さで世を去りました。家重の悲しみは想像を絶するものだったでしょう。

「次期将軍の器ではないのではないか?」

と、周囲から危ぶまれた家重でしたが、父で八代将軍の吉宗は「将軍継子は長幼の序が絶対ルール」と、長男の家重を九代将軍に指名しました。でも、やっぱり心配だったのか将軍引退後も大御所としてしっかり政務を主導しました。

35歳でようやく将軍となった家重は、自分をバカにしていた人々を遠ざけます。自分を見下していた優秀な弟たちには登城を禁じ、弟を次期将軍に推していた老中・松平乗邑はクビ。相当、恨みがたまっていたのでしょうねぇ。

“暗愚な将軍の代表格”みたいな不名誉なイメージで語られることの多い家重ですが、決して無能なバカ殿ではありませんでした。

言語障害により家重の言葉を理解できたのは側用人の大岡忠光だけだったとか、排尿障害のため頻尿で、江戸城から徳川家の菩提寺・上野寛永寺までの数kmを行くだけで道中に23か所もトイレを設置せねばならず、口さがない江戸っ子たちが“小便公方”と陰で冷やかした、とかそういったエピソードばかりが取り上げられるのも家重にとっては不運なこと。

あまり記録も残っていないし、大奥にこもってたのもイメージが悪い要因かもしれません。幕府の公式記録である『徳川実紀』も家重のことについては「病弱で表にもあんまり出てこないからよくわかんね」みたいな冷たいあしらい・・・。これは当時の障害に対する偏見が大いに影響しているといわれています。

そんな感じで色々相まって暗君呼ばわりされてきた家重ですが、先進的な経済観念を持つ経済のプロ・田沼意次を見出し大名に取り立てたのは家重であり、意次のほかにも有能な人材を登用していることから人を見る目は確かなものがありました。臨終の際にもこう遺言しています。

八代将軍・徳川家重の肖像画

「田沼を大事にセェヨ」

田沼意次の肖像画
近年再評価がめざましい田沼意次。かつては「汚職政治家の代名詞」みたいな扱いでした
政治面でも家重がリーダーシップをとることはなかったとはいえ、幕政は比較的安定していました。また、趣味だった将棋の腕前もかなりのものだったそう。将棋は知的な遊びですから、家重も知的レベルの高い人物だったと想像します。あと、絵もかなりお上手で優しい雰囲気のいい絵を残しています

余談ですが、遺骨調査の結果、家重は歴代将軍のなかでもトップクラスのイケメンだったという説もあります。有名な肖像画は顔面麻痺の影響か表情が歪んで描かれていますが、こんな肖像画もあります。

徳川家重の肖像画

とても同じ人物を描いたものとは思えない(笑)。でも遺骨調査の結果、どうやらハゲていたらしい・・・。

さらに余談ですが、家重には「本当は女性だった?」という珍説もあります。あまりに表に出なかったこと、遺骨に女性的特徴があるような気がすることなどが「家重女性説」の根拠となっているそうなのですが・・・はてさて、いかに。

謎に満ちた将軍・家重は、偉大なる父もその将来を期待した才気あふれる子どもを残し世を去りました。


徳川家重の詳細データ

  • 生没:1712年1月28日(正徳元年12月21日)〜1761年7月13日(宝暦11年6月12日)

  • 将軍在位期間:延享2年(1745年)11月2日〜宝暦10年(1760年)5月13日

  • 父:徳川吉宗

  • 母:深徳院

  • 正室:増子女王(皇族の王女さま)

  • 側室:至心院(十代将軍・徳川家治の生母)、安祥院(清水徳川家初代当主・徳川重好の生母)

  • 子ども:徳川家治(十代将軍)、徳川重好(清水徳川家初代当主)

  • あだ名:小便公方

  • 身長:推定156cm

  • 死因:尿路障害、尿毒症

  • 墓所:徳川将軍家の菩提寺・増上寺





次は祖父・吉宗が期待をかけるも・・・の十代目。

情熱を傾けたのは政治ではなく将棋



徳川家治の肖像画
十代将軍・徳川家治
(読み:とくがわいえはる)

家治のここがすごい!

  • 武芸も芸術も得意な文武両道の才人

  • 将棋がケタ外れに強かった

  • 放任主義のおかげで田沼意次が大活躍

  • めちゃくちゃ愛妻家。しかも相思相愛




“無能な暗君”とのレッテルを貼られた九代将軍・家重の長男で、残念ながら世間の評判は今も昔も「田沼意次に政治を丸投げし、自分は趣味の将棋三昧だった無能な暗君」。親子二代で暗君あつかいは悲しすぎる。

悪評が定着してしまっている十代将軍・家治ですが、子どもの頃は非常に聡明で、暴れん坊な八代将軍・吉宗が「息子(家重)はあんまり期待できないけど、孫の家治(当時は竹千代)は将来有望じゃ!」と太鼓判を押すほどでした。孫の家治にかけた期待は非常に大きく、吉宗自ら帝王学を教え込みます

こんなエピソードがあります。

ある時、家治少年が習字を書いていた時のこと。「龍」という文字を書いていたのですが、のびのびと書きすぎて最後に点を打つスペースがなくなってしまいました。

「さて、どうするかな?」と吉宗が興味津々で見ていると、家治少年はためらいもなく紙の外の畳に点を書いたという。これを見て「さすがじゃ!この子には天下を治める将器がある!」と吉宗おじいちゃんは大満足したとか。

習字のお稽古をする江戸時代の子ども(『幼童諸芸教草』「手習」歌川国芳 画)
習字のお稽古をする江戸時代の子ども。こんな感じで家治少年も習字の練習をしていたんでしょうか(『幼童諸芸教草』「手習」歌川国芳 画)
家治も偉大なおじいちゃん・吉宗をとても尊敬しており、長じてからも吉宗を手本に文武両道に励み、質素倹約に努めたそう。鉄砲や剣術もかなりの腕前だったといわれています。

十代将軍となった家治は、「田沼意次は優秀だから、引き続き重用するように」との父・家重の遺言を忠実に守り、田沼意次を老中に抜擢。意次もその期待に応えるように辣腕を振るいまくり、時代に先駆けた重商主義政策をガンガン推し進めました。敵の多かった意次が活躍できたのも将軍・家治の後ろ盾があったればこそです。

しかし、聡明で武芸にも秀でリーダーシップもあったであろう家治がなぜすべてを田沼意次に丸投げしたのか?

その真相を知るのは家治本人だけであり、知りようがありませんが、子どもを次々と亡くしたことも大きく影響していると考えられています。また、ただ単にやる気がなかった、という身も蓋もない説もあります。

家治は正室・倫子女王をとても大事にした愛妻家で、2人の女の子にも恵まれました。正室との間に2人も子どもができるのは非常に稀なことです。家光に聞かせて(以下略)。

ですが、悲しいかな、2人とも幼くしてなくなってしまいました。このあたり、父・家重と似ています。さらに、側室が生んだ長男・家基(いえもと)も18歳の若さで急死してしまいます。

「幻の十一代将軍」ともいわれる徳川家基の肖像画
「幻の十一代将軍」ともいわれる徳川家基
長男・家基は父の家治に似て非常に聡明で次期将軍として周囲からの期待も大きかった有望な青年でした。それが鷹狩りの帰りにポックリ突然死んでしまったのです。

もうひとりの側室が生んだ次男も生後間もなく死去し、家治は授かった子ども全員に先立たれるという悲劇に見舞われました。さらに愛する正室の倫子までもが他界。これは家治が厭世的になってしまうのも仕方がありません。

私生活で不幸が続いた家治が没頭したのが趣味の世界でした。

芸術的才能にも恵まれていた家治は書画も得意で、躍動感にあふれる馬の絵も残っています。多趣味だった家治が特に熱中したのが将棋です。

蒔絵が施された豪華な将棋盤(江戸時代中期)
徳川家のものではありませんが、蒔絵が施された豪華な将棋盤。江戸時代中期のもので大名家ゆかりの逸品と思われます
家治の将棋の棋譜が現存しており、それによればアマ高段者レベルの腕前だったとも。さらに趣味が高じて詰将棋(将棋の駒を使ったパズル)の本まで出しています

詰将棋百番をまとめた『御撰象棊攷格』(徳川家治 考案)

これは家治が考案した詰将棋百番をまとめた『御撰象棊攷格(ごせんしょうぎこうかく)』(写本)。専門家によると「公家風の淡白でおおらかな作風」なんだとか。

しかし上様、将棋のマナーに関しては結構ワガママだったようで、苦境に立たされると「待った」をかけたうえに相手の駒を戻すこともあったとか。

九代将軍・徳川家治の肖像画

将軍「待った! (そして相手の駒を戻す)」
部下「...。」


余談ですが、50歳で世を去った家治の死には当時から「毒殺ではないのか?」という不穏な噂がささやかれていました。

容疑者として田沼意次が疑われたりもしたが、意次にとって家治は大事な後援者。長生きを願いこそすれ暗殺するなんて自分の失脚を早めるようなことをするはずないから論外でしょう。ほかにも一橋家当主・徳川治済(はるさだ)とか、のちの老中・松平定信とか疑わしい人物はいますが、家治の死の真相は歴史のミステリーです。


徳川家治の詳細データ

  • 生没:1737年6月20日(元文2年5月22日)〜1786年9月17日(天明6年8月25日)

  • 将軍在位期間:宝暦10年(1760年)9月2日〜天明6年(1786年)8月25日

  • 父:徳川家重

  • 母:至心院

  • 正室:倫子(ともこ)女王(皇族の王女さま)

  • 側室:蓮光院、養蓮院

  • 子ども:徳川家基(いえもと/幻の十一代将軍)

  • 尊敬する人:祖父・徳川吉宗

  • 身長:推定153cm(158cm説あり)

  • 死因:脚気による心不全

  • 墓所:徳川将軍家の菩提寺・上野寛永寺



次は江戸時代のビッグダディ。

幕府の絶頂期に50年も君臨した精力絶倫の“オットセイ将軍”



徳川家斉の肖像画
十一代将軍・徳川家斉
(読み:とくがわいえなり)

家斉のここがすごい!

  • とにかく子だくさん

  • とにかく精力絶倫&超健康

  • 江戸時代だけじゃなく日本史上、征夷大将軍として一番長く将軍をやっていた

  • 結果的に江戸の庶民文化「化政文化」が花開いた




十一代将軍・家斉の偉業といえばなにか?ひとつ挙げるなら、それは

『夏姿 母と子』(鈴木春信 画)
『夏姿 母と子』鈴木春信
子作り

側室の人数は名前が確認されているだけでも16人といいますから実際にはもっとたくさんいたでしょう。一説に40人以上いたとか。まさにハーレム。

で、側室たちとの間に生まれた子どもの数がまたすごい。その数、

53人

男子26人+女子27人。

「子どもは野球チームがつくれるくらい欲しいな(笑)」のレベルじゃない。子どもだけでリーグ戦ができちゃう。

ただ、乳幼児の死亡率が高かった江戸時代。将軍家といえどもそれは同じで、53人のうち無事に成長したのは半分くらいだったとか。それでもすごい人数です。子宝に恵まれなかった将軍たちが多いなか、例外的な精力絶倫ぶり。

家斉は旺盛な精力を維持するため、1年中毎日欠かさず生姜を食べていたほか、オットセイのペニスを粉末にした強壮剤を愛飲していたとか。そのためついたあだ名が・・・

オットセイ

オットセイ将軍

うーん、このあだ名はいやだ・・・。

家斉がなぜこれほど子作りに執念を燃やしたのか。その理由は、御三家や御三卿を含む徳川家の血を実家の一橋家の血筋で統一しようという野望があったからといわれています。家斉は将軍になる際、父・徳川治済(はるさだ)にこの野望のためとにかく子どもをたくさんつくるように命じられたとか。

十代将軍・徳川家斉の肖像画

「徳川をすべて我が血筋に塗り替えてやるっ」

この途方もない野望はなんと成功。

実際、家斉の子女たちは十二代将軍となった次男(長男は早世)を除き、全員が徳川家の親類大名家をはじめ全国各地の大名家に養子に入ったり、お嫁に行き、水戸藩を除く御三家と御三卿はすべて家斉の血筋に塗り替えられました

徳川家斉の娘・溶姫が加賀藩に輿入れする様子(『松の栄』三代歌川豊国 画)
家斉の21女・溶姫が加賀藩に輿入れした際のようすを描いた『松の栄』。ゴージャスです(三代歌川豊国 画)
さらに、全国各地の大名に子女を送り込むことで、家斉は将軍家と諸大名との結びつきを強固なものにしようとしました。諸大名にとっても将軍家から養子や嫁を迎えると、領地を増やしてもらえるなど特別待遇をしてもらえるうえ、大名家としての「格」がアップするので喜んで血縁関係を結ぶ藩も多くありました。

しかし、この子女バラマキ大作戦は莫大な費用がかかり幕府財政の悪化に拍車をかけたうえ、大名家の秩序混乱ももたらします

八代将軍・吉宗以降、基本的に「倹約」路線でやってきた将軍たちでしたが、家斉の場合は全くの逆路線。浪費、浪費、また浪費。

前述したように多くの側室を持ったため大奥も過去最大級に巨大化し、3,000人近くの女性が大奥にいたとか。将軍が浪費するなら大奥だって贅沢三昧。当然ながら、あっという間に幕府の財政は傾きまくりました。

『千代田の大奥 狆のくるひ』(楊州周延 画)
大奥にこもりっきりの大奥女中にとってぜいたくは数少ない楽しみ(『千代田之大奥』「狆のくるひ」揚州周延 画)
家斉治世の初期にはストッパーがいたため、浪費もそれほどひどくはありませんでした。それが八代将軍・吉宗の孫で、15歳の若さで将軍となった家斉の補佐役だった老中・松平定信。マジメな定信は祖父・吉宗と同じく「倹約こそ正義」の人で、家斉やお大奥にも倹約を強制しました。「江戸三大改革」のひとつ「寛政の改革」も定信が行ったものです。

しかし、倹約を押しつける定信に対し家斉は次第に不満を募らせ関係は悪化、21歳となった家斉は定信をクビにします。代わって老中にはイエスマンを置き、以後、家斉は思うがままに贅沢三昧をするようになったのです。

大奥の風紀も乱れ、大奥女中と僧侶による禁断の破廉恥スキャンダル事件(感応寺事件、智泉院事件など)が起きたのも家斉の時代です。

お美代の方を演じる沢尻エリカ(ドラマ『大奥』より)
テレビドラマ『大奥』では“大奥最恐の悪女”ともいわれる家斉寵愛の側室・お美代の方を沢尻エリカ様が好演しました。画像引用元:フジテレビ ドラマ『大奥』
「寛政の改革」による締め付けから解放されぜいたくに耽る家斉の享楽的空気は時代の空気にもなり、結果として「化政文化」と呼ばれる町人文化が花開きました

江戸グルメの代表格として知られる寿司やうなぎなんかが人気となったのもこの頃。弥次さん喜多さんコンビのドタバタ珍道中『東海道中膝栗毛』(十返舎一九 作)や曲亭馬琴の伝奇ロマン長編『南総里見八犬伝』など今でも有名な文学作品も多数生まれました。

また、浮世絵が最盛期を迎え、世界的にも有名な絵師がたくさん活躍しました。写楽喜多川歌麿葛飾北斎歌川広重国芳・・・みんな登場してます。

『千絵の海』より「総州銚子」(葛飾北斎 画)
天才絵師・葛飾北斎が手がけた各地の漁をテーマにしたシリーズ『千絵の海』より「総州銚子」。構図のユニークさ、荒々しい波の描写、さすが北斎!
やせ蛙まけるな一茶これにあり」の句でおなじみ俳人・小林一茶も化政文化を代表する有名人です。

私たちが「江戸時代」といわれてイメージする江戸時代の人々の暮らしぶりなんかはだいたいこの時代が大元になっています。

江戸時代後期の思想家・頼山陽が著書の国史書『日本外史』のなかで「盛りを極む」と表現しているように、家斉が将軍職にあった50年はまさに天下泰平・幕府の絶頂期でした。

しかし、政治の放任と長年の浪費は、「幕府の財政難」「政治の腐敗」という負の遺産を次の世代に残すことになりました。そして、幕府崩壊の足音も次第に近づいてきていました。

病弱な将軍が多いなか異例ともいえる健康体だった家斉は大病を患うこともなく65歳まで将軍の座に居座り、さらに将軍引退後も大御所として実権を手放しませんでした。

やりたい放題だった家斉でしたが、誰にも気づかれぬうちに息を引き取ったとか。栄華を極めた将軍のなんとも寂しい最期でした。

幕府が朝廷に政権を返上するまであと26年。

家斉の死で時代はいよいよ激動期に入っていきました。


徳川家斉の詳細データ

  • 生没:1773年11月18日(安永2年10月5日)〜1841年2月27日(天保12年閏1月7日)

  • 将軍在位期間:天明7年(1787年)4月15日〜天保8年(1837年)4月2日

  • 父:徳川治済(御三卿のひとつ一橋家当主)

  • 母:お富の方

  • 正室:広大院(薩摩藩の超人、島津重豪の娘)

  • 側室:たくさん

  • 子ども:徳川家慶(いえよし/十二代将軍)ほかたくさん

  • あだ名:オットセイ将軍

  • 身長:156.6cm

  • 死因:急性腹症

  • 墓所:徳川将軍家の菩提寺・上野寛永寺




次はモットーは「親父のようにはなりたくない」の十二代目。

黒船来航でショック死!? 時代の荒波を乗り越えられなかった“そうせい様”



徳川家慶の肖像画
十二代将軍・徳川家慶
(読み:とくがわいえよし)

家慶のここがすごい!

  • 「黒船来航」という江戸時代きっての大事件に立ち会った




徳川家慶は“オットセイ将軍”家斉の次男で、長男が幼くして他界したため十二代将軍となりました。しかし、家斉が50年も将軍に居座ったうえに引退後も大御所として実権を手放さなかったので、家慶が将軍になれたのは45歳の時。実権を握ることができた時にはもう49歳になっていました。

家慶は、“幕末の四賢侯”のひとり松平春嶽に「凡庸の人」と酷評されたり、家臣の意見に反対することはなく「そうせい」と答えるだけだったことから“そうせい様”とあだ名されたり、趣味の絵画に没頭したため、「無能な暗君」というイメージで語られることが多い将軍です。

十二代将軍・徳川家慶の肖像画

「そうせい」

※デジャヴ感半端ないのは、4代将軍・家綱が「さようせい」様だから

しかし、浪費の権化だった父・家斉が世を去ると、これまでの鬱憤を晴らすように幕府を立て直すため色々とがんばったんだと声を大にして言いたい。

父・家斉のイエスマンとして幕政を思うがままにしてきた政治家たちを一掃し、マジメな水野忠邦を老中にすると「綱紀粛正」「質素倹約」を掲げた「天保の改革」を実行させました。でも、この改革はあまりに性急であまりに厳しすぎ庶民からも大反感を買い、わずか2年で失敗してしまいました。

余談ですが、この改革で庶民の娯楽として大人気だった歌舞伎も大ダメージを受けたのですが、“遠山の金さん”こと町奉行の遠山景元の活躍により歌舞伎文化は守られました

荷宝蔵壁のむだ書(歌川国芳の画)
「天保の改革」では歌舞伎役者の浮世絵も禁止。歌川国芳は反骨精神とユーモラスを発揮し、落書き風役者絵で改革に対抗しました(『荷宝蔵壁のむだ書き』部分)
改革の失敗で水野忠邦が失脚したあとは、24歳のまだ若い阿部正弘を老中に抜擢するなど、家慶は有能と見た人物を年齢に関係なく登用する柔軟さも持っていました。

そして家慶は、時代が大転換するきっかけとなる大事件に直面します。

ペリーによる黒船来航

ペリーが4隻の黒船を率いて浦賀にやってきたのです。

ここから時代はいよいよ「幕末」に突入します。じつはこの「黒船来航」について幕府上層部は1年以上前から情報を掴んでいたのですが、泰平の世に慣れきってしまった結果か危機感を持つ者は幕府内でも少なかったとか。なので実際にペリーが「開国シナサーイ」とやってきたもんだから幕府は大混乱に陥ったのです。

温和で冷静沈着な性格だったという家慶も黒船来航にショックを受けたのか、事件から2週間後に病に倒れ、間もなく世を去りました。

父・家斉を反面教師にしていた家慶ですが、精力絶倫ぶりは父譲りだったようで、家慶も27人も子どもをもうけました。しかし、無事に生き延びたのは十三代将軍となる家定だけというなんとも悲しい結果に・・・。

余談ですが、家慶は生姜が大好きだったそうで、これも父譲り。親子というものは嗜好も似るのでしょうか。

もう少し余談ですが、家慶の個性的な肖像画はかなり生前の家慶の特徴を捉えているらしいです。頭が大きくて、六頭身、あごがシャクレ気味・・・。絵師よ、もうちょっと美化しても良かったのでは?


徳川家慶の詳細データ

  • 生没:1793年6月22日(寛政5年5月14日)〜1853年7月27日(嘉永6年6月22日)

  • 将軍在位期間:天保8年(1837年)4月2日〜嘉永6年(1853年)6月22日

  • 父:徳川家斉

  • 母:香琳院

  • 正室:喬子(たかこ)女王

  • 側室:たくさん

  • 子ども:徳川家定(十三代将軍)ほかたくさん(ただし家定以外、早世)

  • あだ名:そうせい様

  • 身長:154cm

  • 死因:暑気あたり(熱中症による心不全)

  • 墓所:徳川将軍家の菩提寺・増上寺



次は“篤姫の旦那さん”として有名な十三代目。

病弱で内向的な“お飾り”将軍



徳川家定の肖像画
十三代将軍・徳川家定
(読み:とくがわいえさだ)

家定のここがすごい!

  • 正室が国民的ヒロインの篤姫

  • 将軍なのにカステラがつくれる




黒船来航ショックの激震が走るなか将軍となったのは、歴代将軍でもっとも酷評されることもある徳川家定

家定は十二代将軍・家慶の四男だったのですが、兄たちが次々に死亡、というか家慶の子ども27人のうち無事に生き延びたのが家定だけだったので将軍となりました。

祖父・家斉、父・家慶ともに健康体だったのに対し、家定は幼い頃から病弱。一説に脳性麻痺だったともいわれ、言動に不自由がありました。さらに、乳母以外の人間には心を開かなかったといわれるほどの極度の人見知りのうえ癇癪持ち

周囲からは武家社会の長・将軍の器とは思われず、祖父の家斉が思い余って家定を毒殺しようとした、なんて噂もあるほどでした。

ペリーによる黒船来航
2008年の大ヒット大河ドラマ『篤姫』では今をトキメク堺雅人が家定を演じていました
家定の父・家慶のことを「凡庸の人」とこき下ろした幕末の俊英・松平春嶽は家定を評して「凡庸のなかで最も下等」とめちゃくちゃヒドイことをいっています。さらに、松平春嶽は家定を“イモ公方”という誰がどう聞いても悪口にしか聞こえないあだ名をつけていました。

このあだ名の由来は家定の趣味がお菓子づくりだったから。蒸し芋や炒豆を自分でつくり家臣に振るまうこともあったとか。時にはカステラをつくったというから将軍というよりもはやスイーツ職人です。時代はもう泰平の世ではなく「幕末」の動乱期が始まってますから、春嶽が呆れるのもムリはない。

江戸時代のカステラづくり。当時は鍋で焼いた
江戸時代のカステラづくり。当時は鍋で焼いていました
ただ、幕末の幕臣・朝比奈昌広は明治になって家定についてこう語っています。

「家定公は、凡庸だ暗愚だといわれているが、それは春嶽ら英俊と比較するからだ!諸侯のなかには家定公よりもっと劣る大名も多くいたはず」

十三代将軍・徳川家慶の肖像画

「それフォローになってないから...」

なかなか苦しいフォローではありますが、もっと平和な時代だったら家定もここまでケチョンケチョンに酷評されなかっただろうことは確かです。

また、江戸城でアメリカ総領事・ハリスを引見した際には将軍らしい威厳のある口上を述べたとか。

ハリスを引見する将軍・徳川家定(『伝彼理登城将軍謁見之図』部分)
ハリスを引見する家定は画像左側の中央にいる白装束の人物(『伝彼理登城将軍謁見之図』部分)
一説にこの時、家定は頭を左肩のほうに傾け、足を踏み鳴らすという奇妙な行動をしたといわれます(脳性麻痺の症状とも)。

さて、そんなパッとしない家定のパッとする嫁として有名なのが、大河ドラマで一躍江戸時代を代表するヒロインのひとりとなった篤姫です。

篤姫の写真

篤姫は家定の正室ですが、じつは3番目のお嫁さんです。家定が18歳の時に京から皇族のお姫様を迎えたのですが、若くして他界。翌年、再び京から皇族のお姫様を正室に迎えたのですが、わずか半年後に他界・・・。

家定が「公家の娘は虚弱でいかん。次は武家出身の健康で長生きしそうな女性を迎えよう」と望んで、薩摩藩の島津家から輿入れしてきたのが篤姫です。

家定と篤姫の結婚生活は1年半ほどの短いものでしたが、家定が特製のカステラを篤姫にご馳走したとか、結構仲よさげなエピソードも残っています。

が、残念ながら子宝には恵まれず、お決まりの将軍継子問題が勃発します。家定は現将軍ながら蚊帳の外でしたが、最後には「次期将軍には紀州藩徳川慶福(のち家茂)にする」と諸大名に宣言し、ゴタゴタに自ら幕を下ろしました。

将軍らしいところを最後に見せた家定は、満足したのかその半月後、35歳の若さで世を去りました。


徳川家定の詳細データ

  • 生没:1824年5月6日(文政7年4月8日)〜1858年8月14日(安政5年7月6日)

  • 将軍在位期間:嘉永6年(1853年)11月23日〜安政5年(1858年)7月6日

  • 父:徳川家慶

  • 母:本寿院

  • 正室:鷹司任子(あつこ/若くして他界)、一条秀子(若くして他界)、天璋院(篤姫)

  • 側室:志賀

  • 子ども:なし

  • あだ名:イモ公方

  • 身長:150cm

  • 死因:脚気(コレラ説あり)

  • 墓所:徳川将軍家の菩提寺・上野寛永寺





次は勝海舟も忠誠を誓った英邁な青年。

感動エピソード満載! 激動の時代に散った若き将軍



徳川家茂の肖像画
十四代将軍・徳川家茂
(読み:とくがわいえもち)

家茂のここがすごい!

  • 天皇の娘と結婚。しかも仲良し

  • 家光以来、229年ぶりに上洛し天皇と面会

  • 長州征伐では総大将として先陣に立つ

  • 勝海舟ら幕臣からの信頼度バツグン




虚弱な十三代将軍・家定が世継ぎのないまま死んでしまったので、当然起きた将軍継子バトルの結果、13歳の若さで十四代将軍となったのが家茂です。

家茂が将軍職にあった7年は短いながらも日本史に残る歴史的事件がてんこ盛り。どんなことがあったのがざっと年表にしますとーー



1858年(安政5年)

大老・井伊直弼がアメリカと日米修好通商条約を結ぶ

1859年(安政6年) 

安政の大獄」で吉田松陰ら処刑

1860年(安政7年) 

桜田門外の変」で大老・井伊直弼水戸藩浪士らに襲撃され殺される

1862年(文久2年)

孝明天皇の異母妹・和宮家茂が結婚

「坂下門外の変」で老中・安藤信正水戸藩浪士らに襲撃される

生麦事件」で薩摩藩士がイギリス人を殺害

1863年(文久3年)

生麦事件」の報復としてイギリスが薩摩藩を砲撃(薩英戦争

長州藩高杉晋作が「奇兵隊」を設立

1864年(元治元年)

池田屋事件」で新選組、大暴れ

長州藩が京で挙兵(禁門の変

長州藩をお仕置きするため幕府が大軍を出す(第一次長州征伐

長州藩、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊に砲撃される(下関戦争)

1865年(慶応元年)

第二次長州征伐の途上で将軍・家茂、死去



教科書でも見たことある出来事がたくさん。

受験生泣かせのややこしい時代です。

こんな時代に13歳で将軍となったわけですから、そのストレスは想像を絶するわけで、そりゃあ20歳で死んでしまうのも無理はない。甘いものばっかり食べて30本も虫歯をつくりますよ。

幼い頃、家茂は動物好きで池の鯉やペットの鳥と戯れるのを楽しみにしていたそうですが、13歳で将軍としての重責を担わなくてはならなくなった家茂は、そうしたささやかな楽しみをすべて捨て、一心不乱に文武に励みます。それは子どもながらにこう決意したからです。

十四代将軍・徳川家茂の肖像画

「よい将軍になろう」

もともと聡明だったこともあり、健気な少年将軍に幕臣たちも心打たれ、忠誠を誓ったに違いありません。

辛辣な人物評価で知られる幕末の英雄勝海舟もそのひとり。

家茂は勝海舟を非常に信頼していたのですが、勝もまた家茂に真心をもって仕えました。江戸で家茂の訃報を知った勝はこう日記に残しています。

勝海舟の写真

「徳川家、今日滅ぶ」

と。

それほど勝は家茂に幕府の未来を感じていたのでしょう。激動の時代に重責を担い若い命を散らせた家茂を思うと、勝は後年涙ぐむこともあったとか。歴史に「たられば」は禁句ですが、もし家茂がもっと長生きしていれば、倒幕の流れは止められずとも幕府の命運も少し違ったものになったかもしれませんね。

また、十三代将軍・家定を“イモ公方”とヒドイあだ名で呼んでいた幕末の俊英・松平春嶽は、若い家茂の補佐役として揺らぐ幕政を支えた人物ですが、家茂は将軍である自分にも率直に意見する春嶽を信頼し、春嶽もそんな家茂に期待を寄せビシバシ指導したようです。

家茂の人柄のよさを感じさせるこんなエピソードもあります。

家茂には戸川安清(やすずみ)という70歳を過ぎた書道の先生がいました。戸川は先代・家定にも仕えた幕臣で、家茂の正室・和宮が京から江戸へお嫁にやってくる際も警護役を務めています。

さてある日、戸川に書を習っていた家茂は突然、この老人に頭の上から水をぶっかけます。そして「続きはまた明日にしよう」といって笑いながら退室してしまいました。家茂らしからぬ突然の蛮行に、その場に取り残された側近たちは一同騒然とします。

するとびしょ濡れになった戸川おじいちゃん、泣きながらこんなことを話し出します。

「じつは歳のせいでちょっとした弾みで失禁してしまったのだ・・・。上様の御前で失禁などもってのほか、本来なら厳罰に処せられても当然のこと。それなのに上様は、わざと水をかけ皆に失態がバレぬようにしてくださった・・・。それだけじゃなく、『続きはまた明日』といって言外に不問に処すと示してくださった・・・」

イイハナシダナー

家茂、めっちゃいい人。

ちなみに、長寿連載国民的マンガ『こち亀』にもこのエピソードを元ネタにした回があり、当時のネットでも「元ネタ初めて知ったけど、家茂ぐう聖」とちょっとした話題になしました。こんな形で歴史上の人物が再評価されるのが日本らしい。

歴代将軍のなかでも、その人柄で人気が高い家茂ですが、歴代将軍屈指の愛妻家でも有名。

家茂の正室は、時の天皇・孝明天皇の異母妹である皇女・和宮。お父さんは先帝・仁孝天皇。つまり、天皇の娘です。

8位:皇女和宮(徳川家茂の正室)の写真(ガチで美人過ぎる幕末女性ランキング)

気品あふれる美しい女性ですね。

歴代将軍の正室は基本的に皇族のお姫様を京から迎えていましたが、将軍と天皇の娘との結婚となると、これは幕府始まって以来はじめて

黒船来航以来、国内では「外国を追い払え!」という攘夷運動が活発になっていました。さらに、「幕府は政権を朝廷に返上しろ!!」という尊王運動も声高に叫ばれるようになり、過激な尊攘派が倒幕運動に走るようになっていました。

幕府の権威なんて地に落ちています。

そこで、朝廷の力を借りてみずからの権力回復を狙う幕府側の思惑と、政治的発言力を強め攘夷実行を狙う朝廷側の思惑が合致し、家茂と和宮は結婚することになりました。

降嫁のため江戸へ下向する和宮の壮麗な大行列(『和宮江戸下向絵巻』部分)
降嫁のため江戸へ下向する和宮の壮麗な大行列を描いた『和宮江戸下向絵巻』(部分)。京から江戸までを3万人もの大行列が中山道を下りました
優しい家茂のこと、本当は来たくなかった江戸へ連れてこられ心細い和宮に細々と気遣いをしたのでしょう、政略結婚ながら家茂と和宮の夫婦仲はとっても良好でした。

ですが、幸せな時間も長くは続きませんでした。

倒幕を掲げ過激な行動を続ける長州藩への征討を決めた幕府は、2度にわたり大規模な征討軍を派遣します。2度目の長州征伐では、なんと将軍の家茂が自ら先頭に立ち出陣しました。先陣に立つ将軍なんて家康以来、これは否が応でも士気が上がる。

しかし、心身の過労が祟ったのか、長州征伐の途上、体調を崩した家茂は大坂城で息を引き取りました。まだ20歳という若さでした。

それから1ヶ月半ほどのち、和宮のもとに冷たくなった家茂が戻ってきました。時間が経ちすぎているので和宮は家茂の死に顔すら見ていないでしょう。

ある日、和宮に家茂の形見として西陣織の織物が届けられます。それは長州征伐に赴く家茂に「お土産は何がいい?」と問われ、和宮がおねだりしたものでした。亡き夫からのプレゼントを手にした和宮は、辛い胸のうちを次のような和歌にしました。


「空蝉(うつせみ)の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」


どんな美しい西陣織の織物もあなたがいてこそ美しいのに・・・というような意味です。

その西陣織はその後、この和歌とともに徳川家菩提寺・増上寺に奉納され、袈裟として仕立てられ「空蝉の袈裟」として現存しています。

空蝉の袈裟(徳川家茂の形見として和宮に届いた西陣織の織物で仕立てている)

家茂と和宮の感動エピソードはまだ続きます。

昭和30年代に増上寺の墓地改葬が行われ、遺骨調査なども行われたのですが、和宮のお墓から1枚の写真が発見されました。そこに写っていたのは、まだ顔に幼さの残る直垂に烏帽子姿の若い男性。

写真に写ったこの人物は夫の家茂に違いないといわれています。

しかし、非常に残念極まりないことに、この写真は今は見ることができません。湿板写真というもので、調査中の不手際から画像が消えてしまったのだとか。

和宮のお墓から出てきた写真。被写体は夫の家茂ではといわれている
発掘調査で和宮のお墓から出てきた写真。画像が消えてしまったのは返す返すも残念
ちなみに、遺骨調査の結果、家茂は当時の人には珍しいくらいに鼻が高かったとか。細面で鼻が高いとかイケメンを想像しますが、かなり出っ歯(しかも虫歯だらけ)だったそうです。


徳川家茂の詳細データ

  • 生没:1846年7月17日(弘化3年5月24日)〜1866年8月29日(慶応2年7月20日)

  • 将軍在位期間:安政5年(1858年)12月1日〜慶応2年(1866年)7月20日

  • 父:徳川斉順(なりゆき/紀州藩11代藩主

  • 母:実成院

  • 正室:静寛院宮(皇女・和宮)

  • 側室:なし

  • 子ども:なし

  • 身長:156.6cm

  • 死因:脚気による心不全

  • 墓所:徳川将軍家の菩提寺・増上寺



さぁ、いよいよ次で最後。徳川将軍の最後を飾るのはこの人物。

徳川幕府の歴史に終止符を打った“家康の再来”



徳川慶喜の写真
十五代将軍・徳川慶喜
(読み:とくがわよしのぶ)

慶喜のここがすごい!

  • 徳川幕府の歴史に幕を下ろした

  • 維新後、表舞台から姿を消し沈黙を終生守った

  • 多趣味

  • 歴代将軍のなかで一番長生き。大正時代まで生きていた




最後の将軍のみ写真が残っているんですね。

265年も続いた徳川幕府、最後の将軍となったのは御三家のひとつ水戸藩出身の徳川慶喜。烈公とあだ名された荒ぶる父・徳川斉昭の教育方針により、江戸で生まれるもほどなくして国許の水戸に移され、武術・学術を厳しく教え込まれました。

特に手裏剣が得意で、その腕前は達人レベルにまで成長したそう。

幼い頃から賢い子どもだった慶喜は頭脳明晰な青年に成長しました。

ペリーが黒船を率いて日本にやってきたのは、慶喜が17歳の時。激動の幕末が幕を開けると同時に、十二代将軍・家慶は急死、十三代将軍となった家定は生まれつき虚弱と幕府の未来は暗いものでした。

「今こそリーダーシップを発揮できる将軍を!」と願う幕臣たちが慶喜に目をつけたのは自然なこと。しかし、十四代将軍には家茂が就任し、慶喜が十五代将軍となったのは家茂の急死後でした。

じつは慶喜、十五代将軍を固辞していました。家茂の死後4ヶ月以上も将軍の座は空位。まわりは慶喜しかいないと思うなかで、なぜ慶喜自身は首を縦に振らないのか?父・斉昭に送った手紙からは、頭が切れすぎる慶喜らしさがうかがえます。

十五代将軍・徳川慶喜の写真

「将軍になって失敗するより、最初から将軍にならないほうがずっとましだ」

先が見えすぎる慶喜は、目の前の武家社会最高ポジションのきらびやかさではなく、幕府崩壊の未来の方が強烈に見えていたのかもしれません。

周囲の押しに根負けして(という形に持ち込んだ慶喜の策略とも)将軍となった慶喜は、幕府を立て直すため抜本的改革に乗り出します(慶応の改革)。

近代的な内閣制度の先駆けとなる行政スタイルを打ち立てたり、国内最強の軍隊を目指しフランスやイギリスから軍事顧問団を招いて陸軍・海軍の強化を図りました。

幕末の軍艦・開陽丸の写真
オランダで新造された最新鋭の軍艦「開陽丸」。国内最強の開陽丸だったが、函館戦争で海の藻屑と消えました
しかし、薩摩藩長州藩による武力倒幕を予期した慶喜は、大決断を下します。

大政奉還ーーつまり、朝廷に政権を返上することを決意したのです。

そして、1867年(慶応3年)10月14日、明治天皇に政権が返上され、ここに徳川幕府は幕を下ろしました。

幕臣たちから「権現様の再来」と期待され、倒幕派の志士からは「家康の再来」と恐れられた慶喜。切れすぎる頭脳は時に周囲には理解しがたい行動として現れ、人々は慶喜の気まぐれに翻弄されました。

「朝敵」となった旧幕府軍と新政府軍による鳥羽・伏見の戦いでの「敵前逃亡」はその最たる例。旧幕府軍の総大将として大坂城にこもっていた慶喜が、夜陰に紛れてわずかな側近や老中たちと軍艦・開陽丸に乗り込み江戸へ逃げ帰ったのです。この行動は卑怯、惰弱として味方からも猛バッシングを受け、今でも慶喜の評価を下げる一因になっています。

『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』(月岡芳年 画)
船に乗り込み大坂から脱出する慶喜を描いた『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』。すごいカッコよく見えますが敵前逃亡中(月岡芳年 画)
ただ、慶喜もなにも死ぬのが怖くて逃げたわけではありません。

慶喜の生家である水戸徳川家には「どんな状況になっても朝廷に弓を引くことならず」という家訓があり、慶喜は朝廷相手に戦うことができなかったのです。また、もはや徹底抗戦したところで勝機はなく、いたずらに内戦が長引けば諸外国に介入のチャンスを与えることになり、日本はめちゃくちゃになるーーという未来予想図が慶喜の頭の中にはあったとも。

ただ、前線で命をかけて戦う部下たちを置いてけぼりにしたのは事実です。

江戸へ戻った慶喜は朝廷への恭順姿勢を示し、後始末を勝海舟に一任すると自らは寛永寺で謹慎しました。江戸城が無血開城されると、徳川家の人々と家康ゆかりの地である駿府に移住、維新後も静岡県と改名された同地で生活しました。静岡で約30年もの長い年月を過ごした慶喜は、地元に人々に「ケイキさま」と呼ばれ親しまれたんだとか。

慶喜の余生は意外なことに悠々自適、さまざまな趣味に没頭して暮らしました。旧幕臣と関係を絶ち、政治の表舞台から姿を消し、沈黙を守ることが将軍だった自分の使命だと思っていたのかもしれません。

趣味である狩猟をする徳川慶喜の写真

これは隠居後の一番の楽しみだったといわれる狩猟をする慶喜の写真。さまになっていてカッコイイですね。

狩猟のほか、熱中したのがカメラで、なんと写真投稿雑誌に投稿することも度々あったとか。しかし、採用されることはあまりなかったとか・・・。おもしろいことに慶喜の子孫であるひ孫の徳川慶朝(よしとも)はフリーカメラマンになっています

徳川慶喜が撮影した風景写真(安倍川鉄橋上り列車進行中之図)
慶喜が撮影した風景写真。晩年には芸術的な写真も撮影できるほどの腕前になっていたとか

そのほか、油絵、弓道、釣り、自転車、刺繍など運動系から芸術系まで幅広いジャンルの趣味を楽しんでいたそうです。

顕微鏡でなにかを観察するのが好きだったり、サイクリング中に美人に気を取られて看板に激突したエピソードを聞く限り、なんとも憎めない。

また、慶喜はかなりのグルメだったそうで、特に大好物だったのが豚肉。江戸時代はまだ肉食が一般的ではなかったこともあり、豚肉を好んでモリモリ食べる慶喜は「豚一さま(豚肉好きの一橋さま)」とストレートにひどいあだ名をつけられていました

1998年の大河ドラマ『徳川慶喜』では主人公の慶喜を本木雅弘が演じましたが、実在の慶喜もモッくんほどとはいかないまでも相当イケメン。将軍時代に謁見した諸外国の公使たちも慶喜の端正なルックスとスマートな振る舞いには感心したそう。

徳川慶喜書いた「誠」(将軍就任直後あたりといわれる)
将軍就任直後あたりに書いたといわれる慶喜の手による「誠」の一字。字もイケメン
さて、政治から程遠く離れた趣味の世界に生きていた慶喜が、1898年(明治31年)、再び表舞台に登場します。慶喜が皇居に参内し、明治天皇に謁見したのです。

徳川幕府が崩壊して30年余、ようやくかつての将軍と天皇は和解を果たし、慶喜の名誉も回復されていったのでした。ちなみに、慶喜はその後、旧幕臣の勝海舟にも会いに行き礼をいったそうで、海舟は「生きてきた甲斐があった」と感激したんだとか。

急速に日本が近代化の道を歩んでいった明治時代を見守り続け、大正時代に入って3年後、慶喜は世を去りました。

最後の将軍・徳川慶喜の葬列写真
江戸時代の終焉を象徴する慶喜の死を悼み大勢の人々が葬列を見守りました


徳川慶喜の詳細データ

  • 生没:1837年10月28日(天保8年9月29日)〜1913年11月22日(大正2年)

  • 将軍在位期間:慶応2年(1866年)12月5日〜慶応3年(1867年)12月12日

  • 父:徳川斉昭水戸藩九代藩主

  • 母:吉子女王

  • 正室:一条美賀子

  • 側室:一色須賀、新村信中根幸ほか

  • 子ども:徳川慶久(よしひさ・貴族院議員)ほか

  • あだ名:家康の再来、二心公

  • 身長:157cm

  • 死因:急性肺炎

  • 墓所:谷中霊園




ここからはおまけです。

「歴代将軍○○ナンバーワンは誰だ!?」




疑問「将軍在位期間ナンバーワンは誰?」

十一代将軍・徳川家斉の50年。反対に一番在位期間が短かったのは、十五代将軍・慶喜で1年ほど

疑問「長生きナンバーワンは誰?」

十五代将軍・徳川慶喜の76歳。ちなみに、初代・家康は75歳で長生きナンバーツー。反対に、短命ナンバーワンは七代将軍・家継で8歳で早世

疑問「高齢での将軍就任ナンバーワンは誰?」

初代・徳川家康の62歳。反対に最年少での将軍就任は七代将軍・家継でわずか4歳。園児です

疑問「子だくさんナンバーワンは誰?」

十一代将軍・徳川家斉の57人(圧勝)。反対に子宝に恵まれなかった将軍は綱吉をはじめ割といます

疑問「高身長ナンバーワンは誰?」

六代将軍・徳川家宣の160cm




おまけコーナーその2。

将軍の名前の覚え方



15人もいるうえに名前に「家」がつく人が多すぎて全然覚えられない歴代将軍。学生時代に苦労した方も多いはず。ということで、オリジナル将軍覚え方を考案しました。


check!

安くてタダは光る綱、犬の綱にはよしとする。家のノブは継ぎだらけ。よし、胸の重みでイエーイ春なり。よしさだ君はモチで喜ぶ。




【解説】

  • 安くて→家康

  • タダは→秀忠

  • 光る→家光

  • 綱→家綱

  • 犬の綱にはよし→綱吉(生類憐れみの令だし)

  • 家のノブ→家宣

  • 継だらけ→家継

  • よし、胸の→吉宗

  • 重みで→家重

  • イエーイ春→家治

  • なり→家斉

  • よしさだ→家慶&家定(親子なのでセット)

  • モチで→家茂(甘党だし)

  • 喜ぶ→慶喜




とりあえずだいたい「家」が名前につくので、「家○」のうち○の部分をどうやって覚えるかがポイント。

上のがピンとこなかった人用にもう一つ作りました。


check! 覚え方その2

家が安くてタダで光る綱もある。「綱はヨシ!」と野武士が家を継いだけど、胸の重さは家に治らないナリ。「よし、これも定め」と餅とケーキでお祝いだ!




【解説】

  • 家が安くて→家康

  • タダで→秀忠

  • 光る→家光

  • 綱もある→家綱

  • 綱はヨシ!→綱吉

  • 野武士が→家宣

  • 家を継いだけど→家継

  • 胸の→吉宗

  • 重さは→家重

  • 治らない→家治

  • ナリ→家斉

  • 「よし、これも定め」と→家慶&家定(親子なのでセット)

  • 餅と→家茂(甘党だし)

  • ケーキでお祝いだ!→慶喜




自分なりのストーリーを想像しながら、オリジナルの覚え方を考えると、いつの間にか自然と覚えてたりするのでオススメです。

最後に。

あらためて歴代将軍の一覧




初代・家康
戦国時代を生き抜き、豊臣家を滅ぼし、徳川幕府を開いた“神君”

二代将軍・秀忠
徳川幕府の土台固めをしたマジメな2代目

三代将軍・家光
生まれながらの将軍。島原の乱を鎮圧、「鎖国」を完成、参勤交代を制度化など

四代将軍・家綱
政治に無関心な“さようせい様”。由井正雪の乱明暦の大火が起きる。

五代将軍・綱吉
生類憐れみの令」でおなじみの“犬公方”。赤穂浪士の討ち入り。「元禄文化」が開花@上方

六代将軍・家宣
新井白石が「正徳の治」を行い幕政改革。

七代将軍・家継
4歳で将軍就任、7歳で他界。

八代将軍・吉宗
紀州からきた“暴れん坊将軍”。「享保の改革」を行い、「幕府中興の祖」と讃えられる

九代将軍・家重
障害ゆえに無能扱いされた、本当は名君だったかもしれない人。田沼意次、大活躍

十代将軍・家治
途中から政治に興味をなくし、趣味に没頭。将棋の腕はかなりのもの

十一代将軍・家斉
50年も将軍をやった子だくさんの絶倫“オットセイ将軍”。庶民文化「化政文化」が開花@江戸

十二代将軍・家慶
老中・水野忠邦に「天保の改革」を実行させる。黒船来航ショックで急死

十三代将軍・家定
大河ドラマのヒロイン篤姫の旦那。趣味はお菓子づくりの“イモ公方”

十四代将軍・家茂
期待されながらも長州征伐の途上で急死した聡明な若者。妻は天皇の妹で、愛妻家代表。大の甘党で、虫歯だらけ

十五代将軍・慶喜
最後の将軍。「大政奉還」で政権を朝廷に返上。頭よすぎて評価難航。趣味三昧の余生を送る




265年もの長きにわたって政権を保った徳川幕府。そのトップに君臨した15人の将軍たちはそれぞれ個性的で、その個性が時代のカラーを作っていたのです。

江戸ブログの記事をYouTubeに引っ越しました!チャンネル登録をお願いします!

パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?

銀ブラをする昭和の女性1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。『水鶏にだまされて』石川豊信 画(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。


江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?

パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。「アンネナプキン」発売の広告「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。