学問
下級武士の妻らインテリ女性に人気
手習(てならい)の女師匠
「手習」とはいわゆる「寺子屋」のことで、「読み・書き・そろばん」を子どもたちが学ぶ庶民の教育機関のこと。そこで先生を務めた人物は「師匠」と呼ばれました。ちなみに教え子は「筆子(ふでこ)」といいます。
江戸時代、寺子屋の師匠といっても教育免許があるわけでもないので、ほとんどが兼業先生でした。僧侶、武士、浪人、医者などなど。女の子を相手に習字や行儀作法、踊りなどの芸事を教えるのは女師匠の仕事。とはいえ、農村部の寺子屋に女性の師匠はほとんどいなかったそうで、女性の師匠は江戸など都市部に限定されたんだとか。夫婦で寺子屋を経営する場合もあり、男の子の教育は夫が、女の子の教育は妻が、てな感じに役割分担したそうです。
次も美貌が人気のカギとなるお仕事。
芸能
独身男性にモテモテ!?
三味線の師匠
歌舞伎や浄瑠璃などの伴奏楽器として定着し、庶民にも大人気となった三味線。酒の席や花見の席といったシーンでも三味線は大活躍したので、大人たち(特に男性)が熱心に三味線の稽古に通うようになりました。また、女の子の習い事としても三味線は大人気でした。女性らしい仕草が身につくとかなんとか。
そんなわけで、幕末近くになると「江戸の各町にひとりはいる」といわれるほど三味線の女師匠は増えたのです。色っぽい年増の女師匠ともなると、その師匠を目当てに男性が三味線を習いに集まったとか。
芸は身を助ける
瞽女(読み方:ごぜ)
瞽女とは盲人女性の芸能者のことで、三味線などを弾きて諸国を転々としました。地域ごとに組合があり、厳しく縄張りが決められていたそう。
正月限定の美人芸人
鳥追(とりおい)
独特なフォルムの編笠をかぶり三味線を弾きながら祝い歌を門前で唄いチップをもらう女芸人ーーそれが「鳥追」です。時代劇ドラマなどでもこんなファッションの女性が登場することがよくあります。鳥追は江戸だけのもので、しかも、正月の元日から15日までという超限定的な仕事でした。正月以外にも活動しており、その場合は「女太夫(おんなだゆう)」と呼ばれていました。
1人の場合も2〜3人連れの場合もあったそうですが、鳥追の女性たちは正月らしく新しい木綿のきものに身を包み、美しく化粧も施したその姿はじつに華やか。美人も多かったらしく、乞われれば宴席で三味線を奏でることもあったとか。
江戸時代の女マジシャン
手妻使い(てづまつかい)
「手妻」とは今でいうところのマジック。江戸時代、軽業や曲芸、手妻などさまざまなエンタメが見世物小屋などで披露されていました。手妻のひとつに「水芸」という水を使ったマジックがあったのですが、特に女芸人による水芸は人気が高かったらしい。ちなみに、女芸人による水芸の最初は、幕末に曲独楽(コマを使った芸)で大人気を博した竹沢藤治の一座だそうな。現在だと日光江戸村で女性芸人による水芸を見ることができます。イリュージョン!
次は女性の仕事の大定番。
手工業
女性大活躍の業界
養蚕・機織り
画像下の女性はカイコのエサとなる桑の葉を選別しているところのようです。そして、画像左上の女性はカイコからとれた生糸を使って機織をしています。
江戸時代、絹織物の原料である生糸は長く輸入品のトップでした。が、生糸の輸入代金として金銀銅が国外に流出し続けることを危惧した幕府は、生糸の国内生産を奨励、各藩も藩政改革の一環として養蚕事業に取り組みました。養蚕技術の発達などもあり生糸の国内生産は次第に増加、幕末には生糸は輸出品の代表格にまでなりました。
そんな江戸時代の養蚕業を支えたのが女性たち。江戸時代を代表する名君として名高い上杉鷹山が米沢藩で行った藩政改革でも、藩士の妻や娘たちが労働力の中心となり養蚕から絹製品への生産までを手がけました。
女性の内職として人気
綿摘み(わたつみ)
黒い塗り桶に綿を乗せ、それを少しずつ伸ばしていくのが「綿摘み」というお仕事。現代ではお目にかかりませんね(あるのかな?)。こうして伸ばされた綿は、秋冬用の小袖に入れる防寒用の綿として使われたり、「綿帽子(わたぼうし)」という女性の外出用のかぶりものに加工されました。
綿摘みは表向きの仕事で、裏では売色を行う女性たちもいたそうな。
次はちょっと特殊なお仕事。