行商
おばあさんの仕事
糊(のり)売り
江戸時代の糊はお米などのでんぷん質からつくられた「姫糊」と呼ばれる液体状のでんぷん糊。着物を洗ったあとの糊づけや障子の張り替えなどに使いました。この糊を売るのが「糊売り」。糊の入った大きな桶に紐をくくり、肩から下げて売り歩きました。お客は使う分だけ茶碗などに入れてもらい買ったそうです。「糊売り」はかなり体力仕事のように思えますが、江戸でも上方でも老婆の仕事として認識されていました(男性の場合もあり)。
こちらも老婆の定番職業
針売り
その名の通り針を売り歩く職業で、老婆もしくは男性の仕事だったとか。既製服が販売されておらず現代よりもずっと裁縫が必須スキルだった江戸時代、針は必需品でした。
貧しいママさんの夏の仕事
枝豆売り
枝豆の旬となる夏の夕暮れになると現れる枝豆売り。江戸では茹でた豆を枝つきのまま売るので「枝豆」、上方では枝を取った状態で売るので「さや豆」といったそうな。上方では男性も売りましたが、江戸の枝豆売りは貧しいママさんが子どもを背負いながら売り歩いたんだとか。
こちらも夏の仕事。
徹夜で歩いて旬の味覚を運ぶ
鮎売(あゆうり)
初夏の味覚として江戸時代にも人気だった鮎。江戸で消費される鮎は多摩川で獲れたもので、「鮎売」の若い女性が、多摩川から四谷の鮎問屋まで徹夜で歩いて運びました。眠気覚ましか防犯か、独特の鮎歌を唄いながら鮎を運ぶ「鮎売」の姿は夏の到来を感じさせる風物詩でした。
ユニークなファッションが目を引く京の仕事
大原女(おはらめ)
京の中心から離れた比叡山の山裾、大原でとれた薪(まき)や炭などを京の町まで歩いて売りに来た女性たちが「大原女」です。紺色の着物に赤い帯、頭上には薪の束ーーという独特の装束が特徴で、多くの絵師がその姿を描きました。麗しい姿の大原女ですが、重たい薪の束を頭上に持ち、数十キロの道のりを歩くなどひじょーにたいへんな仕事でした。鎌倉時代に始まったといわれる大原女は、昭和前期まで活躍したそうです。
次は技術職にカテゴライズされるのかな?
技術職
これが得意だと就職に有利
御物師(おものし)
ファストファッション大流行の現在と違い、既製品の衣服などない江戸時代。裁縫は女性の必須スキルでした。ほころびた着物の直しはもちろん、季節ごとの衣替えもすべて手作業での仕立て直しだった当時、「裁縫が得意」というのは就職の際のアピールポイントとしてものすごい強みになりました。「御物師」という聞き慣れない職業も裁縫上手な女性の仕事で、職場は公家や武家のお屋敷、寺院、大店など。そこで着物の直しや仕立てを担当しました。
豊富な経験こそが信頼につながる
産婆(さんば)
出産においても現代は選択肢が豊富にあり、病院で産む人、助産院で産む人、自宅で産む人などさまざまです。江戸時代はというと自宅出産が基本。その際に活躍したのが出産のエキスパート・産婆です。「取り上げ婆」なんて呼び方もされます。今でいうところの助産師と似ていますが、助産師には国家試験を合格しないとなれないのに対し、産婆には資格はありません。無免許。何人もの赤子を、いろいろな状況で取り上げてきたという豊富な経験こそが産婆には必要なものでした。
地方によっては産婆は呪術師的な役割もしたそう。
幕府に何度も禁じられたカリスマ美容師
女髪結(おんなかみゆい)
江戸時代中期頃に登場したといわれる結髪専門の女性美容師が「女髪結」です。江戸時代の女性たちは基本的に自分の手で髪を結っていましたが、遊女や歌舞伎の女形のようなゴージャスな髪型はマネしたくても難しすぎてマネできない……。そんな時に頼りになるのがプロの手。
女髪結の料金は1回200文(約40,000円)とかなり高価(のちもっと安価に)で、当初は女髪結に仕事を頼むのは遊女や芸者など一部の女性だけでしたが、やがて一般の女性たちも「憧れの髪型にどーしてもしたい!」と髪結を依頼するようになり、女髪結は大いに流行しました。
これを快く思わないのが幕府です。ぜいたくを禁じる幕政改革のたびに女髪結も迫害を受け、禁令に背いた場合には厳しい処分を科せられました。それでも、おしゃれをしたい!という女性たちの思いは抑えつけることは幕府でもできず、女髪結と幕府のイタチごっこは繰り返されました。が、ペリーが黒船とともに来航した1853年(嘉永6年)、「風俗を乱す」として女髪結が夜鷹(幕府非公認の私娼)とともに検挙され、再び禁令が出されると、激動する時代の流れとともにやがて女髪結も姿を消していきました。
次は先生のお仕事。