スピリチュアル系
信じるも信じないもアナタ次第
占い師
大勢の人が暮らす江戸の町にはたくさんの占い師がおり、「卜者(ぼくしゃ)」「八卦見(はっけみ)」などと呼ばれていました。浅草や両国など人が大勢集まる場所や辻(交差点)、橋のたもとなど街頭に仮設の占い所を設置する者、自宅で占いをする者などさまざま。人気占い師ともなるとかなりの稼ぎがあったそう。
画像の女性占い師は、筮竹(ぜいちく)という棒状の占い道具を使って占いをするようです。女性の横に見える文字には「人相」「墨色」などとあります。「墨色」というのは、お客に墨で文字などを書かせ、その墨の色で吉凶を占うやり方のことです。
霊を呼び寄せる巫女(みこ)
市子(いちこ)
「市子」というのは特定の神社に所属しない歩き巫女のこと。神事に使う神アイテムである梓弓(あずさゆみ)を鳴らし、神の名を唱え、神がかり状態となって生霊や死霊を召喚し(口寄せ)、その言葉を人々に伝えました。青森の恐山にいるイタコみたいな感じです。江戸に市子が来るのは夏に限られ、ほとんどが老婆だったとか。
次は江戸時代の女性の仕事として有名なジャンル?
性風俗業界
老いも若きも男も女も魅了
遊女
江戸の吉原、京の島原、大坂の新町は幕府公認の遊郭として栄え、多くの歌舞伎作品や文芸作品の舞台にもなりました。また、長崎の丸山遊郭は外国人を相手にした唯一の遊郭として、独特の文化を生みました。
遊郭といえば華やかな衣装とゴージャスな髪飾りに身を包んだ美しい遊女たち。吉原遊郭のトップに君臨する「花魁(おいらん)」ともなれば、その美しさ、芸の達者さ、知識の深さはものすごいものでした。誰もが憧れる花魁の天女のごとき姿は多くの浮世絵にも描かれ、当時の最新ファッションの発信源にもなり、女性たちもこぞってマネしました。
老若男女を虜にした遊女ですが、その生活は過酷な部分も多く、性病などにも苦しみました。
ゴザを片手に夜道に立つ
夜鷹
吉原などにいる遊女が幕府公認の存在なのに対し、夜の街頭などに立って客を引く夜鷹は幕府非公認の存在でした。江戸では「夜鷹」と呼ばれた彼女たちは、京では「辻君(つじぎみ)」、大坂では「惣嫁(そうか)」と呼ばれていました。吉原の花魁が3枚重ねの布団で性行為を行うのに対し、夜鷹は薄いゴザの上。ものすごい安い値段で色を売りましたが、夜鷹のなかには性病にかかっている者も多く、客もかなりリスキーでした。浮世絵などでは美人に描かれることの多い夜鷹ですが、相当に年齢を重ねている女性も多く(ストレートにいえばもはやおばあちゃん)、化粧などで年齢をごまかして客をとったんだとか。
背中を流すだけじゃない
湯女(ゆな)
画像は江戸時代初期の江戸の町を描いた『江戸名所図屏風』の一部で、お風呂屋さんのようすです。汗を流しに来た客のほか、美しい女性たちが何人かいます。これが「湯女」です。地域によっては「垢かき女」とか「風呂屋者」「風呂屋女」などとも呼ばれました。湯女は客の背中を流すなど入浴中のサービスを受け持っただけでなく、色を売ることもありました。むしろそっちが人気。江戸だけでなく京や大坂、はたまた地方の温泉地にも湯女がいてたいへんな人気だったそう。
幕府公認の遊郭・吉原を脅かすまでに大流行した湯女を幕府も放置できず、「風紀を乱す」として何度も禁止令を出しましたが、根絶させるのはなかなか難しかったようです。
旅人を慰める宿屋の私娼
飯盛女(めしもりおんな)
こちらも幕府非公認の売春婦。「宿場女郎(しゅくばじょろう)」とも呼ばれたように、宿場にある宿屋が彼女らの仕事場でした。画像は東海道の赤坂宿を描いたものですが、画像右を見ると室内で化粧を施す女性たちがいます。彼女たちはおそらく飯盛女でしょう。
江戸の吉原や京の島原といった幕府公認の遊郭にいる遊女以外の私娼の存在を幕府は禁じていましたが、飯盛女に関しては「旅人の給仕をする下女」という名目で黙認していました。人数を制限するなど飯盛女に関する規制もありましたが、江戸時代中期の品川には500人もの飯盛女がいたそうです。
客の目的はゲームか色ごとか
矢場(やば)女
「矢場」というのは江戸時代、神社や盛り場などに設けられた弓を使った的当てゲーム場のこと。「楊弓場(ようきゅうば)」ともいいます。この矢場で接客を行ったのが「矢場女」と呼ばれた若くて美しい女性たち。画像右に立っている胸元もあらわな女性が矢場女です。客の射った矢を拾い集めるのも彼女たちの仕事ですが、わざと客にオシリを向け扇情的なポーズで客を喜ばせました。
お客もそのオシリに向けて矢を射かけるなどセクハラ三昧(女性たちは矢が当たらないよう上手によけたらしい)。サービスは次第に過激化していき、矢場の裏にある小部屋で矢場女に性的サービスをさせる店も増えていったとか。
当時は職業斡旋所が仲介した立派な職業
妾(めかけ)
現在、「私の職業は愛人です」という人はいないけれど(たぶん)、江戸時代には「妾奉公」といわれたように妾も立派な職業のひとつでした。年季の明けた遊女を身請けして妾にする場合もありましたが、「口入屋(くちいれや)」と呼ばれる職業斡旋所を通して妾を“雇う”ことも多々ありました。口入屋が仲介役となり、契約期間や給金などを取り決め、マージンをとりました。
妾を囲う際、妻がいる自宅に入れるわけにはいきませんから、別宅を用意しそこに妾を住まわせるのが普通でした。妾を「囲者(かこいもの)」「外宅(かこいもの)」と呼ぶのもこのためです。妾にはランクがあったそうで、上位クラスの妾となれば、下女つきの立派な妾宅を与えられ悠々自適の妾ライフを過ごしました。が、「安囲い(やすがこい)」といわれた下位クラスの妾の場合、ひとりの妾に数人の男性がついたんだそうで、バッティングしないよう調整したんだとか。