輸入オンリーから国内生産へーーそして、誕生した眼鏡屋さん
江戸時代初期、将軍や大名への献上品として海外から渡来した眼鏡はとても珍重されていました。珍しい舶来品はいつだってセレブの自慢のタネ。
その後、三代将軍・家光の時代になると眼鏡輸入量は激増し、1636年(寛永13年)から1638年(寛永15年)の3年間で6万個ともいわれるものすごい数の眼鏡がポルトガルから輸入されたとか。
それから間もなくいわゆる「鎖国」体制が敷かれ、日本の貿易相手はオランダと中国に限定されましたが、江戸時代を通じてたくさんの眼鏡がオランダと中国から輸入され続けました。
一方で、江戸時代中期頃になると眼鏡の国内生産も本格的になっていきます。
その先鞭となったのが、江戸時代初期に朱印船貿易で活躍した朱印船の船長・浜田弥兵衛(やひょうえ)という人物なんだとか。海外貿易をするなかで眼鏡の製造方法を会得した弥兵衛が、長崎に眼鏡のつくり方を伝えたそうな。
長崎に伝わった眼鏡の製造方法は、長崎から京へ、さらに大坂、そして江戸へと伝えられていき、やがて各地で国産眼鏡がつくられるようになったのです。
江戸時代、眼鏡づくりで活躍したのが、細かな金属加工を行う飾師(かざりし)や装飾用の水晶などを磨く細工師などといった職人たちでした。こうした職人がたくさんいた京では、早くから眼鏡屋があったようで、1665年(寛文5年)刊行の京ガイドブック『京雀』(浅井了意 著)の挿絵にも眼鏡屋が登場します。元禄時代(ざっくり300年前ぐらい)になると江戸でも眼鏡屋が見られるようになったんだとか。
こちらは江戸時代中期につくられた絵本『清水の池』(西川祐信 画)に描かれた眼鏡屋さん。店内では職人が眼鏡の玉を砥石(といし)で磨いています。国内生産が進んだとはいえ、値段の高い眼鏡は高級品で一般人には手の届かないものでした。そのため眼鏡屋も眼鏡だけでは商売が成り立たなかったそうで、眼鏡以外の細工品も扱っていたそう。
こちらは江戸の眼鏡屋さんのチラシ。「玉屋」というお店でオランダや中国からやってきた舶来品眼鏡のほか、鏡や水晶玉、寒暖計、時計なんかも扱っていたことがわかります。
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江戸時代の眼鏡がどれくらいの価格だったかは時代によって大きく異なるので難しいところですが、江戸時代後期に活躍した大ベストセラー作家・曲亭馬琴の日記に眼鏡を買った記録があり、江戸時代後期の眼鏡価格を想像することができます。
馬琴の日記によると、ライフワーク『南総里見八犬伝』を執筆中、左目の視力が低下した馬琴は眼鏡を1両1分で買ったそう。現代の金額にするとだいたい8万円くらい?
店舗の眼鏡屋のほか、行商スタイルの眼鏡屋さんもいました。
引き出しのたくさんついた大きな箱を背負っています。箱には大きく「御目鏡色々」と書いてあるのがわかります。江戸時代、「眼鏡」は「目(眼)鏡(めがね)」という呼び方だったみたいですね。また、「目鑑(めがね)」という表記もありました。
こうした行商スタイルの眼鏡屋さんは、新品の眼鏡を売るのはもちろん、壊れた眼鏡の修理してくれたり、新しい眼鏡と交換もしてくれたそう。さすがリサイクル都市・江戸だ。