まだまだある! 江戸時代は賭博のデパート
子どもの遊びから賭博になったものもありました。たとえば「穴一(あないち)」というギャンブル。これまた意外なものを道具として使います。それがこれ。
って、お金じゃん。お金で遊んではいけません。ましてや賭博はいけません。
小銭を使った少額賭博は、見つかってもそれほど厳罰にならなかったこと、時と場所を選ばないことなどから江戸時代後期から幕末にかけてよく行われたそう。
で、「穴一」とはどんな賭博かというとルールはやっぱり単純明快。
- 地面に小銭が入るより“ちょっと”大きいくらいの穴を掘る
- 参加者は穴から少し離れた場所に立つ
- 交互に穴めがけて小銭を投げ入れる!
- 穴に入ったら勝ちで、入らなかった人の銭をもらえる
お正月には子どももお金(といっても一文銭)を使って穴一をしたそうですが、今なら社会問題まっしぐらです。
ほかにもお金を使った賭博はいろいろあり、はじいたお金の表が出るか裏が出るかを賭ける「字かぬか」という賭博もあったんだとか。あれですね、コイントスに似てますね。
お次の「宝引(ほうびき)」も子どもに人気があったものの、賭博として目をつけられ幕府に何度も禁じられた遊びです。
画像右、男性が細いひもをたくさん持っています。このなかの1本に橙(だいだい)が付いていて、それを引いたら大当たり。賞品としておもちゃやお菓子なんかがもらえました。
お正月の風物詩として子どもたちにも大人気だった「宝引」ですが、参加料をとってアタリを引いた人が全額総取りするなど金品を賭けることもあり、江戸時代初期から幕府によって何度も禁じられました。
「宝引」は特に女性に人気のギャンブルだったそうで、こちらの絵にも武家の奥女中たちが「宝引」に熱中するようすが描かれています。刺激が少ない奥奉公ですからねぇ。大目に見てほしいものです。
さらに、「どっこいどっこい」というユニークなネーミングの賭博も、もとは子どもの遊びだったもの。
これはいわゆるルーレットに似たギャンブルで、中心に竹ベラのついた円盤を回転させ、竹ベラの先がさしたところが「アタリ」。街頭で行われたそうですが、とにかくイカサマが多かったらしい。
ほかにも果物を使った賭博もありました。
たとえば、柿のタネの数を予想し賭けたり、はたまたスイカの重さを予想して賭けたり……。
とにかくどんなものでも賭けのネタになったようです。
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賭博の罪にはどんな刑罰が? 賭博場は寺院や武家屋敷!?
こんな風にいろんなものでいろんな賭博を楽しんでいた江戸時代の人々ですが、もちろん賭博は違法行為でした。賭博にハマれば働くなくなったり、人の道から外れたことに手を染めるようになったりしますからね。そのため、幕府は、開幕以来、何度も何度も「賭博、ダメ!絶対!!」とお触れを出したのですが、全然守られませんでした。
ちなみにどんな刑罰が待っていたかというと、多いのが遠島。いわゆる「島流し」です。そのほか、江戸および近郊からの追放(江戸所払)だったり、100敲(たたき)の刑だったり、家財没収だったり、入墨(イレズミ)だったり……。
最悪の場合、死罪ということもありました。重い…。
こんなに悲劇的な末路が待っているにもかかわらず止められないんですから、ギャンブルおそろしい。
さて、重ねて述べますが賭博は違法なわけですからおおっぴらにはできません。では、賭場(とば)になったのはどんな場所か?
これがまた予想の斜め上。
なんと、寺社や武家屋敷、はたまた公家のお屋敷などが賭場として使われたのです。
じつは寺社や武家屋敷などは、賭博に目を光らせる町奉行の管轄外。つまり、政府の手が及ばぬ“治外法権”的なエリアだったのです。
寺社も武家屋敷も広大な敷地を要していたので、人目につきにくい場所もたくさんありました。そこを利用してギャンブル好きの下っ端奉公人などが仲間を集めて賭博に興じる、なんてことが行われていたようです。
さらに幕末にもなれば幕府の権力も地に落ちており、国定忠治などの博徒(ばくと)が幅をきかせるようになり、各地でなかば公然と賭博が行われるようになっていきました。
江戸時代の賭博がこんなにもバラエティ豊かだったとは意外ですね。そして、ギャンブルの止められなさは今も昔も変わらないようです。
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