長屋のトイレはどんなトイレ?
江戸時代、トイレのことを関西では「雪隠(せっちん)」、関東では「後架(こうか)」と呼んでいました。
で、人々が使っていたトイレにはさまざまな種類がありました。まずは江戸の職人や町人など多くの人々が暮らした賃貸集合住宅「長屋」のトイレを見てみましょう。
これは江戸時代の下町、深川の長屋を再現したものの一部で、右に見えるのがトイレです。ドアは上半分が開いており、トイレが2つ並んでいます。さらにその横にはゴミためがあります。
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長屋のトイレは男女共用の共同トイレで、「惣後架(そうこうか)」と呼ばれていたそうです。
10世帯ほどが暮らす長屋でもトイレが2つ、というのが普通だったといいますから結構混んだことでしょう。しかもドアは上半分開いているし、プライバシーなんてあったもんじゃありません。
ですから、江戸時代の人は「家のなかにあるトイレ」に憧れたとか。ちなみに家のなかにあるトイレ=内後架(うちこうか)を持つことができたのは、武家屋敷や商家といった一部の人々だけでした。
江戸時代の公衆トイレは驚きのサービス付き
江戸時代、江戸と京ではかなりトイレ事情が異なっていました。
京には早くから「辻便所(つじべんじょ)」という公衆トイレが四辻の木戸ごとに設置されていました。目的はやっぱり肥料用に排泄物を集めること。
ちなみに欧米に公衆トイレが誕生する300年も前のことだったといいますから、日本は昔からトイレ先進国だったのでしょう。
一方、江戸の各地で公衆トイレが設置されるのは江戸時代も後期に入ってからで、それまでは道路のあちこちで用を足していたそうです。
江戸市中の10ヵ所に1803年(享和3)につくられた公衆トイレはかなり豪華。間口4.5m、奥行き7.2mと広々とした休憩所付き!なかには腰掛けもあり、利用者にはなんとお茶のサービス付き。しかも無料。
なお、この公衆トイレは年間の運営費が500両(約4,000万円)と莫大な経費がかかっていたのですが、その費用はすべて排泄物を売ることでまかなえていたといいます。考えられてます。
さて、現在でも野外コンサートやマラソン大会など人手が多いイベントが開催されると仮設トイレが設置されますが、江戸時代もそれは同じでした。
お花見やお祭りなどのイベントになると、仮設トイレ(貸雪隠)業者が現れ、1回の使用料として5文(約75円)を徴収していたそうです。
人、人、人の波! これだけの人数がトイレを利用するとしたら、仮設トイレ業者はかなりボロ儲けだったんではないでしょうか。
ほかにもこんなトイレも
都市部において武家屋敷や商家などでは家屋のなかにトイレがある場合もありましたが、農村部では家族が生活をする「母屋(おもや)」とは別に、外に独立タイプのトイレが設置されてたそう。便器には大きな瓶が使われ、その上に木枠などを乗せ足場にして使用していたんだとか。
また、琉球王国や奄美大島などでは「豚便所」と呼ばれる中国発祥のユニークなトイレもありました。
これはトイレの下がブタの小屋になっていて、人間の糞尿がそのままブタの餌になるというある意味とてもエコなシステム。
しかし衛生的な問題などにより明治時代になると豚便所廃止が推奨されやがて姿を消しました。
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