売春を職業とする美少年「陰間(かげま)」の登場


若衆歌舞伎は禁じられたわけですが、歌舞伎役者、特に女形(おやま)を目指す少年による売春は変わらず行われていました。男性に抱かれることで女性らしさを学ぶことができる、として売春は女形修行の一環と考えられていたらしい。

舞台に出る前の修行中の少年役者は「陰の間の役者」と呼ばれており、これがやがて売春を商売にする少年を指す「陰間(読み:かげま)」という言葉になっていったそう。

ちょっとややこしいのでまとめるとーー

陰間(読み:かげま)とは
売春を専業にする美少年
陰子(読み:かげご)・色子(読み:いろご)とは
女形修行中で売春もする美少年
舞台子(読み:ぶたいご)とは
舞台に立つようになったあとも売春をする女形
飛子(読み:とびご)とは
地方巡業にもついていき興行先で売春する女形修行中の美少年、もしくは、どこにも所属せず出張売春をする美少年

男性の上にまたがる女装の少年が陰子(かげご)(『女貞訓下所文庫』より「陰子の図」)
男性の上にまたがる女装の少年が陰子(かげご)(『女貞訓下所文庫』より「陰子の図」)
女形修行中の少年や女形の役者たちは、芝居が終わったあとに贔屓客などに請われれば料理茶屋などの座敷へ出向き春をひさぎました。

芝居茶屋の2階で客に抱かれる陰子(かげご)(『風流艶色真似ゑもん』より)
当時の人気春画『風流艶色真似ゑもん』鈴木春信 画)より。芝居茶屋の2階で客に抱かれる陰子

そうしたわけもあり、役者同士の男色のウワサも色々と残っています。

特に世間に知られたのが、人気役者の三代目・坂東三津五郎と女形の五代目・瀬川菊之丞。彼らが世間の注目を集めたのは単に男色関係にあった(らしい)からではなく、菊之丞が三津五郎の妻に手を出し駆け落ちをした! なんてスキャンダラスな噂があったから。

今なら連日ワイドショーの格好のネタにされること必至です。さらに2人とも病死したのですがその時期がほぼ同じという偶然。江戸時代、人気役者が死亡すると訃報と追悼のために「死絵(しにえ)」というものがつくられたのですが、三津五郎と菊之丞は生前の密な関係もあり2人セットで描かれたものがたくさんあります。

死絵(しにえ)。三代目・坂東三津五郎(右)と五代目・瀬川菊之丞(左)(歌川国芳 画)
死絵(しにえ)。三代目・坂東三津五郎(右)と五代目・瀬川菊之丞(左)(歌川国芳 画)
ところで話は変わりますが、江戸時代の大ヒット小説『東海道中膝栗毛』の主人公、弥次さん喜多さんコンビをご存知でしょうか?

『東海道中膝栗毛』は伊勢を目指し江戸を出発した2人のドタバタ珍道中を描いたものですが、じつは弥次さん喜多さんが過去に男色関係にあったのです。

男色関係にあった弥次さんと喜多さん
旅の途中、各地で騒ぎを起こす迷惑コンビの弥次さんと喜多さん。
弥次さんも喜多さんも作中、江戸の長屋に住んでますが、彼らは江戸の生まれではなく、弥次さんはもともと駿河の裕福な家のお坊ちゃん、喜多さんは弥次さんご贔屓の陰間だったのです。

クドカンにより映画化もされたしりあがり寿の漫画『真夜中の弥次さん喜多さん』では弥次さんと喜多さんがヤク中のカップルとして描かれていましたが、あれは原作に沿った設定だったんですね〜。

閑話休題。

一方、売春を専業にする美少年「陰間」を抱える「陰間茶屋」という店も江戸時代中期に上方で誕生します。江戸時代に陰間と呼ばれる男娼が大人気だった、というのはわりとよく知られていますが、江戸時代265年間のうち陰間が流行したのはほんの短い期間だけ、というのはちょっと意外なんじゃないでしょうか。また、陰間が誕生したのも江戸ではなく上方が先です。

上方で絢爛豪華な元禄文化が花開いた元禄時代、その上方で陰間茶屋が大流行しました。そして八代将軍・徳川吉宗の治世である享保の頃、陰間茶屋ブームは江戸にも伝わり、宝暦〜天明(1751〜89年)にかけて隆盛期を迎えたのです。

江戸における陰間茶屋のメッカとして有名だった芳町の陰間茶屋(『かくれ閭(りょ)』より)
江戸における陰間茶屋のメッカとして有名だった芳町の陰間茶屋の店内のようす。どうみても女性にしか見えない(『かくれ閭(りょ)』より)
さて、どれくらいの陰間茶屋が江戸市中にあったのか、当時の男色ガイドブックともいうべき『男色細見三之朝』(1768年/明和5年)を参考にしますとこんな感じ。なお( )はそこにいた陰間の人数です。

  • 芳町(正式名称:堀江六軒町) 13軒(67人)
  • 堺町・葺屋町 14軒(43人)
  • 湯島天神門前町 10軒(42人)
  • 芝神明門前 7軒(26人)
  • 麹町天神(平河天神)門前 3軒(19人)
  • 英町(神田花房町) 3軒(10人)
  • 木挽町 3軒(7人)
  • 八丁堀代地 2軒(11人)

江戸の全8カ所に225人もの陰間がいたらしい(ちなみに当時の江戸の人口は推定100万人といわれている)。

芳町や境町、葺屋町など現在の東京都中央区日本橋周辺に陰間茶屋がたくさんあったのは、近くに芝居小屋があったからです。芝居と男色は切っても切れない関係なわけです。

これだけ陰間がいたということは裏返せばそれだけ需要があったということ。こう書くと「江戸には同性愛者がいっぱいいたの?」と思うかもしれませんが、それはちょっと違うのです。

当時、男色というのは同性愛者に限ったものではなく、「趣味人のたしなみ」とも考えられていたといいます。色道を探求するならば、女色と男色どちらも味わうべしーーといった考えがあり、粋人や文化人らも陰間を買いに行きました。

西洋では男色はアンモラルな行為と捉えられていましたが、日本ではそうした認識はなかったようで、みなさんわりとオープンに陰間茶屋へ通ったようです。陰間茶屋を取り締まった幕府にしても理由はあくまで「風俗が乱れる」というもので男色そのものをタブー視はしなかったというのがとてもおもしろいですね。

余談ですが男色案内書『男色細見』の著者は江戸時代を代表する鬼才・平賀源内その人です。

平賀源内の肖像画(『戯作者考補遺』表紙絵より)

平賀源内は当時から男色家として有名で、源内のペンネーム「風来山人」は男色の隠語にまでなっていました。

さてさて、陰間茶屋のメッカとして芳町は有名だったので、こんな川柳も残っています。

「よし町は 狭いところで 繁盛し」

まあ、「芳町は男色=肛門性交(狭いところ)で繁盛している」という意味ですね。

また門前町に陰間茶屋が多くあったのは、陰間を買う客のメインが僧侶だったからにほかなりません。

陰間茶屋で陰間と一戦交えている僧侶の春画(柳川重信 画)
陰間茶屋で陰間と一戦交えている僧侶の春画(柳川重信 画)
とまあ、江戸の各地にあった陰間茶屋ですが、風俗の乱れを徹底的に嫌った「寛政の改革」、さらに「天保の改革」の打撃を受け江戸時代後期にはすっかりその数を減らしました

歌川広重葛飾北斎が活躍し、江戸の庶民文化が最も花開いた「文化文政期」には陰間茶屋は江戸市中3カ所だけ(芳町・湯島天神門前・芝神明前)になっていたそうです。

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