このように、天下の将軍相手にも一歩もひかず自分のスタイルと信念を貫いた宗春。しかし、藩主就任から5年も経つと名古屋バブルにも陰りが見え始めました。

遊んでばかりの者が増えたり、風紀が乱れてきたり…。

その結果、さすがの宗春も政策の転換を迫られ、遊郭や芝居小屋も減っていき名古屋は元気を失っていきました。

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さらに、朝廷・幕府・尾張藩の複雑な三角関係もあり、「幕府と尾張藩は近いうちに戦になるんじゃないのか?」という不穏な噂までながれるように……。

もともと宗春の幕府に対抗するような政策にもろ手を挙げて賛同していなかった保守的な重臣たちは、こうした状況を危惧し秘密裡にある計画を立てます。

それは…



藩主・宗春へのクーデター


この計画に幕府老中がウラで手を貸し(将軍吉宗の関与は不明)、宗春参勤交代で国元を留守にしている間にクーデターが決行されました。

「宗春藩主時代の命令はぜんぶ無効!すべてを宗春藩主就任前に戻す!」

と、重臣たちが宣言したのです。当然、尾張藩は大混乱に陥ります。

江戸で騒動を知った宗春になすすべはありませんでした。ヘタに騒ぎ立て「お家騒動」となれば尾張藩そのものの存亡まで話が大きくなりかねない。

座して幕府からの沙汰を待つ宗春のもとに、幕府の使者がやってきました。

尾張藩内の混乱の責任を取って、隠居のうえ謹慎せよ」

さらに厳しいお沙汰は続きます。

なんと、宗春の次の藩主には宗春の実子ではなく、尾張藩の支藩(高須藩)から迎えた人物を据える、というのです。

御三家筆頭という別格ポジションの藩主にこれほど厳しく、無礼とも思える重い処分が下されるのは前代未聞のことでした。

それほどまでに宗春は幕府から疎まれ、危険視されていたとも考えられます。

幕府からのあまりの沙汰に、家臣たちは茫然。「御三家の藩主がこれほどの仕打ちをうけた前例を聞いたことないッ!」と嘆きました。

しかし、当の宗春はというと、泣き崩れる家臣たちに対しひと言、笑いながらこう言ったとか。

「“終わり初もの”と申すわな」

前代未聞のことならそれはそれで初物のように珍しくてよいではないか、というような意味です。ちなみに、「終わり」と「尾張」がかけてあります。

それにしても失脚という憂き目にあいながらも、こんな粋なシャレを飛ばせるなんて、宗春はやはり破格のお殿様だったようです。

こうして失脚した宗春は、以後、名古屋城(のち城下の下屋敷)に幽閉され、一切の外出を禁じられました。母親の葬儀に出席することすら許されなかったというから非情です。

名古屋城の古写真
かつては居城だった名古屋城に幽閉されるとは…人生というのはわからないものです
ちなみに、宗春に刃向かわれまくっていた将軍吉宗ですが、政治思想は異なれど、ひとりの人間としては宗春のことが嫌いではなかったようで、謹慎生活中の宗春に対して「なにか不足しているものはない?」とか「鷹狩にも出かけれなくて気が滅入ってない?」とか、いろいろと気遣っていたそう。うしろめたさもあったのかもしれません。

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投稿日: 投稿日:カテゴリ:カテゴリー 人物

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