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別の日。
神社に参詣した宗春、この時も周囲の度肝を抜く奇抜さで登場しました。まずなにに乗っていたかというと、
牛。
なぜか牛。
しかも、どこから調達したのか真っ白い牛だったそう。
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白馬ならぬ白牛にまたがる宗春、その日のファッションは真っ赤な着物にお気に入りの異国風の巨大笠。そして手には長さ3.6m(2間)という超ロングサイズの煙管(きせる)を持ち、周囲のざわめきなど気にもとめず、優雅にプカリ、プカリ。
これはもう、名家のお殿様というより傾奇者です。『花の慶次』です。
でも、いつもこんな奇抜なファッションだったかというとそうでもない。
神社仏閣への公式参拝の際には、きちんとした正装で臨んだそう。型破りだけど守るべき形式はちゃんと守る。そのギャップも宗春の人気の秘密かもしれません。
「なんだか、名古屋が変わる気がするがね」
宗春を見た人々はそんな予感を抱いたんではないでしょうか。
ちなみに、尾張藩というのは水戸藩、紀州藩とともに「御三家」と呼ばれる特別ポジションの大名で、徳川将軍家に次ぐ家格。もし将軍家に跡継ぎがない時は御三家から将軍を出す、というとってもエライお家。吉宗も紀州家の出身です。
なかでも尾張藩は御三家筆頭という別格中の別格。その藩主ですから影響力も計り知れません。
ただ、そもそも宗春は本来なら尾張藩主というポジションに就くはずもない立場でした。藩主の実子であったとはいえ、なにせ20男。藩主の座が回ってくるにはあまりに遠すぎます。なので、肩身は狭いけど気楽な若殿として青春時代を過ごしていました。
しかし、時代が呼んだか運命か、兄たちが次々に亡くなったり、他家に養子にいったりなど色々あって、なんと宗春に藩主のお鉢が回ってきたのです。
尾張藩主の座に就いた宗春は、江戸城にて将軍・吉宗と初対面します。この時、宗春は36歳、吉宗は48歳。宗春は当時、通春(みちはる)と名乗っていましたが、吉宗から名前の一字「宗」を与えられ、以後、宗春と名乗るようになりました。
余談ですが、藩主就任前の宗春は吉宗から結構かわいがられていたようです。まさかその若者が自分に盾突くようになるとは、さすがの吉宗もこの時は想像だにしなかったでしょう。