さて、宗春は将軍・吉宗とは真反対の方向に爆走し始めます。
まず、宗春が手始めに行ったのは、自身の政治信条をまとめたマニフェスト『温知政要』の出版でした。これを上級藩士たちに配布したのです。
21か条からなる『温知政要』。その内容はどんなものかといいますと、
- 上に立つ者は「慈」と「忍」を心がけよう。
- 倹約のしすぎは人々を苦しめる。 ←!?
- 自分の好みを下の者に押し付けてはいけない。
- 規則を増やしすぎると違反者が増えるだけ。 ←!?
- 人は適材適所。個性を生かして能力発揮。
- ストレスフリーで元気に!
などなど。
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宗春の信条は、
「政治で大事なのは締め付けじゃなくて、愛だでよ~」
このマニフェスト『温知政要』を、必死な思いで質素倹約に耐えていた将軍・吉宗にも贈呈したというのだから、宗春というのは天然なのか何なのか。
幕府が質素倹約を掲げている以上、尾張名古屋でも節約生活が強いられていたのですが、宗春はどこ吹く風と言わんばかりに、とんでもないことを次々にやらかします。
まず、「ぜいたく禁止」により制限されていた芝居の興行を奨励。
年に1回だった芝居興行を年に100回に爆増させました。
増やしすぎ!
禁止されていた藩士の芝居見物も解禁。
さらに、「風紀が乱れる」として認められていなかった遊郭の営業を公認。
結果、名古屋には3つの遊郭ができました。
さらに、「倹約のため派手な娯楽は控えろ」と幕府が命じていたにもかかわらず、盆踊りなどのお祭りを盛大にやりました。
ある盆踊りに至ってはなんと1カ月半も盆踊りが続けられたというからスゴイ。
また、女性や子どもの夜間外出を解禁し、夜でも女性や子どもが安心して町を歩けるように多数の提灯を城下に設置する、なんてこともしたそう。ホント、至れりつくせりです。
よく遊び、よく働く。
幕府の締め付け政策に対し、宗春は解放政策をとることで人々に楽しみと生きる元気を与え、名古屋の活性化を図ったわけです。
その結果、
「今、名古屋がアツいらしいよ!」
とばかりに、全国から歌舞伎役者や遊女、また商人や職を求める人がドシドシやってきて名古屋の人口は激増、空前の名古屋バブルが巻き起こりました。
その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に興(京)がさめた」とまで言われるほど。
そのほか、宗春は“治安のよい町づくり”にも力を注ぎ、藩士を巡回させて町の警備にあたらせるなどしました。宗春藩主時代、尾張藩では死刑が一度も行われなかったのも特筆事項です。