ややこしいお金のしくみを支えた「両替商」は銀行のルーツ
金貨、銀貨、銭貨の3種類が併用されていた江戸時代。
三種類のお金は相互に交換が可能で変動相場制でした。幕府はなんどか公定相場を定めようとしたのですが、なかなか難しかったようです。
しかも江戸では金がメイン、大坂では銀がメインときたもんだから江戸と大坂で取引するのもとっても複雑。
そこで活躍したのが両替商です。2015年放送の大ヒットNHK朝ドラ『あさが来た』のヒロイン・あさの嫁ぎ先としても有名になった職業です。
両替商の仕事は金貨、銀貨、銭貨の両替がメインですが、そのほか、お金を預かったり、遠くへ送金したり、お金を貸し付けたり、年貢米を売ったお金を管理したり、為替や手形の発行なども行っていました。両替商は現代の銀行のような役割をしていたわけです。
手数料をとって大繁盛した両替商ですが、なかでも有名だったのが大坂の鴻池(こうのいけ)と江戸の三井。三井両替店は、現在の三越百貨店の前身である江戸の呉服店「三井越後屋」が兼業として始めたのがルーツで、現代の三井住友銀行のご先祖にあたります。
ちなみに、両替商の看板はこんな感じ。
変わった形ですが、これは両替の際に使った分銅の形をモチーフにしているらしい。
そして、この看板は現代ではある記号に流用されています。
銀行の地図記号。
銀行の地図記号は江戸時代の両替商の看板をデザイン化したものだったんですね。こんなところにも江戸時代が生きています。
時代が江戸から明治に変わった1871年(明治4年)、全国共通のお金は新たに「円」「銭(せん)」「厘(もう)」に切り替えられ、両替商はしだいに姿を消しました。
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セレブが集うハイブランドの街・銀座は江戸時代の造幣所!?
現在、私たちが使っている1万円札や千円札などの紙幣(日本銀行券)や500円玉などの硬貨がどこでつくられているかご存じですか?
じつは紙幣と硬貨は別の場所でつくられており、紙幣は独立行政法人の国立印刷局が印刷し、日本銀行が発行・管理しています。一方、硬貨は独立行政法人の造幣局で鋳造され発行元は日本政府です。紙幣と硬貨ではつくっている場所も発行元も違うんですね。
さて、話を江戸時代に戻しましょう。
前述したように江戸時代には金貨、銀貨、銭貨の3種類のお金が流通していましたが、それぞれ「金座(きんざ)」「銀座(ぎんざ)」「銭座(ぜにざ)」でつくられていました。
金座は幕府の管轄する金貨の鋳造および発行所で、江戸の本石町(現・中央区日本橋本石町)にありました。はじめは江戸以外にも駿府(現・静岡県)や京、佐渡にもありましたが、のち江戸に一本化されました。
明治時代になり造幣局が新設されると金座はお役御免となりましたが、金座の跡地には現在もお金にとっても関わりの深い建物があります。
日本銀行の本店です。
銀座は銀貨を鋳造・発行した場所の名で、はじめは京の伏見と駿府につくられ、大坂や長崎にもありましたが、金座とおなじくその後、江戸に統合されました。
現在、「銀座」といえば東京を代表する繁華街でハイブランドショップが立ち並ぶあの銀座を思い浮かべる人が多いでしょう。
そう、駿府にあった銀座を江戸に移した場所こそ、現在の銀座であり、銀座の地名もこれに由来していたのです。今では多くの人がお金を落としていく場所は、かつてはお金をつくっていた場所だったなんとも面白い。
ちなみに、移転する前に駿府にあった銀座の跡地は現在、「両替町」という地名になっています。
藩のなかだけで通用する紙幣「藩札」
江戸時代に全国で流通した金貨、銀貨、銭貨は幕府の発行したお金でしたが、それ以外に紙のお金もありました。それが藩札です。
藩札が金貨、銀貨、銭貨と異なる点は「藩内でしか使用できないこと」。ほかの藩に持って行ってもただの紙切れです。
全国統一のお金ができたとはいえ、江戸や大坂などの大都市にお金が集まり、結果、地方の藩などではお金が不足していました。それを補うために誕生したのが藩札です。全国の藩のおよそ8割で藩札が発行されたとか。
藩のなかには藩の財政難を解決する手段として藩札を大量に発行するところもあり、結果、経済の混乱を招くこともありました。
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