次期藩主に送った鷹山の言葉が名言すぎる
早すぎる隠居の理由は「改革挫折の責任を負って」ともいわれますが、一方で「隠居」という自由度の高いポジションにつくことが目的だったという見方もあります。
隠居なら参覲交代しなくていいので、米沢に腰を据えて改革に挑めますし、藩主時代よりは自由に領内を歩いて実情を見聞できる、と鷹山は考えたのかもしれません。
家督を治広に譲る際に鷹山公が「藩主の心得」として贈った言葉、いわゆる「伝国の辞」が至言なのでご紹介します。
- 一、国家は先祖より子孫へ伝え候 国家にして我私すべき物には来れなく候
- 一、人民は国家に属したる人民にして 我私すべき物にはこれなく候
- 一、国家人民のために立たる君にし 君のために立たる国家人民にはこれなく候
ざっくり要約しますとこんな感じ。
- 一、藩は先祖から子孫へ伝えられるものなので私物化してはならない
- 一、領民は藩主の私物ではない
- 一、藩主は藩と領民のためにこそ存在する
この「伝国の辞」は以降、明治時代まで代々の上杉家藩主に「家訓」として受け継がれました。すべては領民のためにーーという“鷹山イズム”はこうして脈々と受け継がれていったのです。
ここがスゴイよ鷹山公!
ガチガチの封建社会の当時にあって、「領民とゴマは絞れば絞るほど…」と考えるトップもたくさんいたが、鷹山は「藩と藩主は領民を守るために存在する」という超近代的な思考を持っていた。
ガチガチの封建社会の当時にあって、「領民とゴマは絞れば絞るほど…」と考えるトップもたくさんいたが、鷹山は「藩と藩主は領民を守るために存在する」という超近代的な思考を持っていた。
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鷹山カムバック! 長期的視点で行われた改革第2ステージ
偉大な先代の後に続くのはいつの時代も難しいもの。
十代藩主・治広の代になると改革の空気も薄れ、再び米沢藩に暗雲が立ち込め始めます。隠居からわずか5年、鷹山は表舞台にカムバックします。
藩政改革第2ステージで実行リーダーに任命されたのは、財政面に強い莅戸義政(のぞきよしまさ)。莅戸は前リーダーの竹俣当綱がクビになったあとに隠居していたのですが、鷹山が呼び戻し抜擢しました。
第2ステージで鷹山が行ったことをザッと並べるとーー
- 1.上書箱(じょうしょばこ)の設置
- 身分を問わず広く意見を聞くために“ご意見BOX”を設置。八代将軍・徳川吉宗の「目安箱」みたいなもの。町人だろうが農民だろうが誰でもOK! 改革の役に立ちそうな意見はドンドン採用された。
- 2.「十六ヵ年財政再建計画」の実施
- 経済面に明るい莅戸の提案により実施された大胆な財政再建計画。藩費の半分を借金返済にあて、16年で完済しようというもの。
- 3.藩をあげての商品開発
- 米沢ならではの商品開発をし、米沢を元気に!鷹山の改革のなかでバラエティ豊かな米沢名物が誕生。
たとえば「米沢織」(よねざわおり)。
鷹山の最終目標は、養蚕から絹製品の作成まで一気通貫で領内で行うこと。そのため、藩の役人に命じカイコの飼育方法などマニュアル化(『養蚕手引』)させ領内に配布したり、織物職人を他藩からスカウトしたり。
また、メイン労働力として武家の婦女子に目をつけたのもポイント。鷹山の側室・お豊の方も率先して働いたとか。
こうした努力により江戸時代後期には、「絹織物の産地」として米沢は全国的にも知られるようになりました。
またたとえば「鯉料理」。
当時、栄養豊富なタンパク源として鯉は“医療食”として珍重されていました。
そこで鷹山は鯉養殖の先進地から鯉の養殖のノウハウを教わり、米沢城のお堀で鯉の稚魚を飼育。これが、現代でも有名な米沢鯉の始まりだそう。その後、領内の池や沼、さらには藩士たちの屋敷にも池をつくらせ鯉の養殖をさせたんだとか。
さらに「お鷹ぽっぽ」。
冬の間は農閑期となり農民たちの手もすくーーここに着目した鷹山は冬の副業として木彫りの工芸品(笹野一刀彫)をつくることを奨励。
今に残る米沢の工芸品「お鷹ぽっぽ」もそのひとつ。縁起物らしい。
ここがスゴイよ鷹山公!
いろいろな“ムダ”を極力カット。そして今まで見えていなかった“使えるもの”を発見し、その資産を最大限に活用できるよういろいろ工夫!老人や婦女子を労働力として動員したのはその代表例。彼らも労働を通じて収入と生きがいをゲットできるのでいいことづくし!
いろいろな“ムダ”を極力カット。そして今まで見えていなかった“使えるもの”を発見し、その資産を最大限に活用できるよういろいろ工夫!老人や婦女子を労働力として動員したのはその代表例。彼らも労働を通じて収入と生きがいをゲットできるのでいいことづくし!