妻と愛人とひとつ屋根の下で暮らしたマルチな文化人
狂歌師・大田南畝
(おおたなんぽ)
大田南畝は江戸時代中期から後期にかけて活躍した文化人で、「蜀山人(しょくさんじん)」の号でも知られています。
下級武士という身分ながら狂歌師として名を馳せ「狂歌ブーム」の火付け役となったほか、学者でもあり作家でもあるというマルチな才能を多方面で発揮しました。
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現代ではちょっとマイナーな人物扱いになってしまいましたが、江戸時代には超有名人でした。交友関係も広く、狂歌の仲間には人気歌舞伎役者や有名絵師、流行作家など当時の文化の担い手たちがズラリ。
葛飾北斎ら当代きっての浮世絵師とコラボ作品をつくったりもしています。
下級武士として真面目に働く顔(なんと70歳過ぎても役に就いていた)と、文化人として仲間と狂歌を詠んだり遊んだりする顔。
2つの顔を巧みに使い分けていた南畝を射止めたのは吉原の若い遊女でした。
お相手は、吉原遊郭にある松葉屋の遊女・三保崎。
吉原の妓楼主にも狂歌仲間がいたようで、遊郭内でも狂歌の集まりが開かれることがたびたびあり、その際に2人は出会ったそう。37歳の南畝、20歳そこそこの三保崎に一目ボレ。熱烈な恋情を狂歌に込めて贈りました。
「をやまんと すれども雨の あししげく 又もふみこむ 恋のぬかるみ」
もう、ズブズブに三保崎に惚れ込んでいます。
三保崎を我が物にしたい南畝は、ついに大金をはたいて三保崎を身請けします。名を「お賤(しず)」と改め妾となった三保崎を南畝が住まわせたのは、妻子と自分の両親が同居する我が家の離れ。
現代なら即離婚案件でしょうが、江戸時代には本妻と妾がひとつ屋根の下に暮らすというのは、さほど珍しくなかったとか。
しかし、お賤との生活は長くは続きませんでした。
もともと病弱だったのか遊女としての過酷な暮らしのなかで体を壊していたのか、お賤は20代の若さで世を去りました。
お賤亡き後も南畝の愛情が薄れることはなく、命日には毎年仲間を集めて法要を営んだそう。二十九回忌に詠んだ狂歌がまた切ない。
「三十年(みそとし)に ひととせたらず 廿日(はつか)には ふつかにみたぬ 日こそわすれぬ」
お賤の命日である19日を決して忘れないよ、という想いを込めた狂歌です。
とまぁ、若い妾に入れあげていた南畝ですが、本妻へも深い愛情を注いでいました。
多忙な南畝を支えた妻・里与(りよ)は28年間、南畝に連れ添いましたが44歳で他界します。糟糠の妻に先立たれた南畝は亡き妻を想い、悲しみに満ちた追悼の詩をつくっています。
マルチな文化人は情の濃い人物だったようです。