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後世に描かれた肖像画ですが、漂う普通じゃないオーラ。なかなかのイケメンです。
平賀源内は、とにかく好奇心が尋常ではなく、何にでもトライしてみました。といえば聞こえはいいのですが、その肩書きたるや本草学者(薬学者)、地質学者、鉱山技師、蘭学者、発明家、起業家、イベントプランナー、作家、コピーライター、陶芸家、西洋画家など、振れ幅が大きすぎて、もはや何が本職かわからないほど。
そんな彼の好奇心に満ちた人生をまとめました。
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平賀源内が生きた時代は江戸時代の中頃。“暴れん坊将軍”こと8代将軍・徳川吉宗が世を治めたり、老中・田沼意次が幅を利かせていた頃。源内は讃岐国(現・香川県さぬき市)にて下級武士の子として生まれました。
子どもの頃からとにかく好奇心旺盛、思いついたアイデアを形にしないと気が済まない。たとえば、11歳のときに作ったカラクリ掛け軸がこれ。

「お神酒天神」の掛け軸。画像引用元:YSミニ辞典
掛け軸の前に徳利を置けば、天神様の顔が酔ったように赤く変わるという仕掛けで、周囲の大人を仰天させました。
「天狗小僧」ともあだ名された源内少年の神童っぷりは、高松藩主の耳にまで届くまでになり、下級武士の子ながら、藩医に学問を教えてもらえるという高待遇を得ます。
そして、25歳の時、源内の人生に大きな影響を与える出来事が起こります。
それは、藩からの遊学許可。
遊学先は西洋との玄関口・出島のあるインターナショナルな地域、
長崎。

おなじみ扇型の出島。オランダ貿易に関わるオランダ人たちはこの人工島に居住しました
並外れた好奇心を持つ源内を長崎に送り出す。
藩としては、もちろん「ゆくゆくは藩に還元してくれれば」という意図なわけですが、初めて触れる生の西洋文化や最新知識にビシビシ刺激を受けた源内は、どうにもうずうずが止まらなくなり、脱藩して浪人になってしまいます。これはひどい。
枷の取れた天狗小僧が目指すは江戸。
平賀源内、27歳の時のことでした。
日本初の物産会を主催
現代のように物流も交通網も未発達だった江戸時代にあって、源内は全国の飛脚問屋と契約を結び独自の物流網を整えることで全国各地から珍しい薬草や鉱物などを集め、多くの参加者に公開する場をつくりました。
その一方でチラシ(引札)をつくり、全国各地の学者に事前配布したりとマーケティングも自ら手がけるのだから、この人いつ寝てるの?

第五回東都薬品会のプロモーションのため平賀源内がつくったチラシ
特に1762年(宝暦12)に開催した物産展「第五回東都薬品会」は画期的な規模の物産展となり、出品数が1,300種を超える大イベントとなりました。さらにイベント終了後には出品物の図録『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』をせっせとつくり出版するという忙しさ。

全出品物のうち特に重要だと源内が判断した360種を品評した『物類品隲』。物産データとして非常に意義のあるものでした
物産会の成功により「本草学者・平賀源内」の名は江戸で高まり、時の老中・田沼意次も知るところになりました。殖産興業を推進していた意次は物産会のスポンサーにもなるほど。
「あの天狗小僧が、江戸で旋風を巻き起こしている」
このニュースが遠く讃岐にまで届くと、藩主の絶対命令により源内は国元に呼び戻されました。2年は国元で働いた源内ですが、どうしてもウズウズが抑えきれず、またもや退職願いを提出します。
藩が絶対だった江戸時代において、常識はずれともいえる2度目の退職願い。
これに対し藩主の答えは「ほかに一生仕えないのなら、退職を認める」。つまり「生涯フリーター縛り」というまこと厳しい条件。
源内はこの条件をのみます。
ふたたび「自由」を手に入れた源内ですが、将来にわたり「安定した収入」や「身分の保障」を絶たれます。これがのちのち自らの首を絞めることになるとは、若き平賀源内は想像していませんでした。
いろんなものを発明
とめどなくあふれるアイデアを源内は発明品として形にしました。どんな発明品があるかというと…
たとえば日本初の万歩計「量歩計」。

日本初の万歩計「量歩計」(平賀源内 発明)。画像引用元:WISDOM
ヨーロッパ製の歩数計を手に入れた源内は日本風に改良を加え「量歩計」という万歩計の元祖のようなものを発明しました。
また、寒暖計もつくっています。オランダ製の寒暖計を入手した源内は、「これならすぐつくれそう」と言って実際に作ったそう。
ほか、燃えない布「火浣布(かかんぷ)」。

平賀源内発明の燃えない布「火浣布」。画像引用元:大人の科学.net
源内は秩父山中で偶然に石綿(アスベスト)を発見したことをきっかけに、石綿を混ぜて織った世にも珍しい燃えない布「火浣布」をつくりあげました。試作品を自信満々に幕府に献上し、「よっしゃ、火浣布を産業化しよ!」と目論んでいた源内でしたが、技術的にも難しく実用化には至りませんでした。
さらに、日本初の国産毛織物も源内が第一人者です。当時、輸入にたより高級品だった羅紗(らしゃ)の国産化を目指し、なんと羊の飼育から始めました。ラーメンを作るにあたり小麦から作るTOKIOに通じるものがある。ただし、これも軌道に乗らず頓挫。
そうなんです、天才・奇才といわれる平賀源内ですが、実によく失敗しています。
「失敗を恐れるな」とはよく言いますが、「生涯フリーター縛り」による身分の保障もないなか、過去の成功の焼き直しもせず、この後も源内は自らの好奇心に突き動かされていきます。
鉱山家としてひと山当ててやる!
本草学者として活躍したり、発明家として発明にいそしむ一方、前述したように石綿(アスベスト)を発見した経験のあった源内が乗り出したのが、金山の再開発事業。
お金と人出をどしどし費やしますが、肝心の金があまり出ず失敗。
その後、鉄山の開発事業に乗り出しましたが、技術者の技量不足でこれも失敗に終わりました…。
ただ、"鉱山家"源内の名は広く知られていたようで、秋田藩からのオファーを受け鉱山開発の指導をしたそうです。
オリジナル陶器を輸出しよう!
源内は陶芸にも興味を持ちます。
長崎に留学していた時、中国やオランダから輸入される陶磁器が高額で取引されているのを見た源内の発想は、
「いい陶磁器を日本でつくり、むしろ世界に輸出してやれ」
スケールがデカイ。で、本当に自らつくりました。

「源内焼」と呼ばれる観賞用の陶磁器(平賀源内 考案)
これは源内が考案した「源内焼」と呼ばれる観賞用の陶磁器。よく見ると、世界地図がデザインされていて、“世界”を見据えて源内の心意気が伺えます。
源内は故郷の志度やその周辺を拠点に、自ら指導者となってまで源内焼の産業化&輸出を目指しました。が、スポンサーがつかず資金不足などがネックになり、またしても失敗に終わりました。
日本の西洋画の源流に源内あり!?
アーティスト源内、陶芸だけでなく西洋画も描いています。

『西洋婦人図』(平賀源内 画)
なかなか力強く色合いもステキです。この『西洋婦人図』は日本における西洋画の先駆的作品といわれています(一説に日本初の西洋画とも)。
好奇心旺盛な源内は、長崎留学中に西洋画の技法も独学でマスターしたそう。
ちなみに、鉱山開発の指導のため秋田藩に行った際、源内は秋田藩主と藩士・小野田直武に西洋画の画法を教えました。その後、源内とともに江戸へ出た弟子の小野田はある歴史的作品の挿絵を手がけます。
それは、

日本初の翻訳医学書として有名な『解体新書』です。

すばらしい挿絵。師匠・源内が教えたであろう陰影法がふんだんに使われています。
ちなみに、『解体新書』の序文は源内が書いているのだから、まあ、この人は本当になんでもしてます。
『解体新書』の著者のひとりである蘭方医・杉田玄白は源内の無二の親友だったのですが、玄白は友・源内についてこんな風に言っています。

「(源内は)生まれつき物の理を悟ることが早く、時代の風を読むことにも長けた才人である」
ベストセラー作家になった!
浪人である源内は食べていくために自分で稼がねばなりません。
ということで、作家もやりました。もともと俳句もたしなんでいた源内は文才にも恵まれていたようです。
35歳の時に「風来山人(ふうらいさんじん)」のペンネームで出した『風流志道軒傳』『根南志具佐(ねなしぐさ)』などの戯作が大ヒット、戯作の第一人者になりました。
さらに、「福内喜外(ふくうちきがい)」のペンネームで書いた浄瑠璃の脚本『神霊矢口渡(やぐちのわたし)』も大ヒット、同作は歌舞伎化もされ現在でも上演されているというからスゴイ。

1991年公演の『神霊矢口渡』。画像引用元:文化デジタルライブラリー
ほかにとっても奇抜な本も書いています。
オナラを真面目に考えた文化論で、タイトルは『放屁論』。

迷画として名高い『屁合戦絵巻』より
源内、いわく
「(おならの)音に三等あり。
ブツと鳴るもの上品にしてその形円(まろ)く、
ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、
スーとすかすもの下品にて細長い」

なお、『放屁論』は屁を論じたものですが、ふむふむと読んでいくと、最終的には社会批判という重いテーマに繋がっていきます。
作家として十数作品を世に送り出した源内ですが、印税制度もない時代、いくらヒットしてもそれだけで大儲けとはなりませんでした。な、なんと…。
あの有名キャッチコピーを考案!?
プロモーションが得意で文才のあった源内は、いくつかキャッチコピーを考案しコピーライターの元祖ともいわれています。特に有名なコピーがこれに関するもの。

うなぎ。
一説に、夏場にうなぎの売上が伸びないことに悩んだうなぎ屋に頼まれた源内が考えたキャッチコピーが
本日、土用丑の日。
このキャッチコピーを上手く使うことでうなぎが大売れしたんだとか。これにより「夏といえばうなぎ」といわれるまでに土用丑の日のうなぎは大流行したといわれてます。(考案者は諸説あり)
また、清水餅というスイーツの宣伝コピーも源内がやったそうです。
さらに、源内は日本初のCMソングも手がけています。歯磨き粉「漱石膏」の宣伝用に作詞作曲したものがそれで、江戸で流行したらしい。
それにしても「日本初」をいくつやってのけているのか…。
謎の物体「エレキテル」を復活!
さて、平賀源内の業績として一番知られているのがエレキテル。源内が発明した、と勘違いされることも多いですが、「発明」ではなく「修復」。
まず、エレキテルとはこんなもの。

静電気発生装置「エレキテル」(平賀源内が修復)。※これは復元です
エレキテルは静電気発生装置なんですが、当時、西洋では見世物や治療なんかに使われていたそうです。
で、壊れたエレキテルをたまたま源内が手に入れます(入手経緯は不明)。当然、エレキテルに夢中になる源内。
ただ、さすがの源内でも簡単に修復はできません。なぜなら「静電気」というものの原理もわからないので、それは無理ゲー過ぎる。当時、西洋ですらまだ「電気」についての研究はそれほど進んでいない状況でした。
しかし、源内は情報が乏しいなかあきらめることなく、独自に勉強をし試行錯誤を重ねることで、エレキテル入手から7年後(!)、ついに修復に成功したのです。

「これで俺もようやく後世に名を残す仕事ができた!」
自信満々にエレキテルを引っさげ、源内は貴人や大商人、武家などセレブ相手に実演パフォーマンスを行いました。青い火花が散りビリビリする謎の箱に人々は興味津々、たちまち大評判となり、一躍、源内は時の人となります。平賀源内、48歳の時のことでした。

源内の死後に出版された『紅毛雑話』に描かれたエレキテルを使っての電気治療のようす。著者の森島中良は源内の門人
が、エレキテルブームはあっけなく終わりました。
“ビリっ”とさせ人を驚かせるエレキテルは「見世物」として一瞬話題にはなりましたが、人々はすぐに興味を失ってしまったのです。源内はエレキテルを医療器具として使う予定だったともいわれますが、それには電流が弱すぎました。
エレキテルから電気学に発展することができたら源内の評価は確たるものになっていたかもしれませんが、エレキテル研究はここで終わってしまいます。
平賀源内の晩年
溢れ出るアイデアとそれを実行する行動力で凡人には思いもよらないものを次々と発表し、常に人々を驚かせてきた源内ですが、実用化されたものはほとんどなく、世間の評価は山師(ペテン師)でした。

終生浪人の道を選んだ源内は、常に資金不足であり生活のため細工物をつくるなどアルバイトもしていました。
自信家だったという源内は、理想と現実の落差に次第に焦りを募らせ、鬱々としたものを内に溜め込んでいきました。晩年の源内は心のバランスを崩し癇癪を起こすことが多くなったといわれています。
そして、エレキテル修復という快挙からわずか2年後、平賀源内は投獄されてしまいます。
事件の詳細は不明な点が多いのですが、大名屋敷の修理を請け負った際、酔った源内が勘違いから大工2人を殺傷してしまったといわれています。
投獄から1ヶ月後、源内は獄中で世を去りました。享年52。死因については、破傷風による病死とも絶食しての餓死ともいわれてますが真相は不明です。
最後に。
山師と後ろ指を指されていた平賀源内。
孤独な源内の葬儀を執り行い、その後、墓碑を建てるのまで尽力した人物がいます。
それは、若き日に出会い、ともに『解体新書』の出版に情熱を注いだこともあった
杉田玄白。

墓碑には生涯の親友・平賀源内を悼む、玄白の言葉が刻まれています。
嗟 非常ノ人、
常識にとらわれない源内よ
非常ノ事ヲ好ミ、
常識を超えたことを好み、
行ヒ是レ非常、
やることも常識を超えていた
何ゾ非常ニ死スルヤ
だからといって、どうして非常な最後まで迎えてしまうのか

東京都台東区橋場にある平賀源内の墓。画像引用元:猫のあしあと
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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?
1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。
(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。
(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。
江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?
パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。
「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。