【学校では教えない】江戸時代の奇人変人 12人の生き方が自由すぎる【当時から有名】

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265年続いた江戸時代。厳しい封建社会といったイメージですが、自分に正直に生きた人々がいました。町人から大名まで「奇人」「変人」と当時からいわれた超個性派の12人を紹介します。


13歳の少年の人生を変えたのは、初めて足を踏み入れた京の島原遊郭。以来、遊郭のとりことなった男は壮大なプロジェクトを完遂します。

1人目
全国を訪ね歩いた遊郭のエキスパート

遊郭百科を完成 畠山箕山


「花盛春長閑」(二代歌川国貞 画)
(「花盛春長閑」二代歌川国貞 画)
江戸時代、満開の夜桜を眺めながら美しい遊女たちと酒を酌み交わす様子。箕山もこのように楽しんだのか。

1626年(寛永3)、畠山箕山(はたけやまきざん)は京の裕福な染物屋の跡取り息子として生まれました。幼い頃に両親を亡くし継いだ箕山でしたが、13歳の時にその後の人生を変える体験をします。

それは初めて足を踏み入れた島原遊郭でのあでやかな時間。すっかり遊郭のとりことなった箕山は、「オレ、遊郭での恋の駆け引きを極める!」という大望を抱き、親が遺してくれた店の財産をそそぎこみ、14歳で遊郭に通いまくりました

しかし、10年も経たずに財産を食いつぶし、店は倒産。箕山は追われるように京から逃げ大坂に移住します。セレブだった箕山は、宴席でお客に座興を見せる“男芸者”の太鼓持ち(幇間、末社とも)にまで身を持ち崩すのですが、それでもなんとかやりくりして遊郭に出入りし続けました


「どんなことがあっても、けっしてあきらめない(遊郭通いを)」


やがて遊郭のエキスパートとなっていった箕山は「色の道を、茶道や華道のような文化として大成させたい」と思うようになり、東は江戸の吉原遊郭、西は長崎の丸山遊郭まで全国津々浦々の遊郭を30年にわたって探訪します。

箕山53歳。ついに前代未聞の遊郭百科事典『色道大鏡(しきどうおおかがみ)』全18巻を完成させました。そこには、遊郭内のしきたりをはじめ、全国の遊郭の店の配置図、遊女伝、“野暮”から“粋”への道筋を説明した色道の極意など、遊郭に関するありとあらゆる事柄が解説されています。

身を持ち崩してなお遊郭通いを続けた箕山を「馬鹿な男だ」世間は笑いましたが、この男の人生、なぜか妙にすがすがしい。『色道大鏡』にある言葉です。「総じてものを飾ったりつくろったりするのは、初心者や田舎者のすることだよ



日本初の銅版画を製作し西洋画のパイオニアとなったり、お手製コーヒーミルまでつくる新しモノ好きの自由人。器用な才人は奇妙な奇人でもあった。

2人目
あふれる好奇心で時代の先を走った自由人

絵師&蘭学者 司馬江漢


司馬江漢の肖像画
有名な江漢の肖像画。これは江漢の自画像をもとに明治の洋画家・高橋由一が描いた油絵
司馬江漢は、江戸時代中期の1747年(延享4)、江戸の町家で生まれました。幼い頃から好奇心旺盛だった江漢は、当代きっての人気浮世絵師鈴木春信に浮世絵を学び、中国人絵師に学び中国伝来の写実画もマスター。

江漢の好奇心は最新の西洋文物へと向かい、西洋版画や油絵に興味を持つと、洋書を参考にして日本初の銅版画をつくっちゃいました。

それだけでなく、この作品、覗き眼鏡で見るのが前提となっているのが面白い。なんと、覗き眼鏡で見ると立体的に見えるとか。3Dの先駆けです

とにかく好奇心旺盛で行動力もある江漢は、42歳の時、ひとりで長崎へ向かいました。当時の長崎といえば西洋文化の入り口であり、最新知識の宝庫。ここに西洋絵画の研究をしに行ったのです。

長崎で初めてたくさんの輸入油絵を目にした江漢は、今度はまだ国内では誰も描いたことのない油絵に挑戦します。さっそくオリジナル油絵の具をつくると、ただ真似るだけでなく、浮世絵の画法と西洋の遠近法や陰影法をミックスさせ日本初の油絵も完成させます。すごい。

富士山を好んで描いた司馬江漢(『駿州薩陀山富士遠望図』)
富士山を好んで描いた江漢。こちらも富士山を大パノラマで描いた油絵。(『駿州薩陀山富士遠望図』)
江漢が秀でていたのは絵画だけではありません。蘭学者としても最新の天文学、地学などに通じ、世界地図を製作したり、「コペルニクスの地動説」を著書のなかで紹介するなどもしています。

また、「和蘭茶臼(おらんだちゃうす)」というコーヒーミルをつくってみたり、晩年には人間観や人生観、学問観、社会観など江漢のあらゆる考え方がつまった『春波楼筆記(しゅんぱろうひっき)』という随筆を著してみたりとにかく色んなことをやりました。

司馬江漢お手製のコーヒーミル
江漢お手製のコーヒーミル。薬草を煎じる薬研(やげん)として使われたとか。斬新。
そんな異才の江漢は、同じく異才として超がつくほど有名な平賀源内と友だちでした。“類友”というやつでしょう。友だちの源内も“奇人”といわれた人物ですが、晩年の江漢もまた当時から“奇人”といわれていました。

江漢の奇人ぶりを表す有名なエピソードをご紹介します。1813年(文化10)のある日、江漢の知人たちにこんな手紙が届きました。

「江漢先生は老衰し、絵も描かず、蘭学や天文にも飽きてしまい隠棲していましたが、ついに悟りを開いて死にました」。それは江漢の死亡通知書。知人たちは突然のことに愕然とし、悲嘆にくれます。

ただし、これを送ったのは死んだはずの当の江漢。人づきあいが面倒になったのか、この奇行はひどい。

ある日のことですが、江漢がやむを得ない用事があり外出すると、死亡通知書を送りつけた知人と出くわしたことがありました。

肝をつぶした知人を無視して江漢が無言で立ち去ろうとするものだから、「え、ちょっ、江漢先生ですよね? 先生、先生!」と知人はどこまでも追いかけてくる。たまりかねた江漢は「ええい、死人がしゃべるか!」と知人を叱り飛ばし、その場を立ち去ったといいます。うーん、奇人です。

それから5年後、司馬江漢は本当に世を去りました。72歳でした。辞世は「江漢は 年が寄ったで死ぬるなり 浮世に残す 浮き絵一枚」。




鳥に憧れ空を飛ぶことを夢見た男。ついに彼は木製の自作グライダーで橋の上から飛ぶのだが、事態は思わぬことに。

3人目
ライト兄弟の飛行より100年以上前。日本に空を飛んだ男がいた

鳥人・浮田幸吉


浮田幸吉が空を飛んだグライダーの模型。(大見寺所蔵)
浮田幸吉が空を飛んだグライダーの模型。(大見寺所蔵)

備前国児島郡八浜(現・岡山県玉野市)の宿屋の息子として生まれた浮田幸吉。幼くして父を亡くすも、幸吉は生来の手先の器用さを活かし表具師(ひょうぐし/屏風や掛け軸などの仕立て、修繕を行う職人)として生計を立てます。

ある日、幸吉は空を飛ぶ鳥を見て「人間だって鳥のように空を飛べるのではないか……」という思いを抱きます。力学の書籍などない時代なので、幸吉が参考にしたのは、本物の鳥。鳥を生け捕りにしては翼と胴体との比率を測ったり、鳥の飛び方を狂ったように観察したり

そうして、幸吉は試作に試作を重ね、現在のグライダーのような翼を完成させました。

1785年(天明5)の夏のある日。岡山を流れる旭川に架かる京橋の欄干には、全長9mのグライダーを装備した幸吉の姿あり。橋の下から吹き上げる絶好の風。欄干を蹴った幸吉は、ふわりと空中に舞い上がりました。

風に乗った機体は数十m滑空、河原でなにも知らず夕涼みをしていた人々の頭上をくるりと旋回しました。その後、すぐに機体は落下してしまいましたが、幸吉は日本で初めて空を飛ぶことに成功したのです。

これは同じようなグライダーで空を飛んだドイツのオットー・リリエンタール、ライト兄弟の動力飛行などより100年以上も早い快挙。

ただし、快挙がすぎました。

幸吉の試みはあまりに新しく、人が飛ぶなどとは想像もできない時代。目撃した人々は、「天狗が飛んできた」「鳥みたいな人が空から降りてきた」など大騒ぎして現場はパニック。幸吉は騒乱の罪で捕らえられ岡山を追われてしまいます

その後、幸吉は駿河の府中(現・静岡県静岡市)に移り住み、入れ歯師として評判を取りました。しかし、空を飛ぶことへの夢を捨てきれず、50歳の時、改良したグライダーで再び飛行に挑戦、安倍川上空を数十秒滑空したともいわれます。

幸吉の最期については、空を飛んで世を騒がせた罪により死罪になったとも、遠江国見附(現・静岡県磐田市)にて平穏な余生を送り長寿を全うしたとも伝えられています。


からくり人形、写真機、ライター、ピストル、万歩計にエレキテル……生涯のうちに発明したものは数知れず。富や名声そっちのけで発明に生きた稀代の天才エンジニアが加賀にいた。

4人目
加賀のレオナルド・ダ・ヴィンチ

からくり師・大野弁吉


「ねずみの宝運び」大野弁吉が得意としたからくり人形のひとつ
弁吉が得意としたからくり人形のひとつ「ねずみの宝運び」。人形が打つ鼓に合わせてねずみが倉に食べ物を運ぶ、というからくり
からくり人形などをつくる細工師の家に生まれた弁吉は、幼い頃から器用だったそうで、父親がつくるからくり人形などもひと目見ただけで再現してしまったそうです。

やがて、弁吉は彼の才能に惚れた豪商の援助を受け、長崎に留学。オランダ人から当時最新の天文学や医学、機械工学、理化学などを学び、対馬を経て朝鮮へ渡り、そこでもさまざまな技術を習得したといいます。(長崎時代の師匠はシーボルトだったという説も)

結婚後、妻の実家である加賀国大野村(現・石川県金沢市)に移住、生活用品をつくる職人として働くかたわら、「からくり師」として次々に発明品を世に送り出しました。

博学でアイデア豊富、手先も器用な弁吉が生み出す発明品はじつにバラエティ豊か。わずか5cmの茶運び人形を作ったかと思えば、鶴のかたちをした模型飛行機を飛ばし人々を驚かせたり、たった1枚の銀板写真を見て木製のカメラを作りあげ妻を撮影したとも。

凝り性の弁吉はアイデアが頭に浮かぶと、完成するまで寝食を忘れて作業場にこもり製作に没頭したそうです。

弁吉の才能に抱えたい藩からの出世の誘いも、弁吉は富や名声なので断ります。本職の仕事も気が向かなければやらない気まぐれもので、当然、生活は常に苦しいものでした。

弁吉のよき理解者で加賀を代表する豪商・銭屋五兵衛も見るに見かねて弁吉に個人的援助を申し出ましたが、これすら弁吉は断ったとか。

銭屋五兵衛(からくり師・大野弁吉のよき理解者だった)
弁吉のよき理解者だった銭屋五兵衛。五兵衛が非業の死を遂げたあと、加賀の天才は人と交わることすら避けたという
無欲に生きた弁吉の名はあまり世間に知られていませんが、その独創的な発明は今に残り、彼が育てた弟子たちも明治時代に幅広い分野で活躍しました。



絢爛豪華な文化が花開いた300年前の元禄時代、京に一風変わったという男がいました。彼がとにかく愛したもの……それは縞々。

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あらゆるものを縞々にしたい異常なる縞模様愛

縞の勘十郎


縞模様は江戸時代中期以降、男女問わず人気(『橋上の行交』勝川春潮 画)
縞模様は江戸時代中期以降、男女問わず人気。縞模様といってもバリエーション豊かで、勘十郎ならずとも人々は縞模様ファッションを楽しんでいたようです。(『橋上の行交』勝川春潮)
京で書画骨董の目利きをしていた桜木勘十郎は、とにかく縞模様が大好き。着物や帯、足袋はもちろん草履にいたるまで縞模様の縞々ファッション。扇や財布といった小物もこだわりの縞模様

それだけにとどまりません。食事に使う器が縞模様なら、そこに盛り付ける食材も大根やごぼうといったできるだけ“筋”のあるものを選び、縞模様に盛り付けさせたといいますから異常です。

江戸時代中期につくられた縞模様の食器
江戸時代中期につくられた縞模様の食器。勘十郎が愛用していた食器もこんな感じだったのでしょうか
縞々がないと機嫌が悪くなったという勘十郎の縞模様愛は、ますます加速。ついに家のつくりも縞々になるよう変えてしまいました。格子を縞模様になるよう特注したり、庭の果てまで縞模様に徹したとか。

勘十郎の縞模様好きは有名で、ついたあだ名が「縞の勘十郎」。あだ名にも縞が入って、本人もさぞ満足だったことでしょう。




ある日、7歳の少年が神隠しにあいました。しばらくして家に帰ってきた少年は超能力を発揮するようになっており、著名な学者も巻き込んだ大騒動に発展します。

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天狗に弟子入りした超能力少年

天狗小僧 寅吉


江戸時代後期、年も月も日も「寅」に生まれたことから「寅吉」と名づけられた少年。寅吉は7歳のときから、たびたび姿を消してはしばらくして家に戻ってくるようになります。

あまりに頻繁なので、「いったいどこに行っていたんだ?」と周りが問い詰めると、幼い寅吉は「上野池之端にある五条天神で出会った老人に連れられて常陸国(現在の茨城県)の南丈山に行っていた」といったり、「唐の国に行っていた」と真顔でこたえます。また、何年かすると「山中で4年間にわたり、老人から占術、医術、武術などあらゆる分野の修行をほどこされた」ともいいます。

世間では「寅吉は天狗にさらわれた」と噂になり、いつしか「天狗小僧 寅吉」「仙童 寅吉」などとあだ名されるようになりました。実際、寅吉は失せ物をすぐさま探し当てるなど超能力を発揮し人々を驚かせたそうです。

15歳になった寅吉は、有志より開催されていた超能力研究会によばれるようになります。その会のメンバーで、もっとも「天狗小僧 寅吉」に熱中したのが、



国学者・平田篤胤の肖像画
教科書にも登場する、国学者・平田篤胤(あつたね)。

篤胤の寅吉への情熱は並々ならぬものがあり、ついには寅吉を呼び寄せ(一説には養子にして9年間世話したとも)、さらわれた当時の様子や仙界の様子、修行内容などを細かく聞きだすと、『仙界異聞 仙童寅吉物語』という本にまとめました。

“天狗に仙術を学んだ超能力少年”として一躍時の人となった寅吉ですが、20代も後半になると超能力は消え「普通の人」になってしまったとか。まさに「神童も大人になればただの人」の典型例のような人物でした。



江戸時代後期、江戸で雪模様が大流行します。着物や食器にまで雪模様がデザインされる熱狂ぶり。火付け役は「雪のお殿様」の愛称で親しまれた、ある大名でした。

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江戸に空前の雪模様ブームを起こした

日本初の雪図鑑 土井利位


土井利位のまとめた雪観察図鑑『雪華図説』
利位のまとめた『雪華図説』。美しい雪の結晶がずらり。続編もある
土井利位(どいとしつら)は、1789年(寛政元年)生まれの古河藩4代藩主。25歳で藩主になった利位はある趣味に熱中しはじめます。

それは雪の結晶を観察すること。

自分の目では確認できないが細やかな模様があり、しかも同じものはふたつとない……。雪の結晶の美しさと不思議な世界にすっかり魅了された利位は、以来、20年にわたって雪の結晶を観察し続けました。雪が降りそうになれば黒地の布に雪を受け止め、結晶が壊れないようピンセットで黒漆器にそっと移し、それを舶来の顕微鏡で観察し、さまざまな結晶をすばやくかつ正確に図にして記録しました

そして、研究の集大成として日本初の雪の自然科学書となる『雪華図説』を出版したのです。利位が魅了された雪の結晶の美しさは、江戸っ子たちをも魅了しました。『雪華図説』に描かれたモダンなデザインの雪の結晶は、新らしモノ好きの江戸っ子たちのハートをがっちり掴み、空前の雪模様ブームを巻き起こしたのです。

雪模様の印籠(「雪華文蒔絵印籠」)
(「雪華文蒔絵印籠」)
雪模様の印籠。モダンでとってもオシャレ! 利位が藩主を務めた古河藩では他藩にこうした雪模様の印籠をプレゼントしたとか。これはうれしい


雪模様の印籠(「雪華文蒔絵印籠」)
(「雪華文鍔」)
雪模様が施された刀の鍔(つば)。武家にも雪模様が愛されていたことがうかがえます

利位が描いた雪の結晶の模様は「雪華文様」「雪輪文様」と呼ばれ、今でも古典柄の分類に入っています。新たな文化の生みの親となった「雪のお殿様」ですが、藩主としても幕政において老中首座にまで昇りつめ財政改革などで手腕を発揮しました。しかし、不運もありわずか10ヶ月で老中職を辞職、その4年後に他界しました。



石を愛し、変わった石を求め、全国を歩き回った石マニアの70年。

8人目
石とともに生きた鉱物学のパイオニア

奇石コレクター 木内石亭


木内石亭の肖像画
「石が好きだ」という純粋な気持ちを生涯持ち続けた石亭
木内石亭は1724年(享保9)に琵琶湖の西側にある下坂本村(現・滋賀県大津市下阪本)で生まれ育ちました。

石亭の出身地である近江南部は名石や奇石の産地として有名で、珍しい石を自慢しあう「弄石(ろうせき)」という趣味も流行するほどでしたので、石亭は自然に石に興味を持つようになります。

以来、85歳でこの世を去るまで、木内石亭はただひたすらに石を探求し続けたのです。訪れた国は30カ国以上。それだけでなく各地にいる同類の奇石コレクターに頭を下げては奇石を集めまくり、コレクション数は2000種類以上にもなったといいます。やがてトップクラスの奇石コレクターとなった石亭は「石の長者」と呼ばれるまでになり、その名は全国に知られるようになりました。

鉱物学や考古学といった学問がまだなかった時代にあって、石を分類してその形状や産地などを解説した『雲根志(うんこんし)』などの著書を多く残した石亭は、鉱物学や考古学のパイオニア的存在といえるでしょう。

木内石亭の代表的著『雲根志』に登場する「ナンダモンダ」という名の石
石亭の代表的著『雲根志』に登場する「ナンダモンダ」というへんてこな名前の石。石亭も「最奇観」と解説しています。

「ナンダモンダ」の正体ともいわれている珠状閃緑岩
そして、「ナンダモンダ」の正体がこれかも!? といわれているのが、この珠状閃緑岩。たしかに「ナンダモンダ」に似ています




あまりの奇行ぶりとぶっとんだ言動、常人ばなれした高慢さながら博覧強記の知識人

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江戸随一の奇人は千社札の元祖!?

大ボラふき 天愚孔平


江戸時代の千社札(『江戸版画集』より)
江戸時代の千社札。カラフルでとってもおしゃれ(『江戸版画集』より)
「天愚孔平」というヘンテコな名は本名ではありません。彼の本当の名は、萩野信敏(のぶとし)、通称は喜内(きない)といい、鳩谷(きゅうこく)という号でも知られています。

とにかくヘンテコな人物で、大言壮語の大ボラふきともいわれ、「天愚孔平」という名も「わしは孔子の子孫の妾を平家のなんとかという武士が妻として生まれた子の子孫である」という非常にうさんくさい出自を自称し、孔子の「孔」と平家の「平」をあわせ「孔平」と名乗っていました。

人々から「天狗」と呼ばれ自らも「天愚」と名乗った孔平ですが、もとはれっきとした出雲国松江藩の武士。生家は代々藩医を勤めたため孔平も医師でもあり、さらに儒学者として多くの著書を残し、書家としても高名でした。

ただ、中年になってからなぜか奇行が増えていきます。

まず格好が異常。晴れている時でも雨合羽を着こみ、ボロをまとい、腰に拾った草鞋(わらじ)を何足もぶら下げて、平然と出歩きます。また、本人曰く「長寿の秘訣」ということで、どんなに悪臭を放っても風呂に入りませんでした

年齢も傍目にはよくわからず、「何歳だ?」と聞いても「わし、百歳ね」とうそぶく始末。絵に描いたような奇人ぶりで江戸でその名を知らない者はいないといわれた天愚孔平ですが、江戸で起きたあるブームの火付け役としても有名でした。

それは今でも神社などでよく目にする「千社札」です。孔平は、神社仏閣を参拝するとその証しに「天愚孔平」と自らの名を大書した札を勝手にぺたりと貼って帰ったそうですが、この奇行がまさに「千社札」の走り。

江戸時代中期、庶民の間でいくつもの神社仏閣を参拝する「千社参り」がブームとなると「千社札」もブームとなりました。やがて千社札も浮世絵風のものなどデザイン性の高いものが登場するようになり、今に続いているのです。



江戸時代の「名奉行」といえば大岡越前遠山の金さんが有名ですが、もうひとり知られざる名奉行がいました。人望とすぐれた手腕で名奉行と評判だった鎮衛には、ある変わった趣味がありました。それは巷に流れる不思議な話を集めることでした。

10人目
30年にわたり珍談・奇談を集めた

現代の時代劇にも登場 根岸鎮衛


根岸鎮衛(ねぎしやすもり)は1737年(元文2)に生まれました。出自については諸説ありますが、お世辞にも立派な家の出ではありませんでした。しかし、鎮衛は努力を重ね出世街道を驀進し、江戸を守る幕府の要職・南町奉行にまで上りつめ、18年の長きにわたりこの職を務めます。

鎮衛は出世しても決して偉ぶらず、洒脱で下世話にも通じ、公平なお裁きをする“名奉行”として人気が高かったといいます。南町奉行の仕事は激務でしたが、鎮衛は暇をみつけてはあることをしていました。

それは、同僚や来訪者、古老らから聞いた珍談・奇談を書きとめること。たとえば「鼻血を止めるまじないのこと」。たとえば「河童(かっぱ)のこと」。たとえば「梅に助けられた男のこと」。こうした面白話を30年にわたり1000以上も集め、鎮衛は随筆にまとめました。

随筆の名は『耳嚢(みみぶくろ)』。

『耳嚢』(江戸の珍談・奇談1000話を集めた根岸鎮衛の随筆)
『耳嚢』は岩波文庫など文庫版で手軽に読めます。うれしい注釈入り

全10巻にもなる『耳嚢』に収録された話の内容は、人情話から英雄・豪傑のエピソード、怪談、幽霊譚までじつにバラエティ豊か。そうした話が非常に平易で親しみやすい文章でつづられています。

耳嚢は、オマージュとなる怪談集『新耳袋』が書籍・映像化されるなど、現代にも続いています。

怪談 新耳袋

異例の出世を遂げながら威張らず洒脱、くだけた人物ながら辣腕の名奉行、そして珍談・奇談を集めるのが趣味というマニアックさ――こうした多面性が注目され、鎮衛は時代小説や時代劇などでもしばしば登場します。



江戸から明治に時代が変わりゆく頃、伊予国松山には、酔えば酔うほどすばらしい書を生んだ伝説の書道家がいました。

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酒を飲まぬと、筆を執ること難し

天衣無縫の書家 三輪田米山


三輪田米山の写真
激動の時代に独自の書を追及した米山。とても真面目な性格だったらしい
三輪田米山(みわだべいざん)は現在の愛媛県松山市にある日尾八幡神社の神官の子として生まれ、自身も神官となりました。神官の仕事を終えると米山は、2升3升とまさに浴びるように酒を飲みました。

酩酊状態の米山がおもむろに手にとったのは…筆。倒れる寸前、意識ももうろうとするなか米山は勢いに任せ一気に書き上げます。

「うまく書いてやろう」という雑念も頭から消え、誤字があろうと脱字があろうとそんな瑣末なことは気にしない。

ただただ無心に書く。

そうして生まれた米山の書は、奔放自在で天衣無縫、唯一無二の輝きを放ち見る者を圧倒しました。

三輪田米山の代表作のひとつ「無為」。近代書の先駆けとも評される自由な書
米山の代表作のひとつ「無為」。近代書の先駆けとも評される自由な書
酒を浴びるほど飲んでは無心で書くを繰り返し、3万点ともいわれる書を残し、この世を去りました

中央書壇に属さなかった米山は長らくマイナーな存在でした。昭和になり、実業家で美術収集家の山本発次郎が米山を「わが国近世500年間を探してもまれに見る大書家」と激賞したことで、米山の名は近年知られるようになりました。

三輪田米山が神官を務めた日尾八幡神社の鳥居の前
米山が神官を務めた日尾八幡神社の鳥居の前には、米山の書「鳥舞」「魚躍」が刻まれた注連石があります



剣の使い手にしてオシャレな遊び人、刀剣ブローカーをしたかと思えば祈祷師になったり露天商の親分をしてみたり……。

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喧嘩っ早く情にあつい自由人

最強の不良旗本 勝小吉


勝小吉(かつこきち)の少年時代はとにかくいたずら好きで喧嘩ばかりしていたそうです。14歳で家出すると、乞食をしながら伊勢参りしましたが、睾丸にケガをしてやむなく帰宅

江戸に帰った小吉は就職活動しますが、自分の名も書けないほど無学だったので失敗。しょうがないので剣の鍛錬と吉原通い、そしてまた喧嘩に明け暮れる日々を過ごします。剣の腕前はめきめき上達し、江戸有数の剣客として名を馳せたほどです。

その後、所帯を持ちましたが小吉は落ち着くどころか借金を重ね、ふたたび江戸を出奔。親族の懇願により2ヶ月ばかりで家に戻るのですが、堪忍袋の緒が切れた実父により、小吉は座敷牢にぶち込まれ、そのまま3年も閉じ込められました

牢に閉じ込められている間に長男・麟太郎が生まれたこともあり、座敷牢から解放された小吉は「俺はまだ本気出してないだけ」とばかりに、就活をしますが、また失敗。

結局、旗本でありながら刀剣ブローカーや露天商の親分として生計をたてて37歳の若さでさらっと隠居。生涯無役。旗本として役職につくことはありませんでした。その後、小吉は自身の半生を振り返り、子孫に向かって「オレみたいに絶対になるなよ!」という思いを込めて『夢酔独言(むすいどくげん)』という自伝を執筆しました。

49歳で波乱の人生を終えた小吉。その3年後、黒船が来航すると時代は幕末に突入します。

最期に。
牢に入れられている間に誕生した長男・麟太郎。自由人過ぎる父の背中をみて育った彼は、激動の幕末において、父が叶わなかった幕府の要職につきます。





勝海舟の写真

徳川幕府第一級の要人・勝海舟です。
江戸城を無血開城するという、あまりに型破りなプランをぶちあげ、西郷隆盛と実質的代表として交渉。江戸の町を戦火から救いました。

無頼の父から海舟に受け継がれた型にはまらない思考が、最小限の混乱で幕末を終焉させ、明治という新時代の扉を開いた。そういえるのかもしれません。


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2016-07-03 12:36:56
2016年上半期もっとも読まれた江戸人気記事は?下着を着けない時代の生理事情など ベスト10
2016年上半期もっとも読まれた江戸記事は?10位から1位までランキングします!
2016-06-28 21:46:02

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大河ドラマ『真田丸』のキャストと実際の肖像画を比べてみた
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2015/01/10 17:04:00
【あさが来た】2015年 もっとも人気だった幕末人物は? 303人中ベスト10を発表【花燃ゆ】
幕末関連の記事2015年は朝ドラと大河ドラマがともに幕末を取り上げました。日本最大の幕末サイト『幕末ガイド』に登録された303名のうち、アクセス順にベスト10を紹介します。
2015/12/31 13:45:00
2015年 幕末の人気記事ランキング! 1位は納得のあの人物
幕末関連の記事2015年の幕末記事のなかで、もっとも人気を集めたのは?10位から1位までランキングで紹介します!
2015/12/20 19:52:00
【猫好き浮世絵師】天才・歌川国芳が描いたネコたちがおもしろ可愛い【猫づくし】
幕末関連の記事いまから150年以上前、江戸時代末期に活躍した歌川国芳という絵師がいました。国芳は類まれなるデザイン力とユニークな発想の持ち主で、美人画や妖怪画など幅広いジャンルの作品を数多く生み出しました。そんな彼が最も好きだったのが"猫"。猫が死んだ時は寺に葬り仏壇まで作ったそうです。そんな歌川国芳が描いた、ユーモアと愛に溢れた"猫浮世絵"の数々をご紹介します!
2015/11/08 14:29:00
【実話】荒木村重は謀反の後、意外な人生を送っていた【軍師官兵衛で人気】
戦国関連の記事織田VS毛利が本格化して、盛り上がりをみせるNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』。なかでも、ひときわ注目を浴びているのが荒木村重。織田信長に反旗をひるがえしたのは有名だけど、その後の人生は意外なほど知られていません。今回は荒木村重の謀反の"その後"を紹介します。
2014/09/15 7:27:22

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