蕎麦つゆが味噌 !? 江戸時代の蕎麦事情が想像とだいぶ違う【今は見ない屋台売りも】

  • 更新日:2017年5月5日
  • 公開日:2016年2月14日

江戸時代から親しまれたお蕎麦ですが、その食べ方やお店のスタイルなどは現代とかなり異なるものでした。また、今でも有名な蕎麦屋の元祖もあわせて紹介します。

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蕎麦を食べる江戸時代のご隠居(『東海道五十三次』「見附」葛飾北斎)
(『東海道五十三次』「見附」葛飾北斎 画)
ご隠居がおいしそうな蕎麦を食べています。長い。手には蕎麦猪口のようなものも見えます。蕎麦はお皿に盛られているようです。

現在、「東京は蕎麦、大阪・京都はうどん」というイメージが強いですが、はたして江戸時代はどうだったのでしょうか?

意外!江戸っ子も最初は蕎麦よりうどん派?


江戸時代末期の風俗を記した随筆『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によりますと、「京や大坂ではうどんを好む人が多いが、江戸では蕎麦を好む人が多い」とあり、現在のイメージがすでに確立していたことがわかります。

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しかし、江戸時代も前半にさかのぼると、じつは江戸でも蕎麦よりうどんが主流だったのです。蕎麦も食べられていましたが、あくまでうどん屋がうどんを売る傍らで蕎麦を売っている程度でした。

ちなみに、蕎麦が日本で食べられるようになったのは奈良時代頃からといわれます。現在、私たちが「蕎麦」というとズズッとすする麺状のものをイメージしますが、じつはこの麺状の蕎麦が食べられるようになったのは江戸時代初期かそれより少し前のことといわれています。それ以前、「蕎麦」といえば、今でいう「蕎麦がき」を指しました。

蕎麦がきの写真(蕎麦粉を湯で練って団子状にしたもの)
蕎麦粉を湯で練って団子状にしたものが「蕎麦がき」。現在でも通に人気。画像引用元:サライ
この「蕎麦がき」に対して麺状の蕎麦は「蕎麦きり」と呼ばれました。やがて「蕎麦きり」の方が主流となり、「蕎麦」といえば「蕎麦きり」を指すようになったのです。さらに麺状の蕎麦は江戸時代初期から中期にかけ製法に工夫が加えられ、小麦粉を“つなぎ”にするようになりました。

今でもよく耳にする「二八蕎麦」というのは「小麦粉2の蕎麦粉8の蕎麦」を意味します。一方、江戸時代後期には蕎麦1杯が16文(約320円)だったことから2×8=16の符丁だったともいわれています。

しかし、「二八蕎麦」という言葉自体は江戸時代後期以前からあったこと、蕎麦粉と小麦粉の配合も現在と異なっていたこと、「二八うどん」という言葉もあることなどから、江戸時代に使われていた「二八」の語源と意味については現在も謎が多く諸説あります。

江戸時代の蕎麦屋の屋台(『鬼あざみ清吉』歌川豊国)
(『鬼あざみ清吉』歌川豊国)
浮世絵にも蕎麦はたびたび登場。画面左は蕎麦屋の屋台。看板に「二八」の文字が大きく書かれているのが見えます。

話しを戻して江戸の蕎麦VSうどんについて。

江戸において蕎麦が勢力を逆転させたのは、18世紀中頃からだといわれています。1751年(寛延4)には蕎麦の製法や蕎麦屋の活況を記した『蕎麦全書』なる蕎麦専門書も刊行されていることや、1776年(安永5)に刊行された黄表紙(大人向け絵本)『うどんそば化物大江山』に「江戸八百八町(はっぴゃくやちょう)に蕎麦屋は数え切れないくらいあるが、うどん屋は万に一」とあることからも当時の蕎麦屋優勢がうかがえます。

こうして蕎麦は江戸で勢力を拡大していき、江戸時代末期には江戸市中の蕎麦屋は3760店を数えたといいます。これは現在の東京の蕎麦屋店舗数よりも多いです(2014年、東京都の蕎麦屋店舗数は3200軒)。江戸のあちこちに蕎麦屋があったことが想像できます。


江戸時代の蕎麦つゆは驚きの味噌!



蕎麦に欠かせないものといえば「つゆ」ですよね。江戸時代浮世絵などを見ても蕎麦猪口(ちょこ)を手に蕎麦をすする人が描かれています。

蕎麦猪口(ちょこ)を手に蕎麦をすする江戸時代の人(『絵本三家栄種』より)
(『絵本三家栄種』より)
蕎麦屋でおいしそうに蕎麦をすする男性。手には蕎麦猪口。ここに描かれているのは江戸の葺屋(ふきや)町にあった福山そばの店先。岡持ちを担いだ男性は出前から帰ってきたところでしょう


ちなみに、蕎麦猪口も江戸時代に誕生したもので、伊万里焼が使われていたそうです。今でも古伊万里の蕎麦猪口は骨董品として人気がありますよね。

現存する最古の蕎麦猪口のひとつ(江戸時代初期1655~70年頃)
現存する最古の蕎麦猪口のひとつ。つくられたのは江戸時代初期1655~70年頃といわれています。現在の蕎麦猪口より口がちょっと広がっていますね。画像引用元:美の壺
さて、この蕎麦猪口にはどんな蕎麦つゆが入っていたんでしょうか? 現在、蕎麦つゆといえば、鰹節をきかせた出汁に醤油、みりんが定番ですが、もともとの蕎麦つゆはまったく異なるものでした。それは…

江戸時代は蕎麦のつゆに、「たれみそ」が使われていた

味噌です。

正確には、味噌に水を加えて煮詰め、これを布袋に入れて吊るし垂れてきた「たれみそ」と呼ばれるもの。

江戸時代初期の料理書『料理物語』には蕎麦つゆについても記述があり、それによれば「たれみそに大根の汁を加え、削り節、大根おろし、あさつきを入れ、さらに、からし、わさびを加えてもよい」とあります。我々のイメージする蕎麦つゆと別物ですが、これはこれでおいしそう。

時代は下り、先ほども登場しました18世紀中頃の蕎麦専門書『蕎麦全書』にも、蕎麦つゆのレシピが2種類紹介されています。



「たれみそ」を使った蕎麦つゆ

作り方:たれみそ、酒、削り節を合わせて煮詰めたものを漉し、塩とたまり醤油で味を調える

しょうゆベースの蕎麦つゆ

作り方:しょうゆ、酒、水を合わせて煮る。好みで鰹節を加える




ちなにみ鰹節を使用しない蕎麦つゆは「精進汁」、鰹節を使用した蕎麦つゆは「生臭(なまぐさ)」と呼ばれていたそうです。現在のように鰹出汁を蕎麦つゆに使う店が増えてきたのは18世紀中頃といわれています。

今日はなにを食べようか?バラエティ豊かな蕎麦屋のメニュー



現代の蕎麦屋のメニューはとってもバラエティ豊か。てんぷら蕎麦にカレー蕎麦はレギュラーメニューとして、立ち食い蕎麦屋のなかにはフライドポテトをトッピングした蕎麦なんかもあります。

江戸の蕎麦屋はどんなメニューだったのか?江戸時代末期の風俗を記した随筆『守貞謾稿』に当時の蕎麦屋のメニューが残されているのでちょっと見てみましょう。

~おしながき~ ※1文=20円で計算


そば
16文(約320円)

うどん
16文(約320円)

あられ
かけ蕎麦の上に海苔を敷き、あおやぎの小柱を散らしたもの 24文(約480円)

花まき
蕎麦の上にふんだんに海苔を散らしたもの 24文(約480円)

けいらん
玉子でとじた蕎麦もしくはうどん 32文(約640円)

しっぽく
蕎麦もしくはうどんの上に玉子焼き、かまぼこ、しいたけなどをのせたもの 24文(約480円)

あんぺい
しっぽくに葛醤油をかけたもの 24文(約480円)

てんぷら
芝えびのてんぷらをのせたもの 32文(約640円)

御前大せいろ
通称の蕎麦より高品質で量も多い 48文(約960円)

上酒一合
40文(約800円)




おいしそうなメニューがズラリ!値段もお手頃。しかもお酒まであったんですね。今と同じく蕎麦を待つ間にちょっと一杯、という感じだったのでしょう。

ちなみに、蕎麦やうどんなど麺類を出す店の看板はこんな感じでした。

江戸時代の蕎麦屋の看板(『諸国道中金の草鞋』より)
(『諸国道中金の草鞋』より)
蕎麦を勢いよくすすっている男性の上にある、ヒラヒラがたくさんついたものが麺類を出す店の看板。拡大すると、

江戸時代の蕎麦屋の看板(『諸国道中金の草鞋』より)

これです。このタイプの看板は江戸時代後期には江戸ではあまり見られなくなったとか。蕎麦屋の看板はほかに、軒下に吊るすタイプや店頭に置くタイプ、行灯タイプなどがありました。

何度も禁止令が出された屋台の蕎麦屋



「さて蕎麦を食べようかな」と思った場合、今なら家で食べるかお店で食べるかの選択になりますが、江戸時代にも2つの選択肢がありました。

1.屋台
2.店


まず、屋台から見ていきましょう。蕎麦屋の屋台は「担い屋台」といって、蕎麦売りが両端に道具を入れる箱が付いた天秤棒をひとりで担いで売り歩くものでした。

江戸時代の蕎麦屋の屋台(『江戸砂子々供遊』「不忍弁天」歌川芳幾)
(『江戸砂子々供遊』「不忍弁天」落合芳幾 画)
画面右に見えるのが蕎麦屋の屋台の一部。反対側にも同じような道具を入れる箱が付いており、中央の棒を担いで売り歩きます。

上には雨よけのため屋根が付いています。箱のなかにたくさんの皿や水の入った桶が見えますね。相当な重量だったんではないでしょうか。

蕎麦屋の屋台はほとんどが夜間営業のみのいわゆる「夜鷹そば」「夜鳴きそば」と呼ばれる夜蕎麦売りでした。これは夜9時頃から明け方までの夜間営業の屋台蕎麦屋で、メニューは「かけ蕎麦」のみ。あまり清潔とはいえなかったようです。

ちなみに、夜鷹そばが登場し始めた頃の「かけ蕎麦」といえば冷たい汁をかけた蕎麦のことでしたが、その後、温かい汁をかけたものが「かけ蕎麦」と呼ばれるようになり、冷たい蕎麦は「もり蕎麦」と呼ばれるようになったといわれています。

夜鷹そばは、ほかの飲食店がすでに閉店してしまった夜間に営業している点がヒットし大繁盛、江戸における蕎麦の普及に一役買いました。

また、営業期間が秋初春に限定されていたため季節の風物詩として浮世絵などにも頻繁に描かれるなど庶民に愛されました。

江戸時代の夜鷹そば(『神無月 はつ雪のそうか』三代歌川豊国)
(『神無月 はつ雪のそうか』三代歌川豊国 画)
「夜鷹そば」の名の由来は、夜の街角に立ち色を売る「夜鷹」と呼ばれた最下級の遊女たちが常連だったから、という説も。雪が降りしきるなか、夜鷹たちが温かい蕎麦をすすり、つかの間の暖をとっています。

その後、夜鷹そばよりちょっと高品質な蕎麦を提供する「風鈴蕎麦」という屋台蕎麦が登場しました。

この屋台はその名の通り、屋台に風鈴を下げて風鈴の音でお客を呼び込むというシャレたもの(のち夜鷹そばも風鈴を下げるように)。

メニューも夜鷹そばが「かけ」専門だったのに対し、かまぼこなどがのった「しっぽく」も出されるなど高級路線でした。

江戸時代の高級路線屋台蕎麦「風鈴蕎麦」(『忠臣蔵前世幕無』より)
(『忠臣蔵前世幕無』より)
画面右に見えるのが「風鈴蕎麦」。たくさんの風鈴が吊り下げられています。その前を歩くのは岡持ちを担いだ蕎麦屋の出前。中央には甘酒売りも。江戸にはたくさん食べ物を売り歩く人がいたんですね。

庶民に親しまれた屋台の蕎麦屋ですが、じつは幕府から何度も禁止令が出されています。その理由は「火事の原因になるから」。

蕎麦屋だけでなく火を扱う屋台はすべて対象となりました。しかし、あまり効力を発揮しなかったようで、江戸市中から蕎麦屋の屋台が消えることはありませんでした。

今に続く江戸の蕎麦「のれん御三家」



屋台の蕎麦屋が人気を集めた一方、店舗の蕎麦屋も急速に数を増やし、前述したように江戸時代末期には江戸市中のあちこちに蕎麦屋がありました。

なかには今に続く老舗もあります。江戸そばの代表として名高い「藪(やぶ)」「更科(さらしな)」「砂場(すなば)」の「のれん御三家」です。「江戸三大蕎麦」とも呼ばれます

まず、「藪」。元祖については諸説ありますが、幕末の頃、江戸は本郷根津の団子坂に店を構えていた「つたや(蔦屋)」だといわれています。

「藪」と呼ばれるようになった理由については、「つたや」の庭に竹薮が茂っていたからとも、藪下と呼ばれる場所に店があったからとも。

「藪」ののれんは、明治時代に「つたや」の支店だった「かんだやぶそば」に、大正時代には「並木藪蕎麦」に、昭和には「池之端藪蕎麦」へのれん分けされました。

今でも「藪そば」の看板を掲げる蕎麦屋はたくさん見かけますが、そのほとんどがじつは自称で「藪」ののれんとは無関係とか。

かんだやぶそば(東京都千代田区神田)の写真

東京都千代田区神田にある「かんだやぶそば」

「藪」を掲げる蕎麦屋の代表格として有名で、小説家・池波正太郎もごひいきにしていた名店。歴史ある店舗は東京都選定歴史的建造物の指定を受けていましたが、2013年2月の火災により店舗の一部は改築されました。このことはニュースでも大きく取り上げられ記憶に新しいのでは。(写真は旧店舗)

続いて「更科」。そのルーツは信州、今の長野県にあります。信州の織物の行商をしていた清右衛門という人は蕎麦打ちが得意で、江戸でお世話になっていた麻布の保科家の勧めにより、1789年(寛政元)に麻布永坂町で蕎麦屋を開きました。これが「更科」の元祖といわれます。

「更科」は蕎麦の産地・信州更級(さらしな)の「更」と保科家から賜った「科」を組み合わせた文字だとか。

開店の際、清右衛門は太兵衛に改名し、「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を掲げました。更科蕎麦の特徴は、蕎麦殻を外した「更科粉」と呼ばれる蕎麦粉を使用した、真っ白な麺にあります。明治になるとのれん分けし、現在は「総本家更科堀井」「永坂更科 布屋太兵衛」「麻布永坂 更科本店」が有名。

永坂更科 布屋太兵衛(東京都港区麻布永坂)の明治頃の写真
東京都港区麻布永坂にある「永坂更科 布屋太兵衛」。こちらは明治の頃のお店の写真。立派な構えですね。画像引用元:永坂更科 布屋太兵衛
最後は御三家の最古参といわれる「砂場」。そのルーツは意外なことに“うどん文化圏”の大坂にありました。

「砂場」という名称は、大坂城築城の砂置き場だった場所に由来します。そこにあった蕎麦屋も同様に「すなば」と呼ばれていたそうで、今に続く「砂場」の元祖ともいわれる2軒の蕎麦屋が「砂場いづみや」と「津国屋」です。

江戸時代の砂場いづみや(『摂津名所図会』より)

1798年(寛政10)に刊行された大坂名所ガイド『摂津名所図会』に紹介された「砂場いづみや」の店内風景。蕎麦を打つ職人、蕎麦を運ぶ店員、それを食べるお客と大勢の人でにぎわっています。いかに大繁盛していたかよくわかりますね。

江戸に進出した時期や経緯については不明ですが、18世紀中頃には江戸にも「砂場」を名乗る蕎麦屋があったようです。江戸時代に営業していた「砂場」のうち、現在、「南千住砂場」と「巴町砂場」がその味を今に伝えています。

東京=蕎麦のイメージも源流をたどるとこんな歴史があったんですね。もちろん、蕎麦にすっかり押された感のあるうどんも江戸時代を通じて江戸の人々に食されました。

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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?

銀ブラをする昭和の女性1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。『水鶏にだまされて』石川豊信 画(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。


江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?

パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。「アンネナプキン」発売の広告「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。