鳥に憧れ空を飛ぶことを夢見た男。ついに彼は木製の自作グライダーで橋の上から飛ぶのだが、事態は思わぬことに。
3人目
ライト兄弟の飛行より100年以上前。日本に空を飛んだ男がいた
鳥人・浮田幸吉
備前国児島郡八浜(現・岡山県玉野市)の宿屋の息子として生まれた浮田幸吉。幼くして父を亡くすも、幸吉は生来の手先の器用さを活かし表具師(ひょうぐし/屏風や掛け軸などの仕立て、修繕を行う職人)として生計を立てます。
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ある日、幸吉は空を飛ぶ鳥を見て「人間だって鳥のように空を飛べるのではないか……」という思いを抱きます。力学の書籍などない時代なので、幸吉が参考にしたのは、本物の鳥。鳥を生け捕りにしては翼と胴体との比率を測ったり、鳥の飛び方を狂ったように観察したり。
そうして、幸吉は試作に試作を重ね、現在のグライダーのような翼を完成させました。
1785年(天明5)の夏のある日。岡山を流れる旭川に架かる京橋の欄干には、全長9mのグライダーを装備した幸吉の姿あり。橋の下から吹き上げる絶好の風。欄干を蹴った幸吉は、ふわりと空中に舞い上がりました。
風に乗った機体は数十m滑空、河原でなにも知らず夕涼みをしていた人々の頭上をくるりと旋回しました。その後、すぐに機体は落下してしまいましたが、幸吉は日本で初めて空を飛ぶことに成功したのです。
これは同じようなグライダーで空を飛んだドイツのオットー・リリエンタール、ライト兄弟の動力飛行などより100年以上も早い快挙。
ただし、快挙がすぎました。
幸吉の試みはあまりに新しく、人が飛ぶなどとは想像もできない時代。目撃した人々は、「天狗が飛んできた」「鳥みたいな人が空から降りてきた」など大騒ぎして現場はパニック。幸吉は騒乱の罪で捕らえられ岡山を追われてしまいます。
その後、幸吉は駿河の府中(現・静岡県静岡市)に移り住み、入れ歯師として評判を取りました。しかし、空を飛ぶことへの夢を捨てきれず、50歳の時、改良したグライダーで再び飛行に挑戦、安倍川上空を数十秒滑空したともいわれます。
幸吉の最期については、空を飛んで世を騒がせた罪により死罪になったとも、遠江国見附(現・静岡県磐田市)にて平穏な余生を送り長寿を全うしたとも伝えられています。
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からくり人形、写真機、ライター、ピストル、万歩計にエレキテル……生涯のうちに発明したものは数知れず。富や名声そっちのけで発明に生きた稀代の天才エンジニアが加賀にいた。
4人目
加賀のレオナルド・ダ・ヴィンチ
からくり師・大野弁吉
からくり人形などをつくる細工師の家に生まれた弁吉は、幼い頃から器用だったそうで、父親がつくるからくり人形などもひと目見ただけで再現してしまったそうです。
やがて、弁吉は彼の才能に惚れた豪商の援助を受け、長崎に留学。オランダ人から当時最新の天文学や医学、機械工学、理化学などを学び、対馬を経て朝鮮へ渡り、そこでもさまざまな技術を習得したといいます。(長崎時代の師匠はシーボルトだったという説も)
結婚後、妻の実家である加賀国大野村(現・石川県金沢市)に移住、生活用品をつくる職人として働くかたわら、「からくり師」として次々に発明品を世に送り出しました。
博学でアイデア豊富、手先も器用な弁吉が生み出す発明品はじつにバラエティ豊か。わずか5cmの茶運び人形を作ったかと思えば、鶴のかたちをした模型飛行機を飛ばし人々を驚かせたり、たった1枚の銀板写真を見て木製のカメラを作りあげ妻を撮影したとも。
凝り性の弁吉はアイデアが頭に浮かぶと、完成するまで寝食を忘れて作業場にこもり製作に没頭したそうです。
弁吉の才能に抱えたい藩からの出世の誘いも、弁吉は富や名声なので断ります。本職の仕事も気が向かなければやらない気まぐれもので、当然、生活は常に苦しいものでした。
弁吉のよき理解者で加賀を代表する豪商・銭屋五兵衛も見るに見かねて弁吉に個人的援助を申し出ましたが、これすら弁吉は断ったとか。
無欲に生きた弁吉の名はあまり世間に知られていませんが、その独創的な発明は今に残り、彼が育てた弟子たちも明治時代に幅広い分野で活躍しました。
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