3年ごとに江戸が燃えた!?江戸時代の大火事はなぜ起こった?【画像あり】

  • 更新日:2019年10月12日
  • 公開日:2016年1月11日

「火事と喧嘩は江戸の華」などといわれますが、たしかに、江戸時代は大規模火災が頻発していました。江戸の三大大火を振り返りながら、その原因や火消し方法を紹介します。

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なぜ江戸は火事が多かったのか?


文化の大火(江戸時代の大火事)
1806年(文化3)に起きた「文化の大火」。江戸は芝の車町から出火し神田、浅草エリアを焼き尽くしました。「明暦の大火」「明和の大火」とともに「江戸三大大火」のひとつとも。

なぜ町を焼き尽くすような大火がそんなに頻発していたのかといいますと、その理由は3つあります。

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火事が多かった理由1

江戸特有の気候


現代でも火事は冬によく起きますがそれは江戸時代も同じでした。特に江戸は、夏は雨が多く冬は晴れが続き非常に乾燥する、という気候の特徴がありました。さらに冬から春先にかけて強い季節風が吹きつけるというのも火事を大規模化させた大きな要因でした。

江戸の火事の理由2

未発達の消防活動


江戸時代の消防は、その道具や活動は現代のものとまったく異なりました。

どのようなものだったのかといいますと、とにかく「壊す」。

火元となっているところに水をかけるのではなく、火元より風下にある家をぶっ壊して延焼を防ぐ「破壊消防」というものでした。

今と違って木造家屋しかない時代、燃えやすいことも燃えやすかったのですが壊すのもまた壊しやすかったのです。

とはいえ、現代のような科学的な消防技術がなかった時代、消防活動は困難でした。

明暦の大火(『江戸火事図巻』より)

「江戸三大大火」のひとつ「明暦の大火」のようすを描いた『江戸火事図巻』より。これを拡大してみると、

江戸時代における消火活動の様子、道具

延焼を防ぐため、鳶口(とびぐち)という道具や木の棒などを手に、たくさんの人が屋根にのぼり家屋を壊していることがわかります。


江戸の火事の理由3

世界一の超過密都市


江戸の町は1603年(慶長8)に徳川家康が幕府を開いて以降、急激に人口を増やし、18世紀初頭には江戸の人口は100万人を超えたといわれています。

これは同時代の世界を見てもトップクラスだったと考えられています。

武士・町人など身分によって住む土地がきちんと決まっていた江戸の町。江戸の総人口の半数は町人でしたが、町人が住める土地の総面積は武士に比べて狭く、結果、路地裏まで長屋がすし詰めの超過密状態

こんなところに火事が起きたらひとたまりもありませんでした。

江戸時代の長屋の入り口

長屋の入り口。木造の安普請がぎゅうぎゅう詰めで建っている長屋には大勢の人が住んでいました。火の不始末でもあれば火事はすぐに起きたでしょう。


江戸を焼き尽くした「江戸三大大火」



江戸で記録された最初の大火は、徳川家康が関が原の戦いに勝利した翌年の1601年(慶長6)に発生した「慶長の大火」です。家康が都市開発に着手したばかりの江戸はまだ小さな町でしたが、この火事ですべてが焼き尽くされたといわれています。

その後、江戸時代267年間のうちに40回以上ともいわれる大火に見舞われた江戸ですが、なかでも「江戸三大大火」といわれる大規模火災をご紹介しましょう。

江戸の町が2日2晩で焼け野原に…

明暦の大火



明暦3年(1657)正月18日、本郷丸山(現・東京都文京区)にある本妙寺から原因不明の出火。

さらに翌日、小石川新鷹匠町と麹町からも出火。激しい強風にあおられ火災は拡大し、ついに江戸城の本丸、二の丸、三の丸、さらには江戸城天守も炎に包まれ焼け落ちました。

たった2日2晩のうち江戸の3分の2が焼失、死者は5~6万人とも10万人ともいわれる日本史上最大級の大災害

それどころか世界的に見てもロンドン大火、ローマ大火とともに「世界三大火事」にも数えられるほどの大災害でした。

この大火は江戸の都市計画や消防制度に大きな影響を与えました。ちなみに、この時に焼失した江戸城天守ですが、3代将軍・家光の実弟にして会津藩初代藩主の保科正之の進言により再建されることはありませんでした。

明暦の大火(『むさしあぶみ』より、浅井了意 作)

「明暦の大火」の惨状を記録した『むさしあぶみ』より。作者は僧で作家の浅井了意。火事の発生から復興までを生々しくリポートした貴重な資料。

図は火から逃れようとした人々が多数亡くなった浅草門での惨劇を描いたもの。

なお、「明暦の大火」は別名「振袖火事」ともいわれています。その別名については次のような伝説があります。

麻布の裕福な商家の娘が恋の病を患い若くして世を去りました。その娘が大切にしていた振袖はその後、古着屋に売られましたが不思議なことにその振袖を買った娘が次々と若くして亡くなりました。

因縁の振袖は本妙寺で供養されることになりましたが、住職が振袖を火の中に投じたその時、にわかに一陣の強風が吹き荒れ、燃え上がる振袖は風にあおられ寺に火をつけました。

その炎は寺から広がり、ついには江戸の町を焼き尽くすことになったということです。

ちなみに、この「明暦の大火」は出火原因が不明のため、前述の「本妙寺出火説」のほか、「本妙寺火元引き受け説」「幕府放火説」などさまざまな説が考えられています。しかし、現在も真相は不明です。
大火災を起こした放火犯の正体はお坊さん!?

明和の大火



1772年4月1日(明和9年2月29日)、目黒行人坂(現・東京都目黒区下目黒一丁目付近)にある大円寺から出火しました。出火元からこの大火は別名「目黒行人坂大火」とも呼ばれています。

寺から出火した炎は南西の風にあおられ、麻布、京橋、日本橋、さらに江戸城下の武家屋敷、神田、千住方面まで焼き尽くしました。

一度は鎮火されたものの本郷から再び出火し、駒込や根岸に燃え広がりました。

この火も鎮火されたかに思えましたが、なんとまたもや再出火、最終的に、死者1万4000人、行方不明者は4000人を超えたといわれる大災害になってしまいました。

明和の大火(『目黒行人坂火事絵』より)
火事発見から復興まで「明和の大火」の様子を克明に描いた「目黒行人坂火事絵」より。赤々と燃え盛る炎のなか、町火消したちがけんめいに消防活動を行っています。

この大災害の原因となった出火はなんと真秀というお坊さんによる放火でした。

しかも寺に盗みに入ってボヤを起こそうとしたら大火になってしまったというからとんでもない坊さんです。

ちなみに、この放火犯を捕まえたのが「鬼平」として有名な火付盗賊改長官の長谷川平蔵その人!……ではなく、お父さんの長谷川宣雄です。

放火した坊さんはその後、市中引き回しのうえ火あぶりに処せられました。

恵みの雨が鎮火させるも被災者11万人以上の大被害

文化の大火



1806年4月22日(文化3年3月4日)、芝・車町(現・東京都港区高輪二丁目付近)の材木座で出火しました。

出火元から別名「車町火事」「牛町火事」と呼ばれています。また、丙寅(ひのえとら)の年にあたることから「丙寅の大火」とも。

この火事も春先の強風にあおられた火が燃え広がり、木挽町や日本橋、神田、浅草方面などを焼き尽くしました。

翌日、恵みの雨が降り火は鎮まったものの、1200人を超す死者を出しました。

増上寺塔赤羽根(『名所江戸百景』より、歌川広重 画)
歌川広重による『名所江戸百景』より「増上寺塔赤羽根」。東京の港区芝公園にある増上寺には、かつて五重塔がありました。この五重塔は文化の大火で全焼したといわれています。その後、再建されましたが昭和の東京大空襲で再び焼失してしまいました。

フィクションの題材となった 大火災から生まれた悲恋のヒロイン



ボヤを含めれば毎日のように火事があったともいわれる江戸の町。そんな江戸に大火災から生まれた悲恋のヒロインがいました。

その名は「八百屋お七」。

1683年1月25日(天和2年12月28日)、駒込の大円寺から出た火は江戸の町を焼き、死者3500人ともいわれる大惨事となりました。この火事で、江戸は本郷の八百屋一家が焼け出され檀那寺であった吉祥寺に避難しました。

八百屋一家には「お七」という名の16歳の娘がいました。このお七が寺の小姓と恋仲になるのです。やがて家も再建、一家は寺を引き払いますがお七の小姓への恋慕は募るばかり……。恋の病にとりつかれたお七はついに恐ろしい考えを抱くようになります。

「もう一度火事が起これば恋しいあの人に会えるかも」

ついに、お七は自宅に放火しました。幸いすぐに火は消され大事には至りませんでしたが、放火は大罪。

お七は捕らえられ、火あぶりの刑に処せられてしまったのです。

事件の3年後、人気作家・井原西鶴が著書『好色五人女』でお七を取り上げたことで、お七の名は知られるようになり歌舞伎や文楽、落語などさまざまなフィクションで「悲恋のヒロイン」となったのです。

近年ではマンガ『ガラスの仮面』でもお七を主人公とした舞台が登場しています。

八百屋お七(『松竹梅湯嶋掛額』、月岡芳年 画)
浮世絵にも描かれた八百屋お七。(「松竹梅湯嶋掛額」月岡芳年

ちなみに、「天和の大火」は別名「お七火事」とも呼ばれることから、お七の放火が原因の大火と勘違いされることもありますが、「天和の大火」ではお七はあくまで焼け出された被害者です。ややこしい。

「火事と喧嘩は江戸の華」ということで江戸の町を焼いた大火をご紹介しましたが、消防活動や町火消しの記事もぜひどうぞ。

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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?

銀ブラをする昭和の女性1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。『水鶏にだまされて』石川豊信 画(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。


江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?

パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。「アンネナプキン」発売の広告「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。