• 更新日:2019年10月12日
  • 公開日:2016年1月11日


江戸を焼き尽くした「江戸三大大火」


江戸で記録された最初の大火は、徳川家康が関が原の戦いに勝利した翌年の1601年(慶長6)に発生した「慶長の大火」です。家康が都市開発に着手したばかりの江戸はまだ小さな町でしたが、この火事ですべてが焼き尽くされたといわれています。

その後、江戸時代267年間のうちに40回以上ともいわれる大火に見舞われた江戸ですが、なかでも「江戸三大大火」といわれる大規模火災をご紹介しましょう。

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江戸の町が2日2晩で焼け野原に…

明暦の大火


明暦3年(1657)正月18日、本郷丸山(現・東京都文京区)にある本妙寺から原因不明の出火。

さらに翌日、小石川新鷹匠町と麹町からも出火。激しい強風にあおられ火災は拡大し、ついに江戸城の本丸、二の丸、三の丸、さらには江戸城天守も炎に包まれ焼け落ちました。

たった2日2晩のうち江戸の3分の2が焼失、死者は5~6万人とも10万人ともいわれる日本史上最大級の大災害

それどころか世界的に見てもロンドン大火、ローマ大火とともに「世界三大火事」にも数えられるほどの大災害でした。

この大火は江戸の都市計画や消防制度に大きな影響を与えました。ちなみに、この時に焼失した江戸城天守ですが、3代将軍・家光の実弟にして会津藩初代藩主の保科正之の進言により再建されることはありませんでした。

明暦の大火(『むさしあぶみ』より、浅井了意 作)

「明暦の大火」の惨状を記録した『むさしあぶみ』より。作者は僧で作家の浅井了意。火事の発生から復興までを生々しくリポートした貴重な資料。

図は火から逃れようとした人々が多数亡くなった浅草門での惨劇を描いたもの。

なお、「明暦の大火」は別名「振袖火事」ともいわれています。その別名については次のような伝説があります。

麻布の裕福な商家の娘が恋の病を患い若くして世を去りました。その娘が大切にしていた振袖はその後、古着屋に売られましたが不思議なことにその振袖を買った娘が次々と若くして亡くなりました。

因縁の振袖は本妙寺で供養されることになりましたが、住職が振袖を火の中に投じたその時、にわかに一陣の強風が吹き荒れ、燃え上がる振袖は風にあおられ寺に火をつけました。

その炎は寺から広がり、ついには江戸の町を焼き尽くすことになったということです。

ちなみに、この「明暦の大火」は出火原因が不明のため、前述の「本妙寺出火説」のほか、「本妙寺火元引き受け説」「幕府放火説」などさまざまな説が考えられています。しかし、現在も真相は不明です。

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