集え、酒好きたち! 仰天記録も出た「大酒飲み大会」


酒好きがたくさんいた江戸には「大酒飲み大会」なんてユニークなイベントもありました。泰平の世を謳歌していた江戸時代後期、「大食い大会」が大ブームになったのですが、同じ頃、「大酒飲み大会(大酒会)」も大流行しました。

特に有名なのが1815年(文化12年)に日光街道の千住宿で行われた大酒会、いわゆる「千住酒合戦」です。

江戸時代の大酒飲み大会、千住酒合戦のようす
千住酒合戦のようすを描いたもの。顔より大きな盃で酒をあおっています
当日の参加者は100人ほど。五合から三升まで6種類の盃が用意され、参加者は好きな盃をチョイスしてあとは class='strongLV1'>ひたすら飲めるだけ飲み、酒量を競いました。酒の肴として、カラスミなども用意されていたといいます。この心遣い、ありがたし。

気になる記録はといいますと、これがまたスゴイ。

  • 下野国小山の佐兵衛さん…七升五合
  • 千住の農夫・市兵衛さん…四升五合
  • 吉原の伊勢屋言慶さん…三升五合

などなど。

いくらなんでも飲みすぎだぞ。

この大会には男性だけでなく女性の酒豪も参加しており、その記録も男性に負けず劣らずすさまじい。

  • 天満屋の美代さん…一升五合を飲んでも平気の平左
  • 菊屋のおすみさん…二升五合

信じられないような記録のオンパレードです。

まあ多少の誇張はあるでしょうがそれを考慮しても、江戸にはとんでもない酒豪がウヨウヨいたようです。

よい酒飲みのみなさんは、決してマネしないようにしてください。

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江戸っ子たちが飲んでいた酒はどんな種類のもの?


江戸っ子には酒好きがたくさんいたわけですが、一体、彼らがどのような種類の酒を飲んでいたのか気になります。

酒盛りをする職人風の男性たち(おそらく明治時代の写真)
酒盛りをする職人風の男性たち。写真はおそらく明治時代のものですが、どんな酒を飲んでいたんでしょうね。画像引用元:長崎大学附属図書館
日本酒というとほぼ無色透明な液体をイメージしますが、江戸時代の酒はちょっと黄味がかった色をしていました。

酒盛りをする職人風の男性たち(おそらく明治時代の写真)
『二十四好今様美人』「酒好」歌川豊国 画
こちらの美女が手にしている猪口(ちょこ)にご注目。酒が入っているのですが、かなり黄色い山吹色。

味わいも今の清酒に比べ、かなりこってりとした甘口だったそう。

今でも調味料として活躍するみりんも、江戸時代には甘口の酒として飲まれていました。特に女性に人気があったそうですが、現代人からするとみりんを飲むなんてかなりビックリ。

さて、浴びるように酒を飲んでいた江戸っ子たちですが、江戸時代の酒のアルコール度数は一説に現代の半分くらいとも。現代の日本酒の平均度数が16度くらいなので、江戸時代の酒の度数は8度くらいか? 

居酒屋のなかにはギリギリまで水で酒を薄めて安く提供することもあったそうなので、そうなるとアルコール度数はもっと低くなりそうです。

現代では日本各地の酒を楽しむことができますが、江戸っ子が愛飲していたのは「下り酒(くだりざけ)」と呼ばれた関西方面でつくられた酒。特に仕込み用の蒸し米にも麹(こうじ)にも精白米を使った「諸白(もろはく)」という清酒は「酒の絶美なるもの」とまで評され珍重されました。

ちなみに、蒸米には精白米を麹には玄米を使った酒は「片白(かたはく)」と呼ばれ、「諸白」より下にランクされました。

余談ですが、古代日本の酒はヨーグルトのような粘度の高い白色の酒だったそう。それからしばらく濁り酒の時代が続きましたが、室町時代から戦国時代にかけて「諸白(清酒)」が誕生し、次第に清酒が濁り酒を圧倒するようになりました。かの織田信長も諸白を飲んだとか。金箔ドクロで飲んだのも諸白かなぁ。

奈良で誕生した諸白ですが、やがて伊丹や池田など摂津エリアが主産地となっていき、特に良質な米と名水、そして高度な技術を持った杜氏(とうじ)の力により伊丹の酒は極上品として愛されました。

伊丹での酒づくりのようす(『日本山海名産図絵』より)
『日本山海名産図絵』に描かれた伊丹での酒づくりのようす。酒づくりの全行程がイラストつきで解説されています。これは最終工程を描いたところ
伊丹の諸白のなかでも将軍の御前酒にも指定された名酒中の名酒があります。

酒好きたち垂涎の品でした。



名を剣菱(読み けんびし)。


「剣菱」は現在もつくられており、製造方法も江戸時代からほとんど変えていないんだとか。江戸時代の味が味わえます。

伊丹の名酒「剣菱」
500年以上もの歴史を持つ伊丹の名酒「剣菱」。特徴的なロゴも江戸時代からずっと変わらない。画像引用元:剣菱酒造株式会社
しかし、江戸時代後期、江戸っ子にもてはやされた名酒の座は、伊丹の酒からある酒に取って変わられました。

それが

「灘の生一本(きいっぽん)」という言葉で有名な灘の酒です。

酒好きの方なら耳にしたことあるはず。ちなみに「灘の生一本」という言葉の意味は「混じりっけのない純粋な灘の酒」。雑味の少ない上品な味わいの灘の酒は江戸の酒好きたちを虜にしたのです。

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さて、トラックも新幹線も飛行機もない江戸時代。関西から遠く離れた江戸まで大量の酒をどうやって運んだのか?

その答えはーーこちら。





馬

まさかの

江戸時代初期には馬による陸送で関西からはるばる江戸まで酒を運んでいたのです。

が、当然ながら時間はかかるし、一度に運べる量にもかなり制限がありました。

その後、船による海上輸送がスタートすると輸送量は大幅にアップします。

江戸時代中期には、スピード自慢の酒専用船「樽廻船」も登場し、馬では30日もかかっていた大坂ー江戸間が10日から2週間ほどにまで短縮されました。

圧倒的輸送力&スピード力により、江戸時代後期には年間90万樽ともいわれるほど大量の「下り酒」が江戸へもたらされ、酒好きたちの喉を潤しました。

関西から江戸へ運ばれた「下り酒」は酒問屋に集められたのですが、新川(現・東京都中央区)には特に酒問屋が集中し、「下り酒」の一大集散地としてにぎわいました。

そんな新川を舞台に秋の風物詩となったのが、「新酒番船」という新酒の輸送レース

その年に最初にできた酒を積んだ約10艘の廻船が、大坂や西宮から同時にスタートし、どの船が一番に江戸へ到着するかを競いました。入賞3位以内の新酒の値段が、その年の酒価格の基準となるというので、酒好き大注目のイベントでした。

なんだか、ヴォジョレー・ヌーヴォーの初入国が毎年マスコミに取り上げられるのにどこか似ていますね。

江戸時代の新酒の輸送レースを描いた浮世絵(『新酒番酒船入津繁栄図』落合芳幾 画)
「新酒番船」を描いたもの。ゴールの新川にはたくさんの酒樽を積んだ船が入ってきています。川の両岸には白壁の酒蔵が建ち並んでいるのも見えます。画像左下には、トップ3に見事入賞した廻船主の名前も(『新酒番酒船入津繁栄図』落合芳幾 画)。画像引用元:江戸東京博物館

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