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謎に満ちた将軍の生活
封建社会だった江戸時代、その頂点に君臨していたのが徳川家の将軍たちです。いわば支配者なわけですから、その生活はさぞかしぜいたく三昧、やりたい放題だったんじゃないかと思いませんか?

(『江戸図屏風』部分)
将軍の拠点、江戸城。広大な江戸城のなかで将軍をはじめ家族たちも生活していました
じつは将軍の生活については正確なところがいまだによくわかっていないというのが現状のようです。
なにせ、当時の支配者ですから私生活をのぞきみる、なんてことは恐れ多くてできませんでしたので、詳細な記録もありません。
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とはいえ、明治時代になって旧幕臣や大奥に務めていた女中などが証言をし、また、研究も進んだことで将軍の生活もおおまかなところはわかるようにはなってきました。
今回は将軍の平均的な1日をご紹介。将軍によって、また時勢などによって日々のスケジュールは大きく変わったので、あくまで“平均的”なものです。あしからず。

(『大政奉還図』邨田丹陵 画)
大勢の大名が将軍の御前で平伏しています。ちなみに、これは幕末、大政奉還を描いたもので、将軍は15代の慶喜。場所は江戸城ではなく京の二条城です
将軍の住んでいた江戸城ってどんなとこ?
さてさて、将軍の1日を紹介する前に、ちょっとだけ将軍のいた江戸城について。
江戸城は、ご存知のように現在、皇居のある場所にあった城です。もとは太田道灌(おおたどうかん)という戦国武将のお城があったのですが、徳川家康が江戸に入って以降、徳川家の居城として増改築を繰り返し、日本最大面積を誇る城になりました。

明治2年(1869)に撮影された江戸城の一部。立派です
江戸城は「本丸」「二の丸」「西の丸」という3つの御殿に分かれていました。
●本丸
江戸城の中心です。本丸の内部は、将軍が大名と謁見したり諸役人が働く中央政庁として機能した「表(おもて)」、将軍が起居したり政務を行うプライベート空間の「中奥(なかおく)」、将軍の正室(御台所〈みだいどころ〉)をはじめ女性たちが生活する男子禁制の「大奥」、に区別されていました。

(江戸城御本丸御表御中奥御大奥総絵図)
これは万治2年(1659)に再建された時の本丸の平面図です。黄色の部分が「表」と「中奥」、ピンクの部分が「大奥」です。
「表」と「中奥」に明確な境界はありませんでしたが、「大奥」は完全に別世界とされ、「中奥」とは「お鈴廊下」と呼ばれる2本の廊下でのみつながっていました。

(『千代田之大奥』「お櫛あげ」楊洲周延 画)
しばしばドラマの舞台にもなる大奥はとても華やか。中央で髪をとかしてもらっているのが将軍の正室
●二の丸
将軍の別邸。
●西の丸
将軍の隠居後の住まい。将軍の世継ぎもここで生活。ちなみに、三の丸御殿もありましたが、江戸時代初期の元文年間(1736~40年)になくなりました。
前置きが長くなりましたが、では、将軍24時を追ってみましょう!
早寝早起、規則正しい将軍の1日【前編】
※時間は目安です。
●朝6時頃〈明六つ〉●
起床時間です。将軍が起きると寝ずの番をしていた小姓(こしょう/将軍の身辺雑用役)が「もぅ~」と大声で合図を出しました。
牛のマネをしているわけじゃありません。「もうお目覚めです」の略です。この合図を受け、小納戸(こなんど/中奥でのお世話係)が洗顔やうがいの準備をします。
ちなみに、将軍は起床時間が予定より早くても遅くてもいけません。たとえば10代将軍・家治(いえはる)などは老いてから早朝に目が覚めてしまうことが多くなったけれど、起床予定時間になるまで座敷のなかを静かにウロウロして時間をつぶしていたという逸話があるとか。
また、目覚めても寝床でじっとしている将軍もいたなんて話も。普段と違うことをすると「すわ、体調不良か!?」と大騒ぎになってしまうので、常に“いつもと同じ”を心がけていたわけです。朝から気苦労の多いことですね。
で、起きたらまずは、うがい、歯磨き、洗顔をします。現代のような歯ブラシはありませんが、房楊枝(ふさようじ)というものを使い歯磨きをしました。

画像引用元:河内長野の四季
これが房楊枝。柳の小枝などでできており、先は柔らかい房状に加工されています。これ1本で歯を磨くだけでなく、楊枝としても使えるし、舌そうじもできるという優れものです。
歯磨き粉には御典医(ごてんい/将軍家に仕える医者)が塩と香料などを特別にブレンドしたオリジナル歯磨き粉を使ったそうです。このあたりはセレブ感があります。
●午前8時頃(朝五つ)●
朝食です。大奥に泊まった日は御台所と一緒に朝食をとることもありましたが、それ以外の日は中奥の自室でひとりきりで食べました。もちろん小姓たちはいますが、なんかさみしいですね。
将軍の食事といってもわりと質素なもので、二の膳つきの二汁三菜が基本だったそう。朝食の一例をあげますと……
- 〈一の膳〉
- ごはん、汁物、刺身や酢の物などの向付(むこうづけ)、煮物
- 〈二の膳〉
- 吸い物、キスの塩焼きなどの焼き物
キスは漢字で「鱚」。魚扁に「喜」という縁起のよい名前の魚だったことから朝食の定番だったといわれています。
朝食を食べている間に将軍は“されること”がたくさんありました。
- ヒゲや月代(さかやき)を剃ってもらう。(食前との説も)
- 御髪番(おかみばん/ヘアメイク係)に髪を結いなおしてもらう
- 医師による朝の健康チェックがおこなわれる。(食後との説も)
これは落ち着かない。将軍って意外とたいへんです。
●午前9時頃(朝五つ半)●
朝食が終わると、裃(かみしも)もしくは紋付の袴など正装にお着替えし、大奥へ行きます。
着替えも将軍はなにもせず小姓たちがすべてやってくれました。ちなみに裃とはこんな感じの着物です。

(鍋島小紋裃)
時代劇などでよく見かけます。
なお、これは将軍家の裃ではなく佐賀藩の鍋島家のものですが、将軍・大名関係なく武家にとって裃は公服でした。
着替えが終わると大奥にある徳川家先祖代々の仏間に御台所とともに参拝し、歴代将軍の位牌を拝みました。代が下るほど拝む時間も長くなったでしょうね。
●午前10時頃(昼四つ)●
参拝が終わると、御台所が高級女中たちを連れてあいさつにやってくるので、将軍はずらりと並ぶ彼女らにあいさつをします。これを「朝の総触れ(そうぶれ)」といいます。

(『千代田之大奥』「婚礼」楊洲周延 画)
この絵は総触れではなく将軍と御台所の婚礼を描いたものですが、将軍と御台所、高級女中たちのイメージということで。ちなみに、画像右が将軍で画像中央の女性が御台所です。
その後、将軍は中奥に戻り普段着にお着替えしました。朝から何度も着替えがあってたいへんです。
そして、昼食までの時間は基本的に自由時間になりました。といっても、遊んでいたわけではなく、当代一流の学者による授業などがあったようです。また、日課となっている武芸の鍛錬に励む時もありました。

(『千代田之御表』楊洲周延 画)
泰平の世になったとはいえ、将軍はあくまで武家の棟梁。武芸の鍛錬は欠くべからず日課で、弓、剣、薙刀、槍、馬、水練などさまざまな武術に励みました
なお、公務が忙しい時は午前中から老中と面談したり、大名を謁見したとか。なかなかのんびりできませんね……。

(『朝鮮通信使 家宣公拝謁之図』)
朝鮮からの使節団である通信使に謁見する6代将軍・家宣(いえのぶ)
●12時頃(昼九つ)●
中奥にて昼食。朝食と同じようなメニューだったとか。急ぎの政務がある場合は昼食抜きになることもあったそう。なんだか現代のビジネスマンみたいですね。ちなみに、8代将軍・吉宗は質素倹約を重んじていたため、1日2食だったとか。
●午後1時頃(昼九つ半)●
昼食後は、中奥にある「御休息之間」という部屋で政務。おもな仕事は老中から提出された書類に目を通し、決済をすること。短い時でも2~3時間はかかり、仕事量が多い時は夕方過ぎまでかかることもあったそう。将軍はガッチリと働いていたんですね!
政務が終わると自由時間。大奥へ行って御台所と過ごすもよし、趣味の絵を描いたり、武芸に励むもよし、という感じでした。
歴代将軍はどんなことを自由時間にしていたのか?
余談ですが、ここでちょっと歴代将軍の趣味のお話を。一体、将軍たちは自由時間にどんなことをしていたのでしょうか。
たとえば、3代将軍・家光。

将軍就任早々に大名たちの前で「余は生まれながらの将軍である!」と宣言したことで有名。武の棟梁として、剣術の腕前は柳生新陰流の免許を受けたほど。
そんな絶対将軍が自由時間に描いたであろう絵がこれ。

(『枯木梟図』)
フクロウ。
なんかかわいい。マンガっぽい。家光がどんな顔してこれを描いていたのが気になる。
お次は5代将軍・綱吉。

なにかと評判の悪い「生類憐みの令」をつくり“犬公方”とあだ名された将軍です。綱吉はとにかく学問が大好きでした。あと、能も大好きで自分でも舞って大名たちに披露したらしいです。
また、書画をよくし、自分の作品を大名にあげ、もらった大名も家宝としたそう。

これは綱吉の書。書かれている文字は「明徳を懐ふ」つまり「正しく公明な徳を心がける」。いかにも儒学大好きな綱吉らしい言葉選び。
お次は8代将軍・吉宗。

時代劇でもおなじみ“暴れん坊将軍”です。多趣味な将軍で、武芸を愛し、よく鷹狩にも出かけたほか、狩野派の絵師に絵画を学んだり、洋書を取り寄せて読んだりしたそうで、まさに文武両道のお手本のような人です。

これは『元亨療馬集(げんこうりゅうばしゅう)』という16世紀の中国の書物で、中国獣医学を代表する名著といわれるものです。
吉宗は大の馬好きで、馬術や馬の飼育にも高い関心を持っていました。なので、わざわざこの本を中国から取り寄せたんだとか。将軍の特権を活用して海外の最新情報を集めていたんですね。
お次は吉宗の孫、10代将軍・家治(いえはる)。

祖父・吉宗の期待を一身に受け、幼い頃から帝王学を叩き込まれ将来を嘱望されながらも、いろいろあって政治の一切を側近・田沼意次(おきつぐ)に任せ、自分は趣味の世界に没頭した人物です。
家治がどんなことを趣味にしていたかといいますと、祖父・吉宗と同じく鷹狩りをはじめ、得意だった書画、でもなにより愛したのが将棋でした。

(「剣片喰(けんかたばみ)紋蒔絵将棋盤」)
将軍家のものではありませんが、江戸時代につくられた将棋盤と駒。大名家の婚礼調度品なので、豪華な蒔絵が施されています。写真引用元:大阪商業大学 商業史博物館
家治の将棋の腕前は現在のアマ高段者レベルだったともいわれ、図式集『将棋攻格』も著しています。
最後に14代将軍・家茂(いえもち)。

幕末の荒波にもまれ、若くして他界した将軍です。
ストレスフルな幕末における家茂の趣味がこちら。

スイーツ食べること。
カステラ、ようかん、もなか、金平糖……などなど、とにかく大の甘党で、甘いものを食べまくりでした。結果、虫歯だらけで30本も虫歯があったとも。
御台所の和宮(かずのみや)とは仲良し夫婦だったので、自由時間には仲良く一緒におやつを食べていたのかも?なんて、ほっこりする想像もしてしまいます。
早寝早起、規則正しい将軍の1日【後編】
余談が長くなりましたが、将軍の1日に話を戻すと。
●午後5時頃(夕七つ半)●
昼食後の自由時間が終わるとお風呂タイムです。
あつい湯船にのんびり浸かって1日の疲れを流したいところですが、将軍の場合はそうはいきません。入浴時も小姓らがすべてお世話しました。まったくひとりきりになれません。着物を脱がせるのも小姓たちの仕事、身体を洗うのも小姓たちの仕事です。
糠袋で全身を洗ってもらうわけですが、顔、手、足など場所によって糠袋は別のものに取替え、しかも1回しか使わなかったとか。このあたりはやはりさすが将軍というぜいたくさですね。なお、湯船には浸からずかけ湯スタイルだったといわれています。

江戸時代の糠袋を再現したもの。これは赤色ですが、将軍は白木綿を使用したそう。画像引用元:ポーラ文化研究所
●午後6時頃(夜五つ)●
お風呂でさっぱりしたら夕食です。大奥で御台所と食べる時もありましたが、中奥でひとりで食べる時の方が多かったようです。朝食・昼食に比べるとちょっと品数も増え、お酒もついたそう。でも晩酌の相手もいませんし、ちょっとさみしいですね……。
夕食後は、再び大奥へ行き「夜の総触れ」を受けました。そのあとは、大奥に泊まる場合はそのまま大奥に、泊まらない場合は中奥へ戻って自由時間を過ごしました。
夜の自由時間には小姓を相手に将棋や囲碁、投扇興(とうせんきょう)などをすることもあったそう。ちなみに、投扇興というのはこんな感じのゲーム。

(『青楼美人合姿鏡』「扇屋」北尾重政・勝川春章 画)
絵は遊女たちですが、投扇興をしているところ、ということで参考までに。
画像左下に黒い箱があるのですが、この箱の上に的があり、的に向かって扇を投げ、箱・的・扇がつくりだす形によって点数を競いました。NHK大河ドラマ『篤姫』でも13代将軍・家定が投扇興をしていました。
さて、大奥に泊まる場合ですが、いきなり「今日、泊まりたいんだけど」というのはNG。大奥サイドもいろいろ準備があるので泊まりたい日は昼頃までの事前連絡必須でした。急に気が変って「やっぱり泊まらない」とかもきっとダメなんでしょうね。
また、歴代将軍の命日など忌日、日光東照宮へ参拝の前日などは大奥に泊まるのはNGだったため、お泊りが可能なのは月に数日だけだったそうです。
うーん、厳しいな…。

(『風俗画報』より)
大奥での将軍(画像左)。これから側室を相手に寝るところでしょう
将軍は正室である御台所以外の側室を夜のお相手に選ぶ場合、こちらも事前に指名を伝えなければなりませんでした。
また、側室が人事などに関して将軍に“おねだり”しないよう寝床の近くに監視役の女性が一晩中おり、翌朝、会話の内容は逐一報告されたとか。どこまでもプライバシーなさすぎ。あんまりだ。
●午後9~10時頃(夜五つ半~四つ)●
ようやく就寝時間です。寝ている間も近くに小姓がひかえているわけですから、完全に24時間監視されていました。「将軍の生活とはこういうものだ」と慣れてしまえば気にならなかったんでしょうか。
将軍は自由時間が多くて見方によってはうらやましいですが、なにせプライバシーゼロですし気苦労も多そうですね。
あわせてどうぞ→
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「着替えが1日5回!? 将軍の妻は入浴からトイレまで人にやってもらっていた」
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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?
1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。
(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。
(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。
江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?
パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。
「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。